19.川越城 その1

川越城は、関東地方の中央部、現在の埼玉県川越市にあった城でした。旧城下町は蔵造りの街並みとしてよく知られ、「小江戸」とも呼ばれて、多くの観光客を引きつけています。城と城下町は、将軍の都・江戸(現在の東京)と深い関わりを持ちながら発展してきました。

立地と歴史

川越城は、関東地方の中央部、現在の埼玉県川越市にあった城でした。川越市は蔵造りの街並みとしてよく知られ、「小江戸」とも呼ばれて、多くの観光客を引きつけています。実は蔵造りのほとんどは、江戸時代ではなく、明治時代の1893年の川越大火の後に再建されたものです。しかし、市街地そのものは川越城の城下町に由来しています。また、城と城下町は、将軍の都・江戸(現在の東京)と深い関わりを持ちながら発展してきました。

川越市の範囲と城の位置

蔵造りの元祖、大沢家の住宅(重要文化財)、川越大火で焼け残り蔵造りの街の先駆けとなりました
街のシンボル、時の鐘

太田道灌が築城

川越地域は、北と東西の三方を、蛇行した入間川に囲まれています。そのため、川越の名前の由来は、「川」を「越」えて行かなければならない場所である、とされています。最初にこの地域を治めたのは、12世紀から14世紀まで入間川西岸(蛇行した川の外側)に住み着いた河越氏であると言われています。河越氏の館があった場所は、後の川越城のところではありませんでした。川越城を最初に築いたのは、扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏の重臣であった太田道灌で、1457年のことでした。親族の山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏とともに、1455年から足利氏と戦っている最中でした。両軍は、関東地方最大の大河・利根川をはさんで対峙していました。上杉側は利根川の西岸に陣取っていたため、川の後方に新しい城をいくつも築く必要があったのです。川越城は、そのための主要な3つの城の一つで、他は江戸城と岩槻城でした。

城周辺の地図

河越氏館跡
太田道灌座像(複製)、川越市立博物館にて展示
「江戸図屏風」左隻部分、17世紀、国立歴史民俗博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

川越夜戦の舞台

川越城はやがて扇谷上杉氏の本拠地となりました。16世紀の初め頃、山内上杉氏との間で内部抗争が起こったとき、この城は戦いの最前線となりました。山内上杉氏が、入間川を隔てた、河越氏の元館だったところを陣屋として再利用していたからです。この内部抗争の間、北条氏が関東地方に侵攻し、ついには1537年に川越城を占領します。両上杉氏はようやく危機に気づき、講和を結んで城を取り返そうとしました。1545年10月になって、北条綱成(ほうじょうつななり)が守る川越城を、大軍をもって包囲しました。

山内上杉氏が河越氏館に堀を築いた跡

その当時は城の規模は小さく、土造りの曲輪がいくつか、武蔵野台地の端に築かれているだけでした。しかし城は、自然の要害として入間川周辺の沼沢地に三方(南北と東)を囲まれていました。残りの一方(西)と城の周辺には、人工の堀切や堀が築かれていたと考えられています。1546年の4月、北条氏の当主、北条氏康(ほうじょううじやす)が城を救援にやってきました。彼は上杉軍に対し、城はもうすぐ降伏するから城兵を助けてやってほしいと懇願し、油断させました。4月20日、氏康は上杉軍に夜襲をかけ、これが川越夜戦と呼ばれた戦いです。城の中心部からわずか800mのところ、東明寺(とうみょうじ)の辺りで激戦が繰り広げられました。この戦いにより、関東地方での北条氏の覇権が確立し、上杉氏は没落しました。

城周辺の起伏地図、新河岸川に囲まれた微高地が武蔵野台地

城跡東方にある伊佐沼、城の周りもこのようであったと思われます
現在の東明寺
北条氏康肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

徳川将軍家の逗留地

関東地方は16世紀の終わりには徳川氏の領地となり、1603年には徳川幕府が設立されました。その際、江戸城が将軍の本拠地となったため、川越城は江戸城の北の守りを固める存在となりました。そして、将軍の信頼が厚い酒井氏が城主となったのです。それ以外にも、初代将軍・家康や3代将軍・家光は、狩りに出たときには度々川越城に逗留しました。将軍と川越の関係を表わす興味深いエピソードがあります。同じく将軍に信頼された天海僧正が、1599年に川越の喜多院を再興しました。ところが、1638年の大火により焼失してしまいます。それを聞いた時の将軍・家光は、直ちに喜多院を復興するよう命じたのです。それだけではなく、彼自身が江戸城の建物を提供し、その中には家光誕生の間や、乳母の春日局の化粧の間が含まれていました。この建物は喜多院に現存しています。

