170.浜田城 その1

長州藩との対決を宿命づけられた城

立地と歴史

長州藩の動向に備え築城

浜田城は、現在の島根県西部にあたる石見国にあった城です。島根県といえば現在では比較的地味な印象を持たれるかもしれませんが、少なくとも戦国時代や江戸時代においては非常に重要な場所でした。それは、世界遺産にもなっている石見銀山があったからです。この銀山は、大内、尼子、毛利といった有力戦国大名の支配を受け、最終的には徳川幕府の直轄となりました。幕府は引き続き銀山を確保しようとしますが、石見国の西となりには毛利氏の長州藩がありました。1600年の関ヶ原の戦いの敗戦により、毛利氏から幕府に銀山が引き渡されたものの、幕府は長州藩からの報復を恐れていたのです。恐らくそのために新しい藩として1600年に津和野藩が、1619年に浜田藩が、銀山と長州の間に作られたのだと思われます。幕府はその2つの藩に長州藩を常時監視することを期待したのです。

城の位置

伊勢国の松坂城城主であった古田重治は、1619年に浜田藩の創設者として石見国への転封を命じられました。彼は新しい城にふさわしい地を探し、最適な場所として浜田港沿いの標高67mの丘を見つけました。実はその当時、新城建設は徳川幕府によって禁じられていましたが、新藩設立時の例外として認められました。築城は1620年に始まり、基礎部分は同年中に仕上がりました。建設完了は1623年のことです。それまでに築城に関する一般的技術はかなり進化していましたが、浜田城のために使われた技術は比較的低いものでした。例えば、他の城では精密に加工された石を使って石垣が積まれましたが、この城ので粗く加工された石を積んで築かれました。浜田城の天守は望楼型でしたが、それは古い形式であると見なされていました。その理由はよくわかっていませんが、城の建設が急がれていたからかもしれず、建設のための職人がその地方からのみ雇われたからかもしれません。

「石州浜田之図」部分、現地説明板より
浜田城中ノ門の現存石垣
浜田城天守の復元CG、現地説明板より

藩主は古田氏から松平氏へ

古田氏は不幸にも、お家騒動や跡継ぎがいないために1648年に改易になってしまいました。その後、松井松平氏(もとは今川氏の配下であった松井氏が、徳川家康に仕え、その貢献により松平姓を名乗ることを許された)が浜田藩と浜田城を長い間治めました(その中間に本多氏が短期間入っています)。ところが、朝鮮の李王朝との密貿易が発覚し、懲罰として他所に転封となってしまいます。その代わりに、越智松平氏(6代将軍の家宣の弟が創始者)がやってきました。江戸時代末期になって、松平武聰(たけあきら)が最後の藩主として養子に入りました。彼は最後の将軍となる徳川慶喜の実弟でもありました。

松平武聰肖像画  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川慶喜写真、1967年以前(禁裏守衛総督時代) (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長州軍に攻められ、浜田藩士が自ら放火し炎上

浜田城にとって最大の出来事が1866年に起こりました。その年に幕府が国中の大名に第二次長州征討を命じました。幕府に反抗した長州藩を武力により討伐しようとしたのです。浜田藩は、両藩を結ぶ浜田口からの攻撃を命ぜられました。しかし、浜田藩とともに幕府を支えるべき津和野藩は中立を保ちました。幕府の力が衰えていることを見据えていたからです。一方、藩主が将軍の親族(その当時の将軍は14代家茂、慶喜は禁裏守衛総督)である浜田藩には選択の余地はありませんでした。ところが戦前の予想に反して、浜田藩と与力の藩の軍勢は、よく訓練された長州藩の徴兵による軍隊に敗れてしまったのです。長州軍は反攻を開始し、浜田城下に迫り降伏の勧告を行いました。

