21.江戸城 その4

今回は、江戸城内郭をめぐろうと思いますが、内堀のラインをずっと歩くことにします。江戸城の内堀全周は約8kmもあって、その範囲だけでも日本の城で有数の規模ですが、皇居など、普段入れないところも多いので、基本、内堀沿いを巣進みます。それでも、結構変化に富んでいて、おもしろいと思います。それでは、江戸城内堀紀行として出発しましょう。

特徴、見どころ(江戸城内堀紀行)

Introduction

ここは江戸城平川門の前、平川橋のところです。江戸城跡の中心部を見学したときのゴール地点でした。今回は、江戸城内郭をめぐろうと思いますが、内堀のラインをずっと歩くことにします。江戸城の内堀全周は約8kmもあって、その範囲だけでも日本の城で有数の規模ですが、皇居など、普段入れないところも多いので、基本、内堀沿いを巣進みます。それでも、結構変化に富んでいて、おもしろいと思います。それでは、江戸城内堀紀行として出発しましょう。

平川橋

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

すごいぞ清水門・田安門

平川橋から内堀に沿って進みましょう。竹橋の前を折れて、北の丸に向かいます。

北の丸の航空写真

門が見えてきました。清水門です。この門は、江戸時代初期から存在し、現在残る建物は、明暦の大火の後に再建されたものです。国の重要文化財に指定されています。右側は、家康時代に飲料水確保のため、せき止めて作った牛ヶ淵です。それだけでも長い歴史を感じます。

清水門
清水門土橋から見る牛ヶ淵、武道館の屋根が見えます

土橋から、石橋を渡り歩きます。高麗門をくぐって、枡形に入ります。そして、櫓門から枡形を出ます。出たところも枡形になっています。二重枡形になっているのです。

石橋を渡って高麗門へ
枡形から櫓門をくぐります
櫓門を出たところも枡形になっています

雁木を登って、門の前を見渡しましょう。ここまで通ってきた通路がお見通しです。振り返ると、二重枡形の形もばっちり見えるスポットです。

清水門に至る土橋の通路
振り返ると二重枡形の全体を見渡せます

次は、九段坂を登って、田安門に向かいます。牛ヶ淵を見ると、水が流れ込んでいるのがわかります。田安門に通じる土橋が、右側の千鳥ヶ淵と、左側の牛ヶ淵の水位調整を行う仕切りになっているのです。田安門も、現存する重要文化財の建物です。正面に武道館が見えます。かつては、清水門と並んで、御三卿の屋敷に通じる門でしたが、今は、武道館に行く人たちの入場門になっているのです。

九段坂
牛ヶ淵に水が流れ込んでいます
田安門の土橋と高麗門
正面に武道館が見えます

この門の内側も、しっかり枡形になっています。寛永時代の1636年に建てられ、明暦の大火も生き延びました。実は、江戸城でも最古級の建物なのです。そんな貴重な門が、今もなにげなくですが、しっかり使われているなんて、すごいと思います。

田安門の枡形
田安門と武道館

まるでダム・大河のような内堀

田安門から先の内堀に沿って行きましょう。今度は、千鳥ヶ淵です。桜とボートで有名なところですが、今日はボートだけです。こちらも古い堀で、牛ヶ淵同様、家康時代の飲料水確保が起源と言われています。確かにまるで貯水池のようです。内堀の中では、一番標高が高いところだそうです(約16m)。千鳥ヶ淵沿いには緑道が整備されています。散歩するにももってこいです。

内郭西側の航空写真

千鳥ヶ淵
千鳥ヶ淵緑道

千鳥ヶ淵交差点を越えると、半蔵濠になるのですが、かつては、千鳥ヶ淵と一体だったそうです。堀の向こう側には土塁と石垣が見えます。皇居がある吹上で、土塁の上部を鉢巻石垣、下部を腰巻石垣で強化しています。似たような石垣を彦根城で見ました。どちらも天下普請で築かれた大規模なお城ですので、効率よく築城しようとしたのでしょうか。

半蔵濠
吹上の鉢巻石垣と腰巻石垣
彦根城にも同様の石垣があります

また門が見えてきました。名前はよく知られている半蔵門です。現在は、皇居の入口の一つになっているので近づけませんが、こちらも門の前の土橋がすごいのです。まるでダムのようです。右側の桜田濠が、左にある半蔵濠の下流になっているのです。

半蔵門
ダムのような半蔵門の土橋

桜田濠に沿ってまた進んでいきましょう。歩道も下りになって、快調に歩けます。堀が、ダムから流れる大河のように見えます。元あった自然の谷や川を利用したのでしょうが、すごいと思います。こうやって見てみると、単なる内堀とは思えないスケールの大きさを感じます。起伏のある地形を、丸ごと城にしてしまっています。

まるで大河のような桜田濠
堀の向こう側が吹上、西の丸になります

道はだんだん平らになってきました。ビル群も見えてきました。門に近づいてきましたが、桜田門です、城の中枢部分に戻ってきました。歴史の舞台になったところです。

ビル群が近づいてきました
桜田門に到着です

歴史の舞台、桜田門~西の丸

桜田門(外桜田門)は、江戸初期からあったとされていますが、現在残る建物は、明暦の大火後の1663年頃に再建されたものです。こちらも重要文化財に指定されています。外側から見ると、櫓門の妻部分の装飾がきれいです、「青海波」という模様だそうです。

