144.大垣城 その1

天下分け目の決戦場になったかもしれない城

立地と歴史

天下分け目の決戦場

関ヶ原の戦いは、日本の歴史のなかの最も重要な出来事の一つです。徳川家康に率いられた東軍と、石田三成に率いられた西軍が1600年に関ヶ原で戦い、その結果、徳川幕府の設立につながったのです。ほとんどの日本の人たちは関ヶ原のことを知っているでしょうが、大垣城はどうでしょうか。実はこの城は、もし状況が変わっていれば(三成が城に居座っていたならば)この戦いの決戦場になったかもしれないのです。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石田三成像、杉山丕氏蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

かなめの所、大柿の城

大垣城は、美濃国(現在の岐阜県)の西部にあり、関ヶ原を通して西日本とつながっていました。最初にいつこの城が築かれたかは定かではありませんが、日本が統一されてきた戦国時代の16世紀後半には重要な存在となっていたのです。天下人の豊臣秀吉は「かなめの所大柿(大垣)の城」と言っており、城主として近親者を送り込みました。この城は平地に築かれたのですが、堀と川に幾重にも囲まれていました。水城のように見えていたのでしょう。

城の位置

1598年に秀吉が亡くなった後、徳川家康と石田三成との間に政争が起こりました。家康が、秀吉の幼少の息子でその時はまだ天下人あった秀頼の力を凌ぐのではないかと、三成は疑ったのです。家康は、1600年6月に彼に逆らった上杉氏を討伐するために東日本に向かいました。そして光成は、7月に西日本で家康を倒すために挙兵したのです。東軍と西軍は、大垣城や関ヶ原がある中日本で戦うことが予想されました。三成は、本陣として大垣城に滞在し、大垣城の背後の山にいくつもの陣城(南宮山城など)を築き、そこに同盟者(毛利秀元など)を据えました。三成は、できるだけの準備を行い、そこで家康の攻撃を待っていたのです。彼はまた、関ヶ原周辺に松尾山城などの大きな山城を築き、有力大名の毛利輝元や彼の主人である秀頼を呼び寄せ、彼の味方にしようとしたのです。もし、彼の計画が実現していれば、家康は負けていたかもしれません。秀頼はその時点ではまだ家康の主人でもあったからです。

豊臣秀頼肖像画、養源院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

なぜ三成は城を出たのか

ところが、9月15日、三成は突然城を後にし、関ヶ原で家康と戦い、たった一日で敗れてしまいました。なぜ三成は、彼の計画を捨て、恐らく彼は苦手でも家康は得意であった野戦を選んだのでしょうか。これまでの定説は、家康が大垣城を飛び越えて西日本の方へまっすぐ攻撃しようとすることに気付き(その情報を流すことが家康の謀略だったとも言われます)、同盟者とともに家康を先回りして関ヶ原に布陣したとされています。彼ら西軍は最初の頃はよく戦ったのですが、同盟者の一人、小早川秀秋が戦いの最中に裏切ったことによりついには敗れたというものです。この筋書きは劇的であり、多くの日本人は長い間それを信じていました。ところがそれは、実際の戦いから約60年も後に、江戸時代の軍記物に初めて現れた話だったのです。私もその話は、三成が城をわざわざ離れる理由としては弱すぎるように思います。

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最近の研究が、三成が大垣城から移動した理由を明らかにしてくれるかもしれません。これらの研究によれば小早川秀秋は、これまでの定説よりももっと前から東軍に味方することが予測されていたとのことです。秀秋は、三成の計画に逆らって松尾山城を占拠し(その城には別の大名が入る予定になっていた)、戦いの前に関ヶ原に移動していたというのです。その場合、三成が大垣城に留まっていると、挟み撃ちにあってしまうことになります。三成は秀秋の動きに気付き、最悪のケースを避けるために止む無く関ヶ原に移動したのです。また、三成は、家康と秀秋に対抗するため、ある山城(玉城~たまじょう)に入ろうとしたが、果たせずに関ヶ原周辺で撃滅されてしまったとする説もあります。関ヶ原の戦いの後、三成の一部の部下はまだ大垣城に残っていました。しかし多勢に無勢であり、東軍に一週間城を包囲され、降伏することになってしまいました。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

