32.春日山城 その2

歩き甲斐のある城跡

特徴

現在、車があれば簡単に春日山城跡に行くことができます。山の中腹にある春日山神社に車を停めて、頂上に向かうことができます。しかし、もし時間があれば、山麓から元からあった道を歩いてみてはいかがでしょうか。

春日山城跡の全景

大手道周辺

例えば、神社に行く途中にある大手道の出発点に車を停めることができます。この道は最近観光客のために整備されました。頂上までは約3.5kmありますが、坂は緩やかでのんびりした雰囲気です。しばらくすると、塚状の番所跡を通り過ぎます。大手道は森と谷を通り、少し急でごつごつしてきます。やがて、柿崎屋敷と呼ばれる大きな曲輪に着きます。もうここは城の主要部の近くであり、景勝屋敷と井戸曲輪を過ぎればすぐに頂上です。

大手道周辺

大手道入口
のどかな大手道
番所跡
森の中を進む大手道
柿崎屋敷
井戸曲輪

搦手道周辺

もう一つは、北東の山麓にある愛宕山公園の蓮池から搦手道を歩いて行く方法です。最初に、現在は森林に囲まれている黒金門跡と御屋敷跡に入っていきます。道は急になり、曲がりくねっていき、千貫門跡に着きます。この門はとても大きく、内側に深い空堀があり強い防御力を備えていました。そして腰曲輪と虎口に沿ったジグザグの通路を登って、城の主要部に近づいていきます。この虎口は、かつて城が小さかった頃には、ここが城の正面口だったと言われています。虎口の内側には、峰上に直江屋敷があって、城の中心から見て景勝屋敷の反対側に当たります。この道筋は大手道よりは山城らしく見えます。

搦手道周辺

愛宕山公園の蓮池
黒金門跡
御屋敷跡
千貫門跡
千貫門内側の空堀
虎口
直江屋敷周辺

本丸周辺

本丸は山の頂上にあって、そこからは頚城平野と日本海の景色が楽しめます。天守閣跡が本丸のとなりにありますが、実際には櫓の類が立っていたと言われています。いくつか宗教的な建物も周りにありましたが、近代になって毘沙門堂のみが復元されています。二の丸や景虎屋敷など多くの曲輪が山の東側の坂に集まっています。山の中腹から頂上の方を見上げると、今も曲輪群が山を覆っているのがわかります。春日山神社がすぐ近くにあり、上杉謙信の銅像も目にすることができます。

本丸周辺

本丸
本丸からの眺め
天守閣跡
毘沙門堂
二の丸
曲輪群を見上げる
上杉謙信の銅像

その他の見所

春日山城史跡広場では、総構えの一部が復元されています。上越市埋蔵文化財センターでは、春日山城や上杉謙信のことをより学ぶことができます。林泉寺は城跡の近くにあり、謙信が子どものときに学問をしたところです。

春日山城史跡広場
上越市埋蔵文化財センター
林泉寺惣門 (licensed by ELK via Wikimedia Commons)

「春日山城その3」に続きます。
「春日山城その1」に戻ります。

59.姫路城 その3

毎回この城に行くたびに新しい発見があります。

特徴(大天守)

大天守は5層で6階+地階という構造です。この天守は望楼型という形式です。この形式の天守には、通常は入母屋式の屋根を持つ大型の櫓の上に、小さな望楼が立っています。しかし、姫路の天守には、他の天守には通常ある最上階の欄干がないため、スマートに見えます。この天守は、後に層塔型として発展することになる後期望楼型として分類されています。

姫路城大天守(後期望楼型)
犬山城天守(望楼型)
福山城天守(層塔型)

屋根は多くの華頭窓や千鳥破風によって装飾されています。火災を防ぐため、白い漆喰が壁だけではなく、屋根瓦の間にも厚く塗りこめられていいます。それが城を白鷺のように見せています。一方、戦いのために多くの石落としや狭間も装備されています。天守の中に入ることはできますが、とても人気があるので、1時間以上並んで待たなければいけないかもしれません。更に、同時に中に入ることができる人数も制限されています。豪華な外見と違って、内部は実に実用的です。天守は実際には正に戦いのための場所なのです。

