144.大垣城 その1

天下分け目の決戦場になったかもしれない城

立地と歴史

天下分け目の決戦場

関ヶ原の戦いは、日本の歴史のなかの最も重要な出来事の一つです。徳川家康に率いられた東軍と、石田三成に率いられた西軍が1600年に関ヶ原で戦い、その結果、徳川幕府の設立につながったのです。ほとんどの日本の人たちは関ヶ原のことを知っているでしょうが、大垣城はどうでしょうか。実はこの城は、もし状況が変わっていれば(三成が城に居座っていたならば)この戦いの決戦場になったかもしれないのです。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石田三成像、杉山丕氏蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

かなめの所、大柿の城

大垣城は、美濃国(現在の岐阜県)の西部にあり、関ヶ原を通して西日本とつながっていました。最初にいつこの城が築かれたかは定かではありませんが、日本が統一されてきた戦国時代の16世紀後半には重要な存在となっていたのです。天下人の豊臣秀吉は「かなめの所大柿(大垣)の城」と言っており、城主として近親者を送り込みました。この城は平地に築かれたのですが、堀と川に幾重にも囲まれていました。水城のように見えていたのでしょう。

城の位置

1598年に秀吉が亡くなった後、徳川家康と石田三成との間に政争が起こりました。家康が、秀吉の幼少の息子でその時はまだ天下人あった秀頼の力を凌ぐのではないかと、三成は疑ったのです。家康は、1600年6月に彼に逆らった上杉氏を討伐するために東日本に向かいました。そして光成は、7月に西日本で家康を倒すために挙兵したのです。東軍と西軍は、大垣城や関ヶ原がある中日本で戦うことが予想されました。三成は、本陣として大垣城に滞在し、大垣城の背後の山にいくつもの陣城(南宮山城など)を築き、そこに同盟者(毛利秀元など)を据えました。三成は、できるだけの準備を行い、そこで家康の攻撃を待っていたのです。彼はまた、関ヶ原周辺に松尾山城などの大きな山城を築き、有力大名の毛利輝元や彼の主人である秀頼を呼び寄せ、彼の味方にしようとしたのです。もし、彼の計画が実現していれば、家康は負けていたかもしれません。秀頼はその時点ではまだ家康の主人でもあったからです。

豊臣秀頼肖像画、養源院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

なぜ三成は城を出たのか

ところが、9月15日、三成は突然城を後にし、関ヶ原で家康と戦い、たった一日で敗れてしまいました。なぜ三成は、彼の計画を捨て、恐らく彼は苦手でも家康は得意であった野戦を選んだのでしょうか。これまでの定説は、家康が大垣城を飛び越えて西日本の方へまっすぐ攻撃しようとすることに気付き(その情報を流すことが家康の謀略だったとも言われます)、同盟者とともに家康を先回りして関ヶ原に布陣したとされています。彼ら西軍は最初の頃はよく戦ったのですが、同盟者の一人、小早川秀秋が戦いの最中に裏切ったことによりついには敗れたというものです。この筋書きは劇的であり、多くの日本人は長い間それを信じていました。ところがそれは、実際の戦いから約60年も後に、江戸時代の軍記物に初めて現れた話だったのです。私もその話は、三成が城をわざわざ離れる理由としては弱すぎるように思います。

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最近の研究が、三成が大垣城から移動した理由を明らかにしてくれるかもしれません。これらの研究によれば小早川秀秋は、これまでの定説よりももっと前から東軍に味方することが予測されていたとのことです。秀秋は、三成の計画に逆らって松尾山城を占拠し(その城には別の大名が入る予定になっていた)、戦いの前に関ヶ原に移動していたというのです。その場合、三成が大垣城に留まっていると、挟み撃ちにあってしまうことになります。三成は秀秋の動きに気付き、最悪のケースを避けるために止む無く関ヶ原に移動したのです。また、三成は、家康と秀秋に対抗するため、ある山城(玉城~たまじょう)に入ろうとしたが、果たせずに関ヶ原周辺で撃滅されてしまったとする説もあります。関ヶ原の戦いの後、三成の一部の部下はまだ大垣城に残っていました。しかし多勢に無勢であり、東軍に一週間城を包囲され、降伏することになってしまいました。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

