79.今治城 その1

藤堂高虎の城づくりの金字塔

立地と歴史

藤堂高虎が理想の本拠地として築城

今治城は、かつて伊予国と呼ばれた愛媛県の北部に位置している今治市にあります。この城は1604年に、築城の名人として知られる藤堂高虎によって築かれました。それまでにも彼はいくつもの城を築いていました。例えば他の武将の部下として和歌山城赤木城を、伊予国の一部を領する独立した大名になってからは宇和島城大洲城が挙げられるでしょう。しかし今治城は、彼が独立後一から築き上げることができた最初の本拠地としての城でした。つまり高虎はこの城の建設に、それまでの経験や考えの全てを投入することができたのです。その結果、今治城は高虎の城の中でも記念碑的な作品となりました。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

伊予国の範囲と城の位置

宇和島城
大洲城

この城の建設以前に、高虎は1597年の朝鮮侵攻に水軍の大将として参陣しました。この経験から高虎は、新しい城には水軍の支援と水上交通の利便性が得られる立地が必要と考えました。そのため今治城は、海城且つ平城として瀬戸内海に面していました。しかしそれまでは、そのような立地は困難且つ危険と考えられていました。海岸の地盤は軟弱であり、平地では敵に容易に攻められてしまうからです。これらを防ぐために、まず犬走りと呼ばれる段が石垣の基礎部分として築かれました。犬走りは、敵が攻めてきたときには柵を立てて攻撃を防ぐためにも使われることになっていました。またこの城は水堀によって三重に囲まれ、堀の水は海から供給されました。

犬走りの上に築かれた今治城の石垣

シンプルだが防御力を確保した縄張り

今治地域に特有な条件の他にも、高虎は今治城に新しく共通且つ簡便な建設手法を持ち込みましたが、それであっても突然の敵襲にもきちんと対応できるようになっていました。本丸と二の丸が組み合わされた城の主要部分は、シンプルな四角い形をしていて、建設が容易で且つ多くの将兵を収容できました。一方で防御面で不安がありそうですが、広い内堀、高石垣、その上に築かれた櫓群により囲まれていました。主要部への門は、桝形と呼ばれる四角い防御空間により固く守られていました。その上に大手門に入るには、内堀の手前にある出丸と呼ばれる小曲輪を通らなければならず、その出丸にも桝形がありました。そして土橋を渡って大手門に至ったのです。このような構造は、高虎が後に築城に関与することになる名古屋城二条城、篠山城などにも見ることができます。

伊予国今治城図、出典:文化遺産オンライン
名古屋城
二条城
篠山城の模型、篠山城大書院にて展示

層塔式天守を考案したか

もう一つの高虎の城づくりに関する革命は、層塔式と呼ばれる新しいタイプの天守です。それまでの天守は通常、望楼式と呼ばれる形式で建てられ、破風や華頭窓といった多くの装飾がなされていました。新しい層塔式では、単純な四角い床面が、最上階に向かって逓減していき、屋根は最低限のものでした。この形式により効率的に天守を建設でき、防御にも適していました。今治城の天守は、最初の層塔式天守と言われており、5層で本丸に築かれました。

典型的な層塔式、島原城天守
典型的な望楼式、犬山城天守

実は、その天守が本当に今治城に築かれたかどうかは発掘によって科学的には証明されていないのです。それは高虎が今治城での短い在城期間の後、1608年に伊賀上野城に移った際、その天守が撤去され、別の場所に移設されてしまったからなのです。高虎は一時、その天守を自身の伊賀上野城のために使おうと考えていたのですが、幕府の命により建設された亀山城のために、幕府に献上することにしました。亀山城の天守の古写真を見ると、確かに5層で層塔式の形をしています。この逸話は、高虎の伝記と藤堂氏の年譜にしか記録されていません。今治城の現場では、天守台石垣のような直接的な証拠はみつかっていないのです。歴史家の中には、今治城天守は天守台石垣を使わず、地面の上に直接建てられたのではないかと推測している人もいます。