長州軍を指揮した大村益次郎、「近世名士写真 其2」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

藩主の武聰は一時、城に留まり討ち死にする覚悟を固めます。しかし結局は家臣の説得により城から逃れ、美作国(現在の岡山県の一部)にあった飛び地に落ち延びました。長州軍は、浜田城だけでなく、幕府と浜田藩が確保すべきだった石見銀山までを手中に収めました。浜田藩の武士たちが城から退去したときの興味深い逸話があります。彼らは、退去のときに自ら城に火をかけました。無傷で城を敵方に渡すことは、敵に基地として使われることよりもむしろ、彼らにとっては恥辱そのものだったからです。その根拠は以下です。頂上にあった天守は偶然に燃えることなく残り、しばらくは存在していました。しかし浜田の一部の人たちは、今でもその事実を認めようとせず、天守は浜田藩士たちによって燃やされているはずだと言うのです。このことは、当時の城は藩士たちにとって精神的に不可分のものであったことをよく示しています。

浜田城の復元CG、現地説明板より

「浜田城その2」に続きます。

66.津和野城 その1

急峻な山の上にある素晴らしい城

立地と歴史

元寇に備えて吉見氏が築城

津和野町は、中国地方の島根県の山間地にある盆地に位置しています。ここには古い町並みがあり、たびたび山陰(中国地方の北部)の小京都と呼ばれます。更には、町に沿った山の上に津和野城跡があり、より強い印象を与えます。実際、この町は津和野城の城下町を起源としています。

津和野の古い街並み
市街地から見える津和野城跡

この城は最初は1295年に鎌倉幕府から派遣された吉見氏によって築かれました。想定される更なるモンゴル襲来から城周辺の地域を防衛するためです。史実のモンゴル襲来は1281年で終わっていた(弘安の役と呼ばれる2回目の襲来を撃退)のですが、日本の武士たちはまだモンゴル軍が攻めてくるかもしれないと思っていました。そのため、吉見氏は日本海から下がったところにある急峻な山の上に城を築いたのです。吉見氏は結果、この城を地方領主として300年以上も居城としました。戦国時代の1554年、この城は陶(すえ)氏のよって攻められ110日間の籠城戦となりましたが、それでも落城せず、講和となりました。自然の地形を使った全て土造りの城でしたが、それでも十分強力な防御力を備えていたのです。その後、吉見氏は中国地方の覇者となった毛利氏に従いましたが、1600年の関ヶ原の戦いでの敗戦により、城を離れることになってしまいました。

1回目のモンゴル襲来(1274年の文永の役)の様子、「蒙古襲来絵詞」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城の位置

坂崎直盛の栄光と没落

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、坂崎直盛を津和野城に送り、津和野藩を立藩させました。直盛は、家康の敵方であった宇喜多氏出身(当初は宇喜多詮家、うきたあきいえ、と名乗っていました)でしたが、氏族内の内紛により単独で徳川方に加わりました。そして、名前を変えたのです。彼は、切り立った山の上にあった城の主要部に高石垣を築いたり、櫓や天守を建てたりして、近代化かつ防御力の強化を図りました。その当時の他の大名たちの多くは、統治の利便のために平地に(あるいは低山上に)城を築いたり改修したりしました。直盛がそれとは違った判断をした理由は、隣接していた毛利氏との戦いに備えたためであるとか、山麓の盆地上には必要十分なスペースがなかったからなどと言われています。直盛は城下町も整備し、例えば火災防止のため水路を張り巡らせ、蚊の発生を抑えるためその中で鯉を飼わせたりしました。また、楮の木をこの地域に持ち込み栽培させました。これは後に、石州和紙として知られる新しい地場産業の発展に結びつきます。

坂崎直盛肖像画、個人蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石州津和野城図(主要部分)、出典:国立公文書館
山上に残る石垣

