127.新府城 その1

謎めいた武田最後の城

立地と歴史

武田勝頼が甲府から移転

新府城は、過去には甲斐国と呼ばれた山梨県の西部、現在の韮崎市にありました。甲斐国は、16世紀後半までの長い間、武田氏によって支配されており、その本拠地は国の中心部の甲府にあった武田氏館でした。武田氏最後の当主となった武田勝頼は、1581年に本拠地を新府城に移す決断をしました。そして1年を置かずに移転したのです。

城の位置

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
武田氏館

この移転にはいくつかの理由がありました。最初に武田の領土が、信濃国(現在の長野県)のような西方に広がったことが挙げられます。新府城はその広がった領土の中心に当たります。次に、領土が広がったことで武田の家臣が多くなり、武田氏館と甲府は家臣達にとって狭小になってしまったこともありました。最後に、勝頼が、織田信長や徳川家康との長篠城や高天神城などにおける戦いに敗れ、西方からの脅威に晒されるようになった事情もありました。勝頼は、信長や家康からの侵攻の可能性に備えるため、より強力な城を必要としたのです。

新府城の位置と信濃国(左)及び甲斐国(右)の範囲

長篠城跡

武田流築城術の集大成

新府城は、西方に伸びる釜無川に沿った、28kmもの長さがある七里岩と呼ばれる長大な崖の上の山上に築かれました。城の東側もまた山の急崖となっていました。城の南側には、大手門と、武田の特徴的な防御システムである大きな馬出しがありました。城の北側には、この城独特の防御システムである出構え(でがまえ)と水堀がありました。搦手門には、二重の門と内側の四角い空間があり、桝形と呼ばれました。本丸、二の丸、三の丸が階段状に設置され、城を守っていました。勝頼の御殿は頂上にあった本丸に築かれました。全般的に見て、この城は全て土造りではありますが、強い防御力を備えていました。

城周辺の起伏地図

新府城の想像図(現地説明板より)

ところが、勝頼はわずか3ヶ月の滞在の後、新府城の西にあった高遠城が信長の侵攻により落城したと聞くと、自ら城に火をかけ、そこから退去してしまいます。1582年3月のことでした。その上に、勝頼はその逃避からわずか8日後、彼の家臣の裏切りにより倒されてしまいます。なぜ勝頼は新府城から引き上げてしまったのでしょうか?

新府城と高遠城の位置関係

高遠城跡

なぜ勝頼は城を捨てたのか

これまでよく言われていた理由は、新府城は未完成だったというのものです。例えば、大手門については発掘をしても建物の跡は見つかっていません。他に指摘されていることは、退避したとき勝頼には女性子どもを含めてもわずか数百人の軍勢しかいなかったというものです。ほとんどの家臣は逃亡してしまっていたのです。踏みとどまった重臣たちは勝頼に他の城に移るよう進言していました。例えば、真田昌幸は上野国(現在の群馬県)にある真田の岩櫃城を勧めていました。勝頼は、最終的に他の家臣からの申し出を受け入れましたが、その家臣に騙されてしまったのです。他の歴史家は、新府城は城というには値せず、大きな館であったというのが妥当とまで言っています。城にしては堀が少なすぎるそうです。その答えを知っているのは勝頼のみでしょう。

真田昌幸像、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
岩櫃城跡

1582年6月の本能寺の変により信長もまた殺されてしまった後は、徳川家康が甲斐国を手に入れるため、再び新府城を本陣として使いました。彼は甲斐国奪取に成功し、統治のために武田氏館を使用します。そして新しい本拠地として甲府城を築き、新府城はいつしか廃城となりました。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
甲府城跡

「新府城その2」に続きます。

22.八王子城 その2

見て回るのに一日かかるボリュームです。

特徴

現在、八王子城跡の一部が国の史跡に指定されています。その部分だけでも154万平方メートルに及びます。城跡全体を見て回るには丸一日かかるかもしれません。城跡の入口は根古屋地区であり、今は住居地域となっています。城山川に沿った道を進んでいきます。そして、もう2つの地区のスタート地点でもあるガイダンス施設に到着します。

城周辺の地図

山麓居館地区

山麓居館地区は最近歴史公園として、調査そして整備されています。復元された大手道を歩き、御殿跡に行くのは簡単です。もとあった大手道は、過去には大手門などいくつもの門により防御されていました。そのうちに復元された曳橋に到着します。この橋は観光用なので、とても立派であり、実際には固定されています。御殿周りの石垣もまた復元されており、とても素晴らしく見えます。実はこの一部分はオリジナルのままなのです。

山麓居館地区の入口
復元された大手道
大手門跡
復元された曳橋
御殿周りの石垣
上記石垣の内、オリジナル部分(現地説明板より)

御殿跡の内部は広大で、空き地となっています。しかし、多くの発掘の成果が展示されています。例えば、主殿の礎石が地面の上に残っています。庭園のための石がいくつか作り直されています。そして、会所の床部分が再現されています。その場にある説明板には、約7万点の様々なものが発掘により見つかったと記載されています。