伊賀上野城跡
亀山城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

今治城そのものは、高虎の親族の藤堂高吉(たかよし)が1635年まで、その後は久松松平(ひさまつまつだいら)氏が引き継ぎました。久松松平氏は、もとは単に久松と称していましたが、将軍の親族の家名である松平を名乗ることを許されました。徳川家康の母親が、後妻として嫁いでいたからです。久松松平氏は江戸時代末期まで、今治藩として城とその周辺地域を支配しました。

現在の今治城

「今治城その2」に続きます。

74.岩国城 その2

この城のことをもって知ってみましょう。

その後

明治維新後、山麓にあった居館は1885年に吉香(きっこう)公園となりました。錦帯橋は277年間残りましたが、1950年のキジア台風により発生した洪水のために流されてしまいました。岩国市の人たちは、1953年に元の工法で橋を復元しました。老朽化のため、2004年には再度再築されました。そのためか橋はまだ新しいように見えます。1922年以来、国の名勝に指定されています。

現在の錦帯橋

岩国城に関しては、1963年に山の上の天守が再建されました。しかし、山麓から錦帯橋とともにもっとよく見えるよう、元あった位置より約50m移動した場所に建てられました。1964年には山麓と山頂を結ぶロープウェイが開業し、観光客が多く訪れるようになりました。

山麓からもよく見える現在の岩国城天守

特徴、見どころ

錦帯橋から再建天守へ

現在、岩国城周辺を訪れるビジターにとっては、城そのものにはあまり興味はないかもしれません。まず最初には、錦帯橋を眺めて歩いて渡ってみたいでしょう。また、ロープウェイに乗って山の頂上まで行き、錦帯橋を含む周辺の素晴らしい景色を眺めてみたいでしょう。再建された天守に行ってみるのは、3番目になってしまうでしょうか。麓から見る錦帯橋の景色の引き立て役といった感じです。しかし、この城のことをもっと知ってみると、新たな一面を発見できると思います。

錦帯橋を渡ります
ロープウェイの車窓からの眺め
山上から見える錦帯橋

ロープウェイの山頂駅から降りた後は、城へ向かう2つのルートの案内板が目に入ります。それによれば、左側の道に行くよう促されていますが、実は右の方がおすすめです。それは、右の道に行けば、城の正面の方に出られるからです。道の右側には石垣の端の部分が、三角形の石の列となって並んでいるのが見えます。左側には、二の丸の立派な石垣も見えます。更に進んでいくと、出丸が前面にはみ出しています。ここには、桝形と呼ばれる四角い防御のための空間が内側にあり、そこが城の大手門となっていました。その門跡の内側が二の丸となっていますが、内部は今では改変され現代風のロックガーデンになっています。

城周辺の地図

案内板では左側の広い道が推奨されています
今回は右側の山道を選びます
二の丸下の石垣
張り出している出丸の石垣
出丸の石垣を見上げています
大手門跡
二の丸内部

再建天守とオリジナルの天守台

本丸は、二の丸の北隣にあります。再建された天守が眼前に立ちはだかってとても目立ちます。この天守のデザインは、オリジナルのものを描いたと言われる断面図を元に作られているので、恐らく外観はオリジナルに近いはずです。この天守は4層ですが、三階がはみ出しています。こういったタイプの天守は珍しく、南蛮造りと呼ばれています。実際には現代的なビルディングで、内部は歴史博物館や展望台として使われています。オリジナルの天守台も発掘調査をもとに、元の位置に復元されています。

二の丸から再建天守のある本丸の方を見ています
「南蛮造り」の再建天守外観
「断面図」についての岩国城内の展示
最上階展望台からの眺め
復元されたオリジナル天守台

「岩国城その3」に続きます。
「岩国城その1」に戻ります。

66.津和野城 その2

壮大な石垣が山上に残っています。

特徴、見どころ

町並みを見ながら城跡へ

現在、多くのビジターが津和野町への旅を楽しんでいます。もちろん津和野城跡もその中に含まれます。車でも電車でも町に近づいていくと、石州瓦と呼ばれる赤褐色の瓦を葺いた家並みが見えてきます。この瓦は寒冷な気候でも丈夫であるという特徴を持っています。それとともに、町の傍らの山の上に壮大な石垣があるのも見えてきて、石州瓦で彩られた町とよいコントラストを醸し出しています。

