122.大多喜城 その3

大多喜町は、本多忠勝とともに城をPRしています。

その後

明治維新後、大多喜城は廃城となり、城の全ての建物は撤去されました。城があった土地は、畑地や学校、住宅地になっていきました。模擬天守が建てられてのは1975年の事で、1973年に発掘が行われた後でした。大多喜町は、著名な武将である本多忠勝が築いた城として大いに宣伝しているところです。

大多喜城の模擬天守
本多忠勝兜図、千葉県立中央博物館大多喜城分館にて展示

私の感想

大多喜城の天守は、2022年10月現在、耐震対策などの改修を行うため一時休館となっています。その改修後は、大多喜町が千葉県より運営を引き継ぐそうです。天守を含む城は、地方の市町村にとって欠かすことのできないシンボルや観光資源となっているのです。また、大多喜駅の近くには城下町の町並みがあり、併せて見学されることをお勧めします。古い商家が残っています。

大多喜城の模擬天守
旧城下町の古い商家

ここに行くには

この城を訪れるには、車を使うことをお勧めします。
圏央道自動車道の市原舞鶴ICから約30分かかります。本丸下にある駐車場に停めることができます。
公共交通機関を使う場合は、大多喜駅から歩いて約15分かかります。
東京から大多喜駅まで:特急わかしお号に乗って、大原駅で降り、いすみ鉄道に乗り換えて下さい。

大多喜駅
本丸下にある駐車場

リンク、参考情報

千葉県立中央博物館大多喜城分館
・「房総里見氏の城郭と合戦/小高春雄著」戒光祥出版
・「よみがえる日本の城2」学研
・「徳川四天王本多忠勝/川村一彦著」歴史研究会

これで終わります。ありがとうございました。
「大多喜城その1」に戻ります。
「大多喜城その2」に戻ります。

122.大多喜城 その2

この城に天守はあったのでしょうか。

特徴、見どころ

博物館としての天守

城周辺の地図

現在、オリジナルの大多喜城に関するものはほとんど残っていません。千葉県は、本丸の上に「大多喜城」と呼ぶ天守の形をした歴史博物館を建設しました。

千葉県立中央博物館大多喜城分館「大多喜城」
博物館の入口

夷隅川に沿って本丸へ

この現代の大多喜城に大多喜駅から行く場合には、概ね2つのルートがあります。一つ目は車で来られた方向けで、駅前から南の方に走り、模擬の大手門をくぐります。道は西の方角に向かって右に曲がり、夷隅川に沿って進みます。この辺りの道はメキシコ通りと呼ばれており、ドン・ロドリゴのエピソードにちなんで名づけられました。

大多喜駅近くの模擬大手門
メキシコ通り

この通りは、急な崖の中腹に作られており、城があった丘を右手に川を左手に見ながら進みます。城にとっては天然の障壁となっていました。駐車場は、本丸の近くにあります。

城が築かれた丘の急崖
夷隅川を見下げる
本丸からメキシコ通りを見下ろす

二の丸を通って本丸へ

もう一つのルートは歩いて行く方のためで、駅の裏側から進みます。本来の大手門跡が近くにあります。しかし、それを示す標柱があるだけです。この辺りは住宅地になっているからです。道に沿っていくと、今は高校として使われている二の丸に到着します。道は土塁の上方の二の丸の方に登っていきます。かつてはここに領主のための御殿がありました。

二の丸に登っていく道
現在の二の丸

ここには城に関する2つの史跡があります。一つは御殿の裏門で、一旦売却されたのですが、後に現在の場所に復元されました。もう一つは大井戸で、周囲の長さが17mもあります。この辺からは、本丸の最高地点にある天守の姿が望めます。

かつての御殿の裏門「薬医門」
大井戸
本丸から見た大井戸
二の丸から本丸の天守を望む

本丸にある古い城の痕跡と新しい模擬天守

本丸へは、前の方(二の丸)からでも、後ろの方(駐車場がある所)からでも登って行くことができます。その途中では、古い土塁や空堀、人工で作られた急崖(切岸)などを見ることができ、これらは恐らく城の初期の時期からあったものと思われます。実際、発掘を行った際には、その初期の小多喜城と呼ばれていたころの痕跡が発見されたそうです。