桜田門
櫓門の妻部分の装飾「青海波」

桜田門外の変は、門の反対側に見える警視庁の辺りで起こったそうです。こちらも「桜田門」といわれます。

警視庁

それでは、門の方に向かいましょう。高麗門から入ります。枡形の定番です。ところが、枡形に入ると、奥に石垣や塀がありません。正面から左側も一部欠けています。これは、背後の西の丸の曲輪(的場曲輪)から攻撃できるようになっているからです。枡形にもいろんな守り方があるのです。

桜田門の高麗門
枡形の内部には向こう側の西の丸からも攻撃できるようになっています

枡形から出るときは、立派な櫓門を通ります。威風堂々としています。次の歴史の舞台に向かいます。

桜田門の櫓門
櫓門を抜けて皇居外苑に入ります

かつての西の丸下、皇居外苑に入りました。この辺は江戸城の初期、日比谷入江だったのです、信じられません。

皇居外苑

場所的には定番になりますが、おなじみの構図です。一般的には「皇居二重橋前」というのでしょうが、江戸城としては、西の丸大手門前ということになります。明治天皇が西の丸に入って以来、皇居になりました。奥に見える櫓は現存する伏見櫓です。絵になる風景です。ちなみに、正面に見えている橋は、現・皇居正門の石橋で、二重橋は、奥の方にある橋をいうそうです。西の丸に入るにも、2本の橋を渡る必要があったということです。

皇居二重橋前(西の丸大手門前)

さらに先に行くと、坂下門外の変で知られる、坂下門も見ることができます。どれも激動の幕末の歴史の舞台だったのです。

坂下門

元の日比谷入江を探る

最後のセクションは、埋め立て地の西の丸下、現在の皇居外苑の周りを歩きましょう。桜田門前に戻って、内堀沿いを進んでいきます。堀は、凱旋濠から日比谷濠に移ります。先ほど歩いた桜田濠などとは全然違ってフラットです。元の地形をよく表しています。

凱旋濠
日比谷濠

西の丸から皇居外苑の航空写真

日比谷交差点のところを曲がります。現代の東京のど真ん中の場所です。今度は大きな道路と交差します。馬場先門跡です。実は日露戦争の頃まで門が残っていたそうですが、戦勝祝賀会のときに群衆が押し寄せ、枡形の中で人が亡くなる事件があり、撤去されて、今の道路になったとのことです。この近くには休憩所もあります。

日比谷交差点
反対側は広大な日比谷濠です
馬場先門跡
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馬場先門跡から、また進んでいきましょう。これらの堀は、日比谷入江を埋め残したものといわれます。入江の大きさも想像できます。また大きな通りがあって、古い交番のような構造物も見えます。通りは大正時代にできた行幸通りで、東京駅正面から続いています。交番のようなものは、皇居の入口の守衛所として使われたそうです。

馬場先濠
行幸通りにある守衛所跡

江戸城の門の跡は通りを越えた先にもあります。古風な橋が見えます。和田倉門跡です。堀を渡る橋は、平川橋とともに、江戸城にある貴重な木橋です(基礎はコンクリート造り)。柱に被さる擬宝珠は、オリジナルだそうです。橋に威厳を加えています。門の建物は、関東大震災のときまで残っていました。それでも、今も枡形の石垣があります。

和田倉門跡の木橋
和田倉門跡の桝形

「和田倉」とは、海に臨んだ蔵という意味のようなので、当初の江戸城では、この辺りまで舟が入って、荷揚げを行っていたのでしょう。堀もここで一区切りしているので、これも入江の名残かもしれません。

内側の端、和田倉濠

そして、近くの大手門の前に来ました。今回はここをゴールとしましょう。前回の現本丸ツアーのスタート地点でしたし、平川門とは反対側にもう一か所ご紹介したい所があるのです。これも定番になるのですが、三の丸辰巳櫓、桔梗門、富士見三重櫓がいっぺんに見れるスポットです。これも有名な景色です。

大手門前
左から富士見三重櫓、桔梗門、三の丸巽櫓

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その2」に戻ります。
「江戸城 その3」に戻ります。
「江戸城 その5」に続きます。

21.江戸城 その1

今回は、メジャー中のメジャーな将軍の城、江戸城です。江戸城といえば、今の皇居のことじゃないかと思われるかもしれませんが、実は相当大きかったのです。他の主要な城郭と比べても、日本最大級と言っていいでしょう。その歴史を追うだけでも大変そうなので、歴史編も2つに分けることにしました。今回は「建設の歴史編」として、太田道潅が最初に築いたと言われる地方城郭から、江戸幕府の権威を象徴し、現代の首都の礎となる最大級の城になるまでの歴史をご説明します。

立地と歴史(建設の歴史編)

