20.佐倉城 その1

佐倉城は、千葉県佐倉市にあった城でした。この城は、佐倉藩の本拠地として江戸時代に築かれ、現在の佐倉市につながっていきます。ところで、佐倉周辺の地域には、戦国時代までは多くの城があり、歴史上重要なものもありました。

立地と歴史

佐倉城は、千葉県佐倉市にあった城でした。この城は、佐倉藩の本拠地として江戸時代に築かれ、現在の佐倉市につながっていきます。ところで、佐倉周辺の地域には、戦国時代までは多くの城があり、歴史上重要なものもありました。例えば、佐倉市西部には、臼井城があり、1566年(永禄9年)に有名な臼井城の戦いが起こりました。関東地方の制覇を狙う上杉謙信勢が、北条氏を後ろ盾とした千葉氏の家臣・原胤貞が立て籠もる臼井城を攻撃しましたが、大損害を被り撤退したことで、失敗に終わります。この戦いは謙信の数少ない敗北の一つとされ、その後の彼の関東経営は後退を余儀なくされました。その千葉氏の本拠地・本佐倉城(もとさくらじょう)は、佐倉市の東境周辺にありました。「本佐倉城」とは戦国時代末期からの呼び名(天正18年5月2日付浅野長吉・木村一連署添状が初見)なので、元来こちらの方が「佐倉城」だったのでしょう。現在の佐倉城を語るには、千葉氏の「本佐倉城」から始めた方が分かりやすいと思いますので、この記事では「佐倉城前史」の記述から始めます。

臼井城跡
本佐倉城跡

佐倉城前史

千葉氏は、平安時代後期以来、下総国(ほぼ千葉県北部)周辺を支配する豪族でした。頼朝の鎌倉幕府創業のときに貢献した千葉常胤(ちばつねたね)が有名です。千葉氏は各地に一族を送り込み反映しますが、惣領家は現在の千葉市にあった亥鼻城(いのはなじょう、別名千葉城)を長い間、本拠地としていました。1455年1月(享徳3年12月)に享徳の乱が起こると、関東地方が戦国時代に突入します。関東公方(後の古河公方)の足利氏と、関東管領の上杉氏が戦うようになり、千葉氏も巻き込まれました。その混乱の中で亥鼻城が荒廃したため、千葉氏は新たな本拠地を築きました。それが本佐倉城で、遅くとも1484年(文明16年)には存在していました(下記補足1)。この城は、下総台地が入り組んだ丘の上にあり、当時は周りを印旛沼や湿地帯に囲まれていました。以前の城よりは防御力に優れていたのです。また、城の南側に下総街道が通り、印旛沼は霞ケ浦に通じ、「香取海(かとりのうみ)とも呼ばれ、水上交通にも利用できたため、同盟関係にあった古河公方とも連絡が容易な立地でした。

(補足1)文明十六年甲辰六月三日佐倉の地を取らせらる。庚戌六月八日市の立て初め、同八月十二日御町の立て初め也。二十四世孝胤の御代とぞ。(「千学集抜粋」)

千葉常胤蔵、千葉市立郷土博物館にて展示
本佐倉城の全景(現地説明パネル)

しかし16世紀(1500年代)になると、状況が変わってきます。北条氏が、相模国(神奈川県)から関東全域に勢力を伸ばしてきたのです。千葉氏の内部でも対応を巡って争いがありましたが、重臣の原氏を中心に北条氏に傾きます。房総半島では里見氏が勢力を伸ばしていて、上杉謙信と同盟していました。そういう状況の中で、起こったのが臼井城の戦いでした。謙信は関東地方の諸将に動員をかけ、北条氏の本拠・小田原城を囲んだ時以上の軍勢だったとも言われますが、城の攻略に失敗したのです。その城の城主、原胤貞は、重臣の原氏の当主だったので、その勢力はより高まったことでしょう。千葉氏の本拠地・本佐倉城はそのおかげで無事だったのです。一方、惣領の千葉氏には本拠地を移す動きもありました。その候補地が、下総台地の西端の「鹿島台」と呼ばれた場所でした。後に佐倉城が築かれるところで、本佐倉城と臼井城の中間地点に当たりました。臼井城の戦いの10年以上前の当主・千葉親胤(ちかたね)が築城を始めたと伝わります(下記補足2)。しかし1553年(弘治3年)に家臣に殺され、頓挫しました。

(補足2)親胤或時新城を築きて之に居らんと欲し、近隣の南方に土木工事を興して、既に竣成に至 りしも、未だ果さざる事ありて、暫く鹿島大与を此所に居らしむ。即ち此の城を名づけて鹿島の新城といひ、旧城を本佐倉城と稱し、代々の菩提所海隣寺を新城の傍に移せり。(「千葉伝考記・巻四」)

城の位置

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
千葉親胤肖像画、久保神社蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

16世紀末期になると、北条氏が下総国の支配を強めるため、千葉氏の内部に介入してきます。当主・千葉邦胤(くにたね)の正室は北条氏政の娘(芳桂院(ほうけいいん))でした。そして北条氏の意向として、鹿島城(鹿島台の城)の築城を再開しますが、1585年(天正13年)に邦胤まで家臣に殺されてしまい、また頓挫したと言われています。その後北条氏政が佐倉の直接支配に乗り出し、邦胤と芳桂院の娘(東(とう))の婿として、氏政の息子・直重(なおしげ)を千葉氏の後継者としました。そして直重夫妻の居城として、また鹿島城の築城を行ったと伝わります(下記補足3)。

