159.芥川山城 その2

城跡と景色両方楽しめます。

特徴

バス停から歩く

現在、芥川山城跡は個人所有となっていて、公園として整備されてはいません。観光客は通常バス停から歩くことになります。そこからどの山に登ってどうやって城跡に行ってよいのか迷うかもしれません。そこで、高槻市ウェブサイトから「三好山山頂へのアクセス」という案内図をダウンロードして持っていかれてはどうかと思います。バス停から15分程歩くと、道は2つに分かれます。どちらを選んでも大丈夫です。

城周辺の地図

バス停周辺
三好山山頂へのアクセス(出展:高槻市ウェブサイト)

塚脇ルート

1つは塚脇ルートで、山の東側をまわっていて、比較的なだらかです。たくさんの曲輪跡を目にすることができますが、フェンスで囲ってあるため中には入れません。通れる場所は限られています。道に対して直角に交差している土塁が見えます。これは竪土塁と呼ばれていて、道以外の他の場所から敵が侵入するのを防ぐためのものです。両側に空堀がある狭い土橋もあります。目的は竪土塁と同様です。食い違い虎口のようなものも見ることができます。

塚脇ルートに向かいます
フェンスの脇を通る道
竪土塁 (licensed by ブレイズマン via via Wikimedia Commons)
土橋
食い違い虎口らしき遺構

大手筋ルート

もう一つの道は大手筋ルートで、山に向かってまっすぐ登っていきます。その分急で、岩がごつごつしています。山の入口辺りに古い石垣がありますが、城があった時代のものではないようです。この道もフェンスで囲まれており、更にはイノシシ除けに設けられたドアを通り抜けねばなりません。通り過ぎた後にきちんと閉めるようにしてください。15分程登っていくと、大手門の石垣が見えてきます。中心部分は崩れてしまっていますが、城があった当時のものです。

ルート入口周辺にある石垣
大手筋ルートの様子
イノシシ除けのためのドア
大手門の現存石垣

素晴らしい本郭からの眺め

2つの道は石垣の上の方で合流し、頂上にある本郭に近づいていきます。急に視界が開け、大阪平野の雄大な景色が現れます。更に数分登っていくと、ついに本郭に到着します。本郭は、整地され広場になっています。発掘の成果として、前方では櫓のような建物の跡が見つかり、後方では三好長慶の御殿のものであったかもしれない礎石が見つかっています。ここでも素晴らしい景色が堪能でき、大阪市のビル群や、芥川山城の後長慶が本拠地とした飯盛城があった生駒山地まで見渡せます。

2つのルートの合流点
突然視界が開けます
本郭
大阪市のビル群も見えます
生駒山地

「芥川山城その3」に続きます。
「芥川山城その1」に戻ります。

120.菅谷館(Sugaya Hall)

この城は、伝説と現実の間(はざま)にあります。
This castle is between legend and reality.

現在の菅谷館本郭の入り口(The present entrance of Sugaya Hall Hon-Kuruwa)

Location and History

「菅谷館」という名前には少し説明が必要です。「館」という用語は、この場合には「中世初期の武士の館」を指します。通常は、平地の上に土塁か柵を伴う館が堀で囲まれている構成でした。例としては足利氏館が挙げられるでしょう。
The name “Sugaya Hall” needs a small explanation. The term “hall” means ”warrior’s hall in the early Middle Ages” in this case. It usually consists of a hall with earthen walls or fences, and a surrounding moat on a plain, for example, like the Ashikaga clan hall.

足利氏館跡(Ashikaga Clan Hall Ruins)

菅谷館には、鎌倉幕府の重臣であった畠山重忠について、当時ここに住んでいたという地元の言い伝えがあります。古い記録である「吾妻鏡」にも彼が菅谷館に住んでいたという記載があります。そのためこの遺跡が菅谷「館」と呼ばれ、ここに重忠の像が立っているのです。
Sugaya Hall has a local tale about Shigetada Hatakeyama, a senior vassal of the Kamakura Shogunate, living there at that time. An old document called “Aduma-Kagami” also says he lived in Sugaya Hall. That’s why these ruins are called Sugaya “Hall” and the statue of Hatakeyama is standing on the ruins.