Introduction

今回は、メジャー中のメジャーな将軍の城、江戸城です。江戸城といえば、今の皇居のことじゃないかと思われるかもしれませんが、実は相当大きかったのです。東京の中心部がほぼ入ってしまうくらいです。江戸城は大まかには、内堀の範囲の内郭と、外堀の範囲の外郭に分かれるのですが、それぞれ外周が約8km、約16kmもありました。他の主要な城郭と比べても、日本最大級と言っていいでしょう。その歴史を追うだけでも大変そうなので、歴史編も2つに分けることにしました。今回は「建設の歴史編」として、太田道潅が最初に築いたと言われる地方城郭から、江戸幕府の権威を象徴し、現代の首都の礎となる最大級の城になるまでの歴史をご説明します。

皇居になっている江戸城跡

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太田道灌による築城

江戸城の歴史に入る前に、中世の関東の地理的状況を確認したいと思います。中世までの関東地方は、現在と全く異なり、利根川・荒川・渡良瀬川などの大河が、直接江戸湾(現・東京湾)に注いでいました。現在の利根川などの流路は、水運・治水などのために、江戸時代に付け替えられたのです。現在の東京都の低地は、大河の流路または湿地帯になっていて、都市開発や交通には不向きな土地でした。例えば、古代に関東南部を通過する主な交通手段は、三浦半島から房総半島に舟で渡ることでした。

古代の関東平野の水脈、「水土の礎」ホームページより引用


源頼朝が挙兵し、一旦敗れた後に渡ったのも房総半島で、そこから盛り返して鎌倉に入る前に、太井(ふとい)、隅田の両河を渡ったという記録があります(下記補足1)。そのとき帰参した豪族の一人に江戸重長がいて、彼ら一族の館は、後の江戸城の辺りにあったという説があります。関東時代の戦国時代の幕開けとなった享徳の乱(1455年・享徳3年~)では、上杉氏勢・関東公方勢の境界線は利根川でした。その上杉氏(扇谷)の家宰(筆頭家老)だった太田道潅が、前線の重要拠点として築いたのが江戸城だったのです。それでは、公方側の重要拠点はどこだったかというと、国府台から関宿を結ぶラインでした。この辺りは丘陵地帯で、東北方面にも通じていたので、各戦国大名がその確保のために戦いました。北条氏と里見氏が戦った国府台合戦が有名です。

(補足1)
治承四年(1180)十月小二日辛巳。武衛は常胤、廣常等之舟檝于相乘り、太井、隅田兩河を濟る。淸兵三万餘騎に及び武藏國に赴く。豊嶋權守淸元、葛西三郎淸重等は最前に參上す。又、足立右馬允遠元は兼日命を受くるに依て、御迎の爲に參向すと云々。今日、武衛の御乳母で故八田武者宗綱の息女〔小山下野大掾政光の妻で寒河尼と号す〕鍾愛の末子を相具し、隅田宿に參向す。則ち御前に召し往時を談ぜ令め給ふ。彼の子息を以て、眤近の奉公を致さ令む可し之由を望み申す。仍て之を召し出し自ら首服を加へ給ひ、御烏帽子を取り之を授け給ふ。小山七郎宗朝と号す〔後に朝光と改む〕今年十四歳也と云々。(吾妻鏡)

太田道灌肖像画、大慈寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

次に、江戸城周辺がどうだったかというと、これも現在と全然違っていました。後の城の中心地は、武蔵野台地の東端に当たりましたが、そこから江戸前島という小半島が突き出ていました。そしてその間には、日比谷入江(海)が入り込んでいました。現在の皇居外苑や日比谷公園のあたりです。そして、ここにも平川という川が直接流れ込んでいました。「江戸」という地名も、「江(入江)」の「戸(入口)」という説があり、この地形を反映しているのかもしれません。

江戸時代初期の江戸瑞定地図、国土交通省ホームページより引用

太田道潅がこの地に江戸城を築いたのは1457年(康正3年)とされていますが、このときの詳細はわかっていません。自然の要害である台地上の、江戸時代の本丸周辺(現在の皇居東御苑)に築かれたと推定されています。また、城を訪れた禅僧たちが残した詩からある程度様子をうかがい知ることができます。(「梅花無尽蔵」「寄題江戸城静勝軒詩序」など)それらによると、「子城(しじょう、本丸に相当)」「中城(ちゅうじょう)」「外城(がいじょう)」という曲輪があり、周りを切岸・(土)塁・水堀に囲まれていました。内部には、道灌の居館「静勝軒」とその背後に「閣」がありました。佐倉城の銅櫓は、この静勝軒を移築したものと伝わりますが、真実かどうか現存していないので何とも言えません。道潅が居館からの景色を詠った歌として「我が庵は、松原つづき海近く 富士の高嶺を軒場にぞ見る」というのが残っています。江戸城本丸東側には、道潅が梅の木を植えたことにちなむと言われる「梅林坂」や「汐見坂」がありますので、この辺からの景色だったかもしれません。

佐倉城銅櫓の古写真、現地説明パネルより
現在の汐見坂からの景色

また、城の東側には川が流れ、南の海に注ぎ、河口には橋がかかっていたそうです。その橋の付近には船が集まり、市が形成されていました。平川や、日比谷入江周辺のことだと思われます。城はやがて、関東地方の覇者となる北条氏の支城になりますが、基本的にこの姿が継承されたと考えられます。

