14.水戸城 その1

水戸城は、現在は茨城県の県庁所在地となっている水戸市にありました。この城は将軍家に次ぐ徳川御三家の一つ、水戸徳川家の本拠地となっていました。しかしこの城は、他の御三家や将軍の本拠地とは随分と違った外観をしていました。

立地と歴史

天然の要害を利用して築かれた城

水戸城は、現在は茨城県の県庁所在地となっている水戸市にありました。この城は将軍家に次ぐ徳川御三家の一つ、水戸徳川家の本拠地となっていました。しかし、この城は他の御三家の本拠地、名古屋城、和歌山城と、将軍がいた江戸城とは随分と違った外観をしていました。

水戸市の範囲と城の位置

水戸城は、中世初期のある時期に地元領主の馬場氏が最初に築いたと言われています。城は、北にある那珂川と南にある千波湖に挟まれた洪積層の台地上に築かれました。このような天然の要害の地は、もともと高い防御力があるために、領主にとってここに城を築くのは必然かつ容易であったと思われます。しかし、この城の初期段階においてはその規模は小さく、台地の端の方に領主の館があった程度だと考えられています。

城周辺の起伏地図

時が経ち、水戸城はより有力な領主である江戸氏や佐竹氏に奪取されました。そして大規模な城に拡張されていきました。佐竹氏は戦国時代の16世紀の時点で、関東地方では最も有力な戦国大名の一つでした。佐竹氏は、台地の東側から西側に向かって、本丸、二の丸、三の丸を一直線に並べ、城の基本的構造を完成させました。これらの曲輪は土造りで空堀によって隔てられていて、これは当時の東日本においては典型的な城づくりの方法でした。ところが佐竹氏は、1602年に徳川幕府の創始者である徳川家康によって、東北地方に転封となってしまいました(その地で久保田城を築城します)。1600年の天下分け目の戦いにおいて家康に味方しなかったからとされています。

久保田城跡、ここも基本的に土造りの城です

徳川御三家の本拠地となる

家康は、水戸城に彼の子息たちを送り込みました(武田信吉や徳川頼宜)。将軍の本拠地、江戸城の北方の重要な防衛拠点となったためです。最終的には家康の末子である頼房が、1609年に水戸藩の初代藩主として水戸城主となりました。それ以来、水戸藩が御三家の一つとして、江戸時代末期まで城とその周辺地を統治しました。水戸城もより整備が進みました。例えば、それまでの本丸、二の丸、三の丸がそれぞれ新たに、下の丸、本丸、二の丸となりました。そして新たに三の丸が西側の方に設置されました。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、徳川ミュージアム蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図

しかし、他の徳川各家が天守や高石垣など卓越した土木建築技術を擁して築いた名古屋城和歌山城江戸城とはちがって、水戸城はまだ土造りのままで、東日本の従来からの技術を使っていました。その理由として考えられるのは、水戸藩の藩主が通常、江戸の将軍の近くの御殿に住んでいたということです。または、幕府の統治が安定してきて、城をこれ以上改修する必要がなかったこともあるでしょう。しかし、もっともあり得そうな理由は水戸城は石垣がなくても十分強力だったということです。

名古屋城
和歌山城
江戸城跡
水戸城跡

尊王攘夷思想を生み出す

時代劇で「水戸黄門」として知られる2代目の藩主、徳川光圀は学芸を振興し、江戸の彰考館において「大日本史」の編纂を始めました。彰考館は後に水戸城の二の丸にも作られました。この活動は面白いことに、水戸藩は朝廷から権力を奪った幕府の親族であるにも関わらず、尊王思想(天皇が正当な権力であるとする思想)を生み出します。

徳川光圀肖像画、加納常信筆、水戸徳川博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
水戸城二の丸の彰考館跡
二の丸展示館にある「大日本史」

江戸時代末期の9代目の藩主、徳川斉昭は城の三の丸に藩校の弘道館を設立し藩士の教育に力を注ぎ、また偕楽園を築き全ての領民に対して開放しました。その当時は西欧の船が日本近海に出没していて、斉昭は幕府の開国方針に反発していました。その結果、水戸藩の尊王思想は多くの他藩の志士たちを全国的な尊王攘夷運動に導いたのです。それは最終的には幕府の支配を覆し、明治維新に至ることになりました。しかし肝心の水戸藩においては、藩士たちは尊王攘夷を支持する天狗党と、幕府を支持する諸生党に分裂し、深刻な対立と悲劇的な結末をもたらしました。

