82.大洲城 その3

大洲の人たちは苦労して天守を復元しました。

その後

明治維新後、大洲城は廃城となり、一時官庁(明治初頭の大洲藩、大洲県など)として使われました。しかしやがて城の敷地は売却され、城の建物は撤去されていきました(天守は1888年に解体)。最終的には4つの櫓だけが残りました。二の丸にある苧綿(おわた)櫓、三の丸にある南隅(みなみすみ)櫓、そして本丸にある2つの櫓です。大洲の人々は城跡が失われるのを恐れ、明治時代に公園とし桃の木を植えました。

現存する二の丸苧綿櫓
現存する三の丸南隅櫓
現存する高欄櫓
桃の木が植えられた頃の本丸の古写真、城内展示より

第二次世界大戦後、大洲の人たちは天守をオリジナルと同じ工法で復元することを考えていました。一方、日本の他の天守は名古屋城のように現代の工法で再建されていました。オリジナルの工法にこだわった理由は、多くの復元のための材料が残っていたからです。図面や天守を修理したときに作った天守雛形、そして天守が解体される前に撮られた鮮明な写真などです。このような事例は日本ではとても稀なことでした。

現代の工法で復元された名古屋城天守
復元の際参考とされた大洲城天守雛形、現地説明板より

しかし、このような天守復元には大きな法律の壁がありました。日本の建築基準法は、13mを超える高さの木造建築物に対してとても厳しい内容となっているのです。大洲城のオリジナルの天守の高さは19mを超えており、そのまま復元するのは不可能でした。ところが1990年代に状況が好転し、白河小峰城掛川城白石城といった他の城の天守や櫓の木造による復元が許可されたのです。大洲城の天守はそれらの中では最も背が高いものでしたが、当局との長い交渉の結果、2004年に天守が元の高さのまま木造で復元されたのです。

木造復元された白河小峰城の御三階櫓
木造復元された掛川城天守
木造復元された白石城天守
木造復元された大洲城天守

私の感想

大洲城の天守は、日本の復元天守の中では一番だと思います。この天守とその脇にある2基の現存櫓が、完璧な調和を保っているからです。それから、この城を川の方から見てみることもお勧めしたいです。河川交通はかつては主要な交通手段の一つでした。よってこの城は、川沿いからの見栄えを意識して設計されたのです。今でも、美しく完璧に復元された天守の外観と櫓とのコラボレーションを眺めることができます。

本丸から見た肱川の流れ
肱川の川岸
川側から見た大洲城天守と高欄櫓

ここに行くには

車で行く場合は、松山自動車道の南大洲ICから約10分かかります。城の近くの市街地にある観光駐車場を利用することができます。
公共交通機関を使う場合は、JR伊予大洲駅から歩いて約25分かかります。
東京か大阪から来られる場合は、飛行機か高速バスを使われることをお勧めします。

リンク、参考情報

大洲城公式サイト
・「大洲城下物語」愛媛県大洲市
・「よみがえる日本の城10」学研
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版
・「週刊名城をゆく34/宇和島城大洲城」小学館

これで終わります。ありがとうございました。
「大洲城その1」に戻ります。
「大洲城その2」に戻ります。

84.高知城 その1

山内氏の独特な城

立地と歴史

高知城前史

高知市の名前は、高知城に由来しており、四国の高知県の県庁所在地です。また高知城は、高知県で最も人気のある観光地です。この城には、大手門、本丸御殿、天守を含む多くの現存建物があります。この城は、大高坂山(おおたかさかやま)という低い山の上に築かれましたが、最初にいつ築かれたかはわかっていません。1588年、現在の高知県にあたる土佐の領主であった長宗我部元親が、岡豊城から、当時大高坂山城と呼ばれた高知城に本拠地を移しました。ところが、彼は大高坂山城にわずか3年滞在した後、浦戸城に再び移ってしまいます。この地域は雨が多い割には水はけが悪かったからと考えられています。

