50.彦根城 その1

幕府譜代筆頭、井伊氏の本拠地

立地と歴史

幕府が井伊氏を重要拠点に配置

彦根城は滋賀県の琵琶湖近くにあり、日本では最も人気のある歴史スポットの一つです。ここの天守は、現存12天守の一つであり、国宝5天守の一つでもあります。また、この城には5棟の重要文化財に指定されている建物もあります。城の主要部分も、これらの建物や石垣、その他の構造物とともにとてもよい状態で残っています。そのため、城がある区域は1956年以来、国の特別史跡に指定されています。

彦根城の現存天守(国宝)
彦根城の西の丸三重櫓(重要文化財)

徳川家康と石田三成の間で争われた1600年の関ヶ原の戦いの後、家康は天下人として日本の実権を握りました。家康は重臣の井伊直政を、三成が領していた琵琶湖沿いの地域の領主としました。直政は最初、三成が居城としてた山城の佐和山城にいたのですが、自身の居城としては不十分で、もっと強力かつ便利な城が必要と感じました。その当時は豊臣氏がまだ大坂城に健在で、更に西日本には、徳川ではなく豊臣が主君であると思っている大名が多くいました。彼らが結束して、家康が東日本に設立した徳川幕府を攻撃するかもしれなかったのです。直政の領地は、まさにその東日本への攻撃を防ぐための位置にあったのです。

城の位置

井伊直政肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下普請による築城

直政は1602年に亡くなってしまいますが、彼の息子、直継が新しい城の立地について家康に相談しました。そして、最終的には琵琶湖近くの約50mの高さがある低山上に城を築くことにしました。これが彦根城です。この城の建設は天下普請として行われ、10以上の他家の大名が合力しました。工事の完成を急ぐために、佐和山城など廃城となった城の廃材が活用されました。それでも城の規模が大きいため、1603年の開始以来、工事は長年に渡って続きました。

山上から山麓にかけて広がっている彦根城

城を守り易くするために、天守、御殿、櫓群がまとまって、且つそれらが石垣に囲まれ、山の峰上に築かれました。城の中心部分への敵の侵入を防ぐために、峰の両端周辺には深い堀切が掘られました。その上、5本の長い石垣(登り石垣)が山の斜面に築かれ、敵が(斜面の横方向を)スムースに動けないようにしました。

山上の城の中心部分(現地説明板より)
太鼓丸前の大堀切
大手門奥にある登り石垣

城の中心部分は三重の水堀に囲まれ、大手門はその堀を渡ったところに建てられました。大手門は、南西方向に向いており、その先には豊臣氏がいる大坂城がありました。この方角の堀の更に外側には芹川が流れており、4重目の堀ともいうべきものでした。

「彦根御城下惣絵図」(出展:彦根城博物館)
かつての大手門絵図(現地説明板より)
現在の大手門跡

平和な時代の城に転換

彦根城は、起工から約20年後の1622年に完成しました。ところが、工事期間中の1615年には状況が劇的に変わっていました。その年に徳川幕府が豊臣氏を滅ぼしたのです。その後、工事は彦根藩単独で行われ、居住や統治のための屋敷が作られました。その結果、城主のための御殿が、大手門とは反対側の山の麓に新たに築かれました。御殿に至る門は、まるで新しい大手門のごとく「表門」と呼ばれました。城の周辺には城下町も開発されました。城や町は、水上交通の便をよくするため、水路や内湖を通じて琵琶湖とつながっていました。

復元された御殿
現在の表門跡

幸いにして、平和であった江戸時代を通じて彦根城では戦さは起こりませんでした。城主であった井伊氏は、譜代大名筆頭として幕府中枢でも重要な役目を果たしました。265年間続いた江戸時代の間、10人しか任命されなかった大老の内、5人は井伊氏が輩出したのです。その中で一番有名なのは、何といっても幕末に大老となった井伊直弼でしょう。彼は、1858年に日米修好通商条約を結ぶことによって開国を推し進めました。ところが不幸にも、彼は1860年に江戸城の桜田門外において、反対派の浪人に暗殺されてしまいました。この事件により、徳川幕府の権力、権威は衰えることになり、明治維新へのきっかけとなったのです。

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸城桜田門

「彦根城その2」に続きます。

21.江戸城その3~Edo Castle Part3

この城の中心部は、皇居、庭園や公園になりました。
The center of the castle has become Imperial Palace, gardens or parks.