大天守の美しい装飾
大天守の内部 (licensed by alisdair via Wikimedia Commons)

内部には、長い籠城で多くの兵士を収容するための洗い場、厠、倉庫があります。また、内部では石落としや狭間を兵士がどのように使うのか見学することもできます。大天守は主に日本の大柱(東と西)によって支えられています。西大柱は実は腐ってしまい、そのため1959年に行われた昭和の大修理で新しいものに交換されました。そのとき東大柱の根元も修理されました。3階より上ではこれらの柱をはっきり見ることができます。

大天守内の洗い場 (licensed by Corpse Reviver via Wikimedia Commons)
西大柱  (taken by あけび from photoAC)

特徴(城の側面と背面)

城周辺の地図

姫路城には側面や背面であってもたくさんの見所があります。そのうちのいくつかを紹介しましょう。まずは、姫山の正面山裾のところでは、「野面積み」と呼ばれる自然石を使って積まれた階段状の石垣を見ることができます。羽柴秀吉か黒田官兵衛によって作られたと言われています。この石垣は、この城で最も古い曲輪の一つと言われている上山里曲輪を囲んでいます。

上山里曲輪を囲む古い石垣

城の右側面に回り込むと、内堀から分かれ出た堀の端が見えます。この近くには内船場蔵という船荷のための倉庫がありました。この堀は船着き場として使われていたのです。

船着き場として使われた内堀

井戸曲輪の東側の石垣は、この城で最も高い石垣の一つです。更には、大天守の右側には二層目に大入母屋が見え、とても際立っています。石垣との組み合わせは写真を撮るにはもってこいです。

井戸曲輪下の高石垣
大天守の右側面
大天守と高石垣のコンビネーション

城の裏側では、もう一つ堀の末端を見ることができます。実はこの端っこはこの城の渦巻き状の堀の始発点なのです。姫山の裏側はいまだ自然のままに残っていて、大天守との取り合わせは独特の眺望です。この辺は、内堀が二重になっていて、二周目の堀が始まる所でもあります。これらが城の裏側を強力に守っていたのです。

堀の始発点
裏山から見える大天守
二周目の堀

「姫路城その4」に続きます。
「姫路城その2」に戻ります。

126.石垣山城~Ishigakiyama Castle

「一夜城」は一日にしてならず。
”The castle built in one night” was not built in a day.

石垣山城の入り口の一つ~One of the entrances of Ishigakiyama Castle

立地と歴史~Location and History

石垣山城には「一夜城」という異名があります。文字通り一夜でできた城という意味です。これは1590年に豊臣秀吉と北条氏の間で起こった小田原城包囲戦に由来します。
Ishigakiyama Castle is nicknamed as “Ichiya-jo” which means a castle built in one night. It comes from an event in Siege of Odawara Castle between Hideyoshi Toyotomi and the Hojo clan in 1590.

小田原城~Odawara Castle

小田原にいる北条の西方にある笠懸山の上にこの城が完成したとき、秀吉は配下の者に、一夜のうちに城の周りの木々を全て伐採するよう命じました。翌朝、北条は城が突然現れたと思い、驚愕しました。この話により一夜城と呼ばれるようになったというわけです。しかし、この話は後になって江戸時代の軍記物により広められたものなのです。今でも北条がいた小田原市域からは、この城跡で何か起こればはっきり見ることができます。
When this castle was completed on a mountain called Kasagakeyama, located in the west of Hojo in Odawara, Hideyoshi ordered his men to cut down all the trees around the castle in one night. Hojo was very surprised to see the castle suddenly appear the next morning. The story calls it Ichiya-jo. However, it was spread later by war chronicles in the Edo Period. Even now you can clearly see how it goes in the castle ruins area from Odawara city area where Hojo was.