(補足3)氏政の末子を申受け、十二歳の姫に娶せ申し、「家督相続すべし」とて、天正十三年十一月、本佐倉は城地狭きため、神(鹿)島山今の佐倉へ、城地取立て、北条の威勢にて(中略)十一月廿二日に企て、廿三日普請始め、十二月十二日に屋形塀等大半出来、同十五日には十二歳の姫君并に母君御移し申し、其の後氏政の末子を小田原の本家へ引取られ、実子亀若丸を重胤と号し、佐倉城へ引取可申之処、俄に小田原陣始まり、小田原北条氏政の味方して籠城し給ふ。其の時亀若丸六歳なり(「妙見実録千集記」)

北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

これら一連の鹿島城伝承の検証は困難です。後の佐倉城と場所が重なってしまっているからです。中世の空堀跡が見つかっていることから、少なくともここに築城しようとしたことは確かでしょう。鹿島へ本拠地を移転しようとしていたならば、その理由にの一つには本佐倉城よりも敷地が広かったことが挙げられるでしょう。それから、北条氏の立場からは、西の方角への防御力に優れた鹿島城は、豊臣軍の西からの攻撃に備えるためとは言えないでしょうか。直重は、1590年(天正10年)の小田原合戦のとき、小田原城での籠城を命じられました。千葉氏は邦胤のもう一人の息子(側室の子)重胤(しげたね)が最後の当主となりますが、北条氏の滅亡とともに改易となってしまいました。重胤も小田原城に籠城したという記録があります(「総葉概録」など)。

現在の佐倉城跡(三の丸前の馬出し)
現在の小田原城

土井利勝による佐倉城築城

小田原合戦の後、関東地方には徳川家康が入り、佐倉地域には一族(武田信吉、松平忠輝)や家臣(酒井家次など)が配置されますが、短期間で入れ替わったため、拠点整備には至りませんでした。1610年(慶長15年)家康は、土井利勝を本佐倉城に入れ、旧鹿島城の地に、新城と城下町を建設することを決めました。この新城が佐倉城です。この城には、家康が創設した江戸幕府の本拠地・江戸城の東方を守る役割を課せられました。江戸城が西から攻められたときに、東からバックアップし、将軍の避難場所とするための城だったと言われています。旧鹿島城の地はそれに相応しかったのでしょう。

土井利勝肖像画、正定寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その任務を帯びた土井利勝は、徳川家康・秀忠・家光の3代に重臣として仕え、幕府の安定化に貢献しました。利勝は、家康が浜松城主時代の1573年(元亀4年)に生まれました。その出自にはいくつか説があります。1つ目は、幕府の系譜書(「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」)によると土居小左衛門利昌の子、2つ目は、幕府の正史「徳川実記」新井白石「藩翰譜」などによる家康の母・於大の方の兄、水野信元の子とするものです(下記補足4)。最後は土井家の「土井系図」で、そこでは何と家康のご落胤としているのです(下記補足5)。

(補足4)利勝實は水野下野守信元の子なり。さる御ゆかりを思召れての事なるべし(「徳川実記」)

(補足5)利勝公 実家康君之御子也 天正元癸酉年三月十八日於遠州浜松御城御誕生号松千代殿

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最近の研究(「藩祖・土井利勝」所収)によると、以下のような見解も出されています。「利勝が家康から賜った水野家の家紋(沢潟紋)入りの短刀があり、それは於大の方が実家から持参したもので、実際には家康の子であることを示すものだった。利勝の孫・利益(とします)が、当時地位が落ちていた土井家の状況を鑑み、自ら信元説(2つ目)を流した。ところが、その後幕府から利勝の生母について問合せがあり、そのときの当主・利里(としさと)が真相を回答し、幕府は公式見解は改めないものの、黙認したので、土井家の系図に残した。」というものです。利勝は7歳にして、家康の子・秀忠の傅役に任命されました。目を懸けられていたことは確かでしょう。そしてそのまま秀忠の側近(老職)となるのです。

土井利益肖像画、正定寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

関東創業時の家康には、最有力の側近として、本多正信・正純父子と大久保忠世・忠隣父子がいました。ところが、1614年(慶長19年)大久保長安の不正蓄財事件をきっかけに、大久保忠隣が失脚します。家康と正信の没後は、本多正純が抜きん出た形になりましたが、それに対抗したのが秀忠の側近、酒井忠世・土井利勝などでした。1622年(元和8年)今度は正純が失脚(改易)しますが、利勝ら側近たちが関与していたとも言われています。決断は将軍・秀忠によるものですが、そのお膳立てが、忠隣のときの意趣返しのように仕組まれていたからです。双方とも反乱を防ぐため、出張した時に言い渡されているのです。利勝は、次の将軍・家光の時代にも、自らが亡くなるまで元老として、家光の側近・松平信綱(川越藩主)、稲葉正勝(小田原藩主)、堀田正盛(後の佐倉藩主)らとともに、幕政に関わりました。やがて老中・若年寄の集団指導体制が確立され、幕府政治が安定していきます。

本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大久保忠世肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