ビル街を背景に桜田門と桜田濠~Sakurada-mon Gate and Sakurada-bori moat with the background of modern buildings

江戸城は内郭と外郭に分かれていました。内郭は内堀の内側にあって城の中心的機能を果たしていて、本丸、北の丸、西の丸といった主要な曲輪から成っていました。その外周は8km近くです。そこには天守、豪華な御殿があり、多くの櫓や門によって警備されていました。現在、内郭は4つの部分に区切られています。一つずつ見ていきましょう。
Edo castle was divided into Naikaku and Gaikaku. Naikaku was the inside of the inner moat, and consisted of the center portion of the castle including primary enclosures such as Honmaru, Kitanomaru, and Nishinomaru. Its perimeter was nearly 8 km. It had the Tenshu keep, luxurious halls, many turrets and gates for security. Now, Naikaku is separated into four parts. Let’s look at each part one by one.

江戸城内郭の4つの部分~The 4 parts of Edo Castle Naikaku(国土地理院航空写真に加筆)

皇居東御苑~Imperial Palace East Garden

ここは、本丸、二の丸、そして三の丸の各曲輪を由来としています。将軍は長年本丸にあった御殿に住んでいましたが、1863年の火災の後は西の丸に移り、本丸には戻りませんでした。明治維新後、明治天皇もまた西の丸に住み続けました。そのため本丸とその周辺は宮内庁によって使われてきました。そして1968年からは、その多くの部分が庭園として公開されています。
It is derived from the enclosures, Honmaru, Ninonaru and Sannomaru. The Shogun usually lived the main hall at Honmaru for many years. But after the fire in 1863, they moved to Nishinomaru, didn’t returned to Honmaru. After the Meiji Restoration, Emperor Meiji also continued to lived in Nishinomaru. So Honmaru and the area around were used for Imperial Household Agency. Many parts of them have lastly been open to the public as the garden since 1968.

皇居東御苑の航空写真~The aerial photo of Imperial Palace East Garden

・三の丸巽二重櫓:江戸城に現存している4つの櫓のうちの一つです。庭園の外側からは、本丸富士見三重櫓を背景に、素晴らしい姿を眺めることができます。
・Tatsumi two-story turret at Sannomaru: It is one of four remaining turrets in Edo Castle. You can see a great view of the turret with the background of Fujimi three-story turret at Honmaru from outside the garden.

巽二重櫓と富士見三重櫓(背景)~Tatsumi two-story turret with the background of Fujimi three-story turret

・大手門:この門は、江戸城の正門でした。現存するのは一部分で、残りは復元されています。庭園の入り口の一つでもあります。皇宮警察の人たちが荷物チェックをします。この内側が三の丸となります。
・Ote-mon Gate: This gate was the main entrance of the castle. It is partly original and the rest has been restored. It is also one of the entrances of the garden. The Imperial Guards will check your baggage. The inside of the gate is Sannomaru.

大手門~Ote-mon Gate

・大手三の門跡:ここは二の丸の入り口でした。過去には大きな櫓と門の前には内堀がありました。残念なことに全て撤去されてしまいました。
・The ruins of Ote-Sannomon Gate: this was the entrance of Ninomaru enclosure. There were large turrets around and the inner moat in front of the gate in the past. Unfortunately, they have all been demolished.

大手三の門跡~The ruins of Ote-Sannomon Gate
大手三の門の古写真~An old picture of Ote-Sannomon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

・中の門跡:ここは本丸の入り口でした。ここにも建物は残っていませんが、残っている巨大な石垣には驚かれるでしょう。これらの石は、瀬戸内海から運ばれてきたものです。
・The ruins of Nakanomon Gate: this was the entrance of Honmaru enclosure. They also have no buildings, but you will be surprised to see huge remaining stone walls. These stones were brought from Seto Islands Sea area.

中の門跡~The ruins of Nakanomon Gate
中の門の古写真~An old picture of Nakanomon Gate(現場説明版より)

・三つの現存している番所:これらは前述の門の周辺にあります。武士が厳しく訪問者をチェックしていました。その中には忍者もいたそうです。
・The three remaining guard stations: they are around the gates mentioned before. Warriors did security check strictly. Some of them are said to be Ninja.

