60.赤穂城 その2

現在、赤穂城跡はいくつもの復元物とともによく整備されています。これは恐らく赤穂事件と四十七士による影響も大きいでしょう。しかし、この城跡はその知名度に増して訪れる価値があり、ここならではの特徴があります。

特徴、見どころ

江戸時代三大上水道の街

現在、赤穂城跡はいくつもの復元物とともによく整備されています。これは恐らく赤穂事件と四十七士による影響も大きいでしょう。しかし、この城跡はその知名度に増して訪れる価値があり、ここならではの特徴があります。例えば、JR播州赤穂駅から中央通りを通って歩いて城跡に向かっていくと、旧赤穂上水道の説明板や遺物が目に入ってきます。この上水道は江戸時代における三大上水道の一つとされています。赤穂は、塩産業が栄えていたがためによい井戸が少なかったのです。

城跡に向かう通り
旧赤穂上水道についての説明板
江戸時代に使われた水道管、赤穂城本丸櫓門内にて展示

城の正面、三の丸

しばらく歩いていくと、三の丸の北端にある隅櫓を伴った大手門に着きます。これらの建物は1950年代に復元され、城のシンボルになっています。

城周辺の地図

通りの突き当たりが城跡です
前方が隅櫓、後方が大手門

その手前にある堀にかかった橋を渡り、門に入っていくと、桝形と呼ばれる、石垣に囲まれた四角い空間があります。赤穂城の場合は、その桝形は単純な四角形ではなく、複数の四角形がつながった複雑なデザインで、通路はジグザグとなって、敵は立ち往生してしまったことでしょう。

橋を渡って大手門に入ります
門の内側の桝形
更に通路は迷路のようです

三の丸の更に中に入っていきますが、そこはかつては重臣の屋敷地でした。現在は通路の両側に、大石家と近藤家の長屋門のみが残っています。

三の丸内部に入っていきます
大石家長屋門(右側)
近藤家長屋門(左側)

大石(内蔵助良雄)の屋敷自体は、今は大石神社になっていて、大石を含む四十七士が赤穂事件の英雄として祀られています。ここが城の中では一番人気のスポットになっているかもしれません。周辺には、四十七士たちの屋敷跡もあります。

大石神社
四十七士の一人、片岡源五右衛門屋敷跡

海に面していた二の丸

更に城の中心に向かって進んでいくと、二の丸門跡に着きます。二の丸のほとんどの部分は水堀に囲まれていて、二の丸は更に本丸を囲んでいます。

二の丸門跡
二の丸を囲む石垣と水堀

二の丸内部のうち北側にはかつて、もう一つの大石家(内蔵助の大叔父である頼母助)の屋敷と、二の丸庭園がありました。その屋敷の門と庭園が最近になって復元されていて、中を散歩したり、美しい風景を楽しむことができます。北側と南側を分ける(西)仕切門も庭園の端に復元されて、開園時間内であれば通ることができます。

復元された大石頼母助屋敷門
復元された二の丸庭園
二の丸を北側と南側に分ける仕切門

南側の部分は、現代的なフラワーガーデンになっていて、かつては海に面していました。その海面部分は埋め立てられ、公共施設が建っているため、かつての姿を創造するのは難しいかもしれません。しかし二の丸の南面には、突堤、水門、潮見櫓、南沖櫓の跡地があるので、そういったものから当時の立地を理解することはできるでしょう。

かつてこの辺りは海でした
突堤及び水手門跡
潮見櫓跡
南沖櫓跡

「赤穂城その3」に続きます。
「赤穂城その1」に戻ります。

60.赤穂城 その1

赤穂城は瀬戸内海に面した播磨国の西端、現在の兵庫県赤穂市にあった城でした。この城は、日本の最も有名な歴史イベントの一つ、赤穂事件の舞台の一つとなった場所です。また、赤穂は雨が少ない地域であり、塩田が開発されて以来、製塩業が盛んであることでも知られています。