徳川家康の「江戸御打入り」

1590年(天正18年)の小田原合戦の結果、徳川家康が関東地方に移封、そして本拠地として江戸城を選びます。小田原城に籠っていた北条氏が降伏したのが天正18年7月5日、家康の江戸入府は8月1日(八朔)と言われますが(公式日か)、7月下旬頃には一旦入城していました。家康は、旧領国(東海)に帰ることなく、小田原の陣から直接江戸に向かったのです。家康の新領国には、小田原も鎌倉もあるのに、なぜ江戸?ということですが、選んだ人から理由まで諸説あります。
・選んだ人(豊臣秀吉)
 景勝の地である(「徳川実紀」)
 家康を関東・東北の押さえとするため
 最強の大名、家康を中央から遠ざけるため(一般的?)
・選んだ人(徳川家康)
 水運の利点を考慮(「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」幕府編纂)
 富士山が見えるから(足利健亮氏)
 朝鮮出兵の負担を逃れるため
最近は、秀吉と家康が合議の上決めたという説もありますが、後から見れば大英断だったと言えるでしょう。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また、家康入府時の江戸や江戸城の状態についても、北条時代にも開発が続いていたとも、さびれて寒村状態になっていたとも言われますが(下記補足2)、当時豊臣政権下では最大の大名となった家康の本拠地として不足だったのは確かでしょう。

(補足2)(城には)二の丸、三の丸、外郭にある家までそのまま残っていた。(中略)だが、ことのほか古い家屋だったため、本多佐渡守(さどのかみ / 正信)が『これは見苦しい』と言上したところ、(家康は)笑って家づくりにはかまわず、本丸と二の丸の間の堀を埋めて、城の普請を急いだ(「落穂集(おちぼしゆう)追加」)

そんな家康が、その時優先したのは、城の拡張ではなく、江戸・領国のインフラの整備でした。当時は天下人ではないので、大規模築城のために他の大名や技術者集団を動員できなかった事情もあったでしょう。家康はまず、江戸前島を横断する運河として「道三堀」を開削させました(1590年~)。続いて、行徳(現・千葉県)と結ぶ人工河川・小名木川を通しました。これは、塩を確保するためとされますが、それ以外にも、国府台から関宿につながる丘陵地帯を軍事的に掌握するためだったとの見解も出されています。関宿は、やがて利根川を銚子の方に付け替える大事業の重要地点にもなります。この時代からその構想があり、第一歩(1594年の会の川の締め切り)が始まったという見解があります。一方、水害対策の一環だったという意見もあります。

現在は大手町のオフィス街になっている道三堀跡

城の近くでは、飲料水の確保が重要な課題でした。江戸城は海辺に近く、質量ともに不足していたのです。そこで、城の西側の谷筋の湧水や小河川の水をせきとめ、「千鳥ヶ淵」「牛ヶ淵」を作りました(1592年頃~)。これが城の内堀の原型になります。それと並行して、城の曲輪としては、本丸に加えて、家康の隠居地ということで西の丸を増築しました。

千鳥ヶ淵

天下普請による城拡張

家康は、関ヶ原の戦いで勝利し、1603年(慶長8年)に征夷大将軍になると「天下人」として各大名を動員できるようになります。この動員により行われた大規模な築城などの工事を「天下普請」といいます。その対象は将軍の居城・江戸城も含まれました。江戸城の拡張が本格化するのです。

翌年(1604年)家康は、西国の外様大名などに、石垣築造のための石材の調達(約6万個相当)、それを運搬するための石船(3000艘)の建造を命じました。幕府も建造費として支出(金1192枚5両)しましたが、実態として大名たちの負担は大変なものでした。石1個は「百人持之石」で約4トンもあり、舟1艘で2個ずつ運べたそうです。運搬だけでも困難で、慶長11年5月26日には大風のため、鍋島家の120艘、加藤(喜明)家の46艘、黒田家の30艘が沈没したとの記録があります。
(判明している内訳)
・浅野幸長(和歌山藩) 385艘
・島津忠恒(薩摩藩) 300像
・黒田長政(福岡藩) 150艘
・尼崎又次郎(堺の豪商) 100艘

伊豆半島に残されている江戸築城石(licensed by GuchuanYanyi via Wikimedia Commons)

江戸城の第一次天下普請は、1606年(慶長11年)から翌年にかけて本格的に行われました。それとともに、大名屋敷などの敷地確保のため、日比谷入江が埋められていきました。残土処理、城を脅かす軍船の侵入を防ぐためでもありました。城については、本丸の強化が中心で、周りは石垣で固められ、天守台・天守(初代)・御殿などが建設されました。最近の研究(「江戸始図」の発見による)では、本丸の南側には5連続の枡形が備えられてたとされています。その他、二の丸・北の丸・西の丸(継続)の工事が行われました。また、日比谷入江に代わる運搬経路として、外堀が新設されました。付け替えられた平川(日本橋川)の延長線上に、江戸前島の尾根をなぞって掘られました。

かつて日比谷入江だった皇居外苑
本丸石垣
日本橋、この下を流れる日本橋川も人工の運河です

江戸城の天下普請は一段落しますが、他の城の天下普請はひたすら続きます。まだ健在であった大坂城の豊臣家に対する包囲網を形成するためと、豊臣に味方するかもしれない西国の外様大名の力を削ぐためです。主な天下普請を挙げてみます。
彦根城(1603~1606年)
篠山城(1603~1604年)
名古屋城(1610年~)
駿府城(1606~1611年)
・他に亀山城、膳所城など

