137.福井城 その1

越前国の中心地

立地と歴史

北ノ庄城としてスタート

福井城は、福井県の県庁所在地である現在の福井市にありました。この都市の名前は、この城に由来しているのです。しかし、この城はもとは北ノ庄城と名付けられていました(北ノ庄とは、北にある荘園といった意味でしょうか)。有力な戦国大名、織田信長の部将であった柴田勝家が1575年に最初にこの城を築きました。現在の福井県の一部にあたる越前国を征服したときでした。

城の位置

柴田勝家像(現地説明板より)

後に天下人、豊臣秀吉となる羽柴秀吉が1583年にこの城を攻撃したとき、彼は書状にこの城には九層の天守があると記しました。しかし、本当に九層の天守だったかどうかは全く分かりません。当時の日本語では、九層という言葉は単に「多層である」ことを意味していたからです。勝家は不幸にも秀吉により倒されてしまい、北ノ庄城は燃やされ、破壊されてしまいました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
初期北ノ庄城の想像図(現地説明板より)

結城秀康が大藩の藩主として再建

1601年、最終的に天下人となった徳川家康の息子、結城秀康が北ノ庄藩の創始者として北ノ庄城を再建しました。秀康は、家康の後継者となった徳川秀忠の兄でした。ところが、彼は秀吉の元に(実質的には人質として)送られ、後には結城氏の跡継ぎ養子となりました。この理由は、彼が父親である家康から愛されていなかったからとも言われています。それでも秀康は、その父親が徳川幕府の創始者となる契機となった、1600年に起こった関ヶ原の戦いで大いに貢献したのです。家康はついに秀康を受け入れ、幕府における重要な役割を任せたのです。秀康は、幕府そのものを除いて、日本で2番目に大きな領地を治めることとなり、その石高は75万石に及びました。彼はまた、将軍の親戚であることを表す「松平」という姓を使うことも許されました。越前国は幕府にとってとても重要な地点であり、日本の首都である京都に近く、最大の領地を持つ前田氏に隣接していました。

福井城跡にある結城秀康の彫像
徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀康の父親、家康が北ノ庄城の一部の縄張りを行ったと言われています。本丸は城の中心部であり4層の天守と御殿があり、石垣と内堀に囲まれていました。二の丸、三の丸、外郭がその中心から同心円状に築かれました。これらの曲輪群は水堀によって隔てられていました。その結果、この城は4重場所によっては5重の水堀に囲まれることになったのです。この城には10基の櫓、40基の門が備わっていました。城の大きさは、約2km四方に達しました。

福井城本丸の想像図(現地説明板より)
現代の地図上に示した江戸時代の城の範囲(現地説明板より)

繁栄した越前松平氏

1604年に秀康が亡くなった後の1606年に城は完成しました。結城氏から改めた松平氏は、城と藩を江戸時代の終わりまで統治しました。その間、城と藩の名前は、第3代藩主の忠昌(ただまさ)によって「北ノ庄」から「福井」に改められました。天守は不幸にも1669年の火災により焼け落ちてしまいましたが、再建はされませんでした。第14代藩主の松平春嶽は、幕末と明治維新の頃、中央政府で活躍しました(幕府の政事総裁職、新政府の議定などを歴任)。

松平忠昌肖像画、福井市立郷土歴史博物館による展示 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松平春嶽写真、福井市立郷土歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ちなみに、秀康の子孫は大いに繁栄しました。秀康の息子たちから始まる分家の当主は江戸時代末までに、津山城松江城、前橋城、明石城の城主となりました。これらの分家は、福井城の城主を含めて、しばしば越前松平氏と呼ばれています。秀康の努力は、十分報われたと言えるのではないでしょうか。

津山城
松江城
明石城

「福井城その2」に続きます。

37.一乗谷城 その3

すばらしい中世都市が発見されました。

その後

一乗谷が燃えてしまった後、農民がその跡地を農地として使いました。朝倉氏館跡のようないくつかの遺跡は、人々の間でずっとよく知られていました。しかし、農地の下であのような大きな都市が眠り続けているとは思っていなかったのです。遺跡の発掘は1967年に始まりました。最初の頃に庭園跡が見つかり、その後多くの建物の基礎や、戦国時代の日用品が次々と発見されました。遺跡は1971年に国の特別史跡に指定されました。それ以来、170万点を超える品々が見つかっているのです。復原町並が1984年にオープンしましたが、このような復元のやり方として日本で最初の事例とされています。

