88.吉野ヶ里遺跡 その1

弥生時代に存在した初期のクニの一つ

立地と歴史

城の要素を持った遺跡

吉野ケ里遺跡は、九州地方の大規模な環濠集落でした。この集落は、弥生時代のおおよそ紀元前4世紀から紀元3世紀までの間繁栄しました。通常吉野ヶ里遺跡は「城」とは呼ばれませんが、後の日本の城に見られる特徴を既にいくつか持っていました。そのため、日本城郭協会はこの遺跡を日本100名城の一つとして指定しています。

遺跡の位置

気候変動と弥生時代の始まり

約3千年前まで続いた縄文時代の間、日本は現代よりも温暖な気候と、豊富な食料に恵まれていました。当時の人々は、同じところに長期間集住し、基本的には狩猟と採集により生活することができました。ところが、縄文時代の後半になると寒冷化が始まり、人々が生活の資を得ることが難しくなってきました。人々は十分な食料を求めて移動を繰り返さざるを得なくなり、一方海岸線はもと沖だった場所に広がりました。これらの変化が、新しく現れた沖積平野において人々が農業を始めるきっかけとなったと言われています。

縄文時代の代表的な遺跡、青森県三内丸山(さんないまるやま)遺跡

この状況は海外でも同様であり、この気候変動は特に、春秋戦国時代を含む中国の歴史の中で大きな影響を与えたと言われています。この時代に中国の社会構造や技術が大きく進化したのです。これらの新技術のうちいくつかは紀元前10世紀から紀元前5世紀の間の時期に、朝鮮半島を経由して九州地方に伝わりました。その中に、3つの特徴的な事物(稲作、武器の使用、環濠)がありました。多くの歴史家は、これらの伝来をもって弥生時代の始まりとしています。

復元された弥生時代の水田と竪穴住居、静岡県登呂遺跡 (licensed by Halowand via Wikimedia Commons)
発掘された銅剣、東京国立博物館に展示 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉野ヶ里遺跡で復元された環濠

これら3つの事物はお互いに関連していました。農業には社会化が必要であり、人々を一ヶ所の集落に定住させます。その人たちが農地をもっと広げたいと思った場合、その領域が他の集落の領域とぶつかり合うことが考えられます。このことはまた、軋轢や戦いを起こすことにもなり、武器の使用につながります。そうすると、他者の攻撃から身を守ることも、自分たちの財産が奪われたり盗まれたりすることを防ぐことも必要になってきます。その結果、彼らの集落は柵を伴う円形の堀により囲まれることになりました。歴史家は、これを環濠集落と呼んでおり、弥生時代の典型的な特徴の一つとしています。

吉野ヶ里遺跡で復元された環濠集落

初期のクニが出現

社会化と戦いを切り抜けることは、強いリーダーシップを必要とします。時が過ぎるにつれて、何人かの優れたリーダーが現れ、彼らの集落と領地はどんどん大きくなっていきました。彼らのことを、最初の王と呼んでよいのかもしれず、彼らの領地も最初のクニとしてもよいのでしょう。紀元1世紀頃の北九州地方には、奴国(なこく)のようないくつかの大きなクニがあり、中国に使節を派遣していました。吉野ケ里はこの地方の大きなクニの一つだったのです。

漢王朝が奴国王に下賜したとされる金印 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中国の歴史書、魏志倭人伝に書かれた3世紀ごろの日本の歴史についての記述によると、女王によって統治された邪馬台国という国がありました。その国は、多くの分立していた国が互いに戦い争った後、講和し団結することにより設立されました。卑弥呼と呼ばれた女王は、シャーマンのように祈祷することにより物事を決断し、その統合された国を治めました。彼女は都にある宮殿に住み、そこには楼観や城柵があり、兵士によって守られていました。

「魏志倭人伝」の原文の一部 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

大規模な環濠集落

その一方で、吉野ヶ里集落も同じ3世紀に最盛期を迎え、その人口は推定で約5千人に達しました。集落を囲む環濠は二重に築かれ、その外周は2.5kmに及びました。実は、吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国のような宮殿・楼観・城柵の跡がセットになって見つかった日本で唯一の場所なのです。しかしながら、邪馬台国がどこにあったのかは全く不確かです。余りにもその候補地が多いからです。現在確かに言えることは、吉野ヶ里遺跡を見ると、弥生時代のクニがどのようなものであったかよくわかるということです。

吉野ヶ里遺跡で復元された宮殿(そこでは主祭殿と呼んでいます)と城柵
吉野ヶ里遺跡で復元された楼観(櫓)

「吉野ヶ里遺跡その2」に続きます。

89.Saga Castle Part1

The Saga Domain contributed to the modernization of Japan.