大手三の門内にある同心番所~The guard station inside Ote-Sannomon Gate
中の門前にある百人番所~The station for 100 guards in front of Nakanomon Gate
中の門内にある大番所~The last guard station inside Nakanomon Gate

・中雀門跡:この門は、本丸御殿に至る最後の門でした。残っている石垣が黒ずんでいるのは1863年の火災による影響のようです。
・The ruins of Chujaku-mon Gate: this gate was the last one that led to Honmaru main hall. Their remaining stone walls look dark that might have been caused by the fire in 1863.

中雀門跡~The ruins of Chujaku-mon Gate
恐らくは火災により傷んだ石垣~The stone walls probably damaged by the fire

・本丸御殿跡:広大な土地に御殿がひしめいていました。ここは今は花と木の庭園になっています。
・The ruins of Honmaru main hall: this spacey area was packed with the hall. They are now used for a garden with flowers and trees.

本丸御殿跡~The ruins of Honmaru main hall
本丸の古写真、1863年の火災後~An old picture of Honmaru enclosure after the fire in 1863(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

・富士見三重櫓:江戸城で唯一現存している三重櫓です。三代目の天守が焼けた後は代用天守として使われました。本丸からはその背面を見物できます。
・Fujimi three-story turret: it is the only remaining three-story turret in Edo Castle. It was used as the alternative Tenshu keep after the third Tenshu was burned down. We can see the back side of it at Hommaru.

富士見三重櫓(背面)~Fujimi three-story turret(the back side)
富士見三重櫓の正面~The front side of Fujimi three-story turret(taken by TECHD from photoAC)

・本丸展望台:ここからは二の丸庭園越しに東京中心地の景色を楽しめます。ここには台所前三重櫓がありました。過去には武士たちが見張りをしていたはずです。
・The viewing platform at Honmaru: You can have a good view of the center of Tokyo looking over Ninomaru Garden. The Daidokoro-mae three-story turret was there. Warriors should be likely looking over for security in the past.

本丸展望台からの眺め~A scene from the viewing platform at Honmaru
展望台を二の丸から見上げる~Looking up the viewing platform from Ninomaru enclosure

・天守台石垣:この城には天守がありました。最初の三人の将軍は、先代の天守に代わる自身の天守を築きました。三代目の天守は特に史上最大と言われる程巨大でした。ところが、1657年の明暦大火で焼け落ちてしまいます。その後四代目の天守再建が始まりますが、中止となりました。現在その四代目用の天守台が残っています。
・The stone walls for Tenshu keep: the castle had the Tenshu keep. The first three Shoguns built their own Tenshu instead of using the previous one. The third Tenshu was especially big which might have been the biggest one in history. However, it was burned down by the great fire of Meireki in 1657. After the fire, the rebuilding of a fourth Tenshu was launched, but canceled. We can now see the prepared Tenshu base for it.

残っている天守台~The remaining Tenshu base
二代目または三代目天守、「江戸図屏風」より、17世紀~The second or third Tenshu, from “View of Edo”, in the 17th century(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

・梅林坂:この城の創始者である太田道灌が梅の木を植え、神社を作った所と言われています。梅林の合間に、より古風な石垣が残ります。
・Bairin (Plum Grove) Slope: it is said that the founder of the castle, Dokan Ota planted plum trees and built a shrine there. We can now see the trees among older looking stone walls.

梅林坂~Bairin (Plum Grove) Slope
古風な石垣~The older looking stone walls

・平川門:ここは城の裏門で、現存しています。この門は、鬼門である東北を向いています。このため、城での罪人はこの門を通して追放されたとのことです。
・Hirakawa-mon Gate: this was the back gate of the castle and remains now. The gate faces the traditional taboo direction – the northeast. For this reason, the offenders in the castle were banished through the gate.

平川門~Hirakawa-mon Gate

皇居外苑~Outer Gardens of the Imperial Palace

ここは「皇居前広場」とも呼ばれています。江戸時代には「西の丸下」と呼ばれており、多くの大名屋敷が建っていました。明治時代に皇室の園地となりましたが、市民にとって親しみのある場所でもありました。皇居がすぐ近くに見えるからです。第二次世界大戦が終わったとき、敗戦を嘆く人たちがここに集まったことで有名です。現在の人たちも似たような状況です。簡単に来れるので、いつも多くの観光客が集まっています。現在ここは一般に公開されています。
It is called “The Palace Plaza” as well. This area was called “Under Nishinomaru” where many halls for lords were in the Edo Period. In the Meiji Era, it was turned into the garden for Imperial Families, but also familiar to citizens because they could see the Imperial Palace closely. At the end of World War II, it became a well known place for people mourning the loss of the war. This idea is similar to people in the present. Many tourists always visit there due to easy access. Now, garden is open to the public.

