44.名古屋城 その2

尾張名古屋は城でもつ

立地と歴史

復活した名古屋城

戦国時代の16世紀中頃、現在の名古屋城と同じ場所に、同じ名前を持つもう一つの那古野(なごや)城がありました。この古い方の那古野城で有名な戦国大名、織田信長が生まれたと言われています。信長は、そのうちに本拠地を清州城に移し、那古野城は廃城となりました。それ以来、清州城(名古屋城の北西約10kmのところ)は尾張国(現在の愛知県西部)の中心地であり続けました。1609年、徳川幕府は度々洪水の被害にあっていた清州城の代わりに、新しい城を築くことを決めました。大坂城にいた豊臣氏との戦いに備え、徳川の親族が入るためのより強力な城が必要とされたのです。その城は、再び名古屋(なごや)城と命名されました。

名古屋城と清州城の位置

清州城跡から見た名古屋城 (licensed by 名古屋太郎 via Wikimedia Commons)

シンプルだが強力な城、最大級の天守

城の範囲は広大で、シンプルであっても強力に作られました。城の中心である本丸は、西の丸などの曲輪群によって全ての方角に対し防御されていました。二の丸は、本丸の南東に付け加えられていて、城主のための御殿が建てられていました。最も大きな三の丸は、他の全ての曲輪の南方にあり、重臣たちの屋敷地となっていました。

尾張国名古屋城絵図(出展:国立国会図書館)

城周辺の航空写真

本丸には5層の天守があり、史上最も大きな天守の一つでした。頂にあった2つの金鯱は人々の間で特に人気がありました。初代の金鯱には215kgもの金が使われていたと言われています。また、本丸御殿もありましたが、これは将軍が滞在するためだけに存在しました。実際には3人の将軍しか使用していません。人々は「尾張名古屋は城でもつ」と言い慣わしてきました。

元あった天守と本丸御殿の写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

焼亡と復興

明治維新後、二の丸、三の丸といった大きな曲輪は日本陸軍の駐屯地となりました。しかし、政府は本丸周辺は城として維持していくことを決断しました。天守や本丸御殿を含む伝統的建物群がそのまま残されたのです。1930年には、城として初となる国宝にも指定されています。ところが、誠に残念なことに1945年にほとんどの建物が焼け落ちてしまったのです。現在は3つの櫓と3つの門が残るのみです。

空襲で燃え上がる天守 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現存している本丸の西南隅櫓
現存している本丸表二之門

その悲劇から14年後、名古屋の人々は現在見る天守を再建しました。再建のための予算の3分の1は市民からの寄付によりました。天守の外観はほとんど元通りでしたが、実は元の石垣の内側にあるケーソンの上に建てられた、コンクリート製の近代的ビルだったのです。元あった金鯱は1945年に一緒に燃えてしまいましたが、同時に復元されました。現在のものは88㎏の金を含んでいるそうです。2018年、本丸に、従来工法により本丸御殿が復元されました。本丸はかつての姿を取り戻しつつあります。

現在の再建された天守
現在の復元された金鯱
復元された本丸御殿

「名古屋城その3」に続きます。
「名古屋城その1」に戻ります。

40.山中城 その2

今は富士山の景色も見える美しい歴史公園です。

特徴

入口は三の丸

現在、山中城跡は土造りによる土台が残るだけですが、三島市により山中城跡公園としてよく整備、維持されています。城跡の入口は旧東海道に沿っていて、車でここを訪れる場合には入口の中にある駐車場を使うことができます。ここは今は住宅街となっている三の丸の入口でもありました。そして、城の中心地には三の丸の堀跡地を通って、歩いて向かいます。ほとんどの堀は空堀になっていますが、一部は「田尻の池」という池として残っています。

城周辺の地図

城跡の入口
三の丸の空堀
田尻の池

要の二の丸

池から二の丸に至るには、階段と曲がりくねった坂道を登った行かねばなりません。二の丸は大きくて、城の中心地と他の部分をつないでいる箇所です。ここからは富士山を含む周りの景色をよく見渡すことができます。二の丸は高く、厚い土塁に囲まれています。ここは、城の防衛のためには重要な地点だったのでしょう。

二の丸への坂道
二の丸の入口
二の丸からの眺め

城の中心部、本丸

城の中心部、本丸へは更に登り、橋を越えていきます。この橋は半分が木、もう半分が土でできていて面白い作りです。木の部分は、戦が起きたときには壊せるようになっていました。本丸は城の最高地点にあり、二段になっています。上段には、「天守櫓」という櫓が立っていたと考えられています。本丸はまた、深い空堀によって囲まれています。北の丸などもう2つの曲輪が本丸を守るために作られていました。

