203.前橋城 その2

残念ながら現状では、前橋城に関わる遺跡はあまり残っておらず、史跡としてもよく整備されているとは言えません。しかし、今後の整備に向けた動きも出始めているため、期待を込めて、今回は4つのエリアに分けてご紹介します。

その後

再築前橋城はわずかな期間で取り壊されましたが、その有形無形の遺産は、後の前橋に生かされました。明治時代に、群馬県の県庁を前橋、高崎どちらにするか綱引きがあったときに、城の敷地と、城を誘致した商人たちの活動が、前橋が県庁所在地になる決め手になったからです。城の本丸御殿は、昭和初期まで県庁舎として使われ、その後建て替えられた本庁舎は「昭和庁舎」として今も保存活用されています。その傍らには、都道府県庁舎として2番目の高さを誇る現・県庁舎ビルがそびえています。

県庁舎として使われた本丸御殿の模型(臨江閣にて展示)
昭和庁舎
現・県庁舎ビル

特徴、見どころ

残念ながら現状では、前橋城に関わる遺跡はあまり残っておらず、史跡としてもよく整備されているとは言えません。しかし、今後の整備に向けた動きも出始めているため、期待を込めて、今回は4つのエリアに分けてご紹介します。

風呂川と旧利根川の痕跡

前橋城周辺の地図(Google Mapを利用)

まず、城の初期からあった風呂川と、東側の旧利根川によってできた崖地帯をめぐってみましょう。例えば前橋公園から風呂川に向かう場合、とても急な坂の階段を登っていきます。この坂は、江戸後期に利根川の流路が、風呂川に迫った時にできた崖の痕跡のようです。

風呂川と前橋公園の間の急坂

風呂川は、この周辺では一番高い所を流れており、不思議な感じがします。用水路として作られたこの川の由来によるものなのでしょう。

風呂川
右側の石堤の上を風呂川が流れています。

やがて、明治時代に作られた迎賓館「臨江閣」の前に出ます。臨江閣の庭園は、城の一番北の空堀の底に当たります(当時は「虎ヶ渕」と呼ばれました)。この空堀は、古い利根川の流路の名残りとも言われていて、先ほどの公園と風呂川の間の坂よりも時代が古いことになります。

臨江閣
臨江閣の庭園

風呂川に戻って進んでいくと、空堀の底は遊園地となります。臨江閣の庭園とは地下道でつながっていて、ここもなんとも不思議な空間です。「前橋の恩人」安井与左衛門の顕彰碑もひっそりと佇んでいます。

遊園地の脇を流れる風呂川
空堀の底にある遊園地「るなぱあく」
遊園地と庭園をつなぐ地下道
与左衛門の顕彰碑

風呂川と空堀と別れ、市街地に出ても、崖の痕跡は続きます。国道を越えて商店街に入っていくと、馬場川通りがあります。馬場川は風呂川から分かれ、崖の縁を流れています。この通りの傍らに「船つなぎ石」が展示されていて、利根川が以前この辺りを流れていた時に使われていたそうです。また、この通りの片側の住居の敷地は、通りより一段高くなっていて、崖の地形の特徴がよくわかります。

馬場川通り
船つなぎ石
崖の地形により、一段高くなっている住居の敷地

大手門からの登城ルート

新旧前橋城の範囲(Google Mapを利用)

商店街から少し戻って、大手門から本丸までのルートをたどってみましょう。2021年のビル工事の際、酒井氏時代の前橋城(この記事では以後「旧前橋城」と呼びます)の大手門の遺構が発見されました。保存のため埋め戻されましたが、今後何らかの形での公開が検討されるそうです。なお、再築前橋城の大手門は、現在は国道などになっている場所にありました。

旧前橋城の大手門があった場所
再築前橋城の大手門があった場所

次の登城ルートの関門は「車橋門」です。幸いなことに、この門の石垣の一部が残っています。この門は、旧前橋城でも再築前橋城でも、同じ場所に同じ名前でありました。残っているのは、再築前橋城時代のものです。通るところの幅が狭いのは、区画整理によって、左側の石垣が内側に8m移動させられたからです。

