21.江戸城 その1

今回は、メジャー中のメジャーな将軍の城、江戸城です。江戸城といえば、今の皇居のことじゃないかと思われるかもしれませんが、実は相当大きかったのです。他の主要な城郭と比べても、日本最大級と言っていいでしょう。その歴史を追うだけでも大変そうなので、歴史編も2つに分けることにしました。今回は「建設の歴史編」として、太田道潅が最初に築いたと言われる地方城郭から、江戸幕府の権威を象徴し、現代の首都の礎となる最大級の城になるまでの歴史をご説明します。

立地と歴史(建設の歴史編)

Introduction

今回は、メジャー中のメジャーな将軍の城、江戸城です。江戸城といえば、今の皇居のことじゃないかと思われるかもしれませんが、実は相当大きかったのです。東京の中心部がほぼ入ってしまうくらいです。江戸城は大まかには、内堀の範囲の内郭と、外堀の範囲の外郭に分かれるのですが、それぞれ外周が約8km、約16kmもありました。他の主要な城郭と比べても、日本最大級と言っていいでしょう。その歴史を追うだけでも大変そうなので、歴史編も2つに分けることにしました。今回は「建設の歴史編」として、太田道潅が最初に築いたと言われる地方城郭から、江戸幕府の権威を象徴し、現代の首都の礎となる最大級の城になるまでの歴史をご説明します。

皇居になっている江戸城跡

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

太田道灌による築城

江戸城の歴史に入る前に、中世の関東の地理的状況を確認したいと思います。中世までの関東地方は、現在と全く異なり、利根川・荒川・渡良瀬川などの大河が、直接江戸湾(現・東京湾)に注いでいました。現在の利根川などの流路は、水運・治水などのために、江戸時代に付け替えられたのです。現在の東京都の低地は、大河の流路または湿地帯になっていて、都市開発や交通には不向きな土地でした。例えば、古代に関東南部を通過する主な交通手段は、三浦半島から房総半島に舟で渡ることでした。

古代の関東平野の水脈、「水土の礎」ホームページより引用


源頼朝が挙兵し、一旦敗れた後に渡ったのも房総半島で、そこから盛り返して鎌倉に入る前に、太井(ふとい)、隅田の両河を渡ったという記録があります(下記補足1)。そのとき帰参した豪族の一人に江戸重長がいて、彼ら一族の館は、後の江戸城の辺りにあったという説があります。関東時代の戦国時代の幕開けとなった享徳の乱(1455年・享徳3年~)では、上杉氏勢・関東公方勢の境界線は利根川でした。その上杉氏(扇谷)の家宰(筆頭家老)だった太田道潅が、前線の重要拠点として築いたのが江戸城だったのです。それでは、公方側の重要拠点はどこだったかというと、国府台から関宿を結ぶラインでした。この辺りは丘陵地帯で、東北方面にも通じていたので、各戦国大名がその確保のために戦いました。北条氏と里見氏が戦った国府台合戦が有名です。

(補足1)
治承四年(1180)十月小二日辛巳。武衛は常胤、廣常等之舟檝于相乘り、太井、隅田兩河を濟る。淸兵三万餘騎に及び武藏國に赴く。豊嶋權守淸元、葛西三郎淸重等は最前に參上す。又、足立右馬允遠元は兼日命を受くるに依て、御迎の爲に參向すと云々。今日、武衛の御乳母で故八田武者宗綱の息女〔小山下野大掾政光の妻で寒河尼と号す〕鍾愛の末子を相具し、隅田宿に參向す。則ち御前に召し往時を談ぜ令め給ふ。彼の子息を以て、眤近の奉公を致さ令む可し之由を望み申す。仍て之を召し出し自ら首服を加へ給ひ、御烏帽子を取り之を授け給ふ。小山七郎宗朝と号す〔後に朝光と改む〕今年十四歳也と云々。(吾妻鏡)