水の都、大垣

関ヶ原の戦いの後、大垣城はまだ東日本と西日本をつなぐ重要地点とされていました。いくつかの大名家がこの城を居城とし、改良を加えました。例えば、石川氏は外堀を完成させ、松平氏は天守を四層に改築しました。その天守は本丸にあり、城主の御殿がある二の丸とつながっていました。両方の曲輪は内堀に囲まれていました。そして、合わせて三重の堀が城を囲んでいたのです。また、城下町が水路や川によって城と一体化されていました。そのため、現在の大垣市は水の都と呼ばれてきたのです。1635年以来、戸田氏がこの城と、大垣藩と呼ばれた城の周辺地域を江戸時代末期まで支配しました。

大垣城の四層天守の古写真、現地説明板より
「美濃国大垣城絵図」部分、出典:国立公文書館
上記絵図の大垣城中心部分
大垣藩戸田氏の初代、戸田氏鉄の銅像

「大垣城その2」に続きます。

21.江戸城その2~Edo Castle Part2

江戸は、水の都だったのです。
Edo was a city of waterways.

葛飾北斎「富嶽三十六景」より「江戸日本橋」、江戸時代~”Nihonbashi Bridge in Edo” from the series “Thirty-six Views of Mount Fuji” attributed to Hokusai Katsushika in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特徴~Features

今となっては、ほとんどの人が東京が水の都とは思わないでしょう。ところが、実は江戸はそうだったのです。徳川氏が江戸に移ってきたとき、江戸城は現在の山の手区域にありました。現在の下町にあたる地域は海の下にあったか、湿地帯でした。そして江戸前島と呼ばれた砂州が存在していました。また、陸地と砂州の間には日比谷入江が入り込んでいました。徳川の家臣団は、江戸前島を横切る運河を掘り、水運の便のために川筋を変更したのです。
These days, most people don’t realize that Tokyo is a city of waterways. However, Edo actually was. When the Tokugawa clan moved into Edo, Edo Castle was in the present uptown area. The present down town area was below the sea or waterlogged. There was a sand bank called Edo-Maeto. There was also the Hibiya arm of the sea between the land and the bank. Tokugawa’s team created a canal across Edo-Maeto and change the route of rivers for water transportation.

東京中心部のカラー標高図にコメント付加、江戸前島と日比谷入江の痕跡がわかります~The color altitude map of central Tokyo, adding comments, you can see traces of Edo-Maeto and the Hibiya arm of the sea(出典:国土地理院)

日比谷入江から江戸前島の東側に川筋を変更して作られた運河が、日本橋川でした。そこには現在日本橋がかかっています。この橋は昔ながらの姿で知られており、多くの主要道路の出発地点でもあります。
A canal created for changing the route of the river from the Hibiya arm of the sea to east of Edo Maeto is Nihonbashi River, where Nihonbashi Bridge goes across. The bridge is known for a traditional view and the starting point of many major roads.

日本橋~Nihonbashi Bridge
1911年に完成直後の現存日本橋~The remaining Nihonbashi Bridge just after the complition in 1911(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日本橋にある日本国道路元標~The starting milestone of Japan at Nihonbashi Bridge(licensed by Aimaimyi via Wikimedia Commons)
歌川広重「東海道五十三次」より「日本橋」、江戸時代~”Nihonbashi Bridge” from the series “Fifty-three Stations of Tokaido” attributed to Hiroshige Utagawa in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

事実、この橋の下を流れる川は人工物で、それは400年以上前に作られたものなのです。この川からは、江戸前島の中心を通る外堀が分かれていました。
In fact, the river below the bridge is artificial and was created over 400 years ago. From the river, the outer moat separated out trough the center of Edo Maeto.

日本橋川~Nihonbashi River
戦前の有楽町付近の外堀~The outer moat near Yurakucho before World War II(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

徳川は、城の敷地を広げるためと防衛上の必要から日比谷入江を埋め立てました。更に、江戸前島の周りの海も市街地の確保のため埋め立てたのです。一方で、海の一部分は埋め残して堀、川や運河としました。結果として、江戸は水路とともに広がっていきました。今だにその痕跡は現代の地図上に残っています。それらをいつくか巡ってみましょう。
Tokugawa reclaimed the Hibiya arm of the sea to expand the ground for the castle as well as the need for defense. They also filled the sea around Edo Maeto to create the city area. Meanwhile, they left part of the sea as moats, rivers and canals. As a result, Edo city was spread with waterways. There are still traces of them on the present map. Let’s see some examples.