畠山重忠像(The statue of Shigetada Hatakeyama)

しかしながら、この遺跡の外観はそのような説明と違っています。明らかに戦国時代の城跡に見えるのです。その時代の古書もまたこの城を「館」ではなく、菅谷「城」と記しています。加えて、発掘の結果からも戦国時代の1500年前後に使われたことが判明しています。つまるところ、「菅谷館」という名前は、行政側による伝説と現実との間での妥協の産物のようなのです。
However, the appearance of the ruins is different from such descriptions. They look like the ruins of a castle in the Warring States Period obviously. Old documents in the period also call them Sugaya “Castle”, not “Hall”. In addition, the result of excavation says the castle was used around 1500 in the Warring States Period. Overall, the name “Sugaya Hall” seems to come from a kind of compromise between legend and reality by the officials.

菅谷館跡全景(The whole view of Sugaya Castle Ruins)~埼玉県立嵐山史跡の博物館ウェブサイトより引用

いずれにせよ、この城は1488年の「須賀谷原の戦い」のような戦国大名が戦いを繰り広げた重要な地域にありました。戦国大名の一つ、扇谷上杉氏がその戦いのため菅谷古城を再興したこと、しかし敗れてその城に幽閉されたことが記録されています。他の文書にはその約100年後には北条氏がこの城を使っていたとあります。つまり、この城は何度か使われたり放棄されたりしたようなのです。
Anyway, the castle was in the important area where warlords battled each other such as “The battle of Sugayahara” in 1488. Records say that one of the warlords, the Ogigayatsu Uesugi clan, restored the old Sugaya Castle for the battle, but they were defeated and kept under arrest in the castle. Another document says that the Hojo clan used the castle about 100 years later. After all, the castle seemed to be used and abandoned several times.

二の郭前の堀(The moat in front of Ni-no-Kuruwa)

菅谷城は現在の埼玉県西部にあたる場所の低台地上にあり、近くには中世の主要街道である鎌倉街道が通っていました。中心の本郭は、背後を都幾川に、両側を自然の渓谷により守られていました。本郭の入り口は厳重に防御され、二の郭、三の郭などいくつかの郭が本郭の前に広がっていました。
Sugaya Castle is located on a low plateau in what is now the western part of Saitama pref. where the Kamakura road, a main road in the Middle Ages was passing nearby. The main enclosure, “Hon-Kuruwa”, was protected by the Tokigawa river behind it and natural valleys both sides. The entrance of Hon-Kuruwa is strictly guarded and several enclosures including “Ni-no-Kuruwa” and “San-no-Kuruwa” spread out in front of Hon-Kuruwa.

菅谷館跡の地図(The map of Sugaya Hall Ruins)~現地案内板写真に追記

Features

菅谷館跡には建物はありませんが、基礎は残っており、よい状態で保存されています。基礎は全て土造りであり、戦国時代の東国においてはそれが一般的な方法でした。
The ruins of Sugaya Castle retain their foundation but with no buildings. The foundation is well preserved, and is all made from soil which is a typical method of building castles in eastern Japan in the Warring States Period.

菅谷館跡の土塁(An earthen wall of Sugaya Hall Ruins)

一例として、本郭を見てみましょう。この郭は、重忠の館があったと考えられています。それが事実なら、後から城の中心部分として強化されたはずです。
Let’s look at Hon-Kuruwa for instance. This enclosure is thought to be Hatakeyama’s hall. If it’s true, it must have been strengthened as the center of the castle later.

菅谷館跡の地図、アルファベットは以下の写真を撮った位置(The map of Sugaya Hall Ruins, Alfabetic characters show the points pictures below were taken)~現地案内板写真に追記

本郭は、高い土塁と深い空堀に囲まれています。これにより、防御側は敵の攻撃から守りやすくなります。「虎口」と呼ばれる入り口は狭くなっており、そこに至る進路はジグザグに作られていて、敵がまっすぐ内部に入れないようになっています。
Hon-Kuruwa is surrounded by a high earthen wall and deep dry moat. That makes it easier for defenders to protect them from an enemy’s attack. Its entrance, called “Koguchi”, is narrow and the route to it is made zigzagged so that attackers are unable to enter inside directly.