電車の車窓からの眺め

もし電車で来られた場合は、山麓に位置する城跡の入口は、津和野駅から約1.5km離れたところにあります。駅から城跡まで歩いたとしても、その途中に元城下町だった町を歩くこと自体が、楽しい旅の一部となるでしょう。城跡の入口周辺は、領主の御殿が建てられていた場所ですが、現在では津和野高校となっています。また、御殿の庭園は広場となっています。御殿にあった2つの櫓(馬場先櫓と物見櫓)のみが現存しています。

城周辺の起伏地図

津和野高校
かつて御殿の庭園があった場所(喜楽園)
現存する馬場先櫓
現存する物見櫓

出丸を通って城跡中心部へ

城跡がある山上は、山麓から約200mの高さがあります。よって、津和野町が運営しているリフトに乗っていくのが効率的かもしれません。リフトに乗れば数分で山の上に行けますが、その途中では急峻な地形や、山上へ歩いて登るための道が見えます。

山上に向かうリフト
歩いて登るための山道が見えます

リフトの降り場からは、城跡上の通路を歩いて頂上の方に向かいます。まず最初に、城の中心部から少し離れている、物見のために使われた出丸に着きます。現在は石垣しかありませんが、地域一帯の素晴らしい景色を眺めることができます。次には、オリジナルの通路が危険なのか発掘中であるためか、仮設通路で中心部に向かいます。

城周辺の航空写真

リフト乗降場から城跡へ
出丸入口
出丸内部
出丸からの眺め
仮設通路で城跡中心部へ

石垣を苦労して維持

城の中心部にも建物はありませんが、今でも壮大な石垣に囲まれています。一部の石垣は崩れていて、更なる崩壊を防ぐためにシートで覆われています。これは、1997年の北部山口地震とそれに続く豪雨により発生しました。

城周辺の地図

東門跡に向かいます
一部崩れている石垣

ビジターは通常、ここでも仮設の階段を登って、東門跡から入っていきます。右側には三段石垣がありますが、過去にはその上に三段櫓が建てられていました。下段の部分は崩壊防止のためのネットが張られています。他の二段は1972年に積み直されました。津和野の人たちは今でも石垣を維持するために大変な努力をしているのです。

仮設階段
三段石垣

頂上部を囲む三の丸

三の丸には西側と南側に門跡があり、城の頂上部をベルトのように囲んでいます。西櫓門跡に行ってみると、数えきれない程の石州瓦の破片が散らばっているのが見えます。恐らく門にあった建物で使っていたものでしょう。破片であっても国の史跡の一部分であるため、持ち帰ってはいけません。

西櫓門跡
無数の石州瓦の破片

南門跡は、山の峰の端部分にあり、すぐ下は急崖になっています。ここに立ってみると少し怖い気がするかもしれません。この辺りの石垣は城の中でも一番古く、坂崎直盛が築かせたものです。

南櫓門跡に向かいます
南櫓門跡
石垣は城では最も古いものです
門跡の下は急崖になっています
門跡からの眺め

南櫓門跡から振り返ってみると、人質櫓の櫓台石垣が目に入ってきます。この城で一番高い石垣であり、隅部分のカーブのラインがとても美しいです。しかし、名前の通り人質を留めるためにこの櫓が使われていたとすれば、この石垣は孤立して築かれているので、人質たちはとても逃げられなかったでしょう(しかし、少なくとも江戸時代には、その用途では使われなかったようです)。

南櫓門跡から振り返ったときの風景
人質櫓の櫓台石垣
美しい姿をしています

「津和野城その3」に続きます。
「津和野城その1」に戻ります。