徳川斉昭画、京都大学付属図書館 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
弘道館

水戸城での悲しい同士討ち

水戸城の最終形は、もっとも大きい二の丸が城の中心地となりました。そこには、大手門、御殿(政庁の機能も果たしていました)、彰考館、角櫓、そして三階櫓(さんがいろ)がありました。特に、三階櫓は天守の代替として築かれたものです。この櫓は高さが22mもあり、三階建てとしては随分高いものです。実はその内部は5階建てになっていました。

二の丸展示館にある水戸城の模型(左が三の丸、真ん中が二の丸、右が本丸と下の丸)
三階櫓の古写真 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

天狗党は1864年に、幕府に対して反乱を起こし、海外との貿易を止め、外国人を追放するよう要求しました。天狗党は当初、民衆に略奪暴行を働く者がいて支持を失い、幕府の追討軍や諸生党に追い詰められました。そこから天狗党は西へ向かい、斉昭の息子で後に最後の将軍となる一橋慶喜に彼らの主張を訴えようとしました。しかし、慶喜の決定により拘束され、その多くは処刑されてしまいました。諸生党の面々はこれに乗じ、水戸に残った天狗党の家族をも処刑または弾圧を加えました。ところが、状況は劇的に変わり、1868年に幕府は崩壊し、新政府が設立されました。天狗党の生き残りは水戸城に戻り、今度は諸生党に対する復讐を始めたのです。そこから逃れた諸生党の一部は、天狗党が籠る水戸城を攻撃しましたが、失敗しました。この城の強靭さは、皮肉にもこの城を持つ藩士たちの間で生じた悲劇によって証明されてしまったのです。残っている資料によれば、水戸藩の藩士の数はこの内紛の間に3,449名から892名に減少しました。日本の近代化を主導する人材がこの藩からほぼいなくなってしまったのです。

天狗党の乱を描いた「近世史略 武田耕雲斎 筑波山之圖」、豊原国輝作 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
徳川慶喜写真、1967年以前(一橋慶喜と名乗っていた禁裏守衛総督時代) (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「水戸城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

76.徳島城 その1

徳島城は様々な点で発展してきました。

立地と歴史

蜂須賀家政が築城

徳島城は、現在の徳島市にありました。徳島県の県都は徳島市です。徳島県は、かつて阿波国と呼ばれていて、戦国時代の16世紀後半には、この国をめぐって長宗我部氏と天下人の豊臣秀吉が争っていました。最終的に秀吉が勝利し、1585年にこの国を重臣の蜂須賀家政に与えました(秀吉は、家政の父の正勝に与えようとしたが、固辞したため子の家政に与えたとされています)。家政は最初は主要な山城の一つであった一宮城を拠点としましたが、すぐの1586年に他の場所に新しい城を築いて移ります。それが徳島城でした。

城の位置

蜂須賀家政肖像画、個人蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
一宮城跡

海上交通のネットワークを形成

徳島城は、渭津(いのつ)と呼ばれた砂州にあった標高62mの渭山(いのやま)の上に築かれました。その砂州は、四国で一番の大河であった吉野川のデルタ地帯の中にありました。この城が築かれた場所は、この国の領主にとって決して広くはありませんでした。秀吉がこの場所に城を築くよう示唆したとも言われています。それでは、なぜ秀吉は家政にそのような場所に城を築くよう指示したのでしょうか。歴史家は、秀吉は本拠地の大坂城とともに海上交通のネットワークを構築しようとしたと推測しています。渭津は徳島と改名され、紀伊水道のような海上交通ルートをコントロールできる拠点となったのです。この地域は、大坂城が面していた大阪湾の入口に当たりました。この海上ネットワークは水軍と商船隊の両方から構成されていました。この場所を選んだもう一つの理由としては、蜂須賀氏はまだ長宗我部の残党に対抗するため、阿波九城と呼ばれた支城に家臣を派遣する必要があったと考えられています。そのため、蜂須賀の本拠地はそれ程広大でなくてもよかったのです。