江戸時代初期の江戸推定地図~The estimated map of Edo in the first Edo Period(国土交通省Websiteから引用)

赤い線は現在の地図に残された江戸前島と日比谷入江の痕跡、マーカーは以下の項目に関連しています~The red line shows the remaining trace of Edo-Maetou and Hibiya Arm of the Sea on the present map, markers are related with the following items

愛宕神社~Atago Shrine

ここは急坂に「出世」の階段があることで有名です。日比谷入江の入り口の近くにあたります。
It is famous for its steep steps of “success”. It was near the entrance of the Hibiya arms of the sea.

愛宕神社の鳥居~The Torii Gate of Atago Shrine
出世の階段、馬にのってこの階段を登り切った武士は出世できると言われていました~The Steps of Success, it was said that if a warrior riding a horse could get the top, he would be promoted

赤坂1丁目交差点~Akasaka-icchome intersection

ここは溜池から流れる川の河口でした。外堀の一部に転用されました。
This was the estuary of the river from Tameike. It was turned into a part of the outer moat.

赤坂1丁目交差点に向かいます~Going to Akasaka-icchome intersection
かつて外堀であった「外堀通り」~”Sotobori Street” which means outer moat street, former the outer moat
今に残る外堀の石垣~Remaining stone walls alomgside the outer moat

潮見坂~Shiomi slope

霞ヶ関官庁街の中にあります。ここは日比谷入江の西際だったようです。
It is among Kasumigaseki governmental ministries. It seems to be the west edge of the Hibiya arm.

潮見坂~Shiomi Slope

桜田門周辺~Aroud Sakurada-mon Gate

この門の近くに別の川の河口があったようです。内堀の一部として残っています。
This seems to be the estuary of another river near the gate. It remains a part of the inner moat.

桜田門~Sakurada-mon Gate
桜田濠と呼ばれる内堀の一部~A part of the inner moat called Sakurada-bori

皇居正門~The main entrance of Imperial Palace

宮殿は西の丸だった所にあります。正門前の内堀は元は海でした。
The palace is on what was Nishinomaru enclosure. The inner moat in front of it was originally the sea.

皇居正門と石橋~The main entrance of Imperial Palace and The Stone Bridge
西の丸は高い所にあります~Nishinomaru enclosure is in a high place

皇居外苑~The Outer Gardens of the Imperial Palace

ここは完全に海で、周りの内堀を残して埋め立てられました。
This was completely a sea, and filled without the inner moat around.

皇居外苑~The Outer Gardens of the Imperial Palace

坂下門~Sakashita-mon Gate

門の周辺の内堀は、もともと川や谷だった所を使っています。
The inner moat around the gate uses the original rivers and valleys.

坂下門~Sakashita-mon Gate
門周辺の内堀~The inner moat around the gate

大手門周辺~Around Ote-mon Gate

ここには日比谷入江に注ぐ平川の河口がありました。
This was the estuary of Hirakawa River emptied into the Hibiya arms of the sea.

大手門~Ote-mon Gate
大手門前の内堀~The inner moat in front of Ote-mon Gate

和田倉門~Wadakura-mon Gate

日比谷入江の一番奥の場所にあたります。和田倉とは海岸にある倉庫の意味です。
This was the inmost place of the Hibiya arm of the sea. Wadakura means warehouse st seashore.

和田倉門~Wadakura-mon Gate
ここが最奥だった地点か?~Was this the inmost spot?

日比谷公園~Hibiya Park

内堀の石垣跡が休憩所として活用されています。
The ruins of stone walls for the inner moat is used for a resting place.

日比谷公園の休憩所~The resting place of Hibiya Park
それは石垣の上にあります~It is on the stone walls

山手線の側面~The side of Yamanote line

レンガ造りの高架鉄道は元から陸地の所だから可能だったと言われています。
It is said that the elevated red brick railway could be available on the primary land.

山手線のレンガ作りの高架鉄道~The elevated red brick railway of Yamanote line

新橋跡~The ruins of Shinbashi bridge

この橋は汐留川にかかっていましたが、元は江戸前島の突端にあたります。
The bridge went across Shiodome-gawa River which was originally the edge of Edo Maeto.