彦根城
篠山城
駿府城
名古屋城

そうするうちに、江戸城第二次天下普請も始まりました(1611年、慶長16年)。このときは西の丸の堀と石垣の工事が中心でした。堀普請は東国大名、石垣は西国大名が中心でした。一旦中断しますが大坂包囲網が完成すると再開され(1614年)、本丸・二の丸・西の丸の強化、そして、以前日比谷入江だった西の丸下でも石垣工事が行われました。工事が行われた堀は、入江を埋め残したものと言われます。その普請の最中、大坂冬の陣が起こり、動員されていた大名たち(34家)は、そのまま徳川方として、戦に動員されることになったのです。つまりこの頃の江戸城天下普請は、必ずしもそれを最優先させていたわけではなく、大名をコントロールする政策の一環として行われていたと言えるでしょう。

西の丸の内堀(桜田濠)
西の丸下堀

日本一の城の完成

1615年(慶長20年)、幕府は豊臣氏を亡ぼしますが、まだまだ天下普請は続きました(下記は主なもの)。徳川の世を盤石にするための措置でした。なお、この頃から外様大名だけでなく、親藩や譜代大名も動員されるようになりました。天下普請の目的が徐々に変わってきたということでしょう。これらに比べると、まだ江戸城は控えめな状況だったのかもしれません。
・徳川家康逝去に伴う日光東照宮造営(1617年、このときの社殿は後に、世良田東照宮として移築)
明石城築城(1619年)
福山城築城(1619年~)
大坂城再建(1620年~)
・他に尼崎城、高槻城修築、利根川東遷事業など

世良田東照宮
明石城
福山城
現・大阪城

江戸城の天下普請は、家康の跡を継いだ徳川秀忠により1620年(元和6年)に本格的に再開されました。このときは、伊達政宗・上杉景勝など主に東北地方の大名が動員されました。内容としては、主に内郭の北側の石垣や枡形門が整備されました。(清水門など、清水門の現存建物は1658年の再建)。1623年(元和9年)には、秀忠のためとも言えるような2代目天守も完成しました。これに合わせて本丸御殿も拡張されました。これをもって内郭部分が完成したとされています。また、外郭の整備も始まり、神田川が開削されました。伊達政宗の仙台藩が担当した部分は「仙台堀」と呼ばれています。直接的には平川の源流を、隅田川に放流されるためでした。

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
清水門

今に残る内郭部分の航空写真

仙台堀

また、秀忠隠居後になりますが(大御所として実権)、1628年(寛永5年)には、その年に発生した地震による被害の修復と、枡形門の増築が行われました。この直後の江戸城の姿がいわゆる「寛永図(武州豊嶋郡江戸庄図)」として残されています。1632年、寛永9年に描かれたとされています。完成した江戸城中心部だけでなく、発展中の江戸の町の様子もわかります。例えば、日本橋・京橋を通る東海道や、以前江戸前島だった陸地の沖が埋め立てられて、広がっています。その間には、水路が張り巡らされています。

「寛永図(武州豊嶋郡江戸庄図)」(東京都立図書館蔵)

1632年(寛永9年)に秀忠が亡くなり、名実ともに権力者になった3代将軍・徳川家光は、1636年(寛永13年)に最大規模の天下普請を江戸城で行いました。合計120家もの大名が動員されました(下記内訳)。外郭、つまり総構を構築し、江戸城全体が完成させるときが来たのです。
・石垣築造組:6組62大名(中国・四国・九州が中心)
・外濠の掘り方工事組:7組58大名(東北・関東・北陸・信濃)

徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

堀は、それまでに神田川が開通していましたので、その続きが掘られました。現在のJR四谷駅近くに跡がある「真田濠」は、この開削に真田信之が加わっていたことにちなみます。外郭の場合、ほとんどが土塁で、石垣は要所に設けられた枡形門に築かれました。現在も地名になっているものがあります。これだけ大きな総構を築いた理由として、城の中心を、当時の大砲の射程外に置くためだったという見解があります。ちょうど幕府が「鎖国政策」に向かっている時期でした。大規模な天下普請を通して、各大名を統制し、幕藩体制を確立するという意味もあったのでしょう。

真田濠跡(上智大学グラウンド)
江戸古地図上の外郭範囲(licensed by Tateita via Wikimedia Commons)

外郭(総構)が完成すると、翌年(1637年・寛永14年)には、空前絶後の新天守(寛永天守)の建設が始まります。次の年までには完成していたようです。これも江戸の城と町を描いた「江戸図屏風」は、家光の治世を顕彰するために作られたと言われています。そうであれば、この姿は、その完成した天守と江戸城ということになります。江戸城の天下普請は、この後、1660年(万治3年)の4代将軍・家綱の時代まで続くのですが、この記事は寛永天守の完成をもって終幕にしたいと思います。

寛永天守模型、皇居東御苑本丸休憩所にて展示
「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)

「江戸城 その2」に続きます。

21.江戸城その3~Edo Castle Part3

この城の中心部は、皇居、庭園や公園になりました。
The center of the castle has become Imperial Palace, gardens or parks.