ちょっと見逃してしまいそうな所にあります。
車橋門の石垣

それでは、県庁舎ビルの方に向かっていきましょう。どこからでも見えるので、まるで天守のようでわかりやすいです。県庁舎がある場所は、利根川の浸食の影響で、旧前橋城では三の丸でしたが、再築前橋城では本丸でした。県庁舎ビル(1999年完成)を建設するときには、旧前橋城三ノ門の遺構が発見されました。2001年には、再築前橋城の本城門の土橋と堀の遺構が発見されました。いずれも埋め戻されています。

県庁舎の敷地

現代の前橋城、県庁舎ビルの32階は、展望ホールとして一般に開放されていて、地上127mから、群馬の山々や、前橋の市街地、そして城があったところも見渡すことができます。

県庁舎ビル入口
エレベーターホール
展望ホール
北方向の眺め(赤城山、城跡など)
東方向の眺め(市街地)

残っている土塁を歩く

城の遺構は、少ないながら他にもあります。再築前橋城の本丸と北曲輪の土塁の一部です。県庁舎から近いのは本丸の土塁で、砲台があったところに前橋城跡の碑があり、ここまでは登っていくことができます。ただし、そこから先の土塁上は、保存のため歩くことはできません。

本丸土塁(砲台跡)
本丸土塁の他の部分は、周りを歩いて見学しましょう

県庁の裏手には、ここに旧前橋城本丸の天守があったことを示す説明パネルがあります。その向こう側は利根川が近いですので、ここから先の旧前橋城の本丸敷地は、浸食によって崩れてしまったのでしょう。見学した日の利根川は穏やかに見えましたが、自然の力とはやはりすごいものです。

旧前橋城本丸天守の説明パネル
利根川がすぐ近くです

北曲輪は、前橋公園の一部になっています。西側の土塁の根元から見ると、結構な高さで10m近くはあるでしょうか。この土塁の上は歩けますので、登ってみるといい景色です。しかし、この土塁の北端まで行って下り、改めて西側から見てみると崖の地肌が露出しています。これは、江戸後期の利根川の蛇行により、削られた痕跡のようです。この土塁は、敵からだけでなく、川からも城を守るために築かれたのかもしれません。

北曲輪の土塁(南端)
北曲輪の土塁から見た前橋公園(西側)
土塁北端の根元部分を西側から見ると、利根川によって削られたと思われる崖があります

与左衛門の石堤?

最後に、安井与左衛門が築いたと思われる石堤を見に行ってみましょう。場所はグリーンドーム前橋の北の方、岩神ポンプ場の手前です。この周辺で南北に伸びる石堤のうち、北側の方が古い時代のものと考えられます。現地に説明パネルなどはなく、土木遺産にはなっているようですが、史跡として与左衛門時代のものとは確定されてはいません。現在使われている利根川の堤防はここよりずっと西にありますが、現代でも洪水の被害は発生しています。この石堤は、地域を守るための戦いの原点と言えるのではないでしょうか。

城周辺の地図

与左衛門が築いたと思われる石堤

私の感想

現代の前橋でさえ洪水の被害が発生しているのですから、昔はもっと大変だったと思います。以下にあげる本などを読み、そんなところでも要害の地として築城したのが現在の前橋の基になっていることを知り、今回取り上げてみました。このような歴史を、もっと多くの人にわかってもらえるよう、目に見える形で史跡の整備を進めてほしいと思います。地域の人たちも、先人たちがこんなにがんばっていたことがわかれば、活力が沸いてくるのではないでしょうか。