皇居外苑~The Outer Gardens of the Imperial Palace
終戦時に皇居前広場に集まった人々、1945年8月16付毎日新聞より~The gathering people at the Palace Plaza at the end of the war, in the Argust 16th 1945 edition of the Mainichi Shinbun(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

皇居外苑の航空写真~The aerial photo of The Outer Gardens of the Imperial Palace

・皇居正門石橋と現存する伏見櫓の風景:外苑そのものは広大な広場です。なので多くの観光客は皇居と江戸城建物の景色を愛でています。この取り合わせは一番有名なものです。
・The view of the Palace Stone Bridge and the remaining Fushimi Turret: The garden itself is an extensive square. So many tourists enjoy the views of Imperial Palace and Edo Castle buildings. This is the most popular one.

皇居正門石橋と伏見櫓~The Palace Stone Bridge and Fushimi turret

・桜田門:これは最も有名な江戸城の建物の一つです。1860年に桜田門外の変が起こった所です。幕府大老であった井伊直弼が暗殺され、幕府の権威失墜を招きました。この門は現存しており、重要文化財に指定されています。
・Sakurada-mon Gate: This is one of the most popular buildings of Edo Castle. Because this is where Sakuradamon Incident in 1860 happened. The chief minster of Shogunate, Naosuke Ii was assassinated and it caused Shogunate’s the authority to decreas. The gate remains now and has been designated as a Important Cultural Property.

桜田門~Sakurada-mon Gate

北の丸公園~Kitanomaru Park

北の丸曲輪は、本丸の搦め手を北の方角から守る任務があり、とても重要でした。将軍の親族である清水家と田安家が江戸時代の後期に住んでいました。明治維新後は、近衛師団の兵舎がありました。第二次世界大戦後は公園になり、日本武道館や科学技術館などの施設が置かれています。
Kitanomaru enclosure was very important because it had to guard the rear of Honmaru in the north. The Shogun’s relatives, the Simizu and Tayasu clans lived in the late Edo Period. After the Meiji Restoration, the barracks of the Imperial Guard division were there. After the World War II, it became the park where facilities, like Japan Budokan, Science and Technology Museum, are located.

北の丸公園の航空写真~The aerial photo of Kitanomaru Park

・清水門:清水家の屋敷の門として使われました。とても優れた構造で、重要文化財になっています。この門は、内堀が窪んでいる奥に設置されていて、誰もが長く細い土橋を渡って入らなければなりません。侵入者は堀に沿った塀から反撃されてしまいます。
・Shimizu-mon Gate: It was used as the gate for Shimizu clan’s hall. It has a excellent structure and has become an Important Cultural Property. The gate is set at the back of the curved inner moat. Everyone has to go on a long and narrow earthen bridge to enter. Invaders were countered by defenders on walls along the moat.

清水門~Shimizu Gate
門の内側から見た土橋~The earthen bridge looking from the inside of the gate

この門はまた2つの「桝形」と呼ばれる方形の区画が外と内両方にありました。守備側は背後から敵を攻撃できたのです。実に強靭な防御力です。私が思うにこの門はもっと有名になってしかるべきです。
The gate also has two square shape blocks called “Masugata” both outside and inside. Defenders were able to counter the enemy from the back. The gate is very strongly defensive. By I think it should be more well-known.

外側の「桝形」~The outside “Masugata”
内側の「桝形」~~The inside “Masugata”

・田安門:ここは田安家の門でした。地下鉄から武道館に行く人は皆、この門を通ります。この門もまた重要文化財に指定されています。
・Tayasu-mon Gate: It was the gate of Tayasu clan’s hall. Now, all people from the subway station to Budokan go through the gate. It looks just like the Budokan gate. It has also been designated as a Important Cultural Property.