利勝が幕閣にいた頃は、内部抗争もあり、大物大名改易、一国一城令、参勤交代、御三家創設、鎖国政策など、幕府による統制が進んだ時代だったので、彼には冷酷な権謀術数家とのイメージもあります。しかし一方では、海外を含む情報通(「コックス日記」)であり、実直な人柄でもあったようです(下記補足6)。その利勝が7年かけて作った城が佐倉城なのです。利勝は、1633年(寛永10年)には古河藩に加増移封となり(14万2千石→16万2千石)、古河城も大拡張しました。

(補足6)土井大炊殿、いよいよ御出頭にて候、拙老も節々参会申し、別して御意をえ申し候、我等旅宿へも御出候て、しみじみと放(話)申し候、ことのほかおくゆかしき御分別者に見および申し候、両御所様(家康・秀吉)御見立の仁に候あいだ、申しおよばざることに候、今は出頭一人のようにあいみえ申し候、人の申すことをも、こまごまと御聞候、寄特に存じ候ことに候。(金地院崇伝)
私はキャプテン・アダムス(三浦按針)とニールソン君を伴ってオイエン(土井利勝)殿のところへ赴いたが、運良く彼が彼の自宅の前を通りに出たところで出くわして、閣下に皇帝(秀忠)から我々のための我々の事務処理を受けて欲しいと願ったところ、彼はすぐにも処理すると約束し、我々がそんな長く滞在していることを恥ずかしく思うとの由で、しかもその上彼が私には感謝していると私に告げた。(「コックス日記」1618年11月4日)

佐倉城の特徴

広い台地上に築かれた佐倉城には、いくつも特徴がありました。まずは、その台地の自然の地形を巧みに利用したことでしょう。台地は麓から約20メートルの高さがあり、南と西を高崎川と鹿島川に囲まれ、自然の要害となっていました。加えて、台地を水堀でも囲みました。台地上の西の先端に本丸を構え、二の丸・三の丸・惣曲輪などを周りに配置しました。そして、東に向かって巨大な大手門や空堀などを作り、防衛体制を固めたのです。城下町や武家屋敷は、その更に東側の台地上に建設されました。成田街道もその城下町を通るように設定されました。つまり城と町を丸ごと、台地の上に作ってしまったわけです。

下総国佐倉城図、出展:国立国会図書館デジタルコレクション
大手門の古写真、現地説明パネルより
現存する空堀

次に挙げられるは、石垣を使わない土造りの城だったことでしょう(土塁、空堀、切岸など)。小田原合戦のとき秀吉が初めて、関東地方に本格的な総石垣造りの城を作りました(石垣山城)。それ以来、関東地方にも石垣を使った城が多く現れます(江戸城など)。しかし佐倉城は、関東地方ならではの、土造りの城のスタイルを継承していました。同様の例としては、川越城宇都宮城があります。一方で、城の防衛システムには、当時最新の仕組みが取り入れられていました。例えば、三の丸の門の前には「馬出し」と呼ばれる突出した防衛陣地が2ヶ所設けられていました。また、三の丸の周りの惣曲輪(東惣曲輪と椎木曲輪)は広大で、武家屋敷の他、練兵場に用いられ、多くの兵が駐留できるようになっていました。更には、台地の斜面には帯曲輪があって兵の移動が容易であり、その先の台地の西と東に出丸もあって、防衛の拠点になっていました。

石垣山城跡
佐倉城天守土台
現在の宇都宮城
佐倉城の帯曲輪
佐倉城の出丸

3つ目は城の建物についてです。本丸には高さ約22メートルの3層4階(+地下1階)の天守が建てられました。築城時期から考えると、佐倉城だからこそ許されたのでしょう。江戸城の三重櫓を移築したものとも言われています。江戸後期に盗賊による失火で焼失したため詳細は不明ですが、土井利勝が古河に移ってから建てた御三階櫓とほとんどサイズが一緒のため、似た外観だったと考えられています。本丸には他に、銅櫓と角櫓がありました。内部には本丸御殿(御屋形)がありましたが、徳川家康が休息して以来、通常は使われませんでした。藩主は代わりに通常は二の丸御殿(対面所)を使っていました。幕末になり老朽化すると、三の丸外に新たに御殿が建てられました。

佐倉城天守模型、佐倉城址公園センターにて展示

土井利勝が古河に移った後は、譜代大名が頻繁に入れ替わり、佐倉藩主(城主)となりました。
利勝以後の藩主または大名家を記載します。
・土井利勝(1610年〜):老中、後に大老
・石川忠総(1633年〜)
・形原松平家2代(1635年〜)
・堀田家2代(1642年〜):正盛が老中・将軍家光に殉死、正信が無断帰国で改易
・(大給)松平乗久(1661年〜)
・大久保忠朝(1678年〜):老中首座
・戸田家2代(1686年〜):忠昌が老中、忠真が寺社奉行・後に老中
・稲葉家2代(1701年〜):正往が老中
・大給松平家2代(1723年〜):乗邑が老中首座、
・堀田家6代(1746年〜):正亮(老中首座)、正順(京都所司代)、正睦(老中首座)
幕府の幹部、老中を多く輩出した藩であるため、佐倉城は「老中の城」とも呼ばれています。
江戸時代後半からは安定し、堀田家が幕末まで、藩主を務めました。
その中で、幕末に藩政改革や幕府の老中の職務を通して、開国方針を貫いた堀田正睦(まさよし)を取り上げてみたいと思います。