城の位置

長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
岡豊城跡
浦戸城跡

山内一豊による築城

1601年、山内一豊(やまのうちかずとよ)が徳川幕府により、新しい土佐国の領主として抜擢され、土佐藩の初代藩主となりました。彼は、城下町を作るのに十分な広さがあった大高坂山城を再建し、そこを居城としました。城は、石垣や大規模な建物を築くなど、当時としては最新の技術を用いて築かれました。そして、城が完成した後は、高知城と改名されました。山内氏はこの城と土佐の国を、江戸時代を通して統治しました。

高知城前にある山内一豊銅像
土佐国城絵図(高知)部分、江戸時代(出展:国立公文書館)
高知城天守内にある城の模型

高知城の特徴

高知城には興味深い特徴がいくつかありました。第一に、この城には大雨が降っても適切に排水ができるよう、多くの石樋がありました。この仕組みは、日本の城ではとても稀であり、現在城を訪れても見ることができます。

石垣にある石樋

次にこの城の天守は、望楼型というこの城を築いた時期にしては古い形式のものでした。一豊が、土佐国に来る前に住んでいた掛川城の天守に似せて作るよう望んだからだと言われています。このため、現代になって掛川の人たちが掛川城の天守を復元するときには、高知城の現存天守の設計を参考にしました。

復元された掛川城天守 (taken by Oshiro-man from photo AC)
高知城の現存天守

天守を含むほとんどの城の建物は、不幸にも1727年の大火により焼け落ちてしまいます。土佐藩がその大火の後城を再建するときには、天守を新しい形式ではなく、最初のものとほとんど同じように作り、1749年に復興しました。これは恐らく幕府が土佐藩に対して、元の形式による再建しか許さなかったからとも、土佐藩の藩士たちが創始者である一豊が建てたものを慕っていたからとも言われています。この天守はまた、天守台石垣の上には立っておらず、山の上にある本丸御殿に直接つながっていました。この点も、古い城の形式を残していると言われています。

本丸御殿とつながっている天守

この城には防衛のために、建物と自然の地形両方を活用していたという特徴もあります。もし、敵が天守に迫るために城を攻撃した場合、山の中腹周辺に築かれた杉の段と二ノ丸を通り過ぎる必要がありました。更に、敵が二ノ丸に入る前に鉄門(てつもん)を通るときには天守が間近に迫り、その近くにある詰門がまるで天守のへの門にように見えたのです。ところが、この門は単に本丸と二ノ丸をつなぐ渡り櫓だったのです。敵は決してその場所からその櫓を渡ることはできません。これは、城の中心部に敵を寄せ付けないための巧妙な仕掛けでした。

追手門から本丸、天守へのルート(土佐国城絵図に赤字で加筆)
現存する詰門
詰門の前から間近に見える天守

「高知城その2」に続きます。

42.掛川城(Kakegawa Castle)

掛川城天守と二の丸御殿(The Tenshu and Ninomaru Mail Hall of Kakegawa Castle)

Location and History

掛川市は静岡県の中央に位置しています。日本の主要街道である東海道が古代よりこの地を通っています。掛川城は最初は戦国時代の初期に築かれ、すぐに戦国大名にとって重要な城となりました。それ以来、今川氏、武田氏、徳川氏といった戦国大名が、この城を手に入れ周りの地域を支配するために鎬を削りました。Kakegawa City is located in the middle of Shizuoka prefecture. Tokaido, one of the major routes in Japan passes through this city since the Ancient Ages. The Kakegawa Caste was first built in the Civil War Period, and quickly became an important site for warlords. Since then, warlords such as the Imagawa, Takeda, Tokugawa clans battled each other to get the castle and govern the area around it.