立地と歴史

浅野長直が城を大改修

赤穂城は瀬戸内海に面した播磨国の西端、現在の兵庫県赤穂市にあった城でした。この城は、日本の最も有名な歴史イベントの一つ、赤穂事件の舞台の一つとなった場所です。また、赤穂は雨が少ない地域であり、塩田が開発されて以来、製塩業が盛んであることでも知られています。

播磨国の範囲と城の位置

1600年に赤穂城を最初に築いたのは、姫路城主であった池田輝政の弟、長政であり、彼らの支城という扱いでした。その後、1615年に池田氏の分家が独立し、赤穂藩が成立し赤穂城を居城としました。ところが、2代目の藩主が錯乱し殺人を犯した罪で、1645年に徳川幕府によって改易となってしまいました。初期の赤穂城の詳細はわかっていません。同年に城と藩を継いだ浅野長直(あさのながなお)が城の大改修を行い、今見られるような姿になったからです。彼は、広島城にいた浅野氏の分家の当主で、笠間城から転封となったのです。1615年に幕府が大坂城の豊臣氏を滅ぼし政権が安定してからは、城の大改修が認められるのは大変稀なことでした。

浅野長直肖像画、花岳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
笠間城跡

その大改修は1648年から1661年までかかりました。城の縄張りは、軍学者の近藤正純と山鹿素行によって行われました。城の石垣のラインは巧みに曲げられて、どの方角にも射撃ができるようになっていました。本丸とそれを囲む二の丸が城の主要部で、背後の南方には海を控えていました。大手門があった三の丸が、主要部の北方に加えられました。これらの曲輪群は平地上にあり、水堀によって区切られていました。よって、この城は平城または海城に分類されています。本丸には、領主のための御殿と天守台石垣がありました。しかし、実際には天守台の上には天守は築かれませんでした。

赤穂城跡にある山鹿素行坐像
赤穂城本丸の石垣
赤穂城の縄張り図、現地説明板より
赤穂城の天守台石垣

浅野長矩が赤穂事件を起こし改易

赤穂事件は1701年に、長直の孫、浅野長矩(あさのながのり、官職名の内匠頭(たくみのかみ)としても知られています)が藩主だったときに起こりました。彼は、江戸城の御殿で将軍である徳川綱吉が勅使を接待する際の饗応役となっていて、吉良義央(きらよしひさ、上野介(こうずけのすけ))の指導を受けていました。3月14日、最も重要な儀式が行われようとしていた日に浅野は突然吉良の背後から切りかかり、殺そうとしましたが失敗しました。浅野は捕えられ、その日のうちに将軍に切腹を命じられました。御殿内での刃傷沙汰は厳しく禁止されていたからです。浅野家は約3百名の藩士ともっと多くの家族とともに改易となりました。一方、吉良はお構いなしとされました。浅野により傷つけられただけで、刀を抜かなかったからです。

浅野長矩像画、花岳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川綱吉肖像画、土佐光起筆、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

浅野が吉良に切りつけた理由はわかっていません。いくつかの記録によると、浅野は吉良に遺恨があったと話したということです。しかし、その死の前にそれが何なのかは話しませんでした。最近の研究によると、以下のように推測されます。そのとき、浅野は2度目の勅使饗応役を務めていました。浅野は地元の塩産業により豊かでしたが、吉良からの指導に対してそれ程の報酬は払わなくてよいと考えていた節があります。吉良は職務を果たすために多くの金銭が必要でしたが、手元不如意となっていました。彼は高家として身分は高かったのですが、領地の石高はそれ程でもなかったからです。これらのことが重なって、吉良が浅野に対して十分な指導を行わなかったり、公衆の面前で浅野を批判したことが考えられます。これが本当だとしても、このような深刻な事件を起こす動機となるのでしょうか。当時を含め、浅野は乱心したためにこの事件を起こしたのだと考えた人もいました。

刃傷事件があった江戸城本丸御殿跡
事件の現場、松の廊下の模型、江戸東京博物館にて展示  (licensed by Gryffindor via Wikimedia Commons)