「江戸図屏風」に描かれた川越城本丸、中にある建物が将軍が泊った宿泊所とされています、出典:国立歴史民俗博物館
徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
喜多院(多宝塔)
喜多院に残る旧江戸城御殿の建物

江戸の防衛拠点、衛星都市として繁栄

川越城と周辺地域は、川越藩として何人もの譜代大名によって引き継がれました。その中には老中として政権中枢で活躍する人もいました。そのうちの一人が松平信綱で、彼は城の拡充も行いました。新しい曲輪や櫓・門を築くことで城の範囲を倍にしました。しかし城は従来と同じように基本的には土造りで、天守もありませんでした。館の集合体のような姿をしていたようです。敵の侵入を防ぐ手段としては、他の城のような高石垣や櫓を使う代わりに、土塁・土塀・水堀によって複雑な通路を形作りました。また、川越街道や水路の新河岸川とともに、農地が開発され、城下町も整備されました。産業が発展し、素麺、絹織物、そして今でも有名な川越芋などの名産品が、その頃既に世界有数の都市となっていた江戸に提供されました。その結果、城下町は大いに栄えました。

拡張された後の川越城の模型、向こう側に見えるのが喜多院、川越市立博物館にて展示
現代も名産品である川越いも

城の中心は、二の丸にあった御殿でした。本丸には将軍の宿泊所があったからです。しかし将軍が来なくなると、いつしかなくなっていました。1846年に二の丸御殿が燃えてしまうと、川越藩は本丸に御殿を再建することを決めました。その当時は西洋船が日本近海に出没していて、川越藩はその脅威から江戸湾を守るための警備を担当していました。そのため藩財政は大いに逼迫していたのですが、御殿は領民による増税負担や寄付もあって1848年に完成しました。

「江戸図屛風」に描かれた川越城二の丸、出典:国立歴史民俗博物館
現存する本丸御殿

「川越城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

18.鉢形城 その1

鉢形城は、現在の埼玉県北部、寄居町にあった城です。この城は、関東時代における戦国時代のちょうど始まりと終わりのときに表舞台に立ちました

立地と歴史

鉢形城は、現在の埼玉県北部、寄居町にあった城です。この城は、関東時代における戦国時代のちょうど始まりと終わりのときに表舞台に立ちました。

城の位置

関東地方の戦国時代の幕開け

関東地方は、1455に起こった享徳の乱によって動乱の戦国時代に突入しました。関東公方の足利氏と、関東管領の上杉氏が対立し、関東一の大河の利根川をはさんで対峙したのです。上杉氏は利根川西岸に五十子(いかっこ)陣を建設し、20年以上もそこに滞陣しました。上杉氏は実際には山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に分かれていました。それぞれに家宰がいて、配下の武士たちの処遇や懸案の処理を行っていました。山内家の家宰は長尾氏で、扇谷家の方は太田氏が務めていました。家宰の一人であった長尾景信(かげのぶ)が1473年に亡くなると、主君の山内顕定(あきさだ)は弟の忠景(ただかげ)に跡を継がせました。

五十子陣跡周辺
五十子陣があった頃の関東地方の勢力図、現地説明板より

戦国の風雲児、長尾景春が築城

この決定は妥当なものでした。忠景は一族の中でも年長で経験豊富な人物とみなされていたからです。ところが、景信の息子、景春(かげはる)はそうは考えませんでした。家宰の地位は、彼の祖父から父へと引き継がれていたからです。景春は五十子陣を離れ、1475年に鉢形城を築き、翌1476年には反乱を起こしました。鉢形城は、関東のもう一つの大河、荒川と、深沢川との合流地点にある高い崖の上に築かれました。その場所は半島のように突き出た自然の要害だったのです。初期の城の詳細はよくわかっていませんが、景春にとってそこから五十子陣を攻撃するのは容易だったはずです。陣の南側の城に面する方角には何の防御もなかったからです。新体制に不安を感じた多くの配下の武士たちが景春側につき、1477年についに陣は崩壊しました。

長尾氏の家紋、九曜巴 (licensed by WTCA via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図