田安門、向こうは武道館~Tayasu-mon Gate, Budokan is over there

皇居~Imperial Palace

この区域は元々西の丸曲輪と吹上と呼ばれる場所でした。将軍は江戸時代末期に西の丸にある御殿に住んでいました。明治維新のとき、明治天皇はこの御殿に入り、使い続けました。そのため西の丸周辺が皇居になったのです。一般の人は通常皇居には入れませんが、年始や天皇誕生日といった特別な日には一部開放されます。今回は、外側から見ることができる2つの興味ある景色をご紹介します。
This area includes the original Nishinomaru enclosure and a place called Fukiage. The Shogun lived in the hall at Nishinomaru at the end of the Edo Period. During the Meiji Restoration, Emperor Meiji got the hall and continued to use. That’s why Ninomaru around has become Imperial Palace. Visitors can’t usually enter the palace, but it is partly open to people on special days such as New Year Celebration and the Emperor’s birthday. This time, I will show you two of interesting views of the area from outside.

皇居全景、手前は皇居外苑~The overview of Imperial Palace, the front is the Outer Gardens(licensed by Chris73 via Wikimedia Commons)

皇居の航空写真~The aerial photo of Imperial Palace

・千鳥ヶ淵:ここは今は内堀の一部になっていますが、元来は川だったようです。「淵」はこの場合、水流をせき止めて作った沼を意味します。この堀は全国的に桜の名所として知られています。春になると、堀の上にはボートで花見をする人たちで溢れます。
・Chidori-ga-Fuchi moat: it is now a part of the inner moat, but seemed to be originally a river. “Fuchi” means a lake made by damming the water in this case. The moat is known around the whole country for cherry blossoms. A lot of people seeing them are on the boats in the moat in the early spring.

千鳥ヶ淵~Chidori-ga-Fuchi moat

・半蔵門~この名前は、この門を警護していた忍者の頭領、服部半蔵に由来します。外側から門に伸びる土橋はまるでダムのように見えます。実際、この橋は水位を維持するために築かれました。橋の片側の水位は反対側よりかなり高くなっています。
・Hanzo-mon Gate: its name comes from the leader of Ninja, Hanzo Hattori who kept the gate. The earthen bridge from outside to the gate looks just like a dam. Indeed, the bridge was built to hold back the water. You can see the one side of the bridge keep much higher level of the water than the other side.

半蔵門~Hanzo-mon Gate
半蔵門土橋の下流部分~The lower part of Hanzo-mon Gate earthen bridge
桜田濠、半蔵門の下流にあり、まるで大河のようです~Sakurada-bori moat, the lower section of Hanzo-mon Gate, looks just like a large liver

「江戸城その4」に続きます。~To be continued in “Edo Castle Part4”
「江戸城その2」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part2”
「江戸城その1」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part1”

21.江戸城その2~Edo Castle Part2

江戸は、水の都だったのです。
Edo was a city of waterways.

葛飾北斎「富嶽三十六景」より「江戸日本橋」、江戸時代~”Nihonbashi Bridge in Edo” from the series “Thirty-six Views of Mount Fuji” attributed to Hokusai Katsushika in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特徴~Features

今となっては、ほとんどの人が東京が水の都とは思わないでしょう。ところが、実は江戸はそうだったのです。徳川氏が江戸に移ってきたとき、江戸城は現在の山の手区域にありました。現在の下町にあたる地域は海の下にあったか、湿地帯でした。そして江戸前島と呼ばれた砂州が存在していました。また、陸地と砂州の間には日比谷入江が入り込んでいました。徳川の家臣団は、江戸前島を横切る運河を掘り、水運の便のために川筋を変更したのです。
These days, most people don’t realize that Tokyo is a city of waterways. However, Edo actually was. When the Tokugawa clan moved into Edo, Edo Castle was in the present uptown area. The present down town area was below the sea or waterlogged. There was a sand bank called Edo-Maeto. There was also the Hibiya arm of the sea between the land and the bank. Tokugawa’s team created a canal across Edo-Maeto and change the route of rivers for water transportation.

東京中心部のカラー標高図にコメント付加、江戸前島と日比谷入江の痕跡がわかります~The color altitude map of central Tokyo, adding comments, you can see traces of Edo-Maeto and the Hibiya arm of the sea(出典:国土地理院)

日比谷入江から江戸前島の東側に川筋を変更して作られた運河が、日本橋川でした。そこには現在日本橋がかかっています。この橋は昔ながらの姿で知られており、多くの主要道路の出発地点でもあります。
A canal created for changing the route of the river from the Hibiya arm of the sea to east of Edo Maeto is Nihonbashi River, where Nihonbashi Bridge goes across. The bridge is known for a traditional view and the starting point of many major roads.