本丸への坂道
半分木、半分土でできている橋
本丸の天守櫓跡
本丸を囲む空堀
北の丸

西側の曲輪群

二の丸の西側には、元西櫓という小さな曲輪を挟んで、西の丸と西櫓があります。これらの曲輪は過去には全て木橋でつながっていましたが、現在の私たちは木橋と土橋を渡っていきます。西櫓もまた曲輪の一種でしたが、かつては城の最前線に当たり、防御のための建物がありました。実際にここで北条と豊臣の熾烈な戦いがありました。畝堀、障子堀と呼ばれる格子状の空堀が、西櫓と西の丸の周りにたくさん残っています。これらの堀はもとはもっと深く、土がむき出しになっていました。もとの表面は保護のため埋められて植栽されています。その結果、堀はワッフルのように見え、富士山の姿と共にとても見栄えがします。

西側の曲輪群
元西櫓に向かう
西の丸の内部
西の丸からの眺め
西櫓
西の丸と西櫓の間の障子堀
西櫓の周りの畝堀

岱崎出丸、他

城跡の入口の方に戻ると、南側の岱崎出丸も見学することができます。この曲輪は細長く、緩い傾斜地になっていて、ここもまた土塁や畝堀に囲まれています。ここでも苛酷な戦いがあったのですが、今は歩いて回るのによい所です。美しい富士山の景色を見ながらここでランチを食べるのもよいでしょう。岱崎出丸の下には、古東海道の石畳があるので、そこを歩いてみることもできます。時間があれば、以前三の丸だった住宅街にある宗閑寺に行かれてはいかがでしょう。秀吉の指揮官だった一柳直末の墓が、北条の兵士たちの墓と並んで立っています。

岱崎出丸
岱崎出丸からの眺め
岱崎出丸の畝堀
富士山の眺め
旧東海道の石畳
三の丸を通る旧東海道
一柳直末の墓

「山中城その3」に続きます。
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40.山中城 その1

北条氏の西の守りの城

立地と歴史

北条氏の西の守り

山中城は、関東地方の西側の入口である箱根関の西にあり、現在の静岡県東部に当たります。この城は最初は戦国時代の16世紀中頃に、関東地方の支配者であった北条氏によって築かれました。山中城を築くことで、箱根関の東側にあった彼らの本拠地、小田原城を守ろうとしたのです。この城は、1590年に天下人の豊臣秀吉が北条氏を攻める前にも更に増強されました。

城の位置

山中城は、日本の主要街道の一つ、東海道を取り囲んで作られました。その当時、西から坂を登ってくる人は、必ず城の中を通らなければなりませんでした。東海道は実際、三の丸の中、本丸の脇を通っていました。また、三の丸の西側には水堀があり、敵からの攻撃を防ぐためと、貯水池としての役割もありました。
三の丸の南側には、細長い防御陣地である「岱崎出丸」があり、東海道に並行して伸びていました。三の丸の西側に向かっては、二の丸、西の丸、西櫓が配置されていました。これらの曲輪は共同して敵の攻撃を防げるようになっていました。

山中城跡の案内図(現地説明板より)

北条氏独特の築城術

この城で使われていた技術は北条氏に特有のものでした。全ての曲輪は土造りであり、山の峰や谷などの自然の地形を活用していました。これらの曲輪は主に木橋で接続されていて、戦いが始まったときは落とせるようになっていました。また、深い空堀によっても隔てられており、その底は畝状または格子状になっていました。畝状の方は「畝堀」と呼ばれ、格子状の方は「障子堀」と呼ばれます。これらの空堀の作り方は北条の城に特有のものです。一旦兵士が掘に落ち込むと、全く身動きが取れませんでした。城の大きさは20万平方メートルに及びます。北条は秀吉をしばらくは釘付けにできると考えました。

山中城の畝堀
山中城の障子堀

山中城の戦いで落城

ところが、城はわずか半日で秀吉のものになってしまいます。1590年3月29日の早朝、7万人近い秀吉軍の兵士が城への攻撃を開始しました。一方守備側の人数はわずか約4千人でした。攻撃側は最初西櫓と岱崎出丸の両方を強襲しましたが、北条側の鉄砲による反撃のため大量の死傷者が発生しました。もしこれが局地戦であったなら、攻撃側はこれ以上の損害を防ぐため攻撃を一時中止したかもしれません。しかしながら、指揮官たちは無理やり攻撃を続行しました。そうでなければ、秀吉によりクビにされかねないからです。結果的には、秀吉側の指揮官の一人、一柳直末を含む多くの戦死者と引き替えに秀吉は城の確保に成功しました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この戦いはわずか数時間で終わりました。この短い戦いのもう一つの要因は、城主である北条氏勝が城から脱出したため、城兵たちが混乱したことも挙げられています。また、岱崎出丸は秀吉の攻撃までに完成していなかったことも指摘されています。いずれにせよ、どんな強力な城でも、十分な兵士と適切な指揮なしには生き残れないということでしょう。

城跡の標柱

「山中城その2」に続きます。