荒川と城があった崖地帯
深沢川

景春が実際に何を求めて事を起こしたのかは不明ですが、彼は味方とともに多くの領地を得ようとし、敵対していた足利氏とも講和しました。景春は優れた武将でしたが、扇谷家の家宰、太田道灌は更に上手でした。道灌は、江戸時代に政治の中心地となり、現在は皇居となっている江戸城を最初に築いたことで知られていますが、彼自身も優れた軍略家かつ政治家でした。彼は、小机城など景春方の城を一つ一つ落としていき、足利氏とも一時的な講和に持ち込むことに成功しました。そのため、景春は追い詰められ、本拠地の鉢形城に戻ることになります。1478年、道灌は城を攻め、ついには落城に追い込み、景春はそこから逃亡しました。道灌はこの活躍により関東で最強の武将となりましたが、1485年に主君である扇谷定正に殺されてしまいます。道灌の権勢を恐れた結果でした。関東地方は再び動乱状態となり、景春は傭兵隊長として主筋である山内家と生涯戦い続けました。最後には北条氏の創始者、伊勢宗瑞(北条早雲)の食客に落ち着き、1514年に亡くなりました。

太田道灌肖像画、大慈寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸城跡(現在の皇居)
小机城跡
北条早雲肖像画の複製、小田原城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

北条氏の支城となる

鉢形城はしばらくの間、山内家によって使われましたが、一旦は廃城となったようです。16世紀になると、山内・扇谷両家による上杉氏の勢力は衰え、代わりに北条氏が関東地方に侵攻してきます。北条氏は相模国(現在の神奈川県)の小田原城を本拠としていましたが、関東地方を統治するために重要な支城を定め、それぞれに親族を送り込みました。鉢形城は、北条の領地の北端に位置していたため、支城の一つに選ばれました。そして、北条氏邦が1568年に城主となりますが、その維持には苦労しました。例えば北条氏が、山内家の後継者で最強の戦国大名の一人とされた上杉謙信と講和を結ぶときは、氏邦は交渉役となりました。ところが、その講和が破綻すると、謙信は鉢形城を攻撃し、城下町に火をかけ、そして去っていったのです。

北条氏の家紋、北条鱗 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
小田原城
上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最後の城主、北条氏邦

このような厳しい状況に対処するため、氏邦は城を大いに改修しました。この城は当初から自然の要害で、東西と北の三方を2本の川に挟まれた高い崖の上にありました。主な曲輪として本曲輪、二の曲輪、三の曲輪があり北から南に一直線に並んでいました。そのため、敵は南側の三の曲輪から攻める必要がありました。攻撃を防ぐため、曲輪群は深い空堀によって区切られ、高く分厚い土塁によって囲まれていました。土塁の一部は、まるで石垣のように見える石積みによって支えられていました。曲輪の入口は、門と馬出しのセットにより防御されていました。馬出しとは、門の前に接続された小さな曲輪で、背後の大きな曲輪とは細い通路によってつながっていました。防御と攻撃両方に使える陣地でした。

現地にある鉢形城のジオラマ、北方面から見ています
復元された石積み
復元された馬出し

1590年、天下人の豊臣秀吉がその統一事業を完成するため、北条の領土であった関東地方に攻め込んだとき、鉢形城は突然の最期を迎えました。秀吉は20万人以上の軍勢とともに関東地方に赴き、そのうちの約3万5千人が前田利家に率いられて5月に鉢形城を攻撃しました。氏邦と約3千人の守備兵は約1ヶ月間籠城しました。攻撃側は城を強引に攻めることはせず、代わりに城の大手門の南側、約1km離れた車山から大鉄砲により砲撃したと言われています。氏邦はついに6月に降伏し開城しました。援軍の見込みがなかったか、砲撃による損害が大きかったからでしょうか。城は、北条氏の代わりに関東地方に入った徳川氏に引き継がれますが、やがて戦国時代の終わりには廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
城の外曲輪から見える車山
鉢形城跡

「鉢形城その2」に続きます。

21.江戸城その1~Edo Castle Part1

江戸城は間違いなく日本で最大の城です。なぜなら城が東京そのものになったからです。時々、外国からの旅行者の方は、どこに有名な城や城跡があるのかと尋ねられます。もし、そこが東京の中心地であるなら、もうそこは城の中かもしれません。
Edo Castke was definitely the largest castle in Japan, because it became Tokyo itself. Some foreign tourists ask that where famous Japanese castles and ruins are. They may be standing among castles if they are in the center of Tokyo.