開国に尽力した堀田正睦と佐倉城

正睦は1810年(文化7年)生まれで、32歳のとき本丸老中となり、幕府中枢のメンバーになりましたが、ときの老中首座・水野忠邦と反りが合わず、2年余りで辞職しました。このとき将軍に直接ものが言える「溜の間」格になったことが、阿部正弘や井伊直弼とのつながりができ、後に老中に再任され、彼の開国の業績につながったという見方があります。

堀田正睦 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正睦は老中になる前から、三の丸御殿に藩士を集め、藩政改革を宣言し、推進していました。その柱は「文武奨励」「兵制改革」「医学奨励」「民政改革」でした。兵制改革については、城中に西洋砲術の練習場を作り、ついには旧来の火縄銃を廃止し、いち早く西洋式の兵制に改めました。また、側近の渡辺弥一兵衛の癰(よう、腫れ物)が蘭方医の治療により完治したことから、西洋医学(蘭学)を導入し、江戸から名医・佐藤泰然を招きました。泰然は佐倉の城下町で佐倉順天堂を設立します(後の順天堂大学病院にもつながります)。佐倉はやがて長崎と並ぶ蘭学の地と称され、正睦もまた「蘭癖」というニックネームが付きます。佐倉の城と町は、正睦の改革の発信基地となったのです。

佐藤泰然 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

やがて、ペリーが来航(1853年)すると、老中首座の阿部正弘は、広く開国について諮問を行いました。正睦の回答は、当時としては思い切った開国通商論でした(下記補足7)。そのせいなのか、1855年(安政2年)彼は突然老中首座に抜擢されました(実権はまだ阿部正弘にあり)。翌年には「外国事務取扱(外交専任老中)」となり、またその翌年には阿部の死により名実ともに幕閣のトップになりました。彼の大仕事の一つが、アメリカ総領事ハリスへの対応(江戸出府問題)と通商条約の交渉でした。正睦は積極的開国派であったので(下記補足8)、ハリスの江戸城での将軍徳川家定への謁見を実現し、日米修好通商条約の交渉を進めました。交渉役には、叩き上げの優秀な官僚(岩瀬忠震・井上清直)を任命しました。内容的には、関税自主権がないなど不平等条約であったり、通貨交換規定が不備であり金が国外に大量流出することになります。しかし、神奈川(横浜)を開港場とするなど評価できる点もありました。

(補足7)彼に堅牢の軍艦これ有り、我が用船は短小軟弱、是彼に及ばざる一ツ。彼は大砲に精しく、我は器機整わず二ツ。彼が兵は強壮戦場を歴、我は治平に習い自ら武備薄く是三ツ。右三ツにて勝算これ無く候間、先ず交易御聞届け十年も相立ち、深く国益に相成らず候わば其節御断り、夫までに武備厳重に致し度候。夫とも国益に候わば其儘然るべきや。(「正睦伝」)

(補足8)怖れ乍ら神祖遠揉の御盛意在らせられ、慶長五年泉州に渡来仕り候阿蘭陀人英吉利人の船、江戸表へ廻され御城に召され、九カ年の遺留をも御許容もこれ有り。(中略)鎖国の法には戻られ難く存じ奉り候間、国初めの御旧例に依らせられ、異邦の御処置首尾全く御変革遊ばされ、其段海内へ御演達これ有り、公平に隣国和親の礼儀を以って、亜国官吏速やかに江戸表へ召され、登城御目見え仰付けられ、神祖遠揉の思召の如く、御懇篤の御処置御座候わば、礼儀は勿論道理も全備仕り候間、彼も是までの意匠を改め、自然感心悦服仕り、却って御益得もこれ有るべきやに存じ奉り候。(「外交関係文書」之十六)

阿部正弘肖像画、福山誠之館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
タウンゼント・ハリス (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

条約交渉は終わっても、もっと大変だったのが、幕府内での承認でした。創業時と違い、幕閣トップであっても重大案件は、同僚の老中だけでなく、御三家、溜の間格など関係有力大名に根回しをする運用になっていたのです。前任者の阿部正弘は周りに気を使い、周到に事を進めることに長けていました。一方、正睦は口下手だが意思を込めて淡々とことを進めていくタイプでした。実際、有力大名18名のうち賛成はわずか4名でした。そこで正睦が考えたのが、これまで必要なかった天皇の勅許を得ることでした。1858年(安政5年)正月、正睦は自ら京都に乗り込みますが、勅許獲得は失敗します。孝明天皇の条約拒否の意思が判明したからです(下記補足9)。正睦は将軍に一橋慶喜を推して政局を乗り切るつもりでしたが、それに反対する大老・井伊直弼に罷免されました。

(補足9)日本国中不服ニテハ実ニ大騒動ニ相成候間、夷人願通リニ相成候テハ天下の一大事の上、私の代ヨリ加様の儀ニ相成候テハ後々迄の恥の恥ニ候半ヤ。(「天皇紀」)

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

条約調印は井伊直弼に引き継がれ、正睦は佐倉に戻り隠居し、城の三の丸に松山御殿を建てて過ごしました。亡くなったのは1864年(元治元年)でした。明治維新後、城跡は日本陸軍第2連隊(後に第57連隊)の駐屯地となりました。その任務の一つは、城と同じく、帝都東京の東方の防衛でした。戦後は中心部分が佐倉城址公園となり、惣曲輪の一つ、椎木曲輪には、国立歴史民俗博物館が建てられてました。城の特徴(台地上の広い敷地)が、現在でも生かされていると言えるでしょう。