水の都、大垣

関ヶ原の戦いの後、大垣城はまだ東日本と西日本をつなぐ重要地点とされていました。いくつかの大名家がこの城を居城とし、改良を加えました。例えば、石川氏は外堀を完成させ、松平氏は天守を四層に改築しました。その天守は本丸にあり、城主の御殿がある二の丸とつながっていました。両方の曲輪は内堀に囲まれていました。そして、合わせて三重の堀が城を囲んでいたのです。また、城下町が水路や川によって城と一体化されていました。そのため、現在の大垣市は水の都と呼ばれてきたのです。1635年以来、戸田氏がこの城と、大垣藩と呼ばれた城の周辺地域を江戸時代末期まで支配しました。

大垣城の四層天守の古写真、現地説明板より
「美濃国大垣城絵図」部分、出典:国立公文書館
上記絵図の大垣城中心部分
大垣藩戸田氏の初代、戸田氏鉄の銅像

「大垣城その2」に続きます。

122.大多喜城 その1

本多忠勝が築いた謎多き城

立地と歴史

係争の地、上総国にあった城

現在の千葉県は、過去には三つの国に分かれていました。房総半島の南から北に向かって、安房国(南部)、上総国(中部)、下総国(北部)です。戦国時代の15世紀、里見氏と北条氏が半島の支配を巡って何度も戦いました。里見氏は、南の安房国を本拠地としており、一方北条氏は当初北の下総国に侵入しました。真ん中にある上総国は自然と双方による戦いの場となりました。上総国には、武田氏や正木氏のような多くの地元領主がいました。彼らは、状況次第でときには独立し、北条氏に従ったり、また里見氏に従ったりしていました。

上総国の範囲と大多喜城の位置

大多喜(おおたき)城の前身である小多喜(おだき)城は、15世紀前半に武田氏によって築かれたと言われています。15世紀中頃には正木氏が所有していました。この城は丘の上に築かれ、南側は夷隅(いすみ)川に面しており、西側は深い谷となっていました。よって、城を築きまたは維持したこれらの領主は城を防衛するため、いくつもの曲輪を築き、東側には空堀を作り、北側には支城を配置しました。城は自然の地形を利用した土造りであり、これはその当時の典型的な城の作り方でした。

城周辺の起伏地図

本多忠勝が城を大改修

1590年の豊臣秀吉による天下統一がなされる前に、里見氏はついに小多喜城を含む上総国を奪取します。ところが、秀吉は上総国を里見氏から取り上げ、北条氏の後に関東地方の領主となった徳川家康に与えました。そして、1591年に徳川四天王の一人であった本多忠勝が小多喜城主となり、その後城は大多喜城という名前に変わりました。忠勝は、そのときまだ安房国にいた里見氏に備えるため、城の大改修を行い、併せて城下町の整備も行いました。しかし、忠勝がどのように城を改修したのかは不明です。歴史家の中には、丘の頂上にあった本丸に三層の天守が築かれたと推測している人もいます。

本多忠勝肖像画、良玄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大多喜城の復元模型、千葉県立中央博物館大多喜城分館にて展示

初期の大多喜城の状況を示す唯一の手がかりは、スペインの政治家、ドン・ロドリゴが残した記録(「日本見聞録」)です。彼は、1609年にメキシコに向かう航路の途上、遭難して日本に漂着し、偶然この城を訪れることになったのです。彼は、城の第一の門は鉄で作られ、15mの高さの城壁の上にあると書いています。これは恐らく大手門でしょう。また、堀には跳ね橋が架けられていたとあります。

上記復元模型の大手門部分

更に彼は、第二の門は石垣または石積みに囲まれていて、内側には城主のための豪華な御殿があり、金銀によって飾られていたと書いています(ここは恐らく二の丸でしょう)。ところが、彼は本丸のことやそこに天守があったかどうかは記述していないのです。

上記復元模型の二の丸部分

忠勝は既に1601年、桑名城に移っており、そのときは忠勝の息子、本多忠朝(ただとも)がドン・ロドリゴをその御殿で応接しました。本多氏はやがて1617年に大多喜城から移されました。