皇居正門石橋と伏見櫓~The Imperial Palace Main Entrance Bridge and Fushimi Turret

立地と歴史~Location and History

東京を含む関東平野には、中世までは大きな湿地帯がありました。この理由から、はるか昔の東海道は西日本から伸びてきて、 海を越えて房総半島に至っていました。利根、渡良瀬、隅田といった大河が直接江戸湾に注いでいたのです
The Kanto Plain including Tokyo had large waterlogged area until the Middle Ages. For this reason, the Tokaido road went from eastern Japan to Boso peninsula over the sea hundreds years ago. Large rivers like Tone, Watarase, and Sumida directly flow into what is now Tokyo Bay.

古代の関東平野の海岸線~The coastline of Kanto Plain in ancient times(licensed by Llhoi2013 via Wikimedia Commons

江戸城は1457年に太田道灌によって最初に築かれました。彼には敵との境界線であった利根川の近くに城を築く必要があったのです。その後この城は、戦国時代の間関東地方の支配者であった北条氏の支城の1つであり続けました。しかし、地理的な制約から武士たちの都とするには不十分でした。
Edo Castle was first built by Dokan Ota in 1457. He needed to build the castle near the border with his enemy, Tone River. After that, the castle had been one of the branch castles of the Hojo clan who were the ruler of Kanto region during the Warring States Period. But the castle still didn’t deserve warrior’s capital because of its geographical features.

太田道灌肖像画、大慈寺蔵~The portrait of Dokan Ota, owned by Daijiji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊臣秀吉は1590年に北条氏を滅ぼし、徳川家康に対し、北条氏に代わり関東地方に転封するよう命じました。秀吉はまた、家康の首府として江戸を指定したと言われています。秀吉は、彼による攻撃を3ヶ月間も耐えた北条氏の首府、小田原に家康が居座るのを恐れたからといいます。
Hideyoshi Toyotomi defeated Hojo clan in 1590, and ordered Ieyasu Tokugawa to move to Kanto region instead of Hojo. It is said that he also designated Edo as Ieyasu’s capital because he feared Ieyasu would settle at Hojo’s capital Odawara which could withstand Toyotomi’s attack for three months.

豊臣秀吉肖像画部分、加納光信筆、高台寺蔵~part of the Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, owned by Kodaiji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康は江戸に到着した直後から、江戸城への驚くべき大改造を開始しました。これは、日本人による湾岸地域での都市作りの初めての試みと言われています。
Immediately after Ieyasu arrived at Edo, he started an incredible renovation of Edo Castle. It is said that it was the first attempt for Japanese people to build a city on a waterfront area.

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵~The Portrait of Ieyasu Tokugawa, attributed to Tanyu Kano, owned by Osaka Castle Museum(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

初期の江戸城は、現在の山の手地域にありました。現在の下町地域は、海面下か湿地帯でした。そして、江戸前島と呼ばれた砂州がありました。また、陸地と砂州の間には日比谷入江が入り込んでいました。
The first Edo Castle was in the present uptown area. The present down town area was below the Sea or waterlogged. There was a sand bank called Edo-Maeto. There was also the Hibiya arm of the sea between the land and the bank.

赤い線は現在の地図に残された江戸前島と日比谷入江の痕跡~The red line shows the remaining trace of Edo-Maetou and Hibiya Arm of the Sea on the present map

徳川家臣団は、水上交通のために江戸前島を横切る運河を掘り、川の流路を付け替えたりしました。彼らはまた、このような湾岸都市であったため、上下水道の設備も整えなければなりませんでした。その結果、江戸は水の都となったのです。
Tokugawa team created a canal across Edo-Maeto and change the route of rivers for water transportation. They also had to build a system for water supply and sewerage on such a waterfront city. As a result, Edo became a city of waterways.

戦前の東京の航空写真、まだ水路がたくさん残っていました~A aerial photo of Tokyo before the World War II, a lot of wateways still remained.

家康が1600年に天下を取った後、彼は全国の諸大名に天下普請と呼ばれる城の拡張工事を命じました。日比谷入江は城の用地拡大と防衛上の必要のため、埋め立てられました。この大規模な工事により、天守を含む多くの建物が作られ、多くの堀が掘られ、石垣が高く積まれました。
After Ieyasu got the power in 1600, he ordered lords of the whole country to improve the castle called Tenka-Bushin. They reclaimed Hibiya arm of the sea to spread the ground for the castle as well as the need for defense. Many buildings including Tenshu keep were built, many moats were dug, and high stone walls were built by the large scale construction.