現存する新橋の親柱~The remaining newel post of Shinbashi Bridge

銀座の裏通り~The back street of Ginza

江戸前島の東海岸を利用して作られた三十間堀川がここを流れていました。
Sanjukkenbori River went through it and it was built using the east coast of Edo Maeto.

銀座の裏通り、ここも海や川でした~The back street of Ginza, it was also the sea or river

首都高速都心環状線~The Tokyo Metropolitan Expressway Ring Route

ここは楓川と、ドックのような形の舟入堀がありました。この川は日本橋川につながっていました。
This was Kaedegawa River with several Funairi moats like docks. The river connected to Nihonbashi River.

首都高速都心環状線、元楓川~The Tokyo Metropolitan Expressway Ring Route, the former Kaedegawa River
かつては楓川を渡っていた橋、A bridge which went across Kaedegawa River in the past

その後~Later Life

明治維新後、城の多くの建物は撤去されましたが、多くの水路は残りました。人々がまだ使っていたからです。一例として、東京の魚市場は1923年の関東大震災まで日本橋川沿いにありました。地震の後になって築地に移転したのです。
After the Meiji Restoration, many buildings of the castle were demolished, but many waterways remained, because people still used them. For instance, the fish market in Tokyo was along Nihonbashi River until the Great Kanto Earthquakes in 1923. After that, the market moved to Tsukiji.

明治初期の東京中心地の地図、まだ多くの水路がありました~The map of central Tokyo in the early Meiji Era, there were still a lot of waterways
日本橋の魚市場~The Fish Market at Nihonbashi(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

第二次世界大戦後、一部の外堀が焼けた建物の残骸により埋められました。今の外堀通りです。
After World War II, part the outer moat was filled by the debris of burned buildings. It has become Sotobori Street.

外堀通り~Sotobori Street

昭和の中期に車が普及し、1959年には、1964年の夏のオリンピックが東京で開催されることが決まりました。東京の交通インフラ、特に高速道路を整備するための時間はわずかしかありません。政府は高速道路の用地として残っていた水路を使わざるをえませんでした。買収する必要がないからです。東京のほとんど全ての水路が消え失せました。
In the mid Showa Era, motorization came and it was decided in 1959 that the 1964 summer Olympics in Tokyo would be held. There would be little time to develop the infrastructure for transportation in Tokyo, especially an expressway. The government had to use the remaining waterways as the land for the expressway. Because they didn’t need buy them. Almost all of the waterways in Tokyo died out.

京橋川上に建設中の高速道路、1960年~The expressway under construction above Kyobashigawa River in 1960(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

日本橋と日本橋川は歴史的価値があるため、かろうじて残されました。そのため高速道路がその上を走っているのです。日本橋地域の人たちは、古き良き景観を取り戻すため政府に対し高速道路を地下に移すよう請願しています。
Nihonbashi Bridge and Nihonbashi River have survived due to their historical values. That’s why the expressway goes above them. Now, people in the Nihonbashi area urge the government to move the expressway underground to get its good old landscape back.

日本橋上の高速道路~The expressway above Nihonbashi Bridge

「江戸城その3」に続きます。~To be continued in “Edo Castle Part3”
「江戸城その1」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part1”

21.江戸城その1~Edo Castle Part1

江戸城は間違いなく日本で最大の城です。なぜなら城が東京そのものになったからです。時々、外国からの旅行者の方は、どこに有名な城や城跡があるのかと尋ねられます。もし、そこが東京の中心地であるなら、もうそこは城の中かもしれません。
Edo Castke was definitely the largest castle in Japan, because it became Tokyo itself. Some foreign tourists ask that where famous Japanese castles and ruins are. They may be standing among castles if they are in the center of Tokyo.

皇居正門石橋と伏見櫓~The Imperial Palace Main Entrance Bridge and Fushimi Turret

立地と歴史~Location and History

東京を含む関東平野には、中世までは大きな湿地帯がありました。この理由から、はるか昔の東海道は西日本から伸びてきて、 海を越えて房総半島に至っていました。利根、渡良瀬、隅田といった大河が直接江戸湾に注いでいたのです
The Kanto Plain including Tokyo had large waterlogged area until the Middle Ages. For this reason, the Tokaido road went from eastern Japan to Boso peninsula over the sea hundreds years ago. Large rivers like Tone, Watarase, and Sumida directly flow into what is now Tokyo Bay.