城周辺の地図~The map of around the castle

小田原城址から見た石垣山城~Ishigakiyama Castle from Odawara Castle Ruins

この城にはこのような不可思議な話もありますが、訪れる価値は十分にあります。それは、東日本では初めてとなる総石垣造りの城だからです。それまでは、主に土を使った基礎による城が普通でした。秀吉は最初1590年4月6日から包囲戦のため寺院に滞在しました。そして、すぐに築城を開始し、穴太衆と呼ばれる石垣積みの専門集団も連れてきました。彼は6月26日に本陣として城に移ったので、3ヶ月弱で完成したことになります。当時の正規の城を作る期間としては驚異的でした。
Though the castle has such an unclear story, it is still worth the visit, because it is the first castle made up entirely of stone walls in eastern Japan. Until then, it was common to build castle foundation mainly from soil in the area. Hideyoshi first stayed at a temple for the siege from April 6 in 1590, then started to build the castle right away, bringing the specialists of piling stone walls called Anoushu. He moved to the castle as his stronghold on June 26. That means the castle was built in less than three months. It can be seen as a surprisingly short term to build a formal castle at that time.

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵~The Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, owned by Kodaiji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

歴史家の多くは、この城は秀吉の権威を北条や味方に対して見せつけるものだったと言います。一方、この城はもっと長期の包囲戦に備えたものだったと指摘する人もいます。事実としては、北条は7月5日に降伏してしまいますが、それまではわかりませんでした。古文書には、秀吉側の兵隊は厭戦気味で、兵糧も尽きてきていたとあります。また、包囲戦の後も、工事がまだ続いていたこともわかっています。北条の後に入った徳川氏はしばらく城を使い続けていたようです。包囲戦よりも新しい日付のある天守瓦が発掘されています。その後はいつしか廃城となったようです。
Many historians and writers say the castle demonstrated Hideyoshi’s authority to Hojo and his supporters. Some point out that the castle would be for a longer term siege. The fact was that Hojo surrendered on July 5, but it was uncertain before then. Old documents say Hideyoshi’s soldiers got bored and supplies were getting less. There is another evidence that the construction was going on after the siege. The Tokugawa clan, following Hojo, seemed to use the castle for a while. Roof tiles for the Tenshu keep with newer dates than the siege were found by excavation. After that it seemed to be abandoned for sometime.

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

特徴~Features

今でも、この城跡にこんなにも巨石があるのに驚かれるかもしれません。その当時の人たちにとっては尚更だったでしょう。観光客の人たちは大体駐車場から、南曲輪を通り過ぎて二の丸に登っていきます。道すがら半分崩れた石垣が目に入ってきます。粗野ながら威風堂々としています。
Even now, you may be surprised to see there are the castle ruins with such large stones, to say nothing of the people at that time. Visitors usually go up from the parking area to the Ninomaru enclosure through the South enclosure. You can see a lot of half collapsing stone walls alongside. They look rough but regal.

南曲輪の石垣~The stone walls of South enclosure
崩れかけた石垣~The half collapsing stone walls
二の丸~Ninomaru enclosure

井戸があったことに由来する井戸曲輪は是非見ていただきたいです。井戸の円錐の形に沿って自然石を全面的に積み上げてあります。その様はとても美しく、穴太衆の高度な技術が見て取れます。
Don’t miss to see Ido enclosure which was used for the well. It is totally covered with piled natural stones along the corn shape of the well. It is very beautiful and shows the high level technique of Anoushu.

井戸曲輪~Ido enclosure(licensed by Tak1701d via Wikimedia Commons)

二の丸の方に戻れば、本丸の北門跡の方に入っていけます。本丸には秀吉の御殿があり、その周辺では茶会が開かれていたそうです。ここからは、小田原城を含む小田原市域一帯を見渡せます。秀吉の本陣として相応しい場所でした。
You can enter the North Gate Ruins of the Honmaru enclosure if you turn back to Ninomaru. There was Hideyoshi’s palace where he is said to hold a tea ceremony around. You can see the whole view of Odawara City including Odawara Castle. It served as Hideyoshi’s stronghold.