朝倉氏館跡
諏訪館跡庭園
住居跡
復原町並の入口
復原町並

私の感想

朝倉氏の最初の当主であった朝倉孝景は、子孫に対して遺訓を残しました(「朝倉孝景条々」「英林壁書」として知られています)。その中で孝景は、
・重臣は能力と忠誠心により採用しなければならない(朝倉家に於ては宿老を定むべからず。その身の器用忠節によりて申し付くべき事)
・理由もなく高価な武具、馬、鷹などを買い求めてはならない(名作之刀さのみ被好間敷候、等)
・高額な報酬を支払って、外部から芸能人を呼び寄せてはならない(京都より四座の猿楽細々呼下し、見物このまれまじく候)
と述べています。最後の当主であった朝倉義景が、これら先祖が残した教えを守っていたかはわかりません。しかし、一乗谷の繁栄がかえって義景の不幸を招いてしまったのではないかとも思うのです。

朝倉孝景の墓所
朝倉義景の墓所

ここに行くには

車で行く場合:
北陸自動車道の福井ICから約10分かかります。
遺跡周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR一乗谷駅から遺跡全体の端にあたる下城戸跡まで、歩いて約10分かかります。
東京から一乗谷駅まで:北陸新幹線に乗って、金沢駅で北陸線の特急に乗り換え、福井駅で九頭竜線に再度乗り換えてください。
大阪からは:特急サンダーバード号に乗って、福井駅で九頭竜線に乗り換えてください。

下城戸前にある遺跡の標柱

リンク、参考情報

一乗谷朝倉氏遺跡資料館
・「戦国朝倉 遺跡からのレポート/吉川博和著」DoCompany出版
・「復原 一乗谷」一乗谷朝倉氏遺跡資料館

これで終わります。ありがとうございました。
「一乗谷城その1」に戻ります。
「一乗谷城その2」に戻ります。

37.一乗谷城 その2

中世都市を想像し、また実際に見ることができます。

特徴、見どころ

どこまでも続く遺跡群

車でも、歩いてでも谷に沿って一乗谷城跡を訪れたなら、道の両側にどこまでも続くような住居跡を目にしてきっと驚かれることでしょう。この地域の278ヘクタールもの範囲が、一乗谷朝倉氏遺跡として国の特別史跡に指定されています。また、この遺跡から発掘された2,300を超える遺物が重要文化財に指定されています。

城周辺の航空写真

谷沿いに広がる遺跡群
城下町の遺跡

遺跡の両端では、城戸跡も見学することができます。下城戸跡には、巨石を使った食い違いの入口が今に残っています。この入口は、まさに城門そのものです。上城戸は、1990年に復元されており、全長105m、高さ5mの土塁となっています。

下城戸跡
巨石を使った食い違い入口
復元された上城戸

戦国時代の町並を復原

発掘の成果により、遺跡の中心部では約200mに渡って当時の町並が復原されています。その町並の通りに立ってみると、本物の中世都市にいるような感じがします。

復原町並

復原された住居の中に入ってみることもできます。例えば、商家の中では、商人のマネキンが陶器のようなものを売っています。

復原された商家の中

武士の館では、男性のマネキンが居間で将棋に興じています(「酔象」と呼ばれる今では使われていない駒があり、「朝倉将棋」と呼ばれています)。また、台所では使用人のマネキンが料理の準備をしています。これらの展示物は、現地で発見された遺物、他の地域に現存している絵画資料や建物をもとに復原されています。

復原された武家屋敷
居間で将棋を指すマネキン
台所の中

中心部にある朝倉氏館跡

復原町並から一乗谷川を挟んだ反対側にある朝倉氏館跡にも行ってみましょう。この館は一乗谷では最大の建物で、朝倉氏の当主が住んでいました。館跡は約120m四方で、現在も土塁と水堀により囲まれています。ここには正面に唐門があります。これは、館が炎上した後、江戸時代になって館跡に建てられた松雲院(しょううんいん)の門が残っているものです。館跡とこの寺の門は、お互いを引き立てているように思います。

土塁と水堀に囲まれた朝倉氏館跡
館跡入口の唐門

館跡の内部では、それぞれの建物があった位置が平面展示されていて(主殿、会所、台所、厩舎など)、かつてどのような建物があったのか理解できるようになっています。

館跡の内部
館跡を後ろ上方から

現役の特別名勝である庭園群

ここには、朝倉氏の一族の館跡もあります。その上に、その館周辺には4つの朝倉氏の庭園があり、1991年以来国の特別名勝に指定されています。16世紀そのままの姿で出てきた庭園が、現在の人々をも魅了しているということであり、驚くべきことです。

一族の御殿の一つ、中の御殿跡

例えば、朝倉氏館跡の上の方にある湯殿跡庭園(ゆどのあとていえん)は、荒々しい岩が組み合わされ作られています。この庭園の雰囲気は、戦国時代さながらだ言われています。

湯殿跡庭園

諏訪館跡庭園はもともと、朝倉義景の妻(小少将)のために築造されたと言われています。巨石を使ったとても美しい池泉庭園です。この庭園で最も大きな石は、日本の池泉庭園の中でも最大のものと言われています。

諏訪館跡
諏訪館跡庭園
巨石を使って作られています

「一乗谷城その3」に続きます。
「一乗谷城その1」に戻ります。

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