太田道灌肖像画、大慈寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

次に、江戸城周辺がどうだったかというと、これも現在と全然違っていました。後の城の中心地は、武蔵野台地の東端に当たりましたが、そこから江戸前島という小半島が突き出ていました。そしてその間には、日比谷入江(海)が入り込んでいました。現在の皇居外苑や日比谷公園のあたりです。そして、ここにも平川という川が直接流れ込んでいました。「江戸」という地名も、「江(入江)」の「戸(入口)」という説があり、この地形を反映しているのかもしれません。

江戸時代初期の江戸瑞定地図、国土交通省ホームページより引用

太田道潅がこの地に江戸城を築いたのは1457年(康正3年)とされていますが、このときの詳細はわかっていません。自然の要害である台地上の、江戸時代の本丸周辺(現在の皇居東御苑)に築かれたと推定されています。また、城を訪れた禅僧たちが残した詩からある程度様子をうかがい知ることができます。(「梅花無尽蔵」「寄題江戸城静勝軒詩序」など)それらによると、「子城(しじょう、本丸に相当)」「中城(ちゅうじょう)」「外城(がいじょう)」という曲輪があり、周りを切岸・(土)塁・水堀に囲まれていました。内部には、道灌の居館「静勝軒」とその背後に「閣」がありました。佐倉城の銅櫓は、この静勝軒を移築したものと伝わりますが、真実かどうか現存していないので何とも言えません。道潅が居館からの景色を詠った歌として「我が庵は、松原つづき海近く 富士の高嶺を軒場にぞ見る」というのが残っています。江戸城本丸東側には、道潅が梅の木を植えたことにちなむと言われる「梅林坂」や「汐見坂」がありますので、この辺からの景色だったかもしれません。

佐倉城銅櫓の古写真、現地説明パネルより
現在の汐見坂からの景色

また、城の東側には川が流れ、南の海に注ぎ、河口には橋がかかっていたそうです。その橋の付近には船が集まり、市が形成されていました。平川や、日比谷入江周辺のことだと思われます。城はやがて、関東地方の覇者となる北条氏の支城になりますが、基本的にこの姿が継承されたと考えられます。

徳川家康の「江戸御打入り」

1590年(天正18年)の小田原合戦の結果、徳川家康が関東地方に移封、そして本拠地として江戸城を選びます。小田原城に籠っていた北条氏が降伏したのが天正18年7月5日、家康の江戸入府は8月1日(八朔)と言われますが(公式日か)、7月下旬頃には一旦入城していました。家康は、旧領国(東海)に帰ることなく、小田原の陣から直接江戸に向かったのです。家康の新領国には、小田原も鎌倉もあるのに、なぜ江戸?ということですが、選んだ人から理由まで諸説あります。
・選んだ人(豊臣秀吉)
 景勝の地である(「徳川実紀」)
 家康を関東・東北の押さえとするため
 最強の大名、家康を中央から遠ざけるため(一般的?)
・選んだ人(徳川家康)
 水運の利点を考慮(「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」幕府編纂)
 富士山が見えるから(足利健亮氏)
 朝鮮出兵の負担を逃れるため
最近は、秀吉と家康が合議の上決めたという説もありますが、後から見れば大英断だったと言えるでしょう。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また、家康入府時の江戸や江戸城の状態についても、北条時代にも開発が続いていたとも、さびれて寒村状態になっていたとも言われますが(下記補足2)、当時豊臣政権下では最大の大名となった家康の本拠地として不足だったのは確かでしょう。

(補足2)(城には)二の丸、三の丸、外郭にある家までそのまま残っていた。(中略)だが、ことのほか古い家屋だったため、本多佐渡守(さどのかみ / 正信)が『これは見苦しい』と言上したところ、(家康は)笑って家づくりにはかまわず、本丸と二の丸の間の堀を埋めて、城の普請を急いだ(「落穂集(おちぼしゆう)追加」)

そんな家康が、その時優先したのは、城の拡張ではなく、江戸・領国のインフラの整備でした。当時は天下人ではないので、大規模築城のために他の大名や技術者集団を動員できなかった事情もあったでしょう。家康はまず、江戸前島を横断する運河として「道三堀」を開削させました(1590年~)。続いて、行徳(現・千葉県)と結ぶ人工河川・小名木川を通しました。これは、塩を確保するためとされますが、それ以外にも、国府台から関宿につながる丘陵地帯を軍事的に掌握するためだったとの見解も出されています。関宿は、やがて利根川を銚子の方に付け替える大事業の重要地点にもなります。この時代からその構想があり、第一歩(1594年の会の川の締め切り)が始まったという見解があります。一方、水害対策の一環だったという意見もあります。

