14.水戸城 その3

大手門や隅櫓が復元されているのを見てしまうと、どうしてもこの城の天守としての御三階櫓も復元できないものかと思ってしまいます。

特徴、見どころ

本丸にある唯一の現存建物

二の丸の中央の通りに戻ると、更に本丸の方に行くことができます。その本丸の手前では、もっと深い(22m)別の空堀があって、ちょっとびっくりされるかもしれません。この空堀の底は、鉄道の水郡線の敷地になっています。もちろん空堀は城の時代からあったものです。本丸には、城の唯一の現存建物である薬医門があり、佐竹氏が建てたものだと言われています。もしそれが本当なら、佐竹氏の時代には大手門だったのかもしれません。堀を渡る本城橋を渡ってからは、ビジターは指定された範囲から門を見学することになりますので、注意してください。

本丸周辺の地図、赤破線は杉山坂、青破線は柵町口

本丸手前の大空堀
空堀の底は水郡線の線路として使われています
橋を渡って本丸に向かいます
水戸城唯一の現存建物、薬医門

二の丸、三の丸の他の見どころ

二の丸からは元から2つの裏道があり、今でも通ることができます。北側の杉山坂と南側の柵町(さくまち)口です。両方の道にはそれぞれ、杉山門と柵町坂下門という復元された門があります。南側の道を下って水戸駅の方に戻っていくと、右側には巨大な台地が目に入ってきます。現在では崩落を防ぐためコンクリートパネルで覆われています。過去には左側にこれも大きな千波湖が見えていたはずですが、現在では干拓され、偕楽園周辺に元あったうちの西側部分のみに縮小しています。

復元された杉山門
復元さらた柵町坂下門
巨大な台地の南側

もしお時間があるようでしたら、三の丸の外側の大空堀も見に行ってください。ここは台地の根っこの部分に当たります。この空堀はそのままの状態で残っていて、土橋のみが堀を渡って茨城県庁三の丸庁舎に通じています。ここは過去は重臣の屋敷地や弘道館の一部でした。まとめて言うと、水戸城は三重の巨大な堀により守られていたことになります。

城周辺の航空写真

三の丸外側の大空堀
現在は庁舎入口となっています

その後

明治初期に悲しい出来事があった後でも、水戸城二の丸にあった三階櫓(さんがいろ)は、その素晴らしさから現存20天守の一つとされ、第二次世界大戦までは残っていました。しかし、1945年の水戸空襲により燃えてしまいました。戦後になって弘道館地区は、1952年に国の特別史跡に指定されました。他の土塁、空堀、薬医門といったものは茨城県の史跡に指定されています。水戸市は最近、これまで見てきたように城の建物を復元しています。

本丸薬医門周辺に残る土塁
内側から見た大手門

私の感想

水戸城跡を訪れてみて、改めて強い城というものは、必ずしも石垣を必要としないことがよくわかりました。このことは、過去の戦争だけではなく、2つの空堀が現在でも交通のために使われていることでも証明されています。また、大手門や二の丸角櫓が復元されているのを見てしまうと、どうしてもこの城の天守としての三階櫓も復元できないものかと思ってしまいます。第二次世界大戦の前後で焼けてしまった8つの天守は、水戸城を除いて皆復元されているからです。しかし、その計画はないそうです。

大手橋から見た二の丸の土塁と空堀
御三階櫓については、元あった場所とは違うところに説明版があるだけです

ここに行くには

車で行く場合:北関東自動車道の南水戸ICから約15分かかります。大手門脇に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR水戸駅から歩いて約10分です。
東京から水戸駅まで:東京駅で特急ひたち号に乗ってください。

大手門脇の駐車場

リンク、参考情報

水戸城跡、水戸観光コンベンション協会
・「よみがえる日本の城15」学研
・「シリーズ藩物語 水戸藩/岡村青著」現代書館
・「城を攻める 城を守る/伊東潤著」講談社現代新書
・「徳川斉昭と弘道館/大石学編著」戒光祥出版
・「天狗争乱/吉村昭著」新潮文庫
・「逆説の日本史16 江戸名君編・水戸黄門と朱子学の謎/井沢元彦著」小学館

これで終わります。ありがとうございました。
「水戸城その1」に戻ります。
「水戸城その2」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

14.水戸城 その2

水戸駅から城跡へは、左右の丘の間の大きな谷間を走る道を通っていくことができます。驚いたことにこの谷間は人工的に城の空堀として掘られたものです。

特徴、見どころ

道路となっている二の丸前の空堀

現在、水戸城跡はJR水戸駅のすぐ近くにあるので、とても行きやすくなっています。駅から城跡へは、大まかに2つの行き方があって、一つは駅から見て左側の丘の上にある三の丸に向かって坂を登って行く道を通るか、もう一つは左右の丘の間の大きな谷間を通る道を通るかになるでしょう。驚いたことにこの谷間は人工的に掘られたものです。もし後者の谷間の道を進んでいくと、以前城の空堀の一つだったこの場所のスケールを実感できるでしょう。また、右側の二の丸のどっしりとした土塁の上には、復元された角櫓(すみやぐら)が見えます。そうするうちに、両側の曲輪を渡る大手橋の下に着きます。