日本橋~Nihonbashi Bridge
1911年に完成直後の現存日本橋~The remaining Nihonbashi Bridge just after the complition in 1911(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日本橋にある日本国道路元標~The starting milestone of Japan at Nihonbashi Bridge(licensed by Aimaimyi via Wikimedia Commons)
歌川広重「東海道五十三次」より「日本橋」、江戸時代~”Nihonbashi Bridge” from the series “Fifty-three Stations of Tokaido” attributed to Hiroshige Utagawa in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

事実、この橋の下を流れる川は人工物で、それは400年以上前に作られたものなのです。この川からは、江戸前島の中心を通る外堀が分かれていました。
In fact, the river below the bridge is artificial and was created over 400 years ago. From the river, the outer moat separated out trough the center of Edo Maeto.

日本橋川~Nihonbashi River
戦前の有楽町付近の外堀~The outer moat near Yurakucho before World War II(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

徳川は、城の敷地を広げるためと防衛上の必要から日比谷入江を埋め立てました。更に、江戸前島の周りの海も市街地の確保のため埋め立てたのです。一方で、海の一部分は埋め残して堀、川や運河としました。結果として、江戸は水路とともに広がっていきました。今だにその痕跡は現代の地図上に残っています。それらをいつくか巡ってみましょう。
Tokugawa reclaimed the Hibiya arm of the sea to expand the ground for the castle as well as the need for defense. They also filled the sea around Edo Maeto to create the city area. Meanwhile, they left part of the sea as moats, rivers and canals. As a result, Edo city was spread with waterways. There are still traces of them on the present map. Let’s see some examples.

江戸時代初期の江戸推定地図~The estimated map of Edo in the first Edo Period(国土交通省Websiteから引用)

赤い線は現在の地図に残された江戸前島と日比谷入江の痕跡、マーカーは以下の項目に関連しています~The red line shows the remaining trace of Edo-Maetou and Hibiya Arm of the Sea on the present map, markers are related with the following items

愛宕神社~Atago Shrine

ここは急坂に「出世」の階段があることで有名です。日比谷入江の入り口の近くにあたります。
It is famous for its steep steps of “success”. It was near the entrance of the Hibiya arms of the sea.

愛宕神社の鳥居~The Torii Gate of Atago Shrine
出世の階段、馬にのってこの階段を登り切った武士は出世できると言われていました~The Steps of Success, it was said that if a warrior riding a horse could get the top, he would be promoted

赤坂1丁目交差点~Akasaka-icchome intersection

ここは溜池から流れる川の河口でした。外堀の一部に転用されました。
This was the estuary of the river from Tameike. It was turned into a part of the outer moat.

赤坂1丁目交差点に向かいます~Going to Akasaka-icchome intersection
かつて外堀であった「外堀通り」~”Sotobori Street” which means outer moat street, former the outer moat
今に残る外堀の石垣~Remaining stone walls alomgside the outer moat

潮見坂~Shiomi slope

霞ヶ関官庁街の中にあります。ここは日比谷入江の西際だったようです。
It is among Kasumigaseki governmental ministries. It seems to be the west edge of the Hibiya arm.

潮見坂~Shiomi Slope

桜田門周辺~Aroud Sakurada-mon Gate

この門の近くに別の川の河口があったようです。内堀の一部として残っています。
This seems to be the estuary of another river near the gate. It remains a part of the inner moat.

桜田門~Sakurada-mon Gate
桜田濠と呼ばれる内堀の一部~A part of the inner moat called Sakurada-bori

皇居正門~The main entrance of Imperial Palace

宮殿は西の丸だった所にあります。正門前の内堀は元は海でした。
The palace is on what was Nishinomaru enclosure. The inner moat in front of it was originally the sea.

皇居正門と石橋~The main entrance of Imperial Palace and The Stone Bridge
西の丸は高い所にあります~Nishinomaru enclosure is in a high place

皇居外苑~The Outer Gardens of the Imperial Palace

ここは完全に海で、周りの内堀を残して埋め立てられました。
This was completely a sea, and filled without the inner moat around.

皇居外苑~The Outer Gardens of the Imperial Palace

坂下門~Sakashita-mon Gate

門の周辺の内堀は、もともと川や谷だった所を使っています。
The inner moat around the gate uses the original rivers and valleys.

坂下門~Sakashita-mon Gate
門周辺の内堀~The inner moat around the gate

大手門周辺~Around Ote-mon Gate

ここには日比谷入江に注ぐ平川の河口がありました。
This was the estuary of Hirakawa River emptied into the Hibiya arms of the sea.

