176.一宮城 その2

山上に突然現れる石垣

特徴、見どころ

よく整備された登山道

もし一宮城跡に車で行かれるのでしたら、鮎喰川と山地に挟まれた狭い地域を通る道路を行くことになります。城を守るためにはよい立地であることがわかると思います。城跡への登山道入口は、一宮神社の反対側にあります。ここから標高144mの山頂まで登っていく必要があります。しかし、登山道には石段があり、よく整備されています。

現地の案内図より

城周辺の地図

登山道入口
石段が作られ、よく整備されています

しばらく登っていくと、登山道に沿った坂に竪堀を見ることができます。これは、敵の攻撃を防ぐための仕掛けです。近くにある分かれ道に入っていくと、倉庫跡があります。

竪堀
倉庫跡 (licensed by ブレイズマン via Wikimedia Commons)

自然の地形を生かした防御システム

登山道の本道の方に戻って進んでいくと、いくつかの曲輪の下にある、切岸と呼ばれる人工的に作られた急崖に至ります。この崖下には、湧水も見られます。ここから更に曲がりくねった登山道が崖を伝って登っていきます。

切岸によって作られた急崖
崖下の湧水
崖を登っていきます

崖を登った後でも、堀切と呼ばれる人工的に作られた谷の底にたどり着くのみです。敵の軍勢は、上方の曲輪から反撃を受けることになったでしょう。この谷によって、城の中心部と、才蔵丸という曲輪が分けられています。ここから左の方に行けば、才蔵丸に着きます。この曲輪は、三の丸とも呼ばれています。「才蔵」とは、かつてこの曲輪を任せられていた部将の名前に由来しています。

崖を登ってもまだ堀切の底です
明神丸入口
明神丸内部

城の中心部へ

谷から右の方に行ってみると、二つの主要な曲輪(明神丸と本丸)がある城の中心部への門跡に至ります。この二つの曲輪は、腰曲輪と呼ばれる細長い曲輪によってつながっています。

城の中心部への門跡
腰曲輪

その門跡から再び右の方に曲がっていくと、明神丸です。この曲輪はまた二の丸とも呼ばれていて、眺望を楽しむためと思われる縁側付きの建物跡が見つかった所です。今でもここからは、東の方角に徳島県中心部の景色がよく見えます。

明神丸入口
明神丸内部
明神丸からの景色

本丸のすばらしい石垣

先ほどの門跡に戻り、その前から見て左の方にいくと、ついに山の頂上にある本丸に到着します。蜂須賀氏が築いたすばらしい石垣が突然現れるので驚かれるかもしれません。この城の石垣はとても珍しく、美しいものです。深緑色の縞模様がある緑泥片岩を使って積み上げられているからです。これらの石は阿波の青石としても知られています。同じ石垣の作り方は、蜂須賀氏が一宮城の後で築いた徳島城でも見ることができます。

本丸の石垣
緑泥片岩が使われています
徳島城の石垣

本丸の中には、若宮神社の小さな祠があるだけです。城主のための御殿の礎石が見つかったのは最近のことで、これも蜂須賀氏によって築かれました。ここからは、鮎喰川を含む周辺地域の景色もよく見渡すことができます。

本丸内部
若宮神社の祠
本丸からの眺め

「一宮城その3」に続きます。
「一宮城その1」に戻ります。

20.佐倉城~Sakura Castle

土造りの城であっても十分強力です。
The castle made of earth can be just as strong.

佐倉城の馬出し跡~The Umadashi ruins of Sakura Castle

立地と歴史~Location and History

佐倉城は、現在の千葉県佐倉市にあり、かつての江戸の東にあってその防御を担っていました。この城の建設は戦国時代に千葉氏が最初に始めましたが、頓挫していました。江戸時代初期、徳川家康の命により、土井氏がこれを完成させました。
Sakura Castle was located in the east of Edo City for guarding the city, in what is now Sakura City, Chiba Prefecture. The castle’s construction first started by the Chiba clan in the “Sengoku” or Warring States Period, but it was not completed. In the first Edo Period, the Doi clan was ordered to complete it by Ieyasu Tokugawa.