現在は大手町のオフィス街になっている道三堀跡

城の近くでは、飲料水の確保が重要な課題でした。江戸城は海辺に近く、質量ともに不足していたのです。そこで、城の西側の谷筋の湧水や小河川の水をせきとめ、「千鳥ヶ淵」「牛ヶ淵」を作りました(1592年頃~)。これが城の内堀の原型になります。それと並行して、城の曲輪としては、本丸に加えて、家康の隠居地ということで西の丸を増築しました。

千鳥ヶ淵

天下普請による城拡張

家康は、関ヶ原の戦いで勝利し、1603年(慶長8年)に征夷大将軍になると「天下人」として各大名を動員できるようになります。この動員により行われた大規模な築城などの工事を「天下普請」といいます。その対象は将軍の居城・江戸城も含まれました。江戸城の拡張が本格化するのです。

翌年(1604年)家康は、西国の外様大名などに、石垣築造のための石材の調達(約6万個相当)、それを運搬するための石船(3000艘)の建造を命じました。幕府も建造費として支出(金1192枚5両)しましたが、実態として大名たちの負担は大変なものでした。石1個は「百人持之石」で約4トンもあり、舟1艘で2個ずつ運べたそうです。運搬だけでも困難で、慶長11年5月26日には大風のため、鍋島家の120艘、加藤(喜明)家の46艘、黒田家の30艘が沈没したとの記録があります。
(判明している内訳)
・浅野幸長(和歌山藩) 385艘
・島津忠恒(薩摩藩) 300像
・黒田長政(福岡藩) 150艘
・尼崎又次郎(堺の豪商) 100艘

伊豆半島に残されている江戸築城石(licensed by GuchuanYanyi via Wikimedia Commons)

江戸城の第一次天下普請は、1606年(慶長11年)から翌年にかけて本格的に行われました。それとともに、大名屋敷などの敷地確保のため、日比谷入江が埋められていきました。残土処理、城を脅かす軍船の侵入を防ぐためでもありました。城については、本丸の強化が中心で、周りは石垣で固められ、天守台・天守(初代)・御殿などが建設されました。最近の研究(「江戸始図」の発見による)では、本丸の南側には5連続の枡形が備えられてたとされています。その他、二の丸・北の丸・西の丸(継続)の工事が行われました。また、日比谷入江に代わる運搬経路として、外堀が新設されました。付け替えられた平川(日本橋川)の延長線上に、江戸前島の尾根をなぞって掘られました。

かつて日比谷入江だった皇居外苑
本丸石垣
日本橋、この下を流れる日本橋川も人工の運河です

江戸城の天下普請は一段落しますが、他の城の天下普請はひたすら続きます。まだ健在であった大坂城の豊臣家に対する包囲網を形成するためと、豊臣に味方するかもしれない西国の外様大名の力を削ぐためです。主な天下普請を挙げてみます。
彦根城(1603~1606年)
篠山城(1603~1604年)
名古屋城(1610年~)
駿府城(1606~1611年)
・他に亀山城、膳所城など

彦根城
篠山城
駿府城
名古屋城

そうするうちに、江戸城第二次天下普請も始まりました(1611年、慶長16年)。このときは西の丸の堀と石垣の工事が中心でした。堀普請は東国大名、石垣は西国大名が中心でした。一旦中断しますが大坂包囲網が完成すると再開され(1614年)、本丸・二の丸・西の丸の強化、そして、以前日比谷入江だった西の丸下でも石垣工事が行われました。工事が行われた堀は、入江を埋め残したものと言われます。その普請の最中、大坂冬の陣が起こり、動員されていた大名たち(34家)は、そのまま徳川方として、戦に動員されることになったのです。つまりこの頃の江戸城天下普請は、必ずしもそれを最優先させていたわけではなく、大名をコントロールする政策の一環として行われていたと言えるでしょう。