お家再興の望みがなくなり討入を実行

赤穂藩の藩士たちは、事件の報せと幕府による赤穂城明け渡しの命令に接し、大変困惑しました。そして幕府の命令に従い開城するか、それとも反抗するか議論に明け暮れました。浅野に親しく仕えていた近臣たちにとっては幕府の決定は受け入れがたく、主君はそれなりの理由があって事を起こしたのだと信じていました。しかし、筆頭家老の大石良雄(おおいしよしお、内蔵助(くらのすけ))の決断により、4月12日に城は明け渡されます。彼は、藩が素直に命令に従えば、幕府が長矩の弟、大学に藩を継がせるのではないかと考えたのです。

大石良雄肖像画、赤穂大石神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

残念ながら、大石の希望はかないませんでした。幕府は大学を、広島城の浅野本家預かりとしたのです。大石は結局、強硬派の勢いに押される形で四十七士のリーダーとなり、旧暦1702年の12月14日に吉良の屋敷に討ち入り、吉良の首級を挙げたのでした。大石は現場に口上書を残していて、そこには「亡主の意趣を継」ぐと書かれています。四十七士は全員捕らわれの身となりましたが、その処分を巡っては幕府の首脳部の間で相当な議論となりました。ある者は彼ら浪人は法を犯して吉良の屋敷に押し入り、「無実」の吉良を殺したのだから厳罰に処すべしと主張しました。一方、彼らは真の忠臣であり、武士の鑑であると反論する者もいました。将軍綱吉の裁定は両者を折半するもので、四十七士に切腹を命じました。これは彼らの主君と同じでしたが、地位とその行為にしては寛大なものでした。

広島城
「忠臣蔵十一段目夜討之図」歌川国芳作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

藩と城は森氏などが継承

赤穂城と赤穂藩はその後、永井氏と森氏に引き継がれました。とりわけ森氏は、1706年から1871年の廃藩置県までの長い間、その地を支配しました。赤穂の製塩業は繁栄を続け、塩田はまるで城を囲むような形で広がりました。一方で、森氏による赤穂藩は財政難に苦しみます。領地が浅野氏当時よりずっと少なかったからです。例えば、三の丸にあった旧大石家の屋敷が1729年に火災に遭ったのですが、再建されませんでした。それは恐らく、藩士の数が以前よりずっと少なかったためにその屋敷を再び使う必要がなかったためと思われます。

赤穂城跡

「赤穂城その2」に続きます。

18.鉢形城 その3

1590年の戦いにおいて攻撃軍が車山から城へ砲撃したと伝わる話がありうることなのか確かめるために、実際に山の上まで登ってみました。

特徴、見どころ

よく復元されている空堀

三の曲輪と二の曲輪の間には、大規模な空堀が木柵とともに復元されています。堀のラインは折り曲げられていて、守備兵が敵の側面を攻撃できるようになっています。曲輪間を行き来できる場所は2ヶ所だけで、大手道から続く通路と、よく復元されている馬出しのところです。また、これら2つの曲輪を見比べてみると、三の曲輪の方が二の曲輪より高い位置にあることがわかります。他の城では通常、本丸に近い二の丸の方が三の丸より高いところにあります。しかし、鉢形城の場合はそうはなっていません。加えて、三の曲輪は北条氏により改修された結果、4つの馬出しがある強力な防御システムを持つに至りました。作家の伊東潤は、北条氏は城の最終段階において、城の中心部を本曲輪から三の曲輪に移したのではないかと言っています。

城周辺の航空写真、赤いマーカーは4つの馬出しの場所を示しています

三の曲輪と二の曲輪の間の空堀
三の曲輪と二の曲輪をつなぐ馬出し
三の曲輪の方が二の曲輪より高い位置にあります
二の曲輪

本曲輪の素晴らしい景観

舗装された自動車道が二の曲輪と本曲輪の間を通っていて、この辺りが過去にどのようであったのか想像するのは難しいかもしれません。鉢形城歴史館での情報によると、その辺りには本曲輪に入っていくための大門があり、門の前には深い空堀があり、木橋が掛けられていたとのことです。