掛川城の位置(The location of Kakegawa Castle)


戦国時代末期になって、天下人の豊臣秀吉によって、山内一豊がこの城に移されてきました。一豊は、城の大改修を行い、天守を建築し、合わせて城下町も整備しました。最盛期には、この城は総延長で3450メートルもの水堀に囲まれていました。
At the end of the Civil War Period, Kazutoyo Yamanouchi was transferred to this castle by Hideyoshi Toyotomi, the ruler of the whole country. Yamanouchi renovated the castle including the build of the keep “Tenshu” and the castle town. At its highest point, the castle was surrounded by water moats of 3450m long in total.

遠州掛川城絵図部分、江戸時代(Part of the illustration of Kakegawa Castle in Enshu Province in Edo Period)|出典:国立公文書館

一豊はこの城に10年間居ましたが、今度は土佐国、今の高知県に移されました。彼は再び現在の高知市に高知城を築いたのですが、その天守は「御城築記」という古書によれば、掛川城に似せて作られたといいます。
He stayed at the castle for about 10 years, and was transferred again to Tosa Province, now Kochi prefecture. He also built Kochi castle in now Kochi City and its Tenshu was designed similar to Kakegawa’s design according to an old document called “Oshiro-Chikuki”.

山内一豊肖像画、土佐山内家宝物資料館蔵(The Portrait of Kazutoyo Yamanouchi, ownd by Tosa Yamauchi Family Treasury and Archives)licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

その後、掛川城の城主は何回も変わったのですが、城主たちは江戸時代を通じて城を維持してきました。ところが、1854年に安政地震が発生し、天守を含む城のほとんどの建物が崩壊しました。掛川藩の藩士たちは、天守を再建せず、その代わりに藩庁として二の丸御殿を造営しました。
After that, though the lords of Kakegawa castle ware changed many times, they all kept the castle through the Edo Period. However, the Ansei Great Earthquakes happened in 1854, and most of the castle’s buildings collapsed including Tenshu. Warriors of the Kakegawa domain didn’t rebuilt Tenshu instead of building the Ninomaru main hall for their government office.

二の丸御殿全景(A whole view of Ninomaru Main Hall)licensed by shikabane taro via Wikimedia Commons

Features

現在では、二の丸御殿と天守の両方を見ることができます。二の丸御殿は、日本でわずか4つしか残っていない大名御殿の一つとなります(他には二条、高知、川越)。この御殿が完成した直後に明治維新を迎えてしまい、武士による統治の時代が終わってしまいました。そして御殿は、学校、役場、農協、更には消防署にまで転用されてきました。御殿が史跡として認知されたのは比較的最近で、1980年に重要文化財に指定されました。
Now we can see both of the Ninomaru main hall and the Tenshu. Ninomaru main hall is one of the only four remaining lords’ main halls in Japan. (The others are Nijo, Kochi and Kawagoe.) Immediately after the completion of the hall, the Meiji Restoration had come and the governance of warriors ended then. The hall was turned into a school, a city hall, an agricultural cooperative, and even a fire station. It is relatively recent that the hall was regarded as a historical site, and designated as an important cultural property in 1980.

現存する二の丸御殿と復元天守(The remaining Ninomaru Main Hall and restored Tenshu)

Later Life

一方でこの城は安政地震以来、天守のない状態が長く続きました。その代わりに1907年に日露戦争の戦死者を弔うために、天守台に観音菩薩像が設置されました。掛川市の行政と市民たちは、天守の再建を熱望してきましたが、予算不足のために実現できませんでした。しかし突然状況が変わりました。約30年前にある婦人がこの市に移住してきたのですが、市の方針である「生涯学習都市」に共感し、多額の寄付を申し出ました。これをきっかけに市は、天守をただ再建するだけではなく、それを伝統的な木造建築で復元することを決断しました。
On the other hand, the castle had no Tenshu for a long time since the Ansei Earthquakes. Instead the statue of Kannon Bodhisattva was placed on the ruin of Tenshu base in 1907 to pray for fallen soldiers of the Russo-Japanese War. The city officials and citizens longed to rebuild the Tenshu, but they couldn’t because of a lack of funds. The situation suddenly changed when a woman moved to the city about 30 years ago. She agreed with the city’s policy of “Lifelong Learning City”, and donated a large sum of money. This made the city officials decide to not only rebuild Tenshu but also restore it in traditional wooden style.