一方、直盛は直情的で執拗な性格を持っていました。例えば、出奔した親族(甥の宇喜多左門、直盛の小姓と関係を持ち、その小姓を処刑した家臣を殺害した)が処罰されるまで8年間探索し続けました。それだけでなく、その親族をかくまった富田氏を幕府に訴え出て、そのために富田氏はついには改易となってしまいました(鉱山からの収益を私したことによる大久保長安事件の影響もあったとされます)。彼のこのような性格は、最終的には自分自身に不幸をもたらします。幕府が豊臣秀頼を滅ぼした1615年の大坂夏の陣には、直盛は徳川幕府方として参陣しました。秀頼の妻、千姫はときの将軍、秀忠の娘であり、救助されて、直盛自身が将軍のもとに送り届けました。その翌年、不可思議な事件が発生します。直盛が、千姫が幕府の重臣、本多忠刻(ほんだただとき)と再婚する前夜に千姫を略奪する計画を立てていたというものです。それが発覚したことで幕府の軍勢が直盛の屋敷を包囲し、直盛は切腹して果てました(千姫事件)。

千姫肖像画、弘経寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
時の将軍、徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

なぜ直盛がそんな愚かな行動に出ようとしたのかは全く不明です。幕府の創設者であり、千姫の祖父である徳川家康が、千姫を救出した者をその婿にすると約束したのに、その約束が守られなかったからとも言われます。別の説としては、直盛は千姫よりずっと年上であるので、千姫の次の嫁ぎ先を探すよう頼まれていたが、彼の思う通りにはならなかった(他の候補者を探していたのに裏切られた)ため、彼の自尊心が許さず、その結果全てを失うことになったというものです。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

亀井氏が津和野藩と城を継承

津和野藩は、亀井氏によって継承され、江戸時代末期まで続きました。他の多くの大名たちと同様に、亀井氏は居住と統治のための御殿を山の麓に築きました。山上の城も維持されましたが、それは実に大変なことでした。1685年、天守といくつかの櫓が落雷のため焼失しました。残念ながら天守は再建されませんでした。山上の石垣もその急峻な地形のため時折、地震あるいは自然に崩落しました。その結果、ほとんどの石垣が江戸時代の期間中に修繕されるか再築されましたが、一部の部分は初期の状態で残っています。余談ですが、津和野藩は養老館と呼ばれた藩校を設立し、藩士の教育に努めました。この藩校からは明治時代に日本の近代化に尽くした人物が多く輩出されました。小説家の森鴎外や、啓蒙家で哲学者の西周(にしあまね)などです。

津和野城絵図(明治初期の城の様子)、1874年、現地説明板より
復元された藩校の内部
森鷗外写真、1916年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
西周写真、1931年出版 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「津和野城その2」に続きます。

64.松江城~Matsue Castle

その武骨な天守は国宝となりました。
Its rough, strong Tenshu keep has become a National Treasure.

松江城天守~The Tenshu keep of Matsue Castle

立地と歴史~Location and History

島根県の松江市は、松江城の城下町を由来としています。城の歴史は江戸時代の初期に始まりました。1600年に堀尾忠氏が出雲・隠岐両国(現在の島根根県の一部)の領主として置かれました。
Matsue City in Shimane Prefecture comes from the castle town of Matsue Castle. The history of the castle started at the beginning of the Edo Period. Tadauji Horio was placed as the lord of Izumo and Oki Provinces (part of what is now Shimae Pref.) in 1600.

堀尾忠氏肖像画部分、妙心寺蔵~Part of the portrait of Tadauji Horio, owned by Myoshinji Temple(licensed under Public Domain via Wikipedia Commons)

忠氏は最初は当時最も防御に優れていた山城の一つ、月山富田城に住んでいたのですが、統治や交通の便はよくありませんでした。そこで、彼は本拠地を移すことを決め、父親の吉晴とともに新しい城の建設を開始しました。それが松江城だったのです。
Tadauji first lived in Gassan-Toda Castle which was one of the most protective mountain castles at that time, but it was not convenient for governance and transportation. Then he decided to move his home base and launched to build a new castle with his father, Yoshiharu. That was Matsue Castle.