城周辺の地図

二の曲輪と本曲輪の間には自動車道が走っています
現地にある城ジオラマでの本曲輪への入口部分

本曲輪は城のもう一つの高地で、30mの高さの崖の上にあります。城に関する建物はありませんし、純粋な土造りの曲輪です。しかし、整地されていることが今でも見て取れるため、過去には城主の御殿があったのだろうと想像することができます。その高みからは、眼下の荒川とその周辺地域の素晴らしい景色が見えます。また、自然の要害により城が守られてきたことも理解できると思います。

本曲輪
本曲輪上の建物跡
本曲輪からの景色

そして最後には、崖の突端の近くの笹曲輪に到着します。ここは本曲輪より低い位置にあって、荒川に掛かる正喜(しょうき)橋のたもとにあり。城跡の入口にもなっています。

笹曲輪
城跡にかかる正喜橋

崖の先端は私有地になっていて立ち入りはできないので、川の反対側からしか見ることができません。もしその対岸に渡られたのでしたら、橋から下ったところにある玉淀河原から崖の上にある城跡の素晴らしい景色をご覧になってはいかがでしょうか。

対岸から見た崖の先端部分
玉淀河原から見た城跡

その後

昭和時代の初期(1930年辺り)、JR八高線の建設が城跡を貫く路線で検討されていました。地元の人たちは、路線を変更することと、城跡の保存を政府に請願しました。この運動は成功を収め、城跡は1932年に国の史跡に指定されました。寄居町は1997年から2001年の間に二の曲輪、三の曲輪、笹曲輪の発掘調査を行いました。この成果に基づき、鉢形城公園がオープンし、城の構造物が復元公開されました。2004年には鉢形城歴史館が開館し、城の歴史や研究に関する展示があり、ビジターが見学できるようになっています。

鉢形城歴史館

私の感想

私は、1590年の戦いにおいて攻撃軍が車山から城へ砲撃したと伝わる話がありうることなのか確かめるために、実際に山の上まで登ってみました。攻撃軍の武将、本田忠勝が大鉄砲を山に引き上げ、城を砲撃し、大手門を破壊したというのです。車山は標高227mで、城からは約100m高いところにあります。そして、城の三の曲輪からは約1km離れています。山頂から見る城の眺望は、周りに茂っている木々のためにあまりよくありませんでした。個人的な結論を申し上げると、この伝承の全てが本当とは限らないということです。砲撃を行ったというのは事実でしょう。数cmの大きさの大鉄砲の弾が、城の外曲輪から発掘されているからです。しかしながら、それを山の上から行うことが有効であったとは思えません。1614年の大坂冬の陣において、徳川家康は西洋の大砲を借りてきて、川のデルタ地帯にあった陣地から大坂城への砲撃を行いました。城へは約500mの距離がありました。この実績によって考えると、これより24年前に恐らくは日本製の鉄砲を使って、500mも余計に遠くから砲撃することは、たとえ山の上からとはいってもあり得ないという結論です。想像ですが、忠勝は山上に陣地を置いたけれども、ずっと城に近いところから砲撃を加えたのではないでしょうか。

城跡の南側入口周辺から見た車山
車山の頂上
城跡は草木のために本曲輪の一部しか見えませんでした
本多忠勝肖像画、良玄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

鉢形城周辺の起伏地図

大坂城周辺の地図(上と同じ縮尺にしています)

ここに行くには

この城跡を訪れるには、車を使われることをお勧めします。バス便がほとんどないからです。関越自動車道の花園ICから約20分かかります。公園の中にいくつも駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、寄居駅から歩いて約30分かかります。
東京から寄居駅まで:池袋駅から東武東上線に乗るか、東京駅から上越新幹線に乗って、熊谷駅から秩父鉄道に乗り換えてください。

リンク、参考情報

鉢形城公園案内、寄居町公式ホームページ
・「太田道灌と長尾景春/黒田基樹著」戒光祥出版
・「城を攻める 城を守る/伊東潤著」講談社現代新書
・「北条氏康の子供たち/黒田基樹・朝倉直美編」宮帯出版社
・「北条氏邦と鉢形領支配/梅沢太久夫著」まつやま書房

これで終わります。ありがとうございました。
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「鉢形城その2」に戻ります。