大渡橋から見た県庁と前橋城跡

リンク、参考情報

幻の名城 前橋城、前橋まるごとガイド(前橋観光コンベンション協会)
・「前橋城考/野本文幸著」上毛新聞社
・「知られざる13の謎に挑む 前橋歴史断簡/野本文幸著」上毛新聞社
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「企画展 越山、上杉謙信侵攻と関東の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館
・「関東の華・前橋城」前橋市観光協会リーフレット
・「前橋城絵図帳 前橋市立図書館所蔵資料」前橋市教育委員会
・「まえばし地下マップ(中央地区)」前橋市教育委員会リーフレット

これで終わります。ありがとうございました。
「前橋城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

203.前橋城 その1

前橋市といえば群馬県の県庁所在地で人口約33万人の都市です。しかし、となりの高崎市の人口は約37万人でこちらの方が多く、且つ新幹線駅など交通の要衝となっています。なぜこれら2つの都市がこのような形で並び立っているのか、他県の人からすれば、不思議かもしれません。細かい経緯はともかく、前橋に今の地位は、前橋城とそれにまつわる自然と人々の活動がなければ、なかったものと思われます。

立地と歴史

利根川によって生まれた「厩橋城」

前橋市といえば群馬県の県庁所在地で人口約33万人の都市です。しかし、となりの高崎市の人口は約37万人でこちらの方が多く、且つ新幹線駅など交通の要衝となっています。なぜこれら2つの都市がこのような形で並び立っているのか、他県の人からすれば、不思議かもしれません。細かい経緯はともかく、前橋の今の地位は、前橋城とそれにまつわる自然と人々の活動がなければ、なかったものと思われます。

前橋市の範囲と城の位置

前橋城そのものの話をする前に、その立地を説明する必要があります。前橋城は、旧利根川の流路に残された崖(東側)と、現在の利根川の流路が作った崖(西側)に挟まれた台地上に築かれたからです。中世の途中まで利根川は、前橋市街地の東側、現在の広瀬川の辺りを流れていたと言われています。そのルートは一定ではありませんでしたが、前橋台地の北から東側の崖を形成しました。その崖は、後の前橋城の境界線として活用され、現在は馬場川などの用水路のルートとして残っています。その旧利根川が1427年(応永34年)、400年に一度とされる大洪水によって、西側を流れるルートに変わりました。当初は細く浅いものでしたが、その後度重なる洪水により拡大していきました。その結果、台地の西側にも崖ができ、自然の要害として、城を築くには格好の場所となったのです。

前橋城周辺の地図(Google Mapを利用)

前橋城を最初に築いたのは、全語句時代の1500年前後に、箕輪城を本拠としていた長野氏の支族であるとされています。その際、現在も城の周辺を流れている風呂川を、用水路として開削したと言われています。城があった台地は、周りの自然の川より標高が高く(十数m程度)、そこからの取水が難しかったからです。この城は、当初は厩橋(まやばし)城と呼ばれていました。これまで、この名前は、奈良時代にこの地域にあった東山道の駅家「群馬駅」に由来すると言われてきました。「厩(うまや、駅家の意味)」にあった「橋」という組み合わせです。しかし「厩橋」という地名は戦国時代より前の記録にはなく、読み方も「まやばし」または「まえばし」でした。そこから考えられる別の説としては「むまやはし(崖地の谷の端の意味」」「前方にある端(はし)」というのがあります。これであれば、前橋城の立地と一致することになります。

