201.武蔵松山城 その3

戦国時代の関東地方の3大英雄、上杉謙信・武田信玄・北条氏康が、同じ戦いで一同に会した(または会しそうになった)のは、この城でのケースだけだったのではないでしょうか。

特徴、見どころ

防御の要、三ノ曲輪

次の三ノ曲輪は幅広い曲輪で、防御の要の位置にあるように見えます。進行方向左側(南側)にはこの城には珍しい土橋を経由して馬出しが設定されています。

城周辺の地図

現地案内図に、三ノ曲輪から馬出し、腰曲輪、二ノ曲輪に向かう通路へのルートを追記(赤矢印)
三ノ曲輪
三ノ曲輪から馬出しに至る通路
馬出し

更にその先には腰曲輪があるのですが、ほぼ通路のみという細さでまるで壁のようになっています(但し曲輪の上も周りも藪に覆われていて、外観上よくわからなくなっています)。腰曲輪の端の下方には井戸があったそうです。

腰曲輪の上は藪に覆われています
腰曲輪の外側も藪です

馬出しからは細い通路も出ていて、二ノ曲輪へのバイパスになっています。いずれも、防衛用と連絡用の用途で使われたと思われます。

馬出しから二ノ曲輪に向かう通路
通路から二ノ曲輪に向かう階段

二ノ曲輪から本曲輪へ

次の二ノ曲輪とその内側の空堀は、山頂の本曲輪を囲い込むように作られています。二ノ曲輪と本曲輪との間の空堀は城では最大のもので、双方を行き来するのにかなりのアップダウンを要します。

現地案内図に、三ノ曲輪から二ノ曲輪、二ノ曲輪から本曲輪に向かうルートを追記(赤矢印)
三ノ曲輪から二ノ曲輪へ
二ノ曲輪
二ノ曲輪から本曲輪との間の空堀を見下ろしています
空堀の底

そして本曲輪に到着です。曲輪の内部にはコンクリートの基礎が残っていて、現代になって神社が建てられ、そして撤去された跡です。(現代の搦手道はその神社の参道のようです。)ここでは発掘が行われ、土塁跡、火災や再造成の痕跡が見つかりました。また、本曲輪側からは二ノ曲輪に向かって櫓台が張り出しています(この上に城址碑があるのですが、2024年2月時点では立入禁止になっています)。

本曲輪に向かって登ります
本曲輪
コンクリートの基礎は神社跡
本曲輪から張り出している櫓台
2017年時点の櫓台跡の城址碑

本曲輪からの眺めは、周りに繁茂している木々のため、それ程よくありません。中心となる曲輪だけあって、近くの根古屋道沿いには兵糧倉跡、搦手道沿いには太鼓曲輪など、籠城を想定した名前の曲輪が連なっています。

本曲輪からの眺望
本曲輪と兵糧倉跡を結ぶ土橋
兵糧倉跡
城跡の搦手口

その後

武蔵松山城が廃城となった後、城があった地域は天領(幕府の直轄領)となりました。江戸時代には、城の城下町は宿場町として繁栄します。その後は川越藩領になり、最終的に前橋藩領となったときには飛び地であることから、町中に松山陣屋が置かれました。武蔵松山城跡はそのまま放置されていたようで、私有地(耕地)となっていましたが、主要部は1926(大正14)年に県の史跡に指定されました。その一方で、周辺部の曲輪群は戦後に市街地として開発され、その一部は武蔵丘短期大学のキャンパスとなっています。史跡に指定された区域では2003(平成15)年から発掘調査が2回行われています。その結果、武蔵松山城跡は2008(平成20)年に、菅谷館(城)跡、杉山城跡、小倉城跡とともに「比企城館跡群」として国の史跡に指定されました。