古代の関東平野の海岸線~The coastline of Kanto Plain in ancient times(licensed by Llhoi2013 via Wikimedia Commons

江戸城は1457年に太田道灌によって最初に築かれました。彼には敵との境界線であった利根川の近くに城を築く必要があったのです。その後この城は、戦国時代の間関東地方の支配者であった北条氏の支城の1つであり続けました。しかし、地理的な制約から武士たちの都とするには不十分でした。
Edo Castle was first built by Dokan Ota in 1457. He needed to build the castle near the border with his enemy, Tone River. After that, the castle had been one of the branch castles of the Hojo clan who were the ruler of Kanto region during the Warring States Period. But the castle still didn’t deserve warrior’s capital because of its geographical features.

太田道灌肖像画、大慈寺蔵~The portrait of Dokan Ota, owned by Daijiji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊臣秀吉は1590年に北条氏を滅ぼし、徳川家康に対し、北条氏に代わり関東地方に転封するよう命じました。秀吉はまた、家康の首府として江戸を指定したと言われています。秀吉は、彼による攻撃を3ヶ月間も耐えた北条氏の首府、小田原に家康が居座るのを恐れたからといいます。
Hideyoshi Toyotomi defeated Hojo clan in 1590, and ordered Ieyasu Tokugawa to move to Kanto region instead of Hojo. It is said that he also designated Edo as Ieyasu’s capital because he feared Ieyasu would settle at Hojo’s capital Odawara which could withstand Toyotomi’s attack for three months.

豊臣秀吉肖像画部分、加納光信筆、高台寺蔵~part of the Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, owned by Kodaiji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康は江戸に到着した直後から、江戸城への驚くべき大改造を開始しました。これは、日本人による湾岸地域での都市作りの初めての試みと言われています。
Immediately after Ieyasu arrived at Edo, he started an incredible renovation of Edo Castle. It is said that it was the first attempt for Japanese people to build a city on a waterfront area.

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵~The Portrait of Ieyasu Tokugawa, attributed to Tanyu Kano, owned by Osaka Castle Museum(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

初期の江戸城は、現在の山の手地域にありました。現在の下町地域は、海面下か湿地帯でした。そして、江戸前島と呼ばれた砂州がありました。また、陸地と砂州の間には日比谷入江が入り込んでいました。
The first Edo Castle was in the present uptown area. The present down town area was below the Sea or waterlogged. There was a sand bank called Edo-Maeto. There was also the Hibiya arm of the sea between the land and the bank.

赤い線は現在の地図に残された江戸前島と日比谷入江の痕跡~The red line shows the remaining trace of Edo-Maetou and Hibiya Arm of the Sea on the present map

徳川家臣団は、水上交通のために江戸前島を横切る運河を掘り、川の流路を付け替えたりしました。彼らはまた、このような湾岸都市であったため、上下水道の設備も整えなければなりませんでした。その結果、江戸は水の都となったのです。
Tokugawa team created a canal across Edo-Maeto and change the route of rivers for water transportation. They also had to build a system for water supply and sewerage on such a waterfront city. As a result, Edo became a city of waterways.

戦前の東京の航空写真、まだ水路がたくさん残っていました~A aerial photo of Tokyo before the World War II, a lot of wateways still remained.

家康が1600年に天下を取った後、彼は全国の諸大名に天下普請と呼ばれる城の拡張工事を命じました。日比谷入江は城の用地拡大と防衛上の必要のため、埋め立てられました。この大規模な工事により、天守を含む多くの建物が作られ、多くの堀が掘られ、石垣が高く積まれました。
After Ieyasu got the power in 1600, he ordered lords of the whole country to improve the castle called Tenka-Bushin. They reclaimed Hibiya arm of the sea to spread the ground for the castle as well as the need for defense. Many buildings including Tenshu keep were built, many moats were dug, and high stone walls were built by the large scale construction.

「江戸図屏風」左隻部分、17世紀、国立歴史民俗博物館蔵~Part of “View of Edo” left screen. pair of six-panel folding screens, in the 17th century, owned by National Museum of Japanese History(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

大名たちは少なくとも6万個もの百人石と呼ばれた4トン石を、伊豆半島から海を越えて江戸まで運ばねばなりませんでした。1603年から1660年まで続いた天下普請は江戸を日本一の大城郭に仕立てたのです。
These lords had to carry at least 60,000 four ton stones called Hyakunin-Ishi from Izu Peninsula to Edo over the sea. Tenka-Bushin between 1603 and 1660 resulted in Edo Castle being the largest castle in Japan.