Location and History

Nabeshima Clan develops Castle as Home Base

Saga Castle was located in what is now Saga City, the prefectural capital of Saga Prefecture. The castle was originally named Muranaka Castle and built by the Ryuzoji Clan which was a great power in the 16th Century during the Sengoku Period. However, the power of the clan decreased after it was defeated by the Shimazu Clan in the Battle of Okita-nawate in 1584. Instead, the Nabeshima Clan, a senior vassal of the Ryuzoji Clan, got the power and was finally assigned as the lord of the Saga Domain by the Tokugawa Shogunate. The Nabeshima Clan improved Muranaka Castle sometime in the early 17th Century, when it was renamed Saga Castle.

The location of the castle

The portrait of Naoshige Nabeshima, the founder of the Saga Domain, owned by Nabeshima Houkoukai  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

The castle was built in the riverside area on the Saga Plain. The castle mainly consisted of the Main, Second and Third Enclosures, which were surrounded together by the large Outer Moat. The Main and Second Enclosures were connected directly in the southeastern part of the castle, separated from the Third Enclosure by the Inner Moat. Only the Main Enclosure was surrounded by stone walls, but others were surrounded by earthen walls. The Main Enclosure also consisted of the Main Tower, but its details are uncertain, as most of the castle buildings were burned down by a great fire in 1726. After that, the center of the castle was at the Main Hall on the Second Enclosure. However, it was burned down as well due to another significant fire in 1835.

The illustration of Saga Caste, from the signboard aft the site, adding my comments
The Main Enclosure including the Main Tower and Main Hall, featured in the illustration above

Naomasa Nabeshima modernizes Saga Domain

Much focus was on the Saga Domain and Saga Castle at the end of the Edo Period. The domain had been responsible for the police escort in Nagasaki which was the only official international port in Japan at that time. However, they failed and allowed a British ship, whose crew started a riot in the port in 1808, known as the Phaeton Incident. After that, the domain promoted its modernization led by the 10th lord, Naomasa Nabeshima. He governed the domain from the new Main Hall in the Main Enclosure, rebuilt in 1837. Under his leadership, the domain imported the latest cannons from the West and began to produce their own cannons themselves. Surprisingly, they were successful at it for the first time in Japan, which was before the arrival of Matthew Perry’s fleet from the U.S. in 1853. The Tokugawa Shogunate asked Naomasa to provide the domestic cannons for Shinagawa Batteries in Edo Bay which were prepared for the second arrival of Perry. The domain offered 50 cannons.

The statue of Naomasa Nabeshima at the ruins of Saga Castle
The restored Main Hall of the Main Enclosure
One of the replicas of the imported cannons at the ruins of Saga Castle
The ruins of Shinagawa batteries

Saga Domain was relied on due to their modern military power by both the Tokugawa Shogunate and the New Government during the Meiji Restoration. The domain chose to support the New Government, becoming one of the four powerful domains including the Satsuma, Choshu and Tosa. It is said that one reason that the New Government defeated the shogunate was the strong cannons the Saga Domain imported or made. Naomasa became one of the most important politicians at the beginning of the Meiji Era until he died in 1871. Naomasa also promoted his retainer, Shinpei Eto, to another important position in the government before he retired. Shinpei tried to bring the latest social systems from the West – such as education, justice and the idea of a parliamentary system – to Japan to help modernize the country. He has often been recognized as the father of the modern Japanese judicial system.

A picture drawing a battle between New Government Army and the shogunate  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The portrait of Shinpei Eto, from a book called “Eto Nanpaku vol.1 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Castle is burned during Saga Rebellion

However, lost power and authority to other politicians from Satsuma and Choshu in the political strife in 1873. He returned to Saga, asking for the launch of the parliament by democratic election to form a government. The government leader from Satsuma, Toshimichi Okubo, did not allow Shinpei’s agenda. It has been even said that he feared and envied Shinpei’s excellent abilities which might have overpowered him. Toshimichi intentionally spread the information as if Shinpei was planning to rebel against the government. He also sent his troops to Saga to force Shinpei along with his supporters to fight, known as the Saga Rebellion in 1874. Shinpei was defeated by the government, and subsequently put to death without judicial proceedings by Toshimichi, who ruled as a dictator. Saga Castle was one of the battle locations of the rebellion; unfortunately, most of the castle was burned down, again due to fire, during the battle.