A.本郭の土塁と空堀(The earthen wall and dry moat of Hon-Kuruwa)
B.本郭の入り口(The entrance of Hon-Kuruwa)

更には、この土塁は部分的に意図的に突き出ています。これにより防御側はその部分から敵の正面と側面両方を攻撃することができます。このような構造は「出桝型土塁」と言われます。これは戦国時代においては、他の構造と組み合わせることで、高度な城の防御システムとなりました。よって一部の歴史家は、北条氏が城を改修したのだろうと推定しています。
In addition, the wall is partly stuck out on purpose. This allows defenders to attack from the sticking point to an enemy’s front and sides. Such a structure is called a “Dematsu” shaped earthen wall. It is an advanced system when combined with other defensive features for castles in the Warring States Period. So some historians speculate Hojo might have improved the castle.

C.出桝型土塁(The “Dematsu” shaped earthen wall)
D.本郭の内部(The inside of Hon-Kuruwa)
E.二の郭の入り口、最も高くなっている(The entrance of Ni-no-Kruwa, the highest point)

Later Life

この城は戦国時代の終り頃から長い間放置されていたようです。それ以来、城跡は民間の所有となり、畠山重忠の遺産であると思われてきました。約100年前の大正時代に初めてここが調査されたとき、重忠の像が建てられます。1973年になって遺跡が国の史跡に指定され、2008年には「比企城館跡群」の一つに改めて指定されました。
The castle seemed to be abandoned for a long time since sometime at the end of the Warring States Period. Since then, the ruins were private owned and thought of as Hatakeyama’s heritage. His statue was built when the ruins were first investigated in the Taisho Era about 100 years ago. In 1973, the ruins were designated as a National Historic Site, then were newly designated one of the “Hiki Castles Ruins” in 2008.

明治初期の城跡周辺の地図、土塁が残り畑・林となっていた(The map around the ruins in the early Meiji Era, there was a field and woods)

My Impression

関東地方の戦国大名は必要な数だけ城を作りました。その城がいらなくなったときは、速やかに廃城としました。一方、廃城となった城を再利用したいときは、その城を再建または増築しました。結果として城を廃城とするときは、完全には破壊しませんでした。代わりに一部を壊すか、建物だけを撤去しました。恐らくそれが効率的で、且つ再利用しやすかったからでしょう。それで菅谷館(城)の基礎がよく残ったと思うのです。
Warlords in the Kanto region built castles as many as they needed. When they didn’t need the castles, they immediately abandoned the castles. On the other hand, when warlords wanted to reuse abandoned castles, they restored or improved the castles. As a result, when warlords abandoned castles, they didn’t completely destroy the castles. Instead, they often destroyed part of the castles, or just remove their buildings. Probably it could be because it is more efficient and easy to reuse. I think that’s why the foundation of Sugaya Hall (Castle) remains well.

本郭の裏手(The back of Hon-Kuruwa)

今、城跡の三の郭には嵐山史跡の博物館があります。そこでは比企城館跡群(菅谷館、杉山城、松山城、小倉城)の歴史や出土品を展示しています。そこで歴史を学んでまず菅谷館に行ってみましょう。その他の内、杉山城はここからわずか5キロのところにあります。両方行ってみるのもよいでしょう。
There is the Ranzan Historical Museum on San-no-Kuruwa of the ruins now. It shows the exhibition of history and the excavation about Hiki Castle Ruins including Sugaya Hall, Sugiyama, Matsuyama and Ogura Castles. Let’s look into their history and visit Sugaya Hall first. Out of the others, Sugiyama Castle ruins is only about 5 km from there. So, how about visit the set of them.

嵐山史跡の博物館(the Ranzan Historical Museum)

比企城館跡群の4つの城(The four castles of Hiki Castle Ruins)





How to get There

車を使う場合、遺跡は関越自動車道の嵐山小川ICの近くです。嵐山史跡の博物館に駐車場があります。
電車を使う場合は、東武東上線の武蔵嵐山駅から歩いて約15分です。
東京から武蔵嵐山駅まで:池袋駅から東武東上線に乗ってください。
When using car, the ruins is near Ranzan-Ogawa IC on Kan-Etsu Expressway. Ranzan Historical Museum offers a parking lot.
When using train, it takes about 15 minutes on foot from Musashi-Ranzan Station on Tobu Tojo line.
From Tokyo to Musashi-Ranzan Station: Take the train on Tobu Tojo line from Ikebukuro Station.

Links and References

埼玉県立 嵐山史跡の博物館(the Ranzan Historical Museum)