北門跡から見た本丸石垣~The stone walls of Honmaru enclosure from North Gate Ruins
本丸~Honmaru enclosure
本丸からの眺め~A view from Honmaru

天守跡は本丸のとなりにありますが、現在はあまりそのように見えません。その石垣は、関東大震災のときに崩れてしまったようです。最後は大手門跡を通って、東口にたどり着きます。
The Tenshu ruins are next to Honmaru, but they don’t look so now. Their stone walls seemed to collapse due to Great Kanto Earthquakes. Lastly you can go down through the Main Gate Ruins and reach the East Entrance.

天守跡~The Tenshu ruins
大手門跡~The Main Gate Ruins
大手門跡から見た南曲輪~South enclosure from Main Gate Ruins

その後~Later Life

江戸時代の18世紀初期、小田原藩の有浦氏が城跡を調査し、遺跡の図面を残しました。この図面によれば、石垣はまだ良好に残っていました。しかし、残念ながら1923年の関東大震災で多くが破壊されました。城跡は1959年に国の史跡に指定されました。
In the first 18th century in the Edo Period, the Ariura clan of the Odawara Domain investigated the castle ruins and left the drawings of the ruins. According to the drawings, the stone walls still kept well. But unfortunately Great Kanto Earthquakes in 1923 broke many of them. They were designated as a National Historic Site in 1959.

本丸の石垣~The stone walls of Honmaru enclosure

私の感想~My Impression

私が思うに、この城の素晴らしいことの一つは、その「石垣山」という名前です。単に石垣の城という意味ですが、その当時の人たちがどんなに驚いたかがわかります。この城は相当な衝撃を与えたのでしょう。それで山の名前が笠懸山から石垣山に変わったのです。この新しい名前は遅くとも江戸中期には一般に広まりました。恐らく一夜城伝説と組み合わされて定着したのでしょう。
I think one of the greatest things of the castle is its name “Ishigakiyama”. It just means a stone walls castle. It shows how surprisingly people at that time felt. The castle must have had a big impact on them. That’s why the name of the mountain was changed from Kasagakeyama to Ishigakiyama. The new name spread to the public at the latest in the mid Edo Period. It was probably combined with the Ichiya-jo story, and have fixed.

本丸からの眺めをもう一枚~Another view from Honmaru

ここに行くには~How to get There

石垣山城跡に行くには車が便利です。西湘バイパスの小田原ICか小田原厚木道路西小田原ICから数キロの範囲です。電車を使う場合は、JR早川駅から歩いて約40~50分かかります。急坂を登っていく必要がありますが、それも面白いかもしれません。
東京から早川駅まで:東海道新幹線に乗って小田原まで行き、東海道線に乗り換えてください。
It is useful to access Ishigakiyama Castle Ruins by car. It is several kilometers from the Odawara IC on Seishou Bypass or the Odawara-Nishi IC on Odawara-Atsugi Road. When using train, it takes about 40~50 minutes on foot from JR Hayakawa Station. It needs to climb up a steep slope, but it may be interesting.
From Tokyo to Hayakawa Station: Take the Tokaido Shinkansen super express to Odawara, then transfer to Tokaido local line.

早川駅からの坂道~The slope from Hayakawa Station
坂道から見た小田原城~Odawara Castle from the slope

リンク、参考情報~Links and References

石垣山一夜城、小田原市オフィシャルサイト~Odawara City Official Website
石垣山一夜城、小田原城街歩きガイド(Only Japanese)
・「関東の名城を歩く 南関東編/峰岸純夫、齋藤慎一編」吉川弘文館(Japanese Book)
・「よみがえる日本の城2」学研(Japanese Book)