松山陣屋跡
かつて曲輪の一つだった武蔵丘短期大学
城跡から発掘された遺物、吉見町埋蔵文化財センターにて展示

関連史跡、名物

・吉見百穴(よしみひゃくあな)
武蔵松山城跡に隣接する吉見百穴は、古墳時代後期の横穴墓群です。加工しやすい凝灰岩の岩山の斜面に多数の墓穴が掘られ、その数は219個に及ぶとされています。当初は緑泥片岩で作られた蓋で覆われていましたが現在では失われ、山に多くの穴が開いているのが見えて、とても奇抜です。墓に使われたと判明したのは大正時代のことで、江戸時代には不思議な穴として「百穴」と呼ばれていました。武蔵松山城が現役だった戦国時代にはどうだったのでしょうか。一説には、武田信玄が城を攻めたときに、百穴を見て城の岩山を掘る戦法を思い付いたとされています。吉見百穴は第二次世界大戦中に都市部の空襲が激しくなったとき、地下軍需工場として利用されました(その箇所は2024年4月現在立入禁止)。軍需工場建設の際は、武蔵松山城跡も工区に含まれ、近くまで入り組んでいた市野川の流路が変更されました。

吉見百穴
戦国時代にこれらの穴は見えたのでしょうか
地下軍需工場跡
左側が現在の市野川、右側の道路が元の流路

・石戸城跡
謙信が武蔵松山城救援のために着陣した石戸城の跡は、現在の北本市石戸宿(住所地)にあります。その名の通り、鎌倉街道の宿場町の北側にあり、西側を流れる荒川(当時は入間川)の河岸段丘上にありました。また、東側は沼沢地であり、現在では北本自然観察公園になっています。まさに、交通の便と防御力を兼ね備えた城だったのです。この城は15世紀中頃に太田氏によって築城され、本拠地の岩槻城と武蔵松山城の中継地点として使われました。謙信が武蔵松山城を救援するための拠点として相応しい場所です。現在は藪に覆われた曲輪が堤防上の道沿いに残っているだけですが、立地の良さを実感できます。また、東側の自然観策公園内に、北条氏がこの城を攻めたときに一晩で築いたと言われる「一夜堤」があります。自然の障壁に守られていた城であったことがわかります。

石戸城周辺の地図

石戸城跡
堤防沿いの荒川旧流路
一夜堤

・やきとり(やきとん)
東松山市の名物の一つにやきとり(やきとん)があります。「やきとり」といっても、豚のカシラ肉を串焼きにして、みそだれをつけて食べるものです。昭和30年代に、当時は高級品だった肉としては安く手に入ったカシラ肉を、うまく活用して広まったそうです。

東松山名物「やきとん」

私の感想

岩山の上の城であるにもかかわらず、とことん土造りにこだわっているところが、いかにも東国の城らしいと思いました。しかも防御のため、ほぼ空堀や切岸の築造に特化しているのが潔く、弱点(高さがあまりない)を克服し、利点(激しいアップダウンで敵を疲弊させる)にしていることに敬意さえ覚えます。しかし1点だけお願いしたいことがあるとすれば、この城の歴史をもっとPRしていただきたいことです。戦国時代の関東地方の3大英雄、上杉謙信・武田信玄・北条氏康が、同じ戦いで一同に会した(または会しそうになった)のは、私が知る限り、この城でのケースだけだったのではないでしょうか。それ以外にも、この城には多くのエピソードがあります。それらを知ってもらうことで、この城の魅力がより広まるのではないでしょうか。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏康肖像画、小田原城所蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉見百穴から見た武蔵松山城跡

ここに行くには

車で行く場合:関越自動車道東松山ICから約5kmのところです。吉見百穴の駐車場を使える他、搦手口近くに小さいですが駐車スペースがあります。
公共交通機関を使う場合は、東武東上線東松山駅から「鴻巣免許センター」行きバスに乗り、「百穴入口」または「武蔵丘短大前」バス停で降りてください。

吉見百穴駐車場
搦手口近くの駐車スペース

リンク、参考情報

比企城館跡群松山城跡、吉見町
松山城跡(比企城館跡群)、東松山市観光協会
・「松山城合戦/梅沢太久夫著」まつやま書房
・「謙信越山/乃至政彦著」ワニブックス
・「歴史群像50号、戦国の堅城 武州松山城」学研
・「企画展 越山、上杉謙信侵攻と関東の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館
・「企画展 戦国の比企 境目の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館
・「関東の名城を歩く 南関東編/峰岸純夫・齋藤慎一編」吉川弘文館
・「日本の城改訂版第107号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「武蔵松山城その1」に戻ります。
「武蔵松山城その2」に戻ります。