The portrait of Toshimichi Okubo  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
 The Ukiyoe painting drawing the Saga Rebellion (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

To be continued in “Saga Castle Part2”

89.佐賀城 その1

佐賀藩は日本の近代化に貢献しました。

立地と歴史

鍋島氏が佐賀藩の本拠地として整備

佐賀城は、現在佐賀県の県庁所在地である佐賀市にありました。この城はもとは村中城という名前で、戦国時代の16世紀に大きな力を持っていた龍造寺氏が築きました。ところが、1584年に沖田畷(おきたなわて)の戦いで島津氏に敗れてからはその力は衰えました。その代わりに龍造寺氏の重臣であった鍋島氏が力をつけ、ついには徳川幕府により佐賀藩主となったのです。鍋島氏は村中城を強化し、その城は17世紀初期のいずれかのときには佐賀城という名前に変わりました。

城の位置

佐賀藩初代藩主、鍋島直茂肖像画、鍋島報效会蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この城は、佐賀平野に流れる川沿いに築かれました。この城には、主には本丸、二の丸、三の丸があり、全体が広大な外堀に囲まれていました。本丸と二の丸は、城の南東部分にあり、直接つながっており、内堀によって三の丸と隔てられていました。石垣に囲まれていたのは本丸のみであり、その他の曲輪は土塁によって囲まれていました。本丸には天守がありましたが、その詳細はわかっていません。ほとんどの城の建物が1726年の大火により焼けてしまったからです。その後、本丸にあった城の中心部は二の丸に移りました。ところが、これもまた1835年の大火により燃えてしまったのです。

「佐嘉小城 内絵図」、現地説明板に加筆
上記絵図の本丸部分を拡大、天守と御殿が描かれている

鍋島直正が藩を近代化

江戸時代末期になって、佐賀藩と佐賀城が注目される時が来ました。佐賀藩は、当時日本で唯一公に認められていた国際貿易港であった長崎の警護役の任に就いていました。ところが、1808年のフェートン号事件においてその役目を果たせず、長崎に侵入してきたイギリス船の船員の横暴を許してしまったのです。その後佐賀藩は、第10代藩主の鍋島直正の指導により近代化を進めました。彼は、1837年に再建された本丸の新しい御殿から藩を統治しました。彼のリーダーシップの下、佐賀藩は西洋から最新の大砲を輸入し、彼ら自身により大砲を製造することを始めました。そして驚くべきことに、1853年にペリー艦隊が来航する前に、日本で初めてその大砲の製造に成功したのです。徳川幕府は直正に対し、ペリーの2回目の来航に備えて江戸湾に築造した品川台場のために、その製造した大砲を提供するよう依頼しました。そして50基の大砲が供給されたのです。

佐賀城跡にある鍋島直正の銅像
復元された本丸御殿
佐賀城跡にある輸入大砲の複製品
品川台場跡

佐賀藩は、近代的な軍事力を持っているがために、明治維新のとき、徳川幕府と新政府の両方から当てにされました。そしてついには新政府に味方することにし、薩摩、長州、土佐とともに、四大雄藩の一つとなりました。新政府が幕府を倒すことができた一つの理由は、佐賀藩が輸入したか製造した強力な大砲にあると言われています。直正は1871年に亡くなるまで、明治時代初期における最も重要な政治家の一人であったのです。直正はまた、引退する前に政府の重要ポジションに、部下の江藤新平を登用していました。新平は、教育、司法、議会制の考え方など、西洋の最新の社会システムを日本に導入し、国の近代化に資するよう努めました。彼は、しばしば近代日本司法制度の父とされています。

新政府軍の戦いの様子を描いた絵画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江藤新平肖像、「江藤南白 上」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐賀の乱により城が焼亡

ところが、明治六年政変(1873年、征韓論政変とも言われています)が起こり、薩摩や長州の他の政治家たちによりその地位を奪われてしまいます。新平は、民主的選挙による議会開設を政府に要求し、佐賀に戻りました。薩摩出身で政府を主導していた大久保利通は新平の要求を認めませんでした。利通は、新平の卓越した能力に嫉妬し、それが利通を凌駕してしまうことを恐れていたとさえ言われています。利通は、新平が政府に対して反乱を企てているとの情報を流しました。また、佐賀に軍隊を派遣し、新平とその支持者たちが戦わなければならないよう仕向けました。1874年の佐賀の乱はこのようにして起こったのです。新平は政府軍に敗北し、今や独裁者と化した利通により、司法手続きなしに死に追いやられました。佐賀城はこの戦いの戦場の一つとなり、残念ながらその戦いの最中、火災によりほとんどが焼け落ちてしまいました。

大久保利通肖像 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
佐賀の乱の様子を描いた浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「佐賀城その2」に続きます。