西の丸の内堀(桜田濠)
西の丸下堀

日本一の城の完成

1615年(慶長20年)、幕府は豊臣氏を亡ぼしますが、まだまだ天下普請は続きました(下記は主なもの)。徳川の世を盤石にするための措置でした。なお、この頃から外様大名だけでなく、親藩や譜代大名も動員されるようになりました。天下普請の目的が徐々に変わってきたということでしょう。これらに比べると、まだ江戸城は控えめな状況だったのかもしれません。
・徳川家康逝去に伴う日光東照宮造営(1617年、このときの社殿は後に、世良田東照宮として移築)
明石城築城(1619年)
福山城築城(1619年~)
大坂城再建(1620年~)
・他に尼崎城、高槻城修築、利根川東遷事業など

世良田東照宮
明石城
福山城
現・大阪城

江戸城の天下普請は、家康の跡を継いだ徳川秀忠により1620年(元和6年)に本格的に再開されました。このときは、伊達政宗・上杉景勝など主に東北地方の大名が動員されました。内容としては、主に内郭の北側の石垣や枡形門が整備されました。(清水門など、清水門の現存建物は1658年の再建)。1623年(元和9年)には、秀忠のためとも言えるような2代目天守も完成しました。これに合わせて本丸御殿も拡張されました。これをもって内郭部分が完成したとされています。また、外郭の整備も始まり、神田川が開削されました。伊達政宗の仙台藩が担当した部分は「仙台堀」と呼ばれています。直接的には平川の源流を、隅田川に放流されるためでした。

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
清水門

Leaflet|国土地理院
今に残る内郭部分の航空写真

仙台堀

また、秀忠隠居後になりますが(大御所として実権)、1628年(寛永5年)には、その年に発生した地震による被害の修復と、枡形門の増築が行われました。この直後の江戸城の姿がいわゆる「寛永図(武州豊嶋郡江戸庄図)」として残されています。1632年、寛永9年に描かれたとされています。完成した江戸城中心部だけでなく、発展中の江戸の町の様子もわかります。例えば、日本橋・京橋を通る東海道や、以前江戸前島だった陸地の沖が埋め立てられて、広がっています。その間には、水路が張り巡らされています。

「寛永図(武州豊嶋郡江戸庄図)」(東京都立図書館蔵)

1632年(寛永9年)に秀忠が亡くなり、名実ともに権力者になった3代将軍・徳川家光は、1636年(寛永13年)に最大規模の天下普請を江戸城で行いました。合計120家もの大名が動員されました(下記内訳)。外郭、つまり総構を構築し、江戸城全体が完成させるときが来たのです。
・石垣築造組:6組62大名(中国・四国・九州が中心)
・外濠の掘り方工事組:7組58大名(東北・関東・北陸・信濃)

徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

堀は、それまでに神田川が開通していましたので、その続きが掘られました。現在のJR四谷駅近くに跡がある「真田濠」は、この開削に真田信之が加わっていたことにちなみます。外郭の場合、ほとんどが土塁で、石垣は要所に設けられた枡形門に築かれました。現在も地名になっているものがあります。これだけ大きな総構を築いた理由として、城の中心を、当時の大砲の射程外に置くためだったという見解があります。ちょうど幕府が「鎖国政策」に向かっている時期でした。大規模な天下普請を通して、各大名を統制し、幕藩体制を確立するという意味もあったのでしょう。

真田濠跡(上智大学グラウンド)
江戸古地図上の外郭範囲(licensed by Tateita via Wikimedia Commons)

外郭(総構)が完成すると、翌年(1637年・寛永14年)には、空前絶後の新天守(寛永天守)の建設が始まります。次の年までには完成していたようです。これも江戸の城と町を描いた「江戸図屏風」は、家光の治世を顕彰するために作られたと言われています。そうであれば、この姿は、その完成した天守と江戸城ということになります。江戸城の天下普請は、この後、1660年(万治3年)の4代将軍・家綱の時代まで続くのですが、この記事は寛永天守の完成をもって終幕にしたいと思います。

寛永天守模型、皇居東御苑本丸休憩所にて展示
「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)

「江戸城 その2」に続きます。

21.江戸城その4~Edo Castle Part4

この城は、東京の輪郭を生み出しました。
This castle created the outline of Tokyo.