119.杉山城 その3

縄張り研究者たちは杉山城に注目しています。

特徴、見どころ

城の中心、本郭

本郭は、この城ではもっとも大きく、かつ高い位置にある曲輪です。ここには南北と東側の三つの入口(虎口)があります。南側でシミュレートしてみたように、北側と東側の虎口もまた、曲輪群と空堀により固く守られていました。この城の城主は、全ての方角の状況を把握し、的確な判断を下せたことでしょう。

本郭
本郭と、北側及び東側の曲輪群の位置
本郭の北虎口
本郭の東虎口
本郭から見た東側の曲輪群

更には、この城にはバイパスルートも設定されていますが、その内のいくつかは袋小路になっています。この城の縄張りを見ると、迷路のようだと思われるかもしれません。城を攻める敵にとってはその通りでしょう。しかし、守る方にとっては非常によく設計された要塞なのです。

袋小路と思われる場所の位置
南二の郭の袋小路
井戸郭の先の袋小路

その後

杉山城跡は、1980年代頃までは一般には知られていませんでした。縄張り研究者たちのみがこの城に関心を持っていたのです。彼らは1987年以来、城の縄張り図を掲載した事典や雑誌を刊行してきました(「中世城郭研究」など)。これらの書籍では、杉山城の縄張り図が最も多く掲載されているものの一つでした。これにより、この城は少しずつ知れ渡ってきたのです。2002年から2007年に発掘が行われた後、この城跡は2008年に「比企城館跡群」の一つとして国の史跡に指定されました。

この現地案内図も立派な縄張り図です

私の感想

もし杉山城がもっと大きくて、櫓、門、石垣などを備えていたとしたら、姫路城のような、ずっと後に作られた見事な城のように見えるのではないでしょうか。杉山城は、先進的な城の設計を先取りしていたことになります。しかし個人的には、この城の歴史的価値よりも、それを築いた努力に敬意を表します。この城の知られざる築城者は、少ない予算、資材、作業者しか確保できなかったに違いありません。この城の目的は限られていたからです。その築城者は、困難な状況下でもどうやって優れた仕事ができるか懸命に考えたことでしょう。もし十分な予算があれば、すごい城を作るのは容易だったかもしれません。杉山城は、現代の私たちにとっても、限られた資源でどうやっていい仕事をするのかを示すよい教材だと思うのです。

姫路城
杉山城跡

ここに行くには

ここに行くには、車を使われることをお勧めします。
関越自動車道の嵐山小川ICから約15分の所です。
城跡に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、東武東上線の武蔵嵐山駅からせせらぎセンター行きのときがわ町路線バスに乗り、田黒バス停で降りてください。
バス停から歩いて約20分かかります。

城跡の駐車場

リンク、参考情報

国指定史跡 杉山城跡公式ホームページ
・「杉山城の時代/西股総生著」角川選書
・「歴史群像61号、戦国の堅城 武蔵杉山城」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「杉山城その1」に戻ります。
「杉山城その2」に戻ります。

120.菅谷館(Sugaya Hall)

この城は、伝説と現実の間(はざま)にあります。
This castle is between legend and reality.

現在の菅谷館本郭の入り口(The present entrance of Sugaya Hall Hon-Kuruwa)

Location and History

「菅谷館」という名前には少し説明が必要です。「館」という用語は、この場合には「中世初期の武士の館」を指します。通常は、平地の上に土塁か柵を伴う館が堀で囲まれている構成でした。例としては足利氏館が挙げられるでしょう。
The name “Sugaya Hall” needs a small explanation. The term “hall” means ”warrior’s hall in the early Middle Ages” in this case. It usually consists of a hall with earthen walls or fences, and a surrounding moat on a plain, for example, like the Ashikaga clan hall.

足利氏館跡(Ashikaga Clan Hall Ruins)

菅谷館には、鎌倉幕府の重臣であった畠山重忠について、当時ここに住んでいたという地元の言い伝えがあります。古い記録である「吾妻鏡」にも彼が菅谷館に住んでいたという記載があります。そのためこの遺跡が菅谷「館」と呼ばれ、ここに重忠の像が立っているのです。
Sugaya Hall has a local tale about Shigetada Hatakeyama, a senior vassal of the Kamakura Shogunate, living there at that time. An old document called “Aduma-Kagami” also says he lived in Sugaya Hall. That’s why these ruins are called Sugaya “Hall” and the statue of Hatakeyama is standing on the ruins.