ビル街を背景に桜田門と桜田濠~Sakurada-mon Gate and Sakurada-bori moat with the background of modern buildings

江戸城は内郭と外郭に分かれていました。内郭は内堀の内側にあって城の中心的機能を果たしていて、本丸、北の丸、西の丸といった主要な曲輪から成っていました。その外周は8km近くです。そこには天守、豪華な御殿があり、多くの櫓や門によって警備されていました。現在、内郭は4つの部分に区切られています。一つずつ見ていきましょう。
Edo castle was divided into Naikaku and Gaikaku. Naikaku was the inside of the inner moat, and consisted of the center portion of the castle including primary enclosures such as Honmaru, Kitanomaru, and Nishinomaru. Its perimeter was nearly 8 km. It had the Tenshu keep, luxurious halls, many turrets and gates for security. Now, Naikaku is separated into four parts. Let’s look at each part one by one.

江戸城内郭の4つの部分~The 4 parts of Edo Castle Naikaku(国土地理院航空写真に加筆)

皇居東御苑~Imperial Palace East Garden

ここは、本丸、二の丸、そして三の丸の各曲輪を由来としています。将軍は長年本丸にあった御殿に住んでいましたが、1863年の火災の後は西の丸に移り、本丸には戻りませんでした。明治維新後、明治天皇もまた西の丸に住み続けました。そのため本丸とその周辺は宮内庁によって使われてきました。そして1968年からは、その多くの部分が庭園として公開されています。
It is derived from the enclosures, Honmaru, Ninonaru and Sannomaru. The Shogun usually lived the main hall at Honmaru for many years. But after the fire in 1863, they moved to Nishinomaru, didn’t returned to Honmaru. After the Meiji Restoration, Emperor Meiji also continued to lived in Nishinomaru. So Honmaru and the area around were used for Imperial Household Agency. Many parts of them have lastly been open to the public as the garden since 1968.

皇居東御苑の航空写真~The aerial photo of Imperial Palace East Garden

・三の丸巽二重櫓:江戸城に現存している4つの櫓のうちの一つです。庭園の外側からは、本丸富士見三重櫓を背景に、素晴らしい姿を眺めることができます。
・Tatsumi two-story turret at Sannomaru: It is one of four remaining turrets in Edo Castle. You can see a great view of the turret with the background of Fujimi three-story turret at Honmaru from outside the garden.

巽二重櫓と富士見三重櫓(背景)~Tatsumi two-story turret with the background of Fujimi three-story turret

・大手門:この門は、江戸城の正門でした。現存するのは一部分で、残りは復元されています。庭園の入り口の一つでもあります。皇宮警察の人たちが荷物チェックをします。この内側が三の丸となります。
・Ote-mon Gate: This gate was the main entrance of the castle. It is partly original and the rest has been restored. It is also one of the entrances of the garden. The Imperial Guards will check your baggage. The inside of the gate is Sannomaru.

大手門~Ote-mon Gate

・大手三の門跡:ここは二の丸の入り口でした。過去には大きな櫓と門の前には内堀がありました。残念なことに全て撤去されてしまいました。
・The ruins of Ote-Sannomon Gate: this was the entrance of Ninomaru enclosure. There were large turrets around and the inner moat in front of the gate in the past. Unfortunately, they have all been demolished.

大手三の門跡~The ruins of Ote-Sannomon Gate
大手三の門の古写真~An old picture of Ote-Sannomon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

・中の門跡:ここは本丸の入り口でした。ここにも建物は残っていませんが、残っている巨大な石垣には驚かれるでしょう。これらの石は、瀬戸内海から運ばれてきたものです。
・The ruins of Nakanomon Gate: this was the entrance of Honmaru enclosure. They also have no buildings, but you will be surprised to see huge remaining stone walls. These stones were brought from Seto Islands Sea area.

中の門跡~The ruins of Nakanomon Gate
中の門の古写真~An old picture of Nakanomon Gate(現場説明版より)

・三つの現存している番所:これらは前述の門の周辺にあります。武士が厳しく訪問者をチェックしていました。その中には忍者もいたそうです。
・The three remaining guard stations: they are around the gates mentioned before. Warriors did security check strictly. Some of them are said to be Ninja.

大手三の門内にある同心番所~The guard station inside Ote-Sannomon Gate
中の門前にある百人番所~The station for 100 guards in front of Nakanomon Gate
中の門内にある大番所~The last guard station inside Nakanomon Gate

・中雀門跡:この門は、本丸御殿に至る最後の門でした。残っている石垣が黒ずんでいるのは1863年の火災による影響のようです。
・The ruins of Chujaku-mon Gate: this gate was the last one that led to Honmaru main hall. Their remaining stone walls look dark that might have been caused by the fire in 1863.

中雀門跡~The ruins of Chujaku-mon Gate
恐らくは火災により傷んだ石垣~The stone walls probably damaged by the fire

・本丸御殿跡:広大な土地に御殿がひしめいていました。ここは今は花と木の庭園になっています。
・The ruins of Honmaru main hall: this spacey area was packed with the hall. They are now used for a garden with flowers and trees.