外郭の概要~Overview of Gaikaku

江戸城の外郭は、外堀に囲まれた区域であり、その外周は約16kmあり、市街地をも含んでいました。見附と呼ばれる大型の門と橋が、約50セット堀と主要街道の交差点に置かれていて、民衆と交通を監視していました。これらの施設は明治維新後にほとんど撤去されてしまいます。そのためほとんどの人たちは東京に城があったことなど気付きません。それでは、東京にある外郭の痕跡を巡ってみましょう。
The outline of Edo Castle called Gaikaku was the surrounding area from the outer moat whose perimeter was about 16 km, including even the city area. About 50 sets of large gates and bridges called Mitsuke were placed at the intersections of the moat and major roads to check people and transportation. These facilities were mostly demolished after the Meiji Restoration. So most people don’t realize there was a castle in Tokyo. Then, let me introduce the traces of Gaikaku in Tokyo.

Leaflet, © OpenStreetMap contributors
江戸城の外郭ライン、ラインの色は以下のセクション毎に分かれています~The line of Edo Castle’s Gaikaku, the color of the line is linked to each section below

隅田川エリア~Sumida-gawa River Area

江戸時代の初め、隅田川は外堀の一部として認識されていました。そのため幕府は、日光街道上の千住大橋を除いて、この川に橋を架けることを禁じていました。1657年の明暦大火の後は、江戸の安全確保と都市化のため、他の橋も架けられるようになりました。
At the beginning of the Edo Period, Sumida-gawa River was regarded as part of the outer moats. Because of it, the Shogunate banned bridges from being built on the river excluding Senju-Ohashi Bridge on Nikko Road. After the great fire of Meireki in 1657, more bridges were built on the river for the increase of safety and urbanization of Edo City.

隅田川に架かる永代橋~Eitai-bashi Bridge over Smida-gawa River

MarkerMarkerMarker
永代橋Eitai-bashi Bridge
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
隅田川エリアのライン~The line of Sumida-gawa River Area

永代橋~Eitai-bashi Bridge:

隅田川に架けられた4番目の橋です。現在の橋は、1923年の関東大震災の火災により失われた後、1926年に再建されたものです。すでにそれから100年近く経過しており、重要文化財に指定されています。
It is the forth bridge on Sumida-gawa River. The present bridge was rebuilt in 1926, after it was destroyed by the fire in the Great Kanto earthquake in 1923. It is nearly 100 years old, and has become an Important Cultural Property.

現在の永代橋~The present Eitai-bashi Bridge
歌川広重「東都名所」より「永代橋佃沖漁舟」、江戸時代~”Eitai-bashi Bridge and fishing boats off Tsukuda Island” from the series “Famous Places in the Eastern Capital” attributed to Hiroshige Utagawa in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimeidia Commons)

新大橋~Shin-Ohashi Bridge:

こちらは3番目に架けられた橋です。先代の橋は関東大震災を生き延びました。現在の橋は1977年に架け替えられたものです。江戸時代のこの橋は、歌川広重の有名な浮世絵に描かれたことで知られています。
It is the third bridge on the river. The former bridge survived the Great Kanto earthquake. The present one replaced it in 1977. The bridge in the Edo Period is known for being drawn in a famous Ukiyoe Painting by Hiroshige Utagawa.

現在の新大橋~The present Shin-Ohashi Bridge
歌川広重「名所江戸百景」より「大橋あたけの夕立」、江戸時代~”Sudden shower over Shin-Ohashi Bridge and Atake” from the series “100 Famous Views of Edo” attributed to Hiroshige Utagawa in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimeidia Commons)

両国橋~Ryogoku-bashi Bridge:

2番目に架けられた橋です。この橋の周りは歓楽街になりました。江戸時代から夏にはこの辺で花火の催しが開かれています。近くにはまた外堀の一部である神田川の河口があります。
The second bridge on the river. The area around the bridge became a place of amusement. Fireworks displays have been also held around in the summer since the Edo Period. There is the estuary of Kanda-gawa River nearby which is another part of the outer moats.