畠山重忠像(The statue of Shigetada Hatakeyama)

しかしながら、この遺跡の外観はそのような説明と違っています。明らかに戦国時代の城跡に見えるのです。その時代の古書もまたこの城を「館」ではなく、菅谷「城」と記しています。加えて、発掘の結果からも戦国時代の1500年前後に使われたことが判明しています。つまるところ、「菅谷館」という名前は、行政側による伝説と現実との間での妥協の産物のようなのです。
However, the appearance of the ruins is different from such descriptions. They look like the ruins of a castle in the Warring States Period obviously. Old documents in the period also call them Sugaya “Castle”, not “Hall”. In addition, the result of excavation says the castle was used around 1500 in the Warring States Period. Overall, the name “Sugaya Hall” seems to come from a kind of compromise between legend and reality by the officials.

菅谷館跡全景(The whole view of Sugaya Castle Ruins)~埼玉県立嵐山史跡の博物館ウェブサイトより引用

いずれにせよ、この城は1488年の「須賀谷原の戦い」のような戦国大名が戦いを繰り広げた重要な地域にありました。戦国大名の一つ、扇谷上杉氏がその戦いのため菅谷古城を再興したこと、しかし敗れてその城に幽閉されたことが記録されています。他の文書にはその約100年後には北条氏がこの城を使っていたとあります。つまり、この城は何度か使われたり放棄されたりしたようなのです。
Anyway, the castle was in the important area where warlords battled each other such as “The battle of Sugayahara” in 1488. Records say that one of the warlords, the Ogigayatsu Uesugi clan, restored the old Sugaya Castle for the battle, but they were defeated and kept under arrest in the castle. Another document says that the Hojo clan used the castle about 100 years later. After all, the castle seemed to be used and abandoned several times.

二の郭前の堀(The moat in front of Ni-no-Kuruwa)

菅谷城は現在の埼玉県西部にあたる場所の低台地上にあり、近くには中世の主要街道である鎌倉街道が通っていました。中心の本郭は、背後を都幾川に、両側を自然の渓谷により守られていました。本郭の入り口は厳重に防御され、二の郭、三の郭などいくつかの郭が本郭の前に広がっていました。
Sugaya Castle is located on a low plateau in what is now the western part of Saitama pref. where the Kamakura road, a main road in the Middle Ages was passing nearby. The main enclosure, “Hon-Kuruwa”, was protected by the Tokigawa river behind it and natural valleys both sides. The entrance of Hon-Kuruwa is strictly guarded and several enclosures including “Ni-no-Kuruwa” and “San-no-Kuruwa” spread out in front of Hon-Kuruwa.

菅谷館跡の地図(The map of Sugaya Hall Ruins)~現地案内板写真に追記

Features

菅谷館跡には建物はありませんが、基礎は残っており、よい状態で保存されています。基礎は全て土造りであり、戦国時代の東国においてはそれが一般的な方法でした。
The ruins of Sugaya Castle retain their foundation but with no buildings. The foundation is well preserved, and is all made from soil which is a typical method of building castles in eastern Japan in the Warring States Period.

菅谷館跡の土塁(An earthen wall of Sugaya Hall Ruins)

一例として、本郭を見てみましょう。この郭は、重忠の館があったと考えられています。それが事実なら、後から城の中心部分として強化されたはずです。
Let’s look at Hon-Kuruwa for instance. This enclosure is thought to be Hatakeyama’s hall. If it’s true, it must have been strengthened as the center of the castle later.

菅谷館跡の地図、アルファベットは以下の写真を撮った位置(The map of Sugaya Hall Ruins, Alfabetic characters show the points pictures below were taken)~現地案内板写真に追記

本郭は、高い土塁と深い空堀に囲まれています。これにより、防御側は敵の攻撃から守りやすくなります。「虎口」と呼ばれる入り口は狭くなっており、そこに至る進路はジグザグに作られていて、敵がまっすぐ内部に入れないようになっています。
Hon-Kuruwa is surrounded by a high earthen wall and deep dry moat. That makes it easier for defenders to protect them from an enemy’s attack. Its entrance, called “Koguchi”, is narrow and the route to it is made zigzagged so that attackers are unable to enter inside directly.