阿波国徳島城之図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)、城が中州にあることがわかります

城周辺の起伏地図、渭山がデルタ地帯の中で目立っています

徳島城と大坂城の位置関係

大坂城

当初は城の中心は山上部分

渭山は、くの字型に曲がっていて、東西方向に横たわっていました。本丸は、最高地点で且つ最も広く、山の形が曲がっている辺りにありました。ここには、初代天守と初代の城主御殿があったと考えられています。ところが、その天守は創建から約30年後になぜか解体されてしまします。そして、東側の低い位置にあった東二の丸に再建されたのです。これはとても稀なケースで、なぜならほとんどの城の天守は山の最高地点にあったからです。たった一つ、水戸城で似たようなケースが見られるだけです。水戸城の場合は、理由は明白です。本丸が狭く不便であったからです。(徳島城の場合は、東二の丸の方が、城下町をより見渡すことができたからだという説があります。)山の西側の部分には、西二の丸と西三の丸があり、本丸を防御していました。これら山の上の曲輪は、それぞれ石垣に囲まれていました。一方、山の南側の砂州にあった平地は開発がまだ進んでいませんでした。専門家は、恐らく城主の御殿は山上と平地の2か所にあっただろうと推測しています。メインの方は山上にあり、予備の方は平地にあって、そこには家臣の屋敷もありました。初期の段階では、徳島城は戦いがあった場合に備えた作りになっていたと思われます。

渭山に築かれた本丸などの曲輪、天守は本丸ではなく、東側の低い部分にあります(阿波国徳島城之図部分

水戸城周辺の航空写真

二の丸にあった水戸城天守の古写真

城の中心が平地部分に移動

1615年に徳川幕府が豊臣氏を倒した後は、幕府の統治はついに安定してきました。蜂須賀氏も幕府に貢献したことにより淡路国も与えられ、領地を広げることができました。天下泰平が続く中、阿波九城はやがて廃城となりました。その結果、家臣たちは徳島城に集まることになり、城の再構成が必要となりました。平地には城主のための大規模な御殿が再建築され、城の中心部となりました。また、櫓がいくつも築かれた石垣や、屏風塀と呼ばれる塀が、内堀や寺島川に沿って中心部を囲んでいました。南側には、大手門としての黒門があり、そのとなりには太鼓櫓という三階櫓がありました。御殿の南の方には、三木郭があり、そこには城の正門として鷲の門がありました。城の周りには多くの川がありましたが、埋め立てられて武家屋敷や城下町となっていきました。蜂須賀氏は、江戸時代の終わりまでここを居城としていました。

御殿が建てられた平地部分(阿波国徳島城之図部分)絵図に御殿は描かれていません
黒門と太鼓櫓(阿波国徳島城之図部分)
三木郭と鷲の門(阿波国徳島城之図部分)

「徳島城その2」に続きます。

9.久保田城~Kubota Castle

佐竹氏による土造りの城
The castle made of earth by the Satake Clan

立地と歴史~Location and History

佐竹氏が新しく作った城~New Castle Satake Clan built

佐竹氏は古代の終わり頃から常陸国(現在の茨城県)を拠点としてきました。16世紀後半、彼らは水戸城に住み、その領土は54万8千石もの石高に相当しました(その当時の日本で8番目の大大名)。ところが、1602年に徳川幕府により東北地方の秋田に移されてしまいます。1600年に起こった関ヶ原の戦いにおいて、幕府をはっきりとは支持しなかったからです。その領土は20万石まで削減されましたが、新しい土地で新しい城を築くことを決心しました。それが久保田城でした。
The Satake Clan had been based in Hitachi Province (what is now Ibaraki Prefecture) since around the end of the Ancient times. In the late 16th century, they lived in Mito Castle and their territory was worth as much as an earning of 548 thousand Koku in rice (the 8th largest lord in Japan at that time). However, they were transferred to Akita in Tohoku Region by the Tokugawa Shogunate in 1602, as they didn`t firmly support the Shogunate when Battle of Sekigahara happened in 1600. The size of their territory was reduced (to 200 thousand Koku in rice), but they decided to build their new castle in the new land. This was Kubota Castle.

城の位置~The location of the castle

お家芸だった土の城~Building Castles of earth was their Specialty

久保田城は、旭川沿いの標高40mの神明山の上に築かれました。この城には天守はなく、ほとんどが土造りによるものでした。その理由としては、佐竹氏には石垣や天守を作る技術がなかったからとか、幕府の権威を恐れたためと言われてきました。佐竹氏が秋田に移った当時は、他の大名たちにとっては、石垣と天守がある城を作るのが普通でした。しかしながら、土造りの城を作ることは佐竹氏のお家芸だったのです。その証拠として、水戸城も挙げられます。佐竹氏はそこで技術を進化させ、佐竹氏の後の徳川氏はその土造りの城を最後まで使い続けました。佐竹氏は土造りだけで強力な城を作ることができたのです。
Kubota Castle was built on a 40m high mountain called Shinmei-yama alongside Asahigawa River. The castle was almost all made of earthworks with no Main Tower. It has been said that the reason for it is that Satake had no ability and techniques for building stone walls and a Main Tower, or they feared the Shogunate`s authority. In the same period as Satake moved to Akita, it was usual for other lords to build a castle with stone walls and a Main Tower. However, building a castle of earthworks was the specialty of the Satake Clan. There is evidence also with Mito Castle, Satake Clan improved this technique, and it was used by the Tokugawa Clan following Satake as a castle of earthworks till the end. That meant Satake could build a strong castle using only earthworks.