関ヶ原合戦図屏風に描かれた本多忠朝 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

頻繁に変わる城主

本多氏が大多喜城から離れた後、城主は青山氏や阿部氏などに頻繁に変わりました。特に1702年の稲垣氏の場合には、その支配期間はなんとわずか21日でした。その結果、城は放置され、誰も面倒を見る者がいないような状態になってしまいました。1703年に松平氏が城主になってからはやっとその支配が安定しました。松平氏の記録によると、二の丸に御殿だけが存在しているという状況でした。松平氏の統治は江戸時代の末まで続きました。1844年には、天守が焼け落ちたと言われていますが、城の状況から考えると、天守があったとする裏付け情報がもっと必要です。松平氏は、江戸時代の終わりまで必要最小限の城の建物を維持していたと考える方が妥当でしょう。一方、城下町の方は、今もその街並みが残る通り、房総半島を横断する街道の宿場町としても繁栄しました。

果たして天守はあったのか、上記復元模型より
今も残る城下町の風情

「大多喜城その2」に続きます。

148.浜松城 その2

オリジナルの天守台石垣に、小さな復興天守が乗っかっています。

特徴、見どころ

公園入口へ

現在浜松城は、浜松城公園として開発されています。公園内には、天守曲輪と本丸の一部が残されています。もし浜松駅から公園の方に歩いていった場合、浜松市役所が左側に見えてきますが、ここは過去は二の丸の一部だったのです。市役所の北側から公園の入口への道に入っていきます。そうすると右側に、発掘中の本丸と二の丸がフェンス越しに見えます。そして、現代になって切り崩された本丸の断面によってできた壁に突き当たります。

城周辺の地図

浜松市役所
浜津城公園への入口
公園入口に向かう道
発掘中の二の丸と本丸の一部

よって、公園に入るにはその壁の右側か左側に回り込む必要があります。どちらの入口から入っても、本丸の残存部分に着きます。そこには、徳川家康の銅像があったり、土塁の上にある富士見櫓跡があります。

本丸の断面にある壁と公園入口への道標
右側の入口から本丸へ向かいます
本丸内部
徳川家康銅像
富士見櫓跡

古風な現存石垣

この城のハイライトといえば、本丸と天守曲輪にある現存石垣でしょう。この石垣は基本的に自然石を使って積み上げられていて、城の石垣の中では最も早い時期の手法の一つで野面積みと呼ばれます。とても古風であり、元は堀尾吉晴が築きました。

富士見櫓跡から見た天守曲輪
天守曲輪の石垣

天守曲輪の裏側の方に行っていただくと、石垣が自然地形の上の方に築かれているのが見えます。これも初期の手法の一つで、鉢巻石垣と呼ばれ、高石垣を築く技術がないときに用いられました。この石垣は、屏風のように巧みに曲げられていて、文字通り屏風折れと呼ばれています。こういった構造より、敵が城に攻めてきたときに、守備兵が石垣の任意の場所から敵を直接攻撃できるようになっていました(例えば、折れた部分から敵の側面を攻撃できます)。

天守曲輪の裏側の鉢巻石垣
「屏風折れ」の石垣

天守門は、発掘の成果を基に、最近2014年に伝統的工法で復元されました。門の下を通るだけではなく、門の建物の中にも入ってみることができます。

復元された天守門
天守門内部への入口

オリジナルより小さな復興天守

それ以外には、現存する天守台石垣の上に復興天守が1958年に建てられ、それ以来城のシンボルとなっています。この天守が「復興」と呼ばれる理由は、オリジナルの天守の姿が不明であることと、実はこの天守は天守台と比較してとても小さいのです。恐らく、この天守台に合う天守を作るには予算が不足していたと思われます。

オリジナルの天守台石垣に載った小さな復興天守
復興天守と推定されるオリジナル天守の大きさ比較、復興天守内にて展示

それでも、天守の中に入ってみれば、城のことを学べたり、浜松市街を一望することができます。歴史博物館及び展望台として使われているのです。

発掘された天守内の井戸、復興天守内にて展示
復興天守内の展示の一部
展望台からの市街地の景色

「浜松城その3」に続きます。
「浜松城その1」に戻ります。