城周辺の航空写真、赤破線は水戸駅から空堀を通るルート

谷間を通る道(二の丸と三の丸の間の空堀)
復元された二の丸隅櫓
大手門下

かつて戦いがあった場所

その谷底の両側から、急な階段を通って曲輪の上に登って行くことができます。その高さは約12mあります。実は、この辺りは諸生党と天狗党との2度目の戦いがあった場所なのです。諸生党は大手門を破ろうとしますが失敗しました。そのため、藩校の弘道館に留まりました。天狗党はこれに攻撃を加え、撃破したのです。しかし、その結果として弘道館のほとんどの建物は焼けてしまいました。現在ではその正門とわずかな建物が残り、史跡及び歴史博物館となっています。

急な階段を登っていきます
大手橋の周辺
弘道館正門

復元された大手門

大手門はこの戦いの後にも残っていましたが、明治初期焼けてしまいました。現在目にする大手門は、2020年にちょうど復元されたばかりです。伝統的工法により、元と同じものを作りました。高さ約13m、幅約17mで、とても大きく、城の正面を飾るに相応しい姿です。この門の特徴の一つとして、瓦塀を使っていることがあり、瓦と漆喰を交互に積み重ねています。現在の門ではそれが完璧に復元され、とても美しいです。更には、発掘により見つかったオリジナルの瓦塀の一部を門の左下の窓から見学することができます。

復元された大手門
復元された大手門瓦塀
発掘された瓦塀も見ることができます

学校地区となっている二の丸

二の丸の内部には、かつては御殿、三階櫓(さんがいろ)、彰考館がありましたが、今では学校地区になっています。水戸藩の教育を重視する方針が引き継がれているのかもしれません。二の丸を貫く通りの両側には、白い壁が連なっていて、まるで城の建物が今でもそこにあるように見えます。しかし、ビジターは指定された場所以外は立ち入ることはできません。例えば、丘の北側を流れる那珂川の景色を見たいときは、同じ通路を行ってまた戻ってこなければなりません。その那珂川の景色自体はすばらしく、この川が城の天然の障壁だったことがわかると思います。

二の丸周辺の地図、赤破線は見晴台に至るルート、青破線は二の丸角櫓に至るルート

二の丸中央の通り
北側の見晴台に行くための通路
北側(那珂川)の眺め

似たように、復元された角櫓まで行って内装も見ることができますが、別のもっと長い通路を行き来する必要があります。

角櫓に行くための通路
内側から見た角櫓
角櫓の内部

「水戸城その3」に続きます。
「水戸城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

14.水戸城 その1

水戸城は、現在は茨城県の県庁所在地となっている水戸市にありました。この城は将軍家に次ぐ徳川御三家の一つ、水戸徳川家の本拠地となっていました。しかしこの城は、他の御三家や将軍の本拠地とは随分と違った外観をしていました。

立地と歴史

天然の要害を利用して築かれた城

水戸城は、現在は茨城県の県庁所在地となっている水戸市にありました。この城は将軍家に次ぐ徳川御三家の一つ、水戸徳川家の本拠地となっていました。しかし、この城は他の御三家の本拠地、名古屋城、和歌山城と、将軍がいた江戸城とは随分と違った外観をしていました。

水戸市の範囲と城の位置

水戸城は、中世初期のある時期に地元領主の馬場氏が最初に築いたと言われています。城は、北にある那珂川と南にある千波湖に挟まれた洪積層の台地上に築かれました。このような天然の要害の地は、もともと高い防御力があるために、領主にとってここに城を築くのは必然かつ容易であったと思われます。しかし、この城の初期段階においてはその規模は小さく、台地の端の方に領主の館があった程度だと考えられています。

城周辺の起伏地図

時が経ち、水戸城はより有力な領主である江戸氏や佐竹氏に奪取されました。そして大規模な城に拡張されていきました。佐竹氏は戦国時代の16世紀の時点で、関東地方では最も有力な戦国大名の一つでした。佐竹氏は、台地の東側から西側に向かって、本丸、二の丸、三の丸を一直線に並べ、城の基本的構造を完成させました。これらの曲輪は土造りで空堀によって隔てられていて、これは当時の東日本においては典型的な城づくりの方法でした。ところが佐竹氏は、1602年に徳川幕府の創始者である徳川家康によって、東北地方に転封となってしまいました(その地で久保田城を築城します)。1600年の天下分け目の戦いにおいて家康に味方しなかったからとされています。