土造りの水戸城~Mito Castle made of earthworks

自然地形を生かした巧みな配置~Clever Arrangement using Natural Terrain

城の中心部は、内堀に囲まれ、二段になっていました。上段は「本丸」であり、下段は「二の丸」になっていました。中心部の周りは「三の丸」となっていて、外堀に囲まれていました。更には、三の丸の外側且つ川の内側には「西曲輪」「北の丸」が設置されていました。本丸には御殿があり、領主が住んでいました。本丸には5つの門がありましたが、外部からは二の丸を通らなけらば行けないようになっていました。佐竹氏は、自然の地形を生かしながら巧みな配置を行い、20年以上の工事の後、城を完成させました。
The center of the castle had two tiers, surrounded by the inner moat. The upper tier was called “Honmaru” or the Main Enclosure, and the lower tier was called “Ninomaru” or the Second Enclosure. Around the center, there was “Sannnomaru” or the Third Enclosure, surrounded by the outer moat. In addition, “Nishikuruwa” or the Western Enclosure and “Kitanomaru” or the Northern Enclosure were placed outside the Third Enclosure inside the river. The Main Enclosure had the Main Hall where the lord lived, and four turrets instead of the Main Tower. It also had five gates, but anyone from the outside the castle had to go through the Second Enclosure to reach it. Satake complete the castle with clever arrangement and using natural terrain after over 20 year construction.

出羽国秋田郡久保田城画図部分、江戸時代~Part of the illustration of Kubota Castle in Akita District, Dewa Province, the Edo Period(出典:国立公文書館)

佐竹氏は江戸時代の期間中、久保田藩を統治しましたが、その支配は安定しませんでした。秋田は強風地帯であり、藩の民衆は風害による飢饉や、洪水や風雨による被害に苦しみました。これらにより一揆が頻発し、藩は予算不足に陥りました。久保田城も度々火災に見舞われますが、その都度再建されました。
Satake governed their Kubota Domain all through the Edo Period, but their governance was not stable. Akita was a very windy area, so the people of the Domain suffered several famines from dry winds, flood and water damage. It often caused riots, as a result, the Domain lacked resources. Kubota Castle also suffered fires, but was repaired and restored each time.

最後の藩主、佐竹義堯の銅像、千秋公園~The statue of Yoshitaka Satake, the last lord of Kubota Domain

特徴~Features

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

城跡の千秋公園へ~To Senshu Park as Castle Ruins

現在、久保田城跡は千秋公園となっています。観光客は通常南から中土橋を通って現存する外堀を渡って三の丸や二の丸に向かいます。過去は東側にある黒門が城の正門でした。二の丸には広い敷地があり、かつては官庁や倉庫などの建物がありました。佐竹史料館では、久保田藩や佐竹氏に関する展示を行っています。
Now, the ruins of Kubota Castle has become Senshu Park. Visitors usually go across the remaining Outer Moat through Nakadobashi Bridge on the south to the Third and Second Enclosures. In the past, Kuro-mon Gate on the east was the front entrance of the castle. The Second Enclosure has a large space where buildings such as offices and warehouses were built. Satake Historical Museum exhibits the histories of Kubota Domain and the Satake Clan.

外堀~The Outer Moat
城に向かう道~The road to the castle
黒門跡~The ruins of Kuro-mon Gate
二の丸~The Second Enclosure

本丸への長い坂~Long Slope to Main Enclosure

本丸へは、「長坂」と呼ばれる長く曲がりくねった階段を通って登っていきます。この場所はとても重要だったため、一部石垣が使われています。「長坂門」という門がちょうど曲がっている箇所に立っていました。階段を登り切った所には、本丸の正門である表門が復元されています。門の傍らには「御物頭御番所」という警護所が城で唯一の現存建物として残っています。
You can walk up to the Main Enclosure through a long and curved stairways called “Nagasaka” or the Long Slope. Stone walls have been partly used, as this spot was very important. A gate called “Nagasaka-mon” stood at the curved part. At the end of the stairways, Omote-mon Gate, the front gate of the Main Enclosure has been restored. There is the guardhouse called “Omono-gashira Gobansho” which is the only remaining building in the castle beside the gate.