現在の両国橋~The present Ryogoku-bashi Bridge
葛飾北斎「富嶽三十六景」より「御厩川岸より両国橋夕陽見」、江戸時代~”Sunset across Ryogoku Bridge from the Bank of Sumida River at Onmayagashi” from the series “Thirty-six Views of Mount Fuji” attributed to Hokusai Katsushika in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

神田川エリア~Kanda-gawa River Area

「神田川」という名前は明らかに川です。ところが、この川は完全に人口物で、堀や運河として使われました。江戸時代初期に、幕府の下で伊達氏が本郷台地を掘り進んで造りだしたのです。幕府は川に沿って必要な施設を設置していました。掘削で出た残土は、下町周辺の埋め立てに使われました。
The name “Kanda-gawa” clearly shows a river (“gawa” means river.). However, the river is completely artificial, and was used as a moat and canal. In the first Edo Period, the Date clan under the Shogunate created it to cut across Hongo plateau. The Shogunate set facilities they needed along the river. The waste soil from the digging was used to reclaim the sea around downtown.

神田川~Kanda-gawa River

MarkerMarkerMarker
浅草橋Asakusa-bashi Bridge
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
神田川エリアのライン~The line of Kanda-gawa River Area

浅草橋門跡~Asakusa-bashi Gate Ruins:

この門は川と浅草を通る日光街道の交差点に築かれました。しかし明治維新後間もなく撤去されました。そのため、何らかの記念碑でもなければ、そこに何があったかはわかりません。
This gate was built at the intersection of the river and Nikko Road passing Asakusa. But it was removed soon after the Meiji Restoration, so we can’t see what was seen in the past without some kind of monument.

現在の浅草橋~The present Asakusa-bashi Bridge
記念碑のみがあります~There is just a monument
浅草橋門の古写真~The old photo of Asakusa-bashi Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

仙台堀~The Sendai Moat:

「仙台」という名前は伊達氏が仙台を拠点としていたことに由来します。JR御茶ノ水駅近くの橋からは深くえぐられた川の一部を見ることができます。JR中央線はその谷に沿って走っています。
The name “Sendai” derived of the Date clan from Sendai. You can see the part of the river being cut deeply from the bridge near JR Ocha-no-Mizu Station. JR Chuo line goes along the valley.

現在の仙台堀~The present Sendai Moat

水道橋跡~The Water Bridge Ruins

かつて神田上水がこの水道橋によって川を横断していました。井の頭池を水源として江戸市街に給水していました。この周辺の街と、近くにある「水道橋」駅の名前はここから来ています。
Kanda water supply went across the river using the Water Bridge. It came from Inokashira Pond to feed Edo City. The names of the town around and the station nearby “Suido-bashi” comes from the bridge.

水道橋の記念碑~The monument of Water Bridge
記念碑周辺の風景~A view around the monument
歌川広重「東都名所」より「御茶之水之図」、江戸時代~”The picture of Ocha-no-Mizu” from the series “Famous Places in the Eastern Capital” attributed to Hiroshige Utagawa in the Edo Period(出典:国立国会図書館)

外堀の西側部分~The western part of the outer moats

この部分は1638年までに江戸城建設の総仕上げとして築かれました。自然の谷の地形を利用しています。城の中心を砲撃から守ることを意図し、堀の内側に土塁を積み上げ、外側よりも高くなるようにしています。
This part was built to finalize the construction of the Edo Castle by 1638. It used a natural valley terrain. It aimed to protect the center of the castle from a cannon attack outside by setting the inside of the moat much higher with earthen walls than the outside.