「江戸図屏風」左隻部分、17世紀、国立歴史民俗博物館蔵~Part of “View of Edo” left screen. pair of six-panel folding screens, in the 17th century, owned by National Museum of Japanese History(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

大名たちは少なくとも6万個もの百人石と呼ばれた4トン石を、伊豆半島から海を越えて江戸まで運ばねばなりませんでした。1603年から1660年まで続いた天下普請は江戸を日本一の大城郭に仕立てたのです。
These lords had to carry at least 60,000 four ton stones called Hyakunin-Ishi from Izu Peninsula to Edo over the sea. Tenka-Bushin between 1603 and 1660 resulted in Edo Castle being the largest castle in Japan.

伊豆半島に残されている江戸築城石~A quarry stone for building Edo Castle left in Izu Peninsula(licensed by GuchuanYanyi via Wikimedia Commons)

江戸城は、内郭と外郭に分かれていました。内郭は内堀の内側で、城の中心部分で、主要な曲輪である本丸、二の丸、西の丸から構成されていました。その外周は8km近くありました。そこには天守、それぞれの曲輪に御殿があり、そして警備のために多くの櫓や門がありました。
Edo castle was divided into Naikaku and Gaikaku. Naikaku was the inside of the inner moat, and consisted of the center portion of the castle including main enclosures Honmaru, Ninomaru, and Nishinomaru. Its perimeter was nearly 8 km. It had the Tenshu keep, halls for each main enclosure, many turrets and gates for security.

今に残る内郭部分の航空写真~The aerial photo of the remaining Naikaku portion

外郭は、外堀に囲まれていた区域で、その外周は約16kmもありました。見附と呼ばれた大型の門と橋のセットが約50ヶ所、主要街道と堀との交差点に置かれ、民衆と交通を監視していました。
Gaikaku was the surrounding area by outer moat whose perimeter was about 16 km, even including the city area. About 50 sets of a large gate and bridge called Mitsuke were placed at the intersections of the moat and major roads to check people and transportation.

江戸古地図上での外郭範囲~The range of Gaikaku on the old Edo map(licensed by Tateita via Wikimedia Commons)

その完璧な構造にも関わらず、この城は敵からではなく、火災による被害を受けました。もっとも有名なのは1657年に発生した明暦大火です。この大火により、大半の江戸市域、江戸城、そして3代目の天守が焼け落ちました。大火の後、4代目天守の再建工事が開始されましたが、中止となりました。そのための天守台は今でも見ることができます。
Despite the perfect structure, the castle suffered not from enemies, but from fires. The most famous one was the great fire of Meireki in 1657. It burned out most of Edo City, Edo Castle, and the third Tenshu keep. After the fire, the rebuilding of a fourth Tenshu was launched, but canceled. We can now see the prepared Tenshu base for it.

4代目天守台~The base of the forth Tenshu keep(taken by 松波庄九郎 from photoAC)

将軍は本丸御殿に住み、統治を行いましたが、御殿も火災での焼失と再建を繰り返しました。幕末になってから、将軍は焼けた本丸御殿から通常は隠居した将軍が住む西の丸御殿に移らなければなりませんでした。予算がなかったからです。
Shogun lived and governed in Honmaru hall, but the hall was also burned down and restored several times. At the end of the Edo Period, Shogun had to move from the burned Honmaru hall to Nishinomaru hall where retired Shogun usually lived, because of the lack of money.

江戸東京博物館にある本丸と二ノ丸御殿の模型~The miniature model of Honmaru and Ninomaru halls at Edo-Tokyo Museum(licensed by Daderot via Wikimedeia Commons)

明治維新のとき、西日本の方で新政府と幕府の間で戦いが起こりました。結果として、西郷隆盛と勝海舟との会談が行なわれ、江戸城は新政府に平和裏に引き渡されました。
During the Meiji Restoration, a battle between the New Government and Shogunate was fought in eastern Japan. As a result, Edo Castle was handed over to New Government without war after the meeting between Takamori Saigo and Kaishu Katsu.

西郷・勝会談の記念碑~The monument of the meeting between Saigo and Katsu(licensed by 江戸村のとくぞう via Wikimedia Commons)

1869年、江戸は東京と名前を変え、日本の首都となりました。そして明治天皇が将軍と入れ替わりで、古都京都から東京の江戸城西の丸御殿に移りました。そのため、現在西の丸は皇居の一部となっています。
In 1869, Edo was renamed Tokyo which became the capital of Japan, before the Emperor Meiji move from old capital Kyoto to Nishinomaru hall of Edo Castle in Tokyo instead of Shogun. That’s why Nishinomaru is now part of the Imperial Palace.

明治天皇の東京到着を描いた錦絵~The picture that shows the arrival of Emperor Meiji to Tokyo(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「江戸城その2」に続きます。~To be continued in “Edo Castle Part2”

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