佐倉城の位置~The location of Sakura Castle

この城は鹿島山という小山にあります。その山は30mの高さしかないのですが、鹿島台地の西端にあたり、南方と西方を川に囲まれていました。更に近くには大きな印旛沼がありました。そのため、この城の防御は北と東に向かって準備されたのです。
The castle was on a hill called Kashimayama. While the hill is only 30m high, it is the western edge of Kashima plateau, surrounded by rivers in the south and west. Moreover, there was the large Inbanuma Lake nearby. So the defense system of the castle was prepared towards the north and east.

城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

明治初期の城周辺の地図~The map around the castle in the first Meiji Period

もう一つのこの城の特徴は、基礎が全て土からできていることです。戦国時代の東日本の城もまた土造りだったのですが、1590年の石垣山城以来、石垣造りとなっていました。江戸時代においては、大きな土造りの城は稀でした。
Another feature of the castle is that the foundation of it was all made of earth. Though castles in eastern Japan in the Sengoku Period were also made of earth, they were built with stone walls since Ishigakiyama Castle in 1590. A large earthen made castle was rare in the Edo Period.

佐倉城本丸の土塁~The earthen walls of Sakura Castle Honmaru enclosure

この城は弱くはありません。本丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪が中心から外側に配置されていました。これらの曲輪は高く分厚い土塁に囲まれ、広く深い空堀によって隔たれていました。三の丸の北側には防御のための関門である馬出しがありました。東側には、大手門などの4つの門が本丸に至るまでに控えていました。本丸は、城の中心の曲輪であり、いくつもの櫓があり、そのうち三階建ての櫓は天守と目されていました。
This castle was not weak. Its primary enclosures consisted of Honmaru, Ninomaru and Sannnomaru, from the center to outside. They were each surrounded by high and thick earthen walls, and separated by wide and deep dry moats. There was a defensive gateway barrier called Umadashi in front of the northern side of Sannomaru. On the eastern side, there were four gates such as the Main Gate “Ote-mon” to reach Honmaru. Honmaru is the main enclosure of the castle which had several turrets like the three-story turret regarded as the Main Tower or “Tenshu”.

下総国佐倉城図部分に注記、江戸時代~Part of the illustration of Sakura Castle in Shimousa Province adding notes, in the Edo Period(出典:国立国会図書館)
佐倉城址公園センターにある天守のミニチュアモデル~The miniature model of Tenshu at Sakura Castle Park Information Center

江戸時代中期までに城主は何回も変わりました。江戸時代の後期は堀田氏が城と城下を統治し続けました。佐倉藩はまた、政治のみならず文化面でも著名でした。一例として、幕府の老中の一人であった堀田正睦は幕末の外交を取り仕切る一方で、佐藤泰然を招聘し私立の医学校を設立しました。この学校は後に順天堂大学となります。
The lord of the castle was changed many times until the mid Edo Period. The Hotta clan continued to govern the castle and the town during the late Edo Period. The Sakura Domain also became famous for politics and culture. For example, Masayoshi Hotta, a member of the Shogun’s council of elders, dealt with diplomatic matters in the last days of the Tokugawa Shogunate. Juntendo University comes from a private medical school by Taizen Sato whom Masayoshi invited to Sakura.

城跡にある堀田正睦の銅像~The statue of Masayoshi Hotta at the castle ruins
佐倉順天堂記念館~Sakura Juntendo Memorial Building(licensed by あばさー via Wikimedia Commons)

特徴~Features

城周辺の地図~The map around the castle

現在、城跡は佐倉城址公園という名の歴史公園として整備されています。電車とバスを使った場合は、城の外郭に当たる椎木曲輪から入っていきます。今は国立歴史民俗博物館がある所です。かつては侍屋敷がここにありました。
Now, the ruins of the castle have been developed as a historical park called Sakura Castle Park. When using the train and bus, you will enter the ruins of the Shiinoki enclosure, located in the outline of the castle, where the National Museum of Japanese History is. Residences for warriors were in it in the past.