A.本郭の土塁と空堀(The earthen wall and dry moat of Hon-Kuruwa)
B.本郭の入り口(The entrance of Hon-Kuruwa)

更には、この土塁は部分的に意図的に突き出ています。これにより防御側はその部分から敵の正面と側面両方を攻撃することができます。このような構造は「出桝型土塁」と言われます。これは戦国時代においては、他の構造と組み合わせることで、高度な城の防御システムとなりました。よって一部の歴史家は、北条氏が城を改修したのだろうと推定しています。
In addition, the wall is partly stuck out on purpose. This allows defenders to attack from the sticking point to an enemy’s front and sides. Such a structure is called a “Dematsu” shaped earthen wall. It is an advanced system when combined with other defensive features for castles in the Warring States Period. So some historians speculate Hojo might have improved the castle.

C.出桝型土塁(The “Dematsu” shaped earthen wall)
D.本郭の内部(The inside of Hon-Kuruwa)
E.二の郭の入り口、最も高くなっている(The entrance of Ni-no-Kruwa, the highest point)

Later Life

この城は戦国時代の終り頃から長い間放置されていたようです。それ以来、城跡は民間の所有となり、畠山重忠の遺産であると思われてきました。約100年前の大正時代に初めてここが調査されたとき、重忠の像が建てられます。1973年になって遺跡が国の史跡に指定され、2008年には「比企城館跡群」の一つに改めて指定されました。
The castle seemed to be abandoned for a long time since sometime at the end of the Warring States Period. Since then, the ruins were private owned and thought of as Hatakeyama’s heritage. His statue was built when the ruins were first investigated in the Taisho Era about 100 years ago. In 1973, the ruins were designated as a National Historic Site, then were newly designated one of the “Hiki Castles Ruins” in 2008.

明治初期の城跡周辺の地図、土塁が残り畑・林となっていた(The map around the ruins in the early Meiji Era, there was a field and woods)

My Impression

関東地方の戦国大名は必要な数だけ城を作りました。その城がいらなくなったときは、速やかに廃城としました。一方、廃城となった城を再利用したいときは、その城を再建または増築しました。結果として城を廃城とするときは、完全には破壊しませんでした。代わりに一部を壊すか、建物だけを撤去しました。恐らくそれが効率的で、且つ再利用しやすかったからでしょう。それで菅谷館(城)の基礎がよく残ったと思うのです。
Warlords in the Kanto region built castles as many as they needed. When they didn’t need the castles, they immediately abandoned the castles. On the other hand, when warlords wanted to reuse abandoned castles, they restored or improved the castles. As a result, when warlords abandoned castles, they didn’t completely destroy the castles. Instead, they often destroyed part of the castles, or just remove their buildings. Probably it could be because it is more efficient and easy to reuse. I think that’s why the foundation of Sugaya Hall (Castle) remains well.

本郭の裏手(The back of Hon-Kuruwa)

今、城跡の三の郭には嵐山史跡の博物館があります。そこでは比企城館跡群(菅谷館、杉山城、松山城、小倉城)の歴史や出土品を展示しています。そこで歴史を学んでまず菅谷館に行ってみましょう。その他の内、杉山城はここからわずか5キロのところにあります。両方行ってみるのもよいでしょう。
There is the Ranzan Historical Museum on San-no-Kuruwa of the ruins now. It shows the exhibition of history and the excavation about Hiki Castle Ruins including Sugaya Hall, Sugiyama, Matsuyama and Ogura Castles. Let’s look into their history and visit Sugaya Hall first. Out of the others, Sugiyama Castle ruins is only about 5 km from there. So, how about visit the set of them.

嵐山史跡の博物館(the Ranzan Historical Museum)

比企城館跡群の4つの城(The four castles of Hiki Castle Ruins)





How to get There

車を使う場合、遺跡は関越自動車道の嵐山小川ICの近くです。嵐山史跡の博物館に駐車場があります。
電車を使う場合は、東武東上線の武蔵嵐山駅から歩いて約15分です。
東京から武蔵嵐山駅まで:池袋駅から東武東上線に乗ってください。
When using car, the ruins is near Ranzan-Ogawa IC on Kan-Etsu Expressway. Ranzan Historical Museum offers a parking lot.
When using train, it takes about 15 minutes on foot from Musashi-Ranzan Station on Tobu Tojo line.
From Tokyo to Musashi-Ranzan Station: Take the train on Tobu Tojo line from Ikebukuro Station.

Links and References

埼玉県立 嵐山史跡の博物館(the Ranzan Historical Museum)