長坂~The Long Slope
長坂門跡~The ruins of Nagasaka-mon Gate
復元された表門~The restored Omote-mon Gate
現存している御物頭御番所~The remaining guardhouse

土造りの本丸~Main Enclosure made with Earthworks

本丸の中心には神社と最後の領主の銅像があります。城のようには見えないかもしれませんが、本丸を歩き回ってみれば、城の基礎は土だけですが、とても頑丈にできていることがわかると思います。櫓の一つ、御隅櫓が曲輪の北西角に再建されています。見晴らしをよくするために、元あったものより高く作られています。本丸にはいくつか出入口があるので、登ったり降りたりしてみると、この城がいかに自然の地形をうまく生かしているかが見て取れるでしょう。
The center of the Main Enclosure has a shrine and the statue of the lord of the castle. It may not look like a castle, however if you walk around the Enclosure, you can find the foundation of the castle is made of only earth, but strongly. One of the turrets, Osumi-yagura Turret has been rebuilt at the northwest corner of the Enclosure. It is built much higher than the original one for viewing. The Enclosure has several entrances such as the Back Gate, so you can also walk up and down enjoying how the castle uses natural terrain cleverly.

本丸~The Main Enclosure
再建された御隅櫓~The rebuilt Osumi-Yagura Turret
裏門跡~The ruins of the Back Gate
本丸の土塁~The earthen walls of the Main Enclosure

その後~Later History

明治維新後、久保田城は1872年に秋田県庁舎となりました。この城はまた、秋田県と秋田市の始まりともなったのです。ところが、1880年にほとんどの城の建物は燃えてしまいます。1890年になって以前の領主、佐竹氏が城跡を買い上げ、秋田市に土地を公園として貸し出し、千秋公園と名付けられました。久保田藩の元藩士たちは1892年に公園に桜の苗を寄付しました。そのため、公園は桜の花でも有名になっています。
After the Meiji Restoration, Kubota Castle became the Akita prefectural office in 1872. That meant the castle also was the origin of Akita Prefecture and Akita City. However, most of the castle buildings were burned down in 1880. In 1890, the former lord, Satake Clan bought the castle ruins and lent the land to Akita City as a park named Senshu Park. Former warriors of the Kubota Domain donated cherry plants for the park in 1892, so that’s why the park has also become famous for its cherry blossoms.

御隅櫓と桜~Osumi-Yagura Turret with cherry blossoms(licensed by アラツク via Wikimedia Commons)

私の感想~My Impression

久保田城跡は、かつて近代公園として整備されたため、単なる公園としてしか見えないかもしれません。城跡の基礎部分をよく見れば、本当は土でできた城だとも気付いていただけると思います。この城と、これも佐竹氏が築いた水戸城とを比べてみるのもいいでしょう。秋田県は今、かつては苦しめられた風が強い気候を生かし、風力発電を推進しています。一方、現職(2021年3月現在)の秋田県知事は佐竹氏の子孫の方です。秋田は、伝統と革新の両方を重んじているようです。
You may find the ruins of Kubota Castle just like a park, because they were once developed as a modern park. You can also find the ruins was really a castle made of earth if you look at the foundation of the ruins carefully. It may be a good idea to compare this castle with Mito Castle that the Satake Clan built as well. Akita Prefecture is now developing lots of wind farms using the windy climate that they suffered from in the past. On the other hand, the governor of Akita Prefecture right now (Mar2021) is a descendant of the Satake Clan. I think Akita is trying to take good care of both tradition and innovation.

本丸に登る小径~The trail to the Main Enclosure
秋田県の風力発電所~A wind farm in Akita Prefecture(licensed by 8-Forest via Wikimedia Commons)

ここに行くには~How to get There

城跡までは、JR秋田駅西口から歩いて約10分です。
東京から秋田駅まで:秋田新幹線に乗ってください。
車で行く場合:秋田自動車道の秋田中央ICから約20分です。千秋公園に駐車場があります。
It takes about 10 minutes from the west entrance of JR Akita station to the castle ruins on foot.
From Tokyo to Akita st.: Take the Akita Shinkansen super express.
If you want to go there by car: It takes about 20 minutes from the Akita-Chuo IC on Akita Expressway. Senshu Park offers a parking lot

リンク、参考情報~Links and References

久保田城、秋田市公式サイト(Akita City Official Website)
・「よみがえる日本の城9」学研(Japanese Book)
・「日本の城改訂版第60号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)