長野氏の本拠地、箕輪城跡
城の北側を流れる風呂川

上杉謙信によりメジャー化

1560年(永禄3年)、城にとって画期的な出来事が起こりました。越後国(現在の新潟県)の戦国武将、上杉謙信が本格的な関東地方への侵攻(「越山」)を開始したのです。謙信はそのとき、自身の関東地方の根拠地として、厩橋(前橋)城を選んだのです。彼は都合17回の越山を行いましたが、毎回もこの城に滞在し、ときにはそこで年を越したりました。なぜこの城を選んだのか不明ですが、関東経営を行うための地理的な条件もあったのでしょうが、やはり地形的に要害堅固だったことがあったと思われます。謙信は、厩橋城を重臣の北条(きたじょう)高広に任せますが、高広は北条(ほうじょう)氏に転じ、城も北条氏の勢力下に入ってしまいます。その後、徳川家康が関東地方を領有し、天下を取ると、家康はこの城を重臣の酒井氏に任せました。酒井氏の時代に、城の名前は「厩橋」から「前橋」に定められました。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康が、前橋城のことを「関東の華」と呼んだという有名なエピソードがあります。しかし、少なくとも江戸時代の資料には「関東の華」という表現は見られないそうです。その代わりに、1740年代に酒井家が前橋から姫路に移ろうと画策したとき(1749年に実現)、それに反対した家臣の言い分として家康の言葉が記録されています。前橋城は「二つと無き城」であるというものです。もう少し長めに引用すると、家康は「前橋城は、江戸城と同じ曲輪の配置で築いた城なので2つとはない城である」と言ったということです。江戸城は、家康の入城以降、半世紀以上をかけて巨大城郭となりましたが、当初は半島状に突き出た崖がある台地上に築かれました。「同じ曲輪の配置」とは、どの時点のどういった視点なのかわかりませんが、同じような堅固な立地であるという意味であれば、大変興味深いことです。しかし、台地が突き出る方向が、江戸城は下流の南であるのに対し、前橋城は逆で、上流の北であったため、これがその後の困難につながることになります。

江戸城周辺の地図(Google Mapを利用)

「前橋城」最盛期からどん底へ

酒井氏(酒井雅楽頭家)は江戸時代前期、前橋城主として前橋藩を統治し、幕府の幹部も輩出しました。特に酒井忠清は、大老として4代将軍・徳川家綱を補佐しました。前橋城は、初期の頃から西の利根川を背に、本丸・二の丸・三の丸があったと考えられています。謙信の時代までに水曲輪、金井曲輪などが加わり、酒井氏の時代に一番外側の伯耆曲輪が築かれ、最大となりました。本丸には、三層三階の天守がそびえていました。しかし、守りの要である利根川は、度々洪水を起こし、城にとって脅威ともなりました。1706年には、本丸西側の曲輪群が洪水により崩壊してしまいます。利根川の氾濫は、藩内の農業生産にも打撃を与え、藩の財政も悪化しました。そのため、酒井氏は領地替えを幕府に嘆願し、1749年に姫路藩(姫路城)に移っていきました。

酒井氏時代の前橋城絵図 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前橋城天守の想像図(現地説明板より)

代わりに前橋藩主となったのが、結城松平氏(松平大和守家)でした。しかし、前橋城崩壊の危機的状況は変わらず、ついに1767年、藩主の松平朝矩(まつだいらとものり)は、幕府の許可を得て、当時領地の一部にあった川越城に本拠を移しました。そして、1769年には前橋城は廃城となり、建物は取り壊されました。前橋には、領地を管理するための陣屋が置かれましたが、現地の状況は悪化するばかりでした。

川越城本丸御殿

地域再生と「再築前橋城」

その状況を救ったのが、前橋藩改め川越藩の郡奉行(行政官)の安井与左衛門でした。
「前橋の恩人」とも称されています。彼は、1833年に前橋に赴任し、民政や治水で大きな功績を残しました。例えば民生面では、1835年から発生した天保の大飢饉のとき、与左衛門は藩士用の備蓄米を領民に配布することを訴え、実現させました。治水という観点では、前橋は以前にも増して、危機に瀕していました。利根川が蛇行することにより、用水路の風呂川のすぐ近くまで迫っていたのです。風呂川が破壊されると、前橋の農業生産は大打撃を受けることになります。与左衛門は6年を費やして、利根川の流れをまっすぐに変える大工事を行いました。併せて川岸に護岸のための石堤も築きました。この取り組みは、目下の危機を回避させただけでなく、後の前橋の発展につながるきっかけとなりました。