本丸御殿跡~The ruins of Honmaru main hall
本丸の古写真、1863年の火災後~An old picture of Honmaru enclosure after the fire in 1863(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

・富士見三重櫓:江戸城で唯一現存している三重櫓です。三代目の天守が焼けた後は代用天守として使われました。本丸からはその背面を見物できます。
・Fujimi three-story turret: it is the only remaining three-story turret in Edo Castle. It was used as the alternative Tenshu keep after the third Tenshu was burned down. We can see the back side of it at Hommaru.

富士見三重櫓(背面)~Fujimi three-story turret(the back side)
富士見三重櫓の正面~The front side of Fujimi three-story turret(taken by TECHD from photoAC)

・本丸展望台:ここからは二の丸庭園越しに東京中心地の景色を楽しめます。ここには台所前三重櫓がありました。過去には武士たちが見張りをしていたはずです。
・The viewing platform at Honmaru: You can have a good view of the center of Tokyo looking over Ninomaru Garden. The Daidokoro-mae three-story turret was there. Warriors should be likely looking over for security in the past.

本丸展望台からの眺め~A scene from the viewing platform at Honmaru
展望台を二の丸から見上げる~Looking up the viewing platform from Ninomaru enclosure

・天守台石垣:この城には天守がありました。最初の三人の将軍は、先代の天守に代わる自身の天守を築きました。三代目の天守は特に史上最大と言われる程巨大でした。ところが、1657年の明暦大火で焼け落ちてしまいます。その後四代目の天守再建が始まりますが、中止となりました。現在その四代目用の天守台が残っています。
・The stone walls for Tenshu keep: the castle had the Tenshu keep. The first three Shoguns built their own Tenshu instead of using the previous one. The third Tenshu was especially big which might have been the biggest one in history. However, it was burned down by the great fire of Meireki in 1657. After the fire, the rebuilding of a fourth Tenshu was launched, but canceled. We can now see the prepared Tenshu base for it.

残っている天守台~The remaining Tenshu base
二代目または三代目天守、「江戸図屏風」より、17世紀~The second or third Tenshu, from “View of Edo”, in the 17th century(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

・梅林坂:この城の創始者である太田道灌が梅の木を植え、神社を作った所と言われています。梅林の合間に、より古風な石垣が残ります。
・Bairin (Plum Grove) Slope: it is said that the founder of the castle, Dokan Ota planted plum trees and built a shrine there. We can now see the trees among older looking stone walls.

梅林坂~Bairin (Plum Grove) Slope
古風な石垣~The older looking stone walls

・平川門:ここは城の裏門で、現存しています。この門は、鬼門である東北を向いています。このため、城での罪人はこの門を通して追放されたとのことです。
・Hirakawa-mon Gate: this was the back gate of the castle and remains now. The gate faces the traditional taboo direction – the northeast. For this reason, the offenders in the castle were banished through the gate.

平川門~Hirakawa-mon Gate

皇居外苑~Outer Gardens of the Imperial Palace

ここは「皇居前広場」とも呼ばれています。江戸時代には「西の丸下」と呼ばれており、多くの大名屋敷が建っていました。明治時代に皇室の園地となりましたが、市民にとって親しみのある場所でもありました。皇居がすぐ近くに見えるからです。第二次世界大戦が終わったとき、敗戦を嘆く人たちがここに集まったことで有名です。現在の人たちも似たような状況です。簡単に来れるので、いつも多くの観光客が集まっています。現在ここは一般に公開されています。
It is called “The Palace Plaza” as well. This area was called “Under Nishinomaru” where many halls for lords were in the Edo Period. In the Meiji Era, it was turned into the garden for Imperial Families, but also familiar to citizens because they could see the Imperial Palace closely. At the end of World War II, it became a well known place for people mourning the loss of the war. This idea is similar to people in the present. Many tourists always visit there due to easy access. Now, garden is open to the public.

皇居外苑~The Outer Gardens of the Imperial Palace
終戦時に皇居前広場に集まった人々、1945年8月16付毎日新聞より~The gathering people at the Palace Plaza at the end of the war, in the Argust 16th 1945 edition of the Mainichi Shinbun(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

皇居外苑の航空写真~The aerial photo of The Outer Gardens of the Imperial Palace

・皇居正門石橋と現存する伏見櫓の風景:外苑そのものは広大な広場です。なので多くの観光客は皇居と江戸城建物の景色を愛でています。この取り合わせは一番有名なものです。
・The view of the Palace Stone Bridge and the remaining Fushimi Turret: The garden itself is an extensive square. So many tourists enjoy the views of Imperial Palace and Edo Castle buildings. This is the most popular one.

皇居正門石橋と伏見櫓~The Palace Stone Bridge and Fushimi turret

・桜田門:これは最も有名な江戸城の建物の一つです。1860年に桜田門外の変が起こった所です。幕府大老であった井伊直弼が暗殺され、幕府の権威失墜を招きました。この門は現存しており、重要文化財に指定されています。
・Sakurada-mon Gate: This is one of the most popular buildings of Edo Castle. Because this is where Sakuradamon Incident in 1860 happened. The chief minster of Shogunate, Naosuke Ii was assassinated and it caused Shogunate’s the authority to decreas. The gate remains now and has been designated as a Important Cultural Property.