弁慶濠~Benkei-bori Moat

MarkerMarkerMarkerMarker
弁慶濠Benkei-bori Moat
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
外堀の西側部分のライン~The line of The western part of the outer moats

牛込門跡~Ushigome-mon Gate Ruins:

門の両側の石垣が現存しています。門跡の周辺は現在JR飯田橋駅として利用されています。門跡の反対側は神楽坂になっていて、外堀は谷底に位置しているのがわかります。牛込濠と呼ばれるその堀は、門跡の西側にほぼそのまま残っており、とても広大に見えます。
The stone walls from both sides of the gate remain. The area around the ruins are now used for JR Iida-bashi Station. The opposite of the ruins is Kagura-zaka slope, so you can see the outer moat located in the bottom of the valley. The moat called “Ushigome-bori” in the west of the ruins remain like it was, and looks very spacious.

牛込門跡~Ushigome Gate Ruins
歌川広重「牛込神楽坂之図」、江戸時代~”The picture of Ushigome and Kagurazaka” attributed to Hiroshige Utagawa in the Edo Period(出典:国立国会図書館)
牛込濠~Ushigome-bori Moat

市ヶ谷門跡~Ichigaya-mon Gate Ruins:

石垣がいくらか残っており、外側から堀を渡って門に伸びる土橋も残っています。周辺はまたJR市ヶ谷駅の一部として使われています。
There are some remaining stones, and the earthen bridge from outside to the gate across the moat remains. The area around is also part of the for JR Ichigaya Station.

市ヶ谷門跡~Ichigaya-mon Gate Ruins
市ヶ谷門の古写真~The old photo of Ichigaya-mon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

四谷門跡~Yotsuya-mon Gate Ruins:

門の片側の石垣が残っていますが、周辺の堀は既に埋められています。一例として、門跡西側の以前堀だったところは上智大学のグラウンドとして使われています。広大な敷地を眺めながら、内側の土塁の上を歩くことができます。
There are some remaining stone walls on one side of the gate, but outer moats around are already filled. For example, the former moat in the west of the ruins is used as the ground for Jochi University. You can walk on the inside earthen walls and enjoy a view of the spacey area.

残っている石垣~The remaining stone walls
四谷門の古写真~The old photo of Yotsuya-mon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
上智大学のグラウンド~The ground for Jochi University

外堀が失われたエリア~The lost outer moat area

東京の都心では、いくつかの理由で外堀は既に失われています。現在では外堀通りとして自動車道になっています。過去にはどんな景観だったのか想像するのは困難です。
In the center of the Tokyo city area, the outer moat was already lost for several reasons. It is now used as the Sotobori (means onter moat) Street for automobiles. It is difficult for us to understand what can be seen in the past.

外堀通り、ビル街の谷間のようです~Sotobori Street, just like a valley among the buildings

MarkerMarkerMarker
赤坂門Akasaka-mon
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
外堀が失われたエリアのライン~The line of the lost outer moat area

赤坂門跡~Akasaka-mon Gate Ruins:

門の石垣の一部が、赤坂見附(幕府の施設であった名前と同じ)交差点の近くに残っています。「弁慶濠」と呼ばれる現存堀が門の西側にあります。そこから続く「溜池」堀は失われています。
Part of the stone walls for the gate remain near the Akasaka Mitsuke (same as the Shogunate facility’s name) Intersection. A remaining moat called “Benkei-bori” is in the west of the gate. The following moat called “Tame-ike” has lost.

赤坂門跡~Akasaka-mon Gate Ruins

「溜池」交差点~The Tame-ike Intersection:

堀の名前が交差点の名前として残っています。溜池とは貯水池の意味です。江戸時代の初期には、江戸の人々は川をせき止め、飲料水として使っていたようです。
The name of the moat remains for the intersection. Tame-ike means reservoir. At the beginning of the Edo Period, people in Edo City seemed to dam a river, and use it for drinking water.

溜池交差点~Tame-ike Intersection

呉服橋交差点~The Gofuku-bashi Intersection:

この交差点は東京駅の近くにあります。ここには外堀と「呉服橋」という橋と呉服橋門がありました。今現在、これらの痕跡は何もありません。
The intersection is near Tokyo Station. There was an outer moat, a bridge called “Gofuku-bashi” and Gofuku-bashi Gate. They have completely removed it. We can’t see any trace of them now.