安井与左衛門が着任したときの前橋の状況(Google Mapを利用)
安井与左衛門の顕彰碑
与左衛門が築いたといわれる石堤

1854年に日本が開国し、1858年に欧米諸国との通商条約が結ばれると、国際貿易が行われるようになりました。日本からの輸出品の第1位は生糸で、安くて高品質であると好評を得ました。生糸の主な産地の一つは前橋のある上野国(現在の群馬県)で、後には世界遺産になっている富岡製糸場も設立されます。前橋には有力な生糸商人たちがいて、貿易によって莫大な利益を得ていました。そのとき彼らが実現しようとしたのが「前橋城の再築」でした。彼らにとっては城というより、地元に藩庁があった方が、商売上都合がよかったからではありますが。商人たちは莫大な献金を行い、その金額は城の建設費だけでなく、窮乏していた藩財政の足しになる程でした。藩にとっても、藩庁を内陸部に移すことで、幕府から命じられていた品川台場などの沿岸警備の負担を逃れられるとの思惑がありました。幕府としても、幕末の混乱状況のなか、江戸城に危機が生じた場合の代替拠点として価値を感じたようです。そして、1863年に城の再築が許可され、1867年に城は完成、藩主の松平直克が移ることで「前橋藩」が復活します。川越城は、別途設立された「川越藩」として、松井松平家に引き継がれました。

品川台場跡

再築前橋城は、以前の前橋城と同じではなく、まず本丸は以前の三の丸だったところに作られました。利根川の浸食により、東側に後退した位置となったのです。近代的な砲撃戦の標的となってしまう天守は作られず、城の中心は本丸御殿でした。本丸や大手門など城の要所の土塁の上には、砲台が作られ、西洋式の要素も取り入れられました。ところが、明治維新が城の完成の翌年に起こり、1871年の廃藩置県により、完成からわずか4年で取り壊しとなってしまったのです。

新旧前橋城の範囲の比較(Google Mapを利用)
再築前橋城の本丸御殿(前橋県庁庁舎として使用されていた頃) (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
本丸の砲台跡

「前橋城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

21.江戸城その1~Edo Castle Part1

江戸城は間違いなく日本で最大の城です。なぜなら城が東京そのものになったからです。時々、外国からの旅行者の方は、どこに有名な城や城跡があるのかと尋ねられます。もし、そこが東京の中心地であるなら、もうそこは城の中かもしれません。
Edo Castke was definitely the largest castle in Japan, because it became Tokyo itself. Some foreign tourists ask that where famous Japanese castles and ruins are. They may be standing among castles if they are in the center of Tokyo.

皇居正門石橋と伏見櫓~The Imperial Palace Main Entrance Bridge and Fushimi Turret

立地と歴史~Location and History

東京を含む関東平野には、中世までは大きな湿地帯がありました。この理由から、はるか昔の東海道は西日本から伸びてきて、 海を越えて房総半島に至っていました。利根、渡良瀬、隅田といった大河が直接江戸湾に注いでいたのです
The Kanto Plain including Tokyo had large waterlogged area until the Middle Ages. For this reason, the Tokaido road went from eastern Japan to Boso peninsula over the sea hundreds years ago. Large rivers like Tone, Watarase, and Sumida directly flow into what is now Tokyo Bay.

古代の関東平野の海岸線~The coastline of Kanto Plain in ancient times(licensed by Llhoi2013 via Wikimedia Commons

江戸城は1457年に太田道灌によって最初に築かれました。彼には敵との境界線であった利根川の近くに城を築く必要があったのです。その後この城は、戦国時代の間関東地方の支配者であった北条氏の支城の1つであり続けました。しかし、地理的な制約から武士たちの都とするには不十分でした。
Edo Castle was first built by Dokan Ota in 1457. He needed to build the castle near the border with his enemy, Tone River. After that, the castle had been one of the branch castles of the Hojo clan who were the ruler of Kanto region during the Warring States Period. But the castle still didn’t deserve warrior’s capital because of its geographical features.