桜田門~Sakurada-mon Gate

北の丸公園~Kitanomaru Park

北の丸曲輪は、本丸の搦め手を北の方角から守る任務があり、とても重要でした。将軍の親族である清水家と田安家が江戸時代の後期に住んでいました。明治維新後は、近衛師団の兵舎がありました。第二次世界大戦後は公園になり、日本武道館や科学技術館などの施設が置かれています。
Kitanomaru enclosure was very important because it had to guard the rear of Honmaru in the north. The Shogun’s relatives, the Simizu and Tayasu clans lived in the late Edo Period. After the Meiji Restoration, the barracks of the Imperial Guard division were there. After the World War II, it became the park where facilities, like Japan Budokan, Science and Technology Museum, are located.

北の丸公園の航空写真~The aerial photo of Kitanomaru Park

・清水門:清水家の屋敷の門として使われました。とても優れた構造で、重要文化財になっています。この門は、内堀が窪んでいる奥に設置されていて、誰もが長く細い土橋を渡って入らなければなりません。侵入者は堀に沿った塀から反撃されてしまいます。
・Shimizu-mon Gate: It was used as the gate for Shimizu clan’s hall. It has a excellent structure and has become an Important Cultural Property. The gate is set at the back of the curved inner moat. Everyone has to go on a long and narrow earthen bridge to enter. Invaders were countered by defenders on walls along the moat.

清水門~Shimizu Gate
門の内側から見た土橋~The earthen bridge looking from the inside of the gate

この門はまた2つの「桝形」と呼ばれる方形の区画が外と内両方にありました。守備側は背後から敵を攻撃できたのです。実に強靭な防御力です。私が思うにこの門はもっと有名になってしかるべきです。
The gate also has two square shape blocks called “Masugata” both outside and inside. Defenders were able to counter the enemy from the back. The gate is very strongly defensive. By I think it should be more well-known.

外側の「桝形」~The outside “Masugata”
内側の「桝形」~~The inside “Masugata”

・田安門:ここは田安家の門でした。地下鉄から武道館に行く人は皆、この門を通ります。この門もまた重要文化財に指定されています。
・Tayasu-mon Gate: It was the gate of Tayasu clan’s hall. Now, all people from the subway station to Budokan go through the gate. It looks just like the Budokan gate. It has also been designated as a Important Cultural Property.

田安門、向こうは武道館~Tayasu-mon Gate, Budokan is over there

皇居~Imperial Palace

この区域は元々西の丸曲輪と吹上と呼ばれる場所でした。将軍は江戸時代末期に西の丸にある御殿に住んでいました。明治維新のとき、明治天皇はこの御殿に入り、使い続けました。そのため西の丸周辺が皇居になったのです。一般の人は通常皇居には入れませんが、年始や天皇誕生日といった特別な日には一部開放されます。今回は、外側から見ることができる2つの興味ある景色をご紹介します。
This area includes the original Nishinomaru enclosure and a place called Fukiage. The Shogun lived in the hall at Nishinomaru at the end of the Edo Period. During the Meiji Restoration, Emperor Meiji got the hall and continued to use. That’s why Ninomaru around has become Imperial Palace. Visitors can’t usually enter the palace, but it is partly open to people on special days such as New Year Celebration and the Emperor’s birthday. This time, I will show you two of interesting views of the area from outside.

皇居全景、手前は皇居外苑~The overview of Imperial Palace, the front is the Outer Gardens(licensed by Chris73 via Wikimedia Commons)

皇居の航空写真~The aerial photo of Imperial Palace

・千鳥ヶ淵:ここは今は内堀の一部になっていますが、元来は川だったようです。「淵」はこの場合、水流をせき止めて作った沼を意味します。この堀は全国的に桜の名所として知られています。春になると、堀の上にはボートで花見をする人たちで溢れます。
・Chidori-ga-Fuchi moat: it is now a part of the inner moat, but seemed to be originally a river. “Fuchi” means a lake made by damming the water in this case. The moat is known around the whole country for cherry blossoms. A lot of people seeing them are on the boats in the moat in the early spring.

千鳥ヶ淵~Chidori-ga-Fuchi moat

・半蔵門~この名前は、この門を警護していた忍者の頭領、服部半蔵に由来します。外側から門に伸びる土橋はまるでダムのように見えます。実際、この橋は水位を維持するために築かれました。橋の片側の水位は反対側よりかなり高くなっています。
・Hanzo-mon Gate: its name comes from the leader of Ninja, Hanzo Hattori who kept the gate. The earthen bridge from outside to the gate looks just like a dam. Indeed, the bridge was built to hold back the water. You can see the one side of the bridge keep much higher level of the water than the other side.

半蔵門~Hanzo-mon Gate
半蔵門土橋の下流部分~The lower part of Hanzo-mon Gate earthen bridge
桜田濠、半蔵門の下流にあり、まるで大河のようです~Sakurada-bori moat, the lower section of Hanzo-mon Gate, looks just like a large liver

「江戸城その4」に続きます。~To be continued in “Edo Castle Part4”
「江戸城その2」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part2”
「江戸城その1」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part1”

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