呉服橋交差点~Gohuku-bashi Intersection
呉服橋門の古写真~The old photo of Gofukubashi-mon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

日本橋川エリア~Nihonbashi-gawa River area

ここは外堀の最後の、または最初の部分です。この箇所は江戸城の内堀の近くです。ここから外堀が市街の外側に向かって渦巻き状に伸びているので、堀を逆に辿っていくこともできます。日本橋川もまた人工川であり、元々あった川のルートを変えるために作られました。この川の上流は、平川という元あった川と同じようです。
It is the last part of the outer moats, or the first part. The part is near the inner moat of Edo Castle. We can see the outer moats spiral towards the outside of the city, so you can trace the moats backward. Nihonbashi-gawa River is also artificial and was built to change the routes of original rivers. The upper stream of the river might be the same as the original river called Hirakawa River.

日本橋川沿いの石垣~The stone walls along Nihonbashi-gawa River

MarkerMarkerMarker
常盤橋門Tokiwabashi-mon
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
日本橋川エリア~Nihonbashi-gawa River area

常盤橋門跡~Tokiwabashi-mon Gate Ruins:

この門の石垣がよく残っています。そのため国の史跡に指定されています。堀を渡って門に至る石橋は、明治時代に門の他の石を使って築かれたものです。近くには日本銀行旧館の建物があり、こちらは重要文化財に指定されています。
The stone walls of the gate remain well. That’s why they have been designated as a National Historic Site. The stone bridge across the moat to the gate was built using other stones from the gate in the Meiji Era. You can also see the old building for Bank of Japan nearby, designated as an Important Cultural Property.

常盤橋門跡の石橋~The stone bridge of Tokiwabashi-mon Ruins
常盤橋門の古写真~The old photo of Tokiwabashi-mon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日本銀行旧館~The old building for Bank of Japan

一ツ橋門跡~Hitotsubashi-mon Gate Ruins:

この門と堀周辺の石垣が残っています。江戸時代後半に、将軍の一族である一橋家の屋敷がこの門内にありました。
There are some remaining stone walls for the gate and the moat around. The hall for the Shogun’s relative called Hitotsu-bashi clan was inside the gate in the late Edo Period.

現在の一ツ橋門と残っている石垣~The present Hitotsubashi-Bridge and remaining stone walls
堀周辺の現存石垣~The remaining stone walls around the moat

雉子橋門跡~Kijibashi-mon Gate Ruins:

ここが外堀の終点に当たります。ここから内堀が近くに見えます。日本橋川は更に上流から流れてきています。その上流を辿っていくと外堀の違う地点、小石川門の近くに到達します。実はこの上流の部分は一旦幕府によって埋められますが、明治時代になって水上交通の便ため、掘り返されました。
This is the edge of the outer moats. You can see the inner moat nearby. The river flows from a much upper area. You can follow that the upper stream and you’ll reach another spot of the outer moat near Koishi-kawa Gate. In fact, the upper stream was once filled by the Shogunate, but was dug again for water transportation in the Meiji Era.

現在の雉子橋~The present Kijibashi-Bridge

私の感想~My Impression

外堀の全てを辿ってくには1日では足りないでしょう。ですので、少しずつ部分的に訪れてみるのもよいでしょう。どちらにしても行ってみれば、江戸城はインフラ、文化、商業などの面で東京の中心につながっていることが実感できます。
It will need more than one day trip to trace all of the outer moats, so you can visit part of them one by one. Anyway, after visiting them, you can realize that Edo Castle has been the center of Tokyo in infrastructure, culture, business and so on.

牛込門跡と飯田橋駅~Ushigome-mon Gate Ruins and Iidabashi Station

リンク、参考情報~Links and References

江戸城外堀跡、千代田区観光協会Edo Castle outer moat trace, VISIT CHIYODA
・「江戸城の全貌/萩原さち子著」さくら舎(Japanese Book)
・「幻の江戸百年/鈴木理生著」筑摩書房(Japanese Book)
・「よみがえる日本の城2」学研(Japanese Book)

「江戸城その3」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part3”
「江戸城その2」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part2”
「江戸城その1」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part1”

error: Content is protected !!