三の丸にある堀田正睦像
佐倉城城跡の日本陸軍駐屯地模型、国立歴史民俗博物館にて展示
佐倉城址公園
国立歴史民俗博物館

リンク、参考情報

佐倉城、まちづくり支援ネットワーク佐倉
・「上総下総千葉一族/丸井敬司著」新人物往来社
・「千葉一族の歴史/鈴木佐編著」戒光祥出版
・「佐倉市史」
・「シリーズ中世関東武士の研究 第十七巻・下総千葉氏/石橋一展編著」戒光祥出版
・「よみがえる日本の城2」学研
・「歴史群像65号、戦国の城 下総本佐倉城」学研
・「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
・「藩祖・土井利勝/早川和見著」Kプランニング
・「徳川幕閣/藤野保著」吉川弘文館
・「評伝 堀田正睦/土居良三著」国書刊行会
・「佐倉って何?」佐倉国際交流基金ゼミ資料

「佐倉城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

23.小田原城 その1

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城となるまで成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

立地と歴史(戦国編)

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城と言われるまでに成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

現在の小田原城、天守は江戸時代のものを復興させました

城の始まりと伊勢宗瑞の登場

古代の頃、西から関東に入る東海道は、箱根峠ではなく、足柄峠を越えるルートが主流でした。鎌倉時代になると、箱根山(箱根神社)・走湯山(伊豆山神社)の二所権現への参詣が盛んになり、箱根ルートがよく使われるようになりました。これにより、南北朝時代までには小田原に宿場町が形成されたと考えられています。「小田原城」の記録はこの後に現れますので、この町は城下町でなく、宿場として始まったことになります。一方、支配者の武士階層の中には、関所で通行税(関銭)を徴収する権利を持つ領主がいました。箱根や足柄では、大森氏がその立場にあり、徴収した関銭を、寺院の建立に使ったりもしていました。その大森氏が、宿場として成長した小田原を管理するために、15世紀中頃の戦国時代の始まりまでには、初期の小田原城を築いたと言われています。その目的からして、規模は大きくなかったと考えられます。

城の位置

また、初期の城の位置ですが、従来は現在の小田原城天守の北側の、「八幡山古郭」と呼ばれる場所ではないかと言われてきました。しかし当初の小田原宿は、江戸時代のそれより、西側にあったと考えられます。標高が高く高潮の被害を受けにくく、初期の頃もこの場所についての記録、言い伝えが残っているからです。そのため、城もその宿場に近い、現在の小田原城の天守周辺(八幡山丘陵の端)か、天神山丘陵にあったと考えられるようになってきました。

八幡山古郭東曲輪
現在の天神山

戦国時代には、「北条早雲」こと伊勢宗瑞(いせそうずい)が登場します。宗瑞はこれまで、下剋上を果たした、典型的な初期の戦国大名の一人として、捉えられたこともありました。つまり、素浪人から自らの才覚のみでのし上がり、城持ちの大名になったというサクセス・ストーリーです。しかし、最近の研究により、彼は備中国(岡山県西部)出身の、将軍に仕える幕府奉公衆・伊勢盛時(いせもりとき)であったことがわかっています。彼の姉が、駿河国(静岡県中部)の大名、今川義忠に嫁いでいましたが、家督争いが発生し、姉の子の氏親を支援するために、駿河に向かったのです。

伊勢宗瑞(北条早雲)肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、氏親を跡継ぎにすることに成功し、恩賞として、駿河の興国寺城を与えられました。その後、伊豆国(静岡県東部)の韮山城、そして相模国(神奈川県)の小田原城を手に入れるのですが、それは、一匹狼ではなく、今川氏の部将、そして南関東を治めていた扇谷上杉氏との連携によって行われました。小田原城攻めにしても、宗瑞が大森氏に贈り物を送って油断させ、「火牛の計」を使って城から追い出したという武勇伝がありました。しかし実態は、宗瑞の弟と大森氏が一緒に小田原城にいて(扇谷上杉氏方)、山内上杉氏に攻め取られたという記録があったりして、単純な話ではなかったようです。西暦1500年前後に大地震があったり、大森氏が山内上杉氏方に転じたタイミングで、宗瑞が手に入れたのではないかと考えられています。ただし、この時点では小田原城は、まだ支城という扱いでした。

興国寺城跡
「火牛の計」で攻める北条早雲像、小田原駅西口

北条氏綱・氏直による発展

初代・宗瑞(北条早雲)の跡を継いだのは、嫡子の北条氏綱(ほうじょううじつな)です(1518年、宗瑞は翌年に没)。「小田原北条五代」と言いますが、小田原を本拠地とし、「北条氏」を名乗ったのは、2代目の氏綱からです。関東地方侵攻を本格的に始め、敵となった上杉氏(山内・扇谷)から「他国之凶徒」と言われ、権威を得るため、鎌倉時代の関東支配者の名字を名乗り始めたと言われています。また、関東公方の足利晴氏と同盟を結び、「関東管領」に任命され、同じ職名を世襲していた(山内)上杉氏に対抗します。