二の丸から本丸への道
本丸に残る土塁
駐車場から本丸への道
途中で見ることができる空堀(または堀切)
本丸の裏手にある曲輪下の切岸

ところが、オリジナルの天守やその天守台石垣と思われる痕跡は見つからなかったのです。現在ある天守とその天守台石垣は現代になって建てられたもので、城下町の古い商家から発見されたオリジナルの三層天守の図面に基づいているとのことです。しかし、通常これだけでは確たる証拠とは言えないのではないでしょうか。よってこの天守は、模擬天守という位置づけになると思います。

本丸にある模擬天守
天守台も現代の建築

「大多喜城その3」に続きます。
「大多喜城その1」に戻ります。

148.浜松城 その2

オリジナルの天守台石垣に、小さな復興天守が乗っかっています。

特徴、見どころ

公園入口へ

現在浜松城は、浜松城公園として開発されています。公園内には、天守曲輪と本丸の一部が残されています。もし浜松駅から公園の方に歩いていった場合、浜松市役所が左側に見えてきますが、ここは過去は二の丸の一部だったのです。市役所の北側から公園の入口への道に入っていきます。そうすると右側に、発掘中の本丸と二の丸がフェンス越しに見えます。そして、現代になって切り崩された本丸の断面によってできた壁に突き当たります。

城周辺の地図

浜松市役所
浜津城公園への入口
公園入口に向かう道
発掘中の二の丸と本丸の一部

よって、公園に入るにはその壁の右側か左側に回り込む必要があります。どちらの入口から入っても、本丸の残存部分に着きます。そこには、徳川家康の銅像があったり、土塁の上にある富士見櫓跡があります。

本丸の断面にある壁と公園入口への道標
右側の入口から本丸へ向かいます
本丸内部
徳川家康銅像
富士見櫓跡

古風な現存石垣

この城のハイライトといえば、本丸と天守曲輪にある現存石垣でしょう。この石垣は基本的に自然石を使って積み上げられていて、城の石垣の中では最も早い時期の手法の一つで野面積みと呼ばれます。とても古風であり、元は堀尾吉晴が築きました。

富士見櫓跡から見た天守曲輪
天守曲輪の石垣

天守曲輪の裏側の方に行っていただくと、石垣が自然地形の上の方に築かれているのが見えます。これも初期の手法の一つで、鉢巻石垣と呼ばれ、高石垣を築く技術がないときに用いられました。この石垣は、屏風のように巧みに曲げられていて、文字通り屏風折れと呼ばれています。こういった構造より、敵が城に攻めてきたときに、守備兵が石垣の任意の場所から敵を直接攻撃できるようになっていました(例えば、折れた部分から敵の側面を攻撃できます)。

天守曲輪の裏側の鉢巻石垣
「屏風折れ」の石垣

天守門は、発掘の成果を基に、最近2014年に伝統的工法で復元されました。門の下を通るだけではなく、門の建物の中にも入ってみることができます。

復元された天守門
天守門内部への入口

オリジナルより小さな復興天守

それ以外には、現存する天守台石垣の上に復興天守が1958年に建てられ、それ以来城のシンボルとなっています。この天守が「復興」と呼ばれる理由は、オリジナルの天守の姿が不明であることと、実はこの天守は天守台と比較してとても小さいのです。恐らく、この天守台に合う天守を作るには予算が不足していたと思われます。

オリジナルの天守台石垣に載った小さな復興天守
復興天守と推定されるオリジナル天守の大きさ比較、復興天守内にて展示

それでも、天守の中に入ってみれば、城のことを学べたり、浜松市街を一望することができます。歴史博物館及び展望台として使われているのです。

発掘された天守内の井戸、復興天守内にて展示
復興天守内の展示の一部
展望台からの市街地の景色

「浜松城その3」に続きます。
「浜松城その1」に戻ります。