久保田城跡、ここも基本的に土造りの城です

徳川御三家の本拠地となる

家康は、水戸城に彼の子息たちを送り込みました(武田信吉や徳川頼宜)。将軍の本拠地、江戸城の北方の重要な防衛拠点となったためです。最終的には家康の末子である頼房が、1609年に水戸藩の初代藩主として水戸城主となりました。それ以来、水戸藩が御三家の一つとして、江戸時代末期まで城とその周辺地を統治しました。水戸城もより整備が進みました。例えば、それまでの本丸、二の丸、三の丸がそれぞれ新たに、下の丸、本丸、二の丸となりました。そして新たに三の丸が西側の方に設置されました。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、徳川ミュージアム蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図

しかし、他の徳川各家が天守や高石垣など卓越した土木建築技術を擁して築いた名古屋城和歌山城江戸城とはちがって、水戸城はまだ土造りのままで、東日本の従来からの技術を使っていました。その理由として考えられるのは、水戸藩の藩主が通常、江戸の将軍の近くの御殿に住んでいたということです。または、幕府の統治が安定してきて、城をこれ以上改修する必要がなかったこともあるでしょう。しかし、もっともあり得そうな理由は水戸城は石垣がなくても十分強力だったということです。

名古屋城
和歌山城
江戸城跡
水戸城跡

尊王攘夷思想を生み出す

時代劇で「水戸黄門」として知られる2代目の藩主、徳川光圀は学芸を振興し、江戸の彰考館において「大日本史」の編纂を始めました。彰考館は後に水戸城の二の丸にも作られました。この活動は面白いことに、水戸藩は朝廷から権力を奪った幕府の親族であるにも関わらず、尊王思想(天皇が正当な権力であるとする思想)を生み出します。

徳川光圀肖像画、加納常信筆、水戸徳川博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
水戸城二の丸の彰考館跡
二の丸展示館にある「大日本史」

江戸時代末期の9代目の藩主、徳川斉昭は城の三の丸に藩校の弘道館を設立し藩士の教育に力を注ぎ、また偕楽園を築き全ての領民に対して開放しました。その当時は西欧の船が日本近海に出没していて、斉昭は幕府の開国方針に反発していました。その結果、水戸藩の尊王思想は多くの他藩の志士たちを全国的な尊王攘夷運動に導いたのです。それは最終的には幕府の支配を覆し、明治維新に至ることになりました。しかし肝心の水戸藩においては、藩士たちは尊王攘夷を支持する天狗党と、幕府を支持する諸生党に分裂し、深刻な対立と悲劇的な結末をもたらしました。

徳川斉昭画、京都大学付属図書館 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
弘道館

水戸城での悲しい同士討ち

水戸城の最終形は、もっとも大きい二の丸が城の中心地となりました。そこには、大手門、御殿(政庁の機能も果たしていました)、彰考館、角櫓、そして三階櫓(さんがいろ)がありました。特に、三階櫓は天守の代替として築かれたものです。この櫓は高さが22mもあり、三階建てとしては随分高いものです。実はその内部は5階建てになっていました。

二の丸展示館にある水戸城の模型(左が三の丸、真ん中が二の丸、右が本丸と下の丸)
三階櫓の古写真 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

天狗党は1864年に、幕府に対して反乱を起こし、海外との貿易を止め、外国人を追放するよう要求しました。天狗党は当初、民衆に略奪暴行を働く者がいて支持を失い、幕府の追討軍や諸生党に追い詰められました。そこから天狗党は西へ向かい、斉昭の息子で後に最後の将軍となる一橋慶喜に彼らの主張を訴えようとしました。しかし、慶喜の決定により拘束され、その多くは処刑されてしまいました。諸生党の面々はこれに乗じ、水戸に残った天狗党の家族をも処刑または弾圧を加えました。ところが、状況は劇的に変わり、1868年に幕府は崩壊し、新政府が設立されました。天狗党の生き残りは水戸城に戻り、今度は諸生党に対する復讐を始めたのです。そこから逃れた諸生党の一部は、天狗党が籠る水戸城を攻撃しましたが、失敗しました。この城の強靭さは、皮肉にもこの城を持つ藩士たちの間で生じた悲劇によって証明されてしまったのです。残っている資料によれば、水戸藩の藩士の数はこの内紛の間に3,449名から892名に減少しました。日本の近代化を主導する人材がこの藩からほぼいなくなってしまったのです。

天狗党の乱を描いた「近世史略 武田耕雲斎 筑波山之圖」、豊原国輝作 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
徳川慶喜写真、1967年以前(一橋慶喜と名乗っていた禁裏守衛総督時代) (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「水戸城その2」に続きます。

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