復元された掛川城天守(The restored Kakegawa Castle Tenshu)taken by Oshiro-man from photo AC

その復元にはいくつか問題がありました。一つには、天守を描いた絵図はいくつかあったのですが、詳細は不明だったことです。この問題を解決するために、設計者は掛川城と似ているであろう現存している高知城の設計を参考にしました。また、好条件だったのは、天守周辺の地区は史跡に指定されていなかったため、新しい天守を比較的に自由に設計することができました。建築基準に適合するため、石垣を作り直し、基礎構造の強化を行いました。反面、残っていた元の石垣は撤去されてしまいました。
There were some problems about it. One of them was that several drawing pictures of the Tenshu remain, but details are unclear. To solve the problem, the designers use the plan of the remaining Kochi castle Tenshu that should be similar to Kakegawa. In addition, the good news were that they were able to design the new Tenshu comparatively freely, because the area around Tenshu was not designated as a historical site. They were able to both build it to code and remake the stone walls to strengthen the general structure. Whereas, the ruin of original stone wall were removed unfortunately.

現存する高知城天守(The remaining Kochi Castle Tenshu)taken by 眠鯨 from photo AC

これは明治時代以来、最初の木造による天守復元の事例で、1994年に完成しました。この復元により、掛川市にすばらしいシンボルがもたらされ、毎年約10万人の観光客を呼び込んでいます。
This was the first case of the restoration for wooden Tenshu since the Meiji Era with the completion in 1994. The campaign was successful to have the great symbol of the city, and attract around 100,000 tourists into the city every year.

天守遠景(A distant view of Tenshu)

My Impression

1つの場所で天守と大名御殿の両方を見ることができるのは珍しく、その場所は掛川城と高知城のみです。掛川城の天守と二の丸御殿は1枚チケットを買えば両方入れます。天守はまだ新しいですが、大型木造建築の優れた技巧を見ることができます。
It is very rare to see both of a Tenshu and a lord’s main hall at one site. Only Kakegawa and Kochi castles can offer them. You can enter both of Kakegawa Castle’s Tenshu and Ninomaru main hall for one ticket. The Tenshu is still new, but you will see the great technique of a large wooden building.

天守近景(A close view of Tenshu)
天守の内部(An inside view of Tenshu)

二の丸御殿は古くて重要な遺産なのですが、リラックスした雰囲気があります。庭園に面していくつか畳の間がありますが、座れる所があります。多くの伝統的な日本家屋がそうであるように、この御殿にもとても心地いい自然の風通しがあります。特に、夏の間はとても涼しく心地よく感じます。
The Ninomaru mail hall is old and an important heritage, but it has a relaxed atmosphere. There are several tatami rooms facing its garden where you may partly be seated. The hall has a good natural ventilation like many other traditional Japanese buildings. In particular, you can feel cool and comfortable during the summer.

二の丸御殿内部(The inside of Ninomaru Main Hall)
二の丸御殿内部(The inside of Ninomaru Main Hall) posted by (C)晴耕雨読 @黄昏の番犬

How to get There

JR掛川駅から歩いて10分程です。
東京から掛川駅まで:東海道新幹線に乗れば、直接掛川駅に着きます。
It takes about 10 minutes on foot from the JR Kakegawa station.
From Tokyo to the station: Take the Tokaido Shinkansen super express direct to Kakegawa st.

Links and References

掛川城(Official Site, Only Japanese?)
埋木帖~城の復元と法令 ②掛川城天守(Only Japanese)
・掛川城物語、本田猪三郎著、静岡新聞社刊(Japanese book)