月山富田城跡~The ruins of Gassan-Toda Castle

松江城は宍道湖の近く、太田川に沿った亀田山という小山の上にありました。城は南方は太田川に面しており、北方は山を削り堀を穿ち、防御を固めました。堀尾は城下に町を作り、それは川をまたいでいました。これにより民衆や産業を支配下に収めました。天守を含む城は、1611年に完成しました。
Matuse Castle was located on a hill called Kamedayama alongside Otagawa River, near Shinji Lake. The castle faced the river in the south, cut the mountain and dug a moat in the north making it very defensive. Horio created the castle town below the castle, across the river. They were able to get people and industries under control. The castle including Tenshu keep was completed by 1611.

城周辺の地図~The normal map around the castle

城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

松江藩と呼ばれたこの地域の領主は京極に、最後は1638年に松平氏に代わりました。松平の統治は200年以上続きます。松江は文化面でも繁栄しました。一例を挙げると、7代目の藩主、松平不昧は有名な茶人でした。彼は茶事に使う名器を調べ上げ、情報を体系化したのです。江戸時代も後半になると、領主は平地の三の丸にある御殿に住んでいました。小高い本丸にある天守は、倉庫として使われていたようです。
The lords of the area called Matsue Domain were changed to Kyogoku, lastly Matsudaira clan by 1638. The governance of Matsudaira lasted for over 200 years. Matsue flourished in culture as well. For example, the seventh lord of the domain, Fumai Matsudaira was a famous master of tea ceremony. He researched noted items for tea ceremony and organized their information. In the late Edo Period, the lords lived in the hall in plain Sannomaru. The Tenshu keep on hilly Honnmaru seemed to be used for a warehouse.

松平不昧肖像画~The portrait of Fumai Matsudaira(licensed under Public Domain via Wikipedia Commons)
出雲国松江城絵図部分、江戸時代~Part of the illustration of Matsue Castle in Izumo Province, in the Edo Period(出典:国立公文書館)

特徴~Features

この城の特徴といえば、やはり天守でしょう。日本の現存12天守の一つです。また、2015年に5つ目の国宝天守にも指定されました。この指定は、この天守が1611年に築かれたと確認されたことによります。それまでは、天守がいつ作られたのかが不明確でした。
The main feature of this castle is the Tenshu. It is one of the 12 remaining Tenshu keeps in Japan. It was also designated as the fifth Tenshu for National Treasure in 2015. This is due to the Tenshu being confirmed built by 1611. It was uncertain if Tenshu was built before then.

天守~The Tenshu keep(taken by よねさん0912 from photoAC)

1611年1月の記載がある木製の祈祷札が松江神社で見つかりました。その形が天守の地下にある木柱に残された、それが設置された跡と一致したのです。祈祷札は1611年の城の落成式のときに使われたに違いありません。
A wooden talisman dated in January 1611 was found at Matsue Shrine. Its shape matches the installation trace left on the wooden column at the basement of Tenshu. The talisman should be used when the completion ceremony of the castle in 1611.

元の位置に収まった祈祷札のレプリカ~The reprica of the talisman on the original position(「松江観光ステーション」websiteより引用)

天守は、長く太い木のような高価な材料からではなく、様々な種類の木材を使って建設されています。それは恐らく堀尾が、城の建設ブームにより良い材料が集められなかったのか、それとも月山富田城の廃材を使ったからなのかもしれません。これらの資材は組み合わされて天守の重さを支え、また分散させています。更には「包板」と呼ばれる資材を長持ちさせる方法も見ることができます。それは、柱を板、鉄輪、かすがいで覆うやり方です。
The Tenshu was constructed using several types of wooden materials, not using valuable ones like a long thick wood. It could be because Horio were not able to collect good materials due to the boom of castles constructing, or they might use waste materials of Gassan-Toda Castle. These materials are combined to support and break up the weight of Tenshu. In addition, you can see the method to maintain the materials called “Tsutsumi-Ita” which is covering columns with lumbers, iron rings and clamps.