伊豆半島に残されている江戸築城石~A quarry stone for building Edo Castle left in Izu Peninsula(licensed by GuchuanYanyi via Wikimedia Commons)

江戸城は、内郭と外郭に分かれていました。内郭は内堀の内側で、城の中心部分で、主要な曲輪である本丸、二の丸、西の丸から構成されていました。その外周は8km近くありました。そこには天守、それぞれの曲輪に御殿があり、そして警備のために多くの櫓や門がありました。
Edo castle was divided into Naikaku and Gaikaku. Naikaku was the inside of the inner moat, and consisted of the center portion of the castle including main enclosures Honmaru, Ninomaru, and Nishinomaru. Its perimeter was nearly 8 km. It had the Tenshu keep, halls for each main enclosure, many turrets and gates for security.

今に残る内郭部分の航空写真~The aerial photo of the remaining Naikaku portion

外郭は、外堀に囲まれていた区域で、その外周は約16kmもありました。見附と呼ばれた大型の門と橋のセットが約50ヶ所、主要街道と堀との交差点に置かれ、民衆と交通を監視していました。
Gaikaku was the surrounding area by outer moat whose perimeter was about 16 km, even including the city area. About 50 sets of a large gate and bridge called Mitsuke were placed at the intersections of the moat and major roads to check people and transportation.

江戸古地図上での外郭範囲~The range of Gaikaku on the old Edo map(licensed by Tateita via Wikimedia Commons)

その完璧な構造にも関わらず、この城は敵からではなく、火災による被害を受けました。もっとも有名なのは1657年に発生した明暦大火です。この大火により、大半の江戸市域、江戸城、そして3代目の天守が焼け落ちました。大火の後、4代目天守の再建工事が開始されましたが、中止となりました。そのための天守台は今でも見ることができます。
Despite the perfect structure, the castle suffered not from enemies, but from fires. The most famous one was the great fire of Meireki in 1657. It burned out most of Edo City, Edo Castle, and the third Tenshu keep. After the fire, the rebuilding of a fourth Tenshu was launched, but canceled. We can now see the prepared Tenshu base for it.

4代目天守台~The base of the forth Tenshu keep(taken by 松波庄九郎 from photoAC)

将軍は本丸御殿に住み、統治を行いましたが、御殿も火災での焼失と再建を繰り返しました。幕末になってから、将軍は焼けた本丸御殿から通常は隠居した将軍が住む西の丸御殿に移らなければなりませんでした。予算がなかったからです。
Shogun lived and governed in Honmaru hall, but the hall was also burned down and restored several times. At the end of the Edo Period, Shogun had to move from the burned Honmaru hall to Nishinomaru hall where retired Shogun usually lived, because of the lack of money.

江戸東京博物館にある本丸と二ノ丸御殿の模型~The miniature model of Honmaru and Ninomaru halls at Edo-Tokyo Museum(licensed by Daderot via Wikimedeia Commons)

明治維新のとき、西日本の方で新政府と幕府の間で戦いが起こりました。結果として、西郷隆盛と勝海舟との会談が行なわれ、江戸城は新政府に平和裏に引き渡されました。
During the Meiji Restoration, a battle between the New Government and Shogunate was fought in eastern Japan. As a result, Edo Castle was handed over to New Government without war after the meeting between Takamori Saigo and Kaishu Katsu.

西郷・勝会談の記念碑~The monument of the meeting between Saigo and Katsu(licensed by 江戸村のとくぞう via Wikimedia Commons)

1869年、江戸は東京と名前を変え、日本の首都となりました。そして明治天皇が将軍と入れ替わりで、古都京都から東京の江戸城西の丸御殿に移りました。そのため、現在西の丸は皇居の一部となっています。
In 1869, Edo was renamed Tokyo which became the capital of Japan, before the Emperor Meiji move from old capital Kyoto to Nishinomaru hall of Edo Castle in Tokyo instead of Shogun. That’s why Nishinomaru is now part of the Imperial Palace.

明治天皇の東京到着を描いた錦絵~The picture that shows the arrival of Emperor Meiji to Tokyo(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「江戸城その2」に続きます。~To be continued in “Edo Castle Part2”