北条氏綱肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1541年に氏綱から跡を継いだ3代目の北条氏康は、更に領土を広げ、1546年の河越城の戦いで上杉軍に大勝し、関東での覇権を確立しました。氏綱・氏直は小田原を南関東の中心地にしようとしました。それまでの宿場町を城下町として、江戸時代の小田原宿と同じくらいまで広げました。日本最初の水道と言われる「小田原用水」も町に引かれました。城についてはこの頃、城の中心となる「本丸」「御用米曲輪」「二の丸」が成立したと考えられています(曲輪の名前は江戸時代のもの)。1551年に小田原を訪れた僧が「三方に大池あり」と記録しています。この池は現在、二の丸の堀として残っています。また、氏康は民衆に善政を施したことでも知られています。年貢率(四公六民)も他の大名よりは低かったと言われています。

北条氏康肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の小田原用水
現在の二の丸東堀

1561年、城は最初の大きな危機を迎えます。越後国(新潟県)の上杉謙信(その時点は長尾景虎)が、旧来の上杉氏による秩序回復を掲げ、関東地方に侵攻してきたのです。翌年(永禄4年)2月には10万を超えるとも言われる大軍で小田原城を囲みますが、短期間で引き上げました。その場の勢いに乗った寄せ集めであったため、長陣には耐えられなかったからです。そのとき、大手門であった「蓮池門」(現在の幸田口門跡周辺)に、謙信方の先鋒、太田資正が突入し戦ったと伝わっています。氏康は当時、甲斐国(山梨県)の武田信玄、及び今川氏と三国同盟を結んでいて、その力を基礎に、その後謙信の侵攻を跳ね返していきます。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし次の危機として、信玄が1568年に同盟を破り、翌年(永禄12年)10月には、小田原城に攻め込んできました。信玄は、同年8月に北条領内に侵入し、10月1日から小田原城を包囲し、5日には引き上げています(この後、退却途中に有名な三増峠の戦いが起こります)。このような経緯から、もともと小田原城を本気で落とそうとする意図はなかったようです。信玄も謙信と同じように、蓮池門から城を攻めたと言われています。城下町は悉く放火され、信玄自身が手紙で「氏政館」も放火したと言っています。氏政は、氏康の跡継ぎで、当時彼の館は、現在の「御用米曲輪」にあったと考えられていますので、これが合っていれば、本丸の麓まで攻め込まれたことになります。このとき氏政は、氏康から家督は譲られていましたが、1571年に父・氏康が亡くなると、武田との同盟を復活し、更なる城の拡張を行います。恐らく、これらの戦いでの経験が基になっていると思われます。長期の籠城に耐えられる城であれば、どんな強力な敵にも対応できると確信を持ったのかもしれません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の御用米曲輪

北条氏政・氏直による完成

北条氏政と跡継ぎの氏直の時代に、北条氏は全盛期を迎えました。武田氏との同盟が機能した他、上杉謙信が1578年に亡くなり、関東地方に強敵が見当たらなくなったからです。北条氏は関東地方の大半を支配するようになり、地域防衛のため、支城ネットワークを築き、重要な城には一族・重臣を派遣しました。小田原城は、そのネットワークの中心に位置づけられたのです。小田原城そのものも、以前の戦いの教訓に基づき、氏政主導で強化されました。まず、二の丸外側の低地に、三の丸が作られました。また、城の背後からも攻められないよう、三の丸外郭が丘陵地帯に築かれました。更には、三の丸外郭に続く防衛ラインとして、丘陵地帯の地形を利用して、小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)の建設を始まました。これらは、急斜面の堀を掘削し、堀った土を土塁として積み上げるやり方で築かれました。北条氏は石垣を積む技術も持っていましたが、このエリアの土は、関東ローム層と呼ばれる火山灰が堆積してできたもので、粘土質で滑りやすく、敵を防ぐための堀には打ってつけだったのです。また、堀の底は、「障子堀」「畝堀」呼ばれる仕切りがつけてあり、堀に入った敵を閉じ込める仕組みとなっていました。

北条氏政肖像画、法雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三の丸外郭
小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)
山中城跡に残る障子堀

城の拡張は、日本全体や他の大名との外交関係にも影響されていました。織田信長が1582年に武田を滅ぼしたときには、信長に臣従せざるをえなくなりました。ところが、信長が本能寺の変で倒れると、また乱世に戻ったようになります。武田の遺領をめぐって、北条・徳川・上杉が三つ巴の戦いを始めたのです。更に、上野国で真田昌幸が独立を志向して三者を渡り歩き、不気味な存在となります。氏政は、徳川家康と手打ちをし、関東地方だけは確保しますが、今度は豊臣秀吉の天下統一が進みます。1587年までに、西日本は全て平定され、氏政の周りの大名たちも秀吉に臣従しました。北条氏は孤立し、頼りにできるのは同盟続いていた家康と、奥州の覇者・伊達政宗だけでした。氏政は翌年から、豊臣方と臣従するための条件交渉を始めます。その一つが、真田と争っていた上野国沼田の扱いで、一旦は秀吉の裁定により解決しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
真田昌幸肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽作、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信作、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その一方で、氏政は戦になることも想定し、「相府大普請」とも呼ばれた小田原城の大改修を始めました。その目玉は、小田原を囲む丘陵地帯(八幡山・天神山・谷津)、城、城下町を丸ごと土塁と堀で囲む総構でした。その延長は約9キロメートルに及び、工事には関東全域から人夫が動員されました。地域全体を囲んでしまえば、敵は入ってこれず、長期の持久戦ができると考えたのでしょう。当時はこれを「大構」と呼んでいたようで、同じ名前の遺構が、支城だった岩付城跡に残っています。