太田道灌肖像画、大慈寺蔵~The portrait of Dokan Ota, owned by Daijiji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊臣秀吉は1590年に北条氏を滅ぼし、徳川家康に対し、北条氏に代わり関東地方に転封するよう命じました。秀吉はまた、家康の首府として江戸を指定したと言われています。秀吉は、彼による攻撃を3ヶ月間も耐えた北条氏の首府、小田原に家康が居座るのを恐れたからといいます。
Hideyoshi Toyotomi defeated Hojo clan in 1590, and ordered Ieyasu Tokugawa to move to Kanto region instead of Hojo. It is said that he also designated Edo as Ieyasu’s capital because he feared Ieyasu would settle at Hojo’s capital Odawara which could withstand Toyotomi’s attack for three months.

豊臣秀吉肖像画部分、加納光信筆、高台寺蔵~part of the Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, owned by Kodaiji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康は江戸に到着した直後から、江戸城への驚くべき大改造を開始しました。これは、日本人による湾岸地域での都市作りの初めての試みと言われています。
Immediately after Ieyasu arrived at Edo, he started an incredible renovation of Edo Castle. It is said that it was the first attempt for Japanese people to build a city on a waterfront area.

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵~The Portrait of Ieyasu Tokugawa, attributed to Tanyu Kano, owned by Osaka Castle Museum(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

初期の江戸城は、現在の山の手地域にありました。現在の下町地域は、海面下か湿地帯でした。そして、江戸前島と呼ばれた砂州がありました。また、陸地と砂州の間には日比谷入江が入り込んでいました。
The first Edo Castle was in the present uptown area. The present down town area was below the Sea or waterlogged. There was a sand bank called Edo-Maeto. There was also the Hibiya arm of the sea between the land and the bank.

赤い線は現在の地図に残された江戸前島と日比谷入江の痕跡~The red line shows the remaining trace of Edo-Maetou and Hibiya Arm of the Sea on the present map

徳川家臣団は、水上交通のために江戸前島を横切る運河を掘り、川の流路を付け替えたりしました。彼らはまた、このような湾岸都市であったため、上下水道の設備も整えなければなりませんでした。その結果、江戸は水の都となったのです。
Tokugawa team created a canal across Edo-Maeto and change the route of rivers for water transportation. They also had to build a system for water supply and sewerage on such a waterfront city. As a result, Edo became a city of waterways.

戦前の東京の航空写真、まだ水路がたくさん残っていました~A aerial photo of Tokyo before the World War II, a lot of wateways still remained.

家康が1600年に天下を取った後、彼は全国の諸大名に天下普請と呼ばれる城の拡張工事を命じました。日比谷入江は城の用地拡大と防衛上の必要のため、埋め立てられました。この大規模な工事により、天守を含む多くの建物が作られ、多くの堀が掘られ、石垣が高く積まれました。
After Ieyasu got the power in 1600, he ordered lords of the whole country to improve the castle called Tenka-Bushin. They reclaimed Hibiya arm of the sea to spread the ground for the castle as well as the need for defense. Many buildings including Tenshu keep were built, many moats were dug, and high stone walls were built by the large scale construction.

「江戸図屏風」左隻部分、17世紀、国立歴史民俗博物館蔵~Part of “View of Edo” left screen. pair of six-panel folding screens, in the 17th century, owned by National Museum of Japanese History(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

大名たちは少なくとも6万個もの百人石と呼ばれた4トン石を、伊豆半島から海を越えて江戸まで運ばねばなりませんでした。1603年から1660年まで続いた天下普請は江戸を日本一の大城郭に仕立てたのです。
These lords had to carry at least 60,000 four ton stones called Hyakunin-Ishi from Izu Peninsula to Edo over the sea. Tenka-Bushin between 1603 and 1660 resulted in Edo Castle being the largest castle in Japan.