御殿跡の入口
御殿跡の内部
主殿の礎石
庭園石
会所跡
発掘された品物を示す現地説明板

山上要害地区

時間があれば、山上要害地区も是非訪れてみてください。まさに山城です。山頂に至る正面の山道もまた整備されていますが、ハイキングか登山のようです。ですので、運動靴を履いて、足元に気を付けてください。山道は、山の峰に沿って進み、防衛の必要上設けた金子曲輪などいくつかの曲輪を超えていきます。多くの場所で残っている石垣を見ることができます。

山上要害地区の入口
山道に残る石垣
金子曲輪
山頂に至る急坂

急坂を上り詰めた後、山頂近くの高丸という高地に着きます。そこから山頂までの間に、山裾とともに素晴らしい景色を眺めることができます。すぐに八王子神社、本丸、小宮曲輪、松木曲輪がある山頂エリアに到着します。松木曲輪からの東京都心の景色を楽しんではいかがでしょう。新宿の高層ビル群さえ見えます。

高丸
山裾と共に見える都市景観
八王子神社
本丸
小宮曲輪
松木曲輪
新宿の高層ビル群

詰めの城

もう少し時間があるようでしたら、小堡塁群跡が残る山頂の後方部分(詰の城)に行ってみてはいかがでしょう。後方の峰上の山道を通って行くことができます。ただ、山道は更に険しくなるので十分気を付けてください。最初に山頂と後方の地区の間にある大きく深い空堀が見えます。その後、山道を更に進んでいくと、多くの石が散らばっているのが見えます。不思議な光景ですが、過去にはこの峰がこれらの石により覆われていたのです。そうするうちに大天守と呼ばれる主堡塁に到着します。ここでも無数の石が散らばっています。ここが、城の後方を守るための要だったのです。

大きな空堀
峰上の散らばっている石
主堡塁跡
かつて堡塁を覆っていた石

「八王子城その3」に続きます。
「八王子城その1」に戻ります。

22.八王子城 その1

日本の山城の集大成

立地と歴史

北条氏の主要な支城の一つ

八王子城は、関東地方の現在の東京都西部、八王子市にあった大きな山城です。戦国時代の16世紀後半には北条氏がこの地方の大半を手に入れていました。北条氏は関東地方の南西隅にあった小田原城を本拠地とする一方、領土を維持するためにこの地方に支城網を構築していました。八王子城は、その主な支城の一つでした。

城の位置

この城は、遅くとも1584年までに、八王子城から約10km北東にあった滝山城を置き換える形で、北条氏照によって築かれました。置き換えの理由はいくつかあるのですが、その一つは北条氏がもっと強力な城を築きたいと思ったことです。当時、北条と天下人の豊臣秀吉との緊張が高まっていました。そこで、北条は八王子築城を急ぎ、できる限りの労力と技術をこの城に注ぎ込んだのです。

本丸と中の丸をつなぐ曳橋~The movable bridge between Honmaru and Nakanomaru
滝山城跡

3つのパート

八王子城は3つのパートによって構成されていました。一つ目は、根古屋地区と呼ばれ、城の入口周辺に家臣や職人のための住居がありました。この地区は谷あいを流れていた城山川に沿っていました。

3つのパート(現地にあるジオラマの写真に加筆)

二つ目のパートは、城主の御殿が築かれた山麓居館地区です。この地区も川に沿っていて根古屋地区の後方にありましたが、厳重に防御されていました。訪問者は大手門に入るのに川を渡り、大手道を進み、そして御殿の手前にある曳橋を再び渡らなければなりませんでした。この橋は戦いが起きたとき、外されるようになっていました。御殿の入口はジグザグの通路になっていて、土台は階段状の石垣に覆われていました。御殿はいくつかの建物から成り、公的な建物であった主殿や会所などがありました。発掘により、什器、武器、輸入磁器などの品物が発見されています。

復元または整備された山麓居館地区

最後のパートは山上要害地区といい、戦いが起こったときに使われました。本丸は標高445mの山頂にありました(山麓から約200mの高さ)。その他多くの曲輪が本丸周辺にあり、山の峰々は山麓から頂上までに至る通路のために使われていました。特に、多くの石垣がこれらの曲輪や通路を覆っていました。更には、本丸の手前だけはなく、その背後も小型の堡塁群と石垣に覆われた峰々により厳重に守られていました。山城にこのような構造があるのは大変珍しく、そのため、この城は日本の山城の集大成と言えるのです。

山上要害地区跡

豊臣秀吉軍により一日で落城

ところが、この城は秀吉の手勢によりわずか一日で落城してしまいます。1590年6月23日、少なくとも35,000人の兵士が城を攻撃したのです。一方、守備兵の数は農民や女性を含めてわずか3,000人でした。城主の氏照はそのとき小田原城にいて、ここにはいませんでした。更には、秀吉は配下の兵士に、城を力攻めにし、占領することを命じました。なりふり構わぬ攻撃を3,000人で防ぐには、この城は大きすぎたのです。城が落ちる前、多くの女性が川の滝つぼに自ら身を投げたという悲しい話も伝わっています。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
御主殿の滝 (licensed by じゃんもどき via Wikimedia Commons)

「八王子城その2」に続きます。