赤い線が総構土塁の推定ライン

総構の想像図、現地説明パネルより
わずかに残る岩付城大構

1589年(天正17年)10月、北条氏の家臣が、沼田で真田のものになったとされる名胡桃城を奪う事件が発生しました。秀吉は激怒し、命令違反として、北条征伐を決定します。この事件は不可解な点も多く、秀吉と真田が仕組んだ謀略という説もあります。直臣に領地を与えたい秀吉と、ただちの臣従を潔しとしない氏政の思惑も考えられ、両者の対決は必然だったのかもしれません。小田原城総構は、約2年をかけ、完成していました。

名胡桃城跡

運命の小田原合戦

1590年(天正18年)3月、豊臣秀吉軍総勢約22万人(本体16万、水軍2万、北陸勢3.5万)が、北条領に押し寄せました。この他に、これまでも北条と敵対していた関東勢1.8万人が攻撃してきました。迎え撃つ北条軍は、総勢約8万人と言われ、その内約5万人を小田原城に集中させました。支城ネットワーク攻略に時間をかけさせ、小田原城での長期籠城戦により、敵を消耗させ、有利な講和に持ち込むつもりだったと思われます。しかし、その大半は無理やり徴収した農民兵であり、質は劣っていました。城の改修のときから、過酷な負担を強いられていたため、当然士気も上がりません。先代のときに目指した民政の充実は、遠のいてしまっていました。3月28日に上野国松井田城、29日に伊豆国山中城・韮山城で戦いが始まりました。ところが、圧倒的な兵力差により、山中城がたった1日で落城してしまいます。その後も、有力な支城が次々に落城、開城していきました。5月末には、籠城中または未攻略の有力支城は、韮山、鉢形、津久井、八王子、忍のみとなりました。北条軍にとっては、大きな衝撃、かつ誤算でした。松井田城主で重臣の大道寺政繁や、玉縄城主・北条氏勝は、豊臣軍の道案内をし、北条方の城主に降伏するよう説得する有様でした。そのくらいの力の差があったということでしょう。

北条領国の支城ネットワーク、現地説明パネルより

豊臣軍は4月上旬には小田原城に到達し、18万の軍勢で城を包囲しました。秀吉は、5日に早雲寺に着き、ここを本陣とします。4月下旬には、新しい本陣として石垣山城の築城を始めました。しかし、このような大軍であっても、幅最大30メートル、深さ10メートル以上、勾配50度以上の総構のラインに阻まれ、城の中に打ち入ることはできませんでした。総構のラインには、柵が並び、所々に櫓が立ち、重要な出入口は2重の仕切りがあるなど厳重に警備されていました。城の中心部は、本丸には5代目当主・北条氏直がいて、先代の氏政は、北の八幡山に布陣していました。以前氏政館だったところは、「百間蔵」と呼ばれる倉庫群になり、長期籠城に備えていたようです。(戦後に、伊達政宗が小田原城の倉庫群を見聞し、その収容力に驚嘆しています。)総構の中には城下町も含まれていたので、生活・軍事物資も自己調達できることになります。また、総構の外にも、篠曲輪などの出丸があり、攻撃態勢も備えていました。一方、北条軍にとってもう一つの誤算が、豊臣軍の長期戦への備えでした。豊臣軍の多くは専門の兵士であり、大量の兵糧(秀吉が20万石と指示)を調達・輸送することで、長期滞在が可能となっていました。かつての上杉・武田軍と比べ、別次元の経済力、技術、運用ノウハウを持っていたのです。(現場レベルでは、士気の緩みや食料不足ということもあったようです。)その結果、4月、5月と城を挟んだにらみ合いが続きます。

小田原城周辺の布陣図、現地説明パネルより

5月には、東北・関東の大名たち(南部、安東、結城、佐竹、宇都宮など)が小田原に参陣してきました。6月5日には、ついに伊達政宗が到着し、9日に白装束で秀吉に謁見しました。これで、北条への援軍が来る可能性がなくなりました。この辺りから、小田原開城に向けた交渉が加速していきます。交渉の推進役は、北条氏直でした。後に、延々と結論の出ない会議のことを「小田原評定」というようになりますが、実際には水面下で動きはあったのです。支城の方は、6月14日鉢形城開城、23日八王子城落城、24日韮山城開城、25日津久井城開城となります(残りは忍城のみ)。その韮山城主・北条氏規は、豊臣方の黒田孝高(官兵衛)とともに、氏直に開城を勧めました。6月26日に、石垣山城が完成し、秀吉が移りますが、その姿が最後のダメ押しになったかもしれません。

伊達政宗肖像画、加納安信作、仙台市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
鉢形城跡
八王子城跡
石垣山城跡

7月5日、氏直は降伏を申し入れ、小田原城は開城しました。開城交渉の中で、領土の縮小維持という条件もあったと言われますが、秀吉の裁定は過酷でした。氏政など主戦派と見なされた4名は切腹、氏直は高野山へ追放(後に赦されるが病死、氏規の家系が小大名として存続)となりました。戦後の領地配分を見ると、徳川家康が北条領に転封、徳川領に尾張の織田信雄を移そうとしたが断ったため改易とし、空いたところに、当時の跡取り・豊臣秀次とその家老たちを入れています。秀吉の意図が見えるのではないでしょうか。(ちなみに、沼田領(沼田城含む)も丸々真田のものとなりました。)