伊豆半島に残されている江戸築城石~A quarry stone for building Edo Castle left in Izu Peninsula(licensed by GuchuanYanyi via Wikimedia Commons)

江戸城は、内郭と外郭に分かれていました。内郭は内堀の内側で、城の中心部分で、主要な曲輪である本丸、二の丸、西の丸から構成されていました。その外周は8km近くありました。そこには天守、それぞれの曲輪に御殿があり、そして警備のために多くの櫓や門がありました。
Edo castle was divided into Naikaku and Gaikaku. Naikaku was the inside of the inner moat, and consisted of the center portion of the castle including main enclosures Honmaru, Ninomaru, and Nishinomaru. Its perimeter was nearly 8 km. It had the Tenshu keep, halls for each main enclosure, many turrets and gates for security.

今に残る内郭部分の航空写真~The aerial photo of the remaining Naikaku portion

外郭は、外堀に囲まれていた区域で、その外周は約16kmもありました。見附と呼ばれた大型の門と橋のセットが約50ヶ所、主要街道と堀との交差点に置かれ、民衆と交通を監視していました。
Gaikaku was the surrounding area by outer moat whose perimeter was about 16 km, even including the city area. About 50 sets of a large gate and bridge called Mitsuke were placed at the intersections of the moat and major roads to check people and transportation.

江戸古地図上での外郭範囲~The range of Gaikaku on the old Edo map(licensed by Tateita via Wikimedia Commons)

その完璧な構造にも関わらず、この城は敵からではなく、火災による被害を受けました。もっとも有名なのは1657年に発生した明暦大火です。この大火により、大半の江戸市域、江戸城、そして3代目の天守が焼け落ちました。大火の後、4代目天守の再建工事が開始されましたが、中止となりました。そのための天守台は今でも見ることができます。
Despite the perfect structure, the castle suffered not from enemies, but from fires. The most famous one was the great fire of Meireki in 1657. It burned out most of Edo City, Edo Castle, and the third Tenshu keep. After the fire, the rebuilding of a fourth Tenshu was launched, but canceled. We can now see the prepared Tenshu base for it.

4代目天守台~The base of the forth Tenshu keep(taken by 松波庄九郎 from photoAC)

将軍は本丸御殿に住み、統治を行いましたが、御殿も火災での焼失と再建を繰り返しました。幕末になってから、将軍は焼けた本丸御殿から通常は隠居した将軍が住む西の丸御殿に移らなければなりませんでした。予算がなかったからです。
Shogun lived and governed in Honmaru hall, but the hall was also burned down and restored several times. At the end of the Edo Period, Shogun had to move from the burned Honmaru hall to Nishinomaru hall where retired Shogun usually lived, because of the lack of money.

江戸東京博物館にある本丸と二ノ丸御殿の模型~The miniature model of Honmaru and Ninomaru halls at Edo-Tokyo Museum(licensed by Daderot via Wikimedeia Commons)

明治維新のとき、西日本の方で新政府と幕府の間で戦いが起こりました。結果として、西郷隆盛と勝海舟との会談が行なわれ、江戸城は新政府に平和裏に引き渡されました。
During the Meiji Restoration, a battle between the New Government and Shogunate was fought in eastern Japan. As a result, Edo Castle was handed over to New Government without war after the meeting between Takamori Saigo and Kaishu Katsu.

西郷・勝会談の記念碑~The monument of the meeting between Saigo and Katsu(licensed by 江戸村のとくぞう via Wikimedia Commons)

1869年、江戸は東京と名前を変え、日本の首都となりました。そして明治天皇が将軍と入れ替わりで、古都京都から東京の江戸城西の丸御殿に移りました。そのため、現在西の丸は皇居の一部となっています。
In 1869, Edo was renamed Tokyo which became the capital of Japan, before the Emperor Meiji move from old capital Kyoto to Nishinomaru hall of Edo Castle in Tokyo instead of Shogun. That’s why Nishinomaru is now part of the Imperial Palace.

明治天皇の東京到着を描いた錦絵~The picture that shows the arrival of Emperor Meiji to Tokyo(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「江戸城その2」に続きます。~To be continued in “Edo Castle Part2”