大手門~Ote-mon Gate
大手門前の内堀~The inner moat in front of Ote-mon Gate

和田倉門~Wadakura-mon Gate

日比谷入江の一番奥の場所にあたります。和田倉とは海岸にある倉庫の意味です。
This was the inmost place of the Hibiya arm of the sea. Wadakura means warehouse st seashore.

和田倉門~Wadakura-mon Gate
ここが最奥だった地点か?~Was this the inmost spot?

日比谷公園~Hibiya Park

内堀の石垣跡が休憩所として活用されています。
The ruins of stone walls for the inner moat is used for a resting place.

日比谷公園の休憩所~The resting place of Hibiya Park
それは石垣の上にあります~It is on the stone walls

山手線の側面~The side of Yamanote line

レンガ造りの高架鉄道は元から陸地の所だから可能だったと言われています。
It is said that the elevated red brick railway could be available on the primary land.

山手線のレンガ作りの高架鉄道~The elevated red brick railway of Yamanote line

新橋跡~The ruins of Shinbashi bridge

この橋は汐留川にかかっていましたが、元は江戸前島の突端にあたります。
The bridge went across Shiodome-gawa River which was originally the edge of Edo Maeto.

現存する新橋の親柱~The remaining newel post of Shinbashi Bridge

銀座の裏通り~The back street of Ginza

江戸前島の東海岸を利用して作られた三十間堀川がここを流れていました。
Sanjukkenbori River went through it and it was built using the east coast of Edo Maeto.

銀座の裏通り、ここも海や川でした~The back street of Ginza, it was also the sea or river

首都高速都心環状線~The Tokyo Metropolitan Expressway Ring Route

ここは楓川と、ドックのような形の舟入堀がありました。この川は日本橋川につながっていました。
This was Kaedegawa River with several Funairi moats like docks. The river connected to Nihonbashi River.

首都高速都心環状線、元楓川~The Tokyo Metropolitan Expressway Ring Route, the former Kaedegawa River
かつては楓川を渡っていた橋、A bridge which went across Kaedegawa River in the past

その後~Later Life

明治維新後、城の多くの建物は撤去されましたが、多くの水路は残りました。人々がまだ使っていたからです。一例として、東京の魚市場は1923年の関東大震災まで日本橋川沿いにありました。地震の後になって築地に移転したのです。
After the Meiji Restoration, many buildings of the castle were demolished, but many waterways remained, because people still used them. For instance, the fish market in Tokyo was along Nihonbashi River until the Great Kanto Earthquakes in 1923. After that, the market moved to Tsukiji.

明治初期の東京中心地の地図、まだ多くの水路がありました~The map of central Tokyo in the early Meiji Era, there were still a lot of waterways
日本橋の魚市場~The Fish Market at Nihonbashi(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

第二次世界大戦後、一部の外堀が焼けた建物の残骸により埋められました。今の外堀通りです。
After World War II, part the outer moat was filled by the debris of burned buildings. It has become Sotobori Street.

外堀通り~Sotobori Street

昭和の中期に車が普及し、1959年には、1964年の夏のオリンピックが東京で開催されることが決まりました。東京の交通インフラ、特に高速道路を整備するための時間はわずかしかありません。政府は高速道路の用地として残っていた水路を使わざるをえませんでした。買収する必要がないからです。東京のほとんど全ての水路が消え失せました。
In the mid Showa Era, motorization came and it was decided in 1959 that the 1964 summer Olympics in Tokyo would be held. There would be little time to develop the infrastructure for transportation in Tokyo, especially an expressway. The government had to use the remaining waterways as the land for the expressway. Because they didn’t need buy them. Almost all of the waterways in Tokyo died out.

京橋川上に建設中の高速道路、1960年~The expressway under construction above Kyobashigawa River in 1960(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

日本橋と日本橋川は歴史的価値があるため、かろうじて残されました。そのため高速道路がその上を走っているのです。日本橋地域の人たちは、古き良き景観を取り戻すため政府に対し高速道路を地下に移すよう請願しています。
Nihonbashi Bridge and Nihonbashi River have survived due to their historical values. That’s why the expressway goes above them. Now, people in the Nihonbashi area urge the government to move the expressway underground to get its good old landscape back.

日本橋上の高速道路~The expressway above Nihonbashi Bridge

「江戸城その3」に続きます。~To be continued in “Edo Castle Part3”
「江戸城その1」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part1”