小田原城近くにひっそりと佇む切腹した北条氏政と氏照の墓所

戦国大名としての北条氏は滅亡しましたが、その総構の城は、参陣した大名たちに大きなインパクトを与えました。記録に残っているものでは、駿府城に入った中村一氏が、小田原城に習い総構を築いています。秀吉自身も、小田原合戦の翌年、京都を囲む御土居の建設を始めました。しかも、その堀には「障子堀」が採用されています。本拠地の大坂城でも、1594年から総構(三の丸)の建設を行っています。

現在の駿府城公園
移築復元された大坂城三の丸の石垣

小田原合戦に参陣した大名たちの城で採用された「総構」も、小田原城の影響があると考えられています。

蒲生氏郷の若松城、総構の甲賀門跡
堀秀治の春日山城、復元された総構
前田利家の金沢城、総構跡

「小田原城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

87.肥前名護屋城 その1

秀吉の最大にして最後の野望

立地と歴史

朝鮮侵攻のための巨大な陣城

肥前名古屋城は、豊臣秀吉の朝鮮侵攻を進めるために築かれた陣城で、九州北西部にありました。秀吉は、16世紀後半に天下統一を成し遂げた天下人として知られています。彼は、1590年の小田原征伐にて、小田原城に立てこもる北条氏を下すことで統一を完成させました。ところが、天下統一の間もない1591年に、秀吉は中国征服を宣言し、日本中の大名たちにその準備をするよう命じました。秀吉配下の多くの大名や武士たちも、この新たな領地が得られる計画に賛同しました。天下統一後の戦がない中、日本国内では新たな領地を得ることができなかったからです。

城の位置

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小田原城

秀吉はまた、朝鮮に近い九州の地に陣城を築くよう大名たちに命じました。これが肥前名護屋城です。陣城とはそもそも一回限りで使われ、単純な作りでした。秀吉はかつて小田原征伐のときに、もう一つの豪華に作られた陣城である石垣山城を築きました。ところが、肥前名護屋城はさらに大きく、強力に作られました。その大きさは、秀吉の本拠地の大坂城に次ぐほどでした。この城の建設は、大名たちによる割り普請の結果、わずか8ヶ月で完了しました。約120の大名たちが集まり、城の周りに彼ら自身のための陣屋の建設も行いました。この城が築かれた場所は、もともと単なる漁村でした。ところが、ここは極めて短期間に日本有数の都市になったのです。20万人近くの兵士たちがこの軍事都市から朝鮮に渡り、10万人以上の人たちがここに留まりました。

石垣山城跡
大坂城
肥前名護屋城、城下町、各大名の陣屋敷地の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)

豪華かつ強力な作りの城

肥前名護屋城の一番高い場所には、天守と御殿を伴う本丸がありました。登城ルートは五つありました。主なものとしては、大手口、搦手口、そして山里口が挙げられます。大手口は、南方から本丸の東側にあった三の丸に、東出丸を経由して通っていました。本丸の大手門は、この三の丸に向かって開いていました。搦手口は、本丸の西側にあった二の丸の外側から始まっていました。ところが、このルートは直接本丸には至らず、その南側を回り込んで東側の三の丸に通じていました。歴史家の中には、こちらの方がより防御がしっかりしているため、搦手口こそが本当の大手口であったのではと推測しています。山里口は、三の丸より低く、またその北側にあった山里丸に通じていました。茶室が付属した秀吉の居館が、手前の方に建てられました。全ての曲輪は石垣で囲まれており、城を強固にするとともに、秀吉の権威を見せつけていました。

名護屋城模型の本丸及び天守部分
現地案内図に3つの主要登城ルートを加筆
名護屋城模型の秀吉居館部分(手前の方)

長引く戦いと秀吉の死による挫折

朝鮮侵攻は1592年に始まりました(文禄の役)。この戦いはもとは中国征服が目的でしたが、必然的にその途上にある朝鮮で戦いが起こりました。日本軍は、最初は短期間のうちに朝鮮のほとんどを占領しました。秀吉は、肥前名護屋城に居座り、そこから軍を指揮していました。彼はそのよい知らせを聞き、満足した様子で、中国と朝鮮をどのように分割するかということまで計画しました。ところが、中国の明王朝から派遣された援軍や、朝鮮の義勇兵や水軍による反撃により戦線は南朝鮮で膠着しました。1593年には明王朝からの使節が停戦交渉のために肥前名護屋城を訪れました。

1592年の釜山鎮の戦いを描いた「釜山鎮殉節図」 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日本の軍船、安宅船の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)
明軍の武器、フランキ砲の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)

この交渉は長期間続きました。しかし決裂し、1597年に戦いが再び朝鮮南部で起こりました(慶長の役)。戦意に乏しい日本軍は、無益な戦争を明軍と戦わねばなりませんでした。朝鮮の無辜の人民も多く殺されました。1598年の秀吉の死の直後、ようやく日本軍は朝鮮から引き上げました。この戦いの失敗は、豊臣氏の凋落と徳川幕府の設立を早める結果となりました。肥前名護屋城は、撤退とともに廃城となり、静かな場所へと戻っていきました。

1597年の蔚山城の戦いを描いた「蔚山籠城図屏風」部分、 福岡市立博物館所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「肥前名護屋城図屏風」、佐賀県立名護屋城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「肥前名護屋城その2」に続きます。