「包板」を用いて補修された柱~The columns that were maintained in the way “Tsutsumi-ita”

以上の発見により、松江城の建設方法が後の多くの他の城に引き継がれていたことがわかりました。これが高い評価を受け、松江城の国宝指定につながりました。いずれにせよ、天守の重厚な外観、実用的な内装、そして「牛蒡積み」と呼ばれる独特の天守台の石積みを純粋に見て楽しむのもよいでしょう。
That fact proves the method of building Matue Castle was followed by many other castles later. The high evaluation led to Matue Castle being a National Treasure. Anyway, you can purely enjoy seeing the profound appearance, the practical interior, and the base built using unique stone walls called “Gobo-Zumi” of the Tenshu.

「牛蒡積み」の石垣の上に乗った天守~The Tenshu keep on the stone walls built in the way “Gobo-Zumi”(taken by mahiroPhoto from photoAC)

その後~Later Life

明治維新後、天守以外の全ての建物は撤去され、売られていきました。地元の有志が何とか天守だけは買い戻すことができました。天守は1934年に最初は国の史跡に指定されました。第二次世界大戦後、城周辺の地区は公園として整備されました。国宝に向けた活動のほか、松江市は二の丸など城の建物の復元を進めています。将来的には本丸にあった大手門の復元を計画しています。松江城の全景が街に戻りつつあります。
After the Meiji Restoration, all the buildings except for Tenshu were demolished and sold. Local volunteers somehow manage to get Tenshu back. It was first designated as a National Historic Site in 1934. After World War II, the area around the castle has been developed as Matsue Shiroyama Park. In addition to the campaign for the National Treasure, Matue City has been restoring buildings of the castle like those in Ninomaru. They are planing to restore Main Entrance Gate at Honmaru in the future. The whole view of Matue Castle will be returning to the city.

復元された二の丸~The restored Ninomaru enclosure
大手門跡~The ruins of Main Entrance Gate

私の感想~My Impression

私は、武骨な松江城の天守が好きです。この天守には、姫路城のような城の美しさとは対照的な独特な雰囲気があります。松江城天守が国宝になったと聞いたときはとてもうれしかったです。ところが、姫路城と比べるとまだ人気がありません。それは天守の中にいつでも入れるということを意味します。松江の街もまた、くつろいだ雰囲気があります。是非訪れてみてはいかがでしょう。
I like the rough, strong Tenshu keep of Matsue Castle. It has a unique atmosphere in contrast to the beauty of castles like Himegi. It was a pleasure for me to hear that Matsue Castle Tenshu had become a National Treasure. However, it is still not popular compared with Himeji. That means you can usually enter the inside of Tenshu. Matue town also has a laid-back atmosphere. I recommend you to visit them.

天守からの街の眺め~A city view fron the Tenshu
松江城山公園の入り口~The entrance of Matsue Shiroyama Park

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:山陰自動車道の松江西ICから約10分かかります。公園の周りにいくつか駐車場があります。
JR松江駅からバスで行く場合:レイクラインバスに乗り、大手前バス停で降りてください。
If you want to go there by car: It takes about 10 minutes from the Matsue-Nishi IC on San-in Expressway. There are several parking lots around the park.
If you want to go there by bus from JR Matsue station: Take the Lake Line bus and take off at the Ote-Mae bus stop.

リンク、参考情報~Links and Rererences

松江観光ガイドVISIT MATUE
国宝松江城(Only Japanese)
松江観光ステーション(Only Japanese)
・城の科学、萩原さちこ著、講談社ブルーバックス(Japanese Book)
・よみがえる日本の城6、学研(Japanese Book)