椎木曲輪の入り口~The entrance of Shiinoki enclosure
国立歴史民俗博物館~the National Museum of Japanese History(licensed by Wiiii via Wikimedia Commons)

曲輪を超えていくと、四角い形で馬出し跡が空堀とともにあります。この空堀は一時埋められましたが、最近掘り返されました。
Over the enclosure, there is the ruins of the square shaped Umadashi and its dry moat which was once filled, but recently dug again.

馬出し跡~The Umadashi ruins

椎木門跡を過ぎて、本丸に入ります。土塁と空堀がよく残されています。本丸の内部は空で、土造りの天守台だけが残されています。
Passing the ruins of the Shiinoki Gate, you can go to Honmaru where its earthen walls and dry moats remain in good condition. The inside is empty, only the earthen base of Tenshu can be seen.

本丸の内部~The inside of Honmaru
土造りの天守台~The earthen base of Tenshu(taken by あけび from photoAC)

本丸の外側は外水堀に面していて、腰曲輪と呼ばれる小径と、出丸と呼ばれる突き出た曲輪があります。これらにより城の防御力が増しています。
The outside of Honmaru facing outline water moat has trails called the Koshi enclosure and stuck out enclosures called Demaru. They made the castle more defensive.

腰曲輪~Koshi enclosure
出丸~Demaru enclosure(taken by あけび from photoAC)

本丸の東には姥ヶ池という池があり、老婆が誤って姫君を死なせてしまったため、彼女自身もその池に身を投げたという伝説があります。
There is a pond called Ubagaike, in the east of Honmaru, that has a legend of an old woman who accidentally killed a princess and threw the woman herself into the pond.

姥ヶ池~Ubagaike Pond

また、三の丸の前にも空堀が残っていて、最近きれいに整備されました。
There is also a remaining dry moat ,in front of Sannnomaru, that has been well developed recently.

三の丸前の空堀~The dry moat in front of Sannnomaru

その後~Later History

明治維新後は、城の建物は撤去されました。(天守は既に江戸時代後期に燃えてしまいました。)1873年からは、日本陸軍第2歩兵連隊が城跡を使います。その任務の一つは、江戸時代と同じく、帝都東京を守ることでした。第2連隊の後に入った第57連隊は第2次世界大戦で中国やフィリピンに送られ、大きな損害を受け、多数の戦死者を出しました。戦後、城跡は1962年に佐倉市の史跡に指定されました。
After the Meiji Restoration, the buildings of the castle were demolished (The Tenshu had already been burned out in the late Edo Period). The 2nd infantry regiment of Japanese Army used the ruins since 1873. One of its tasks was to guard Tokyo City just the same as in the Edo Period. The 57th infantry regiment following the 2nd infantry regiment was sent to China and the Philippines in World War II. It suffered huge damages and casualties. After the war, the ruins were designated as a historical site by Sakura City in 1962.

大手門跡~The ruins of Ote-mon Gate
大手門の古写真、撮影は佐倉藩士の阿部忠忱、菅谷義範氏蔵~The old picture of Ote-mon Gate, taken by Tadaaski Abe, a feudal retainer of Sakura Domain, owned by Yoshinori Sugaya(佐倉市Websiteから引用)

私の感想~My Impression

ここには城と見えるような建物はありません。でも城跡を歩き回ってみれば、この城が自然の地形を生かして作られたこと、土造りの城も十分強力だということがわかっていただけると思います。
There are no building looking like a castle. But after walking around the castle ruins, you can be sure that the castle was built using natural terrain, and that castles made of earth can be just as strong.

出丸の内側~The inside of Demaru enclosure

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:東関東自動車道の佐倉ICまたは四街道ICから約20分かかります。公園に駐車場があります。
JR佐倉駅または京成佐倉駅からバスで行く場合:田町車庫行きグリーンバスに乗り、国立博物館入口バス停まはた国立歴史民俗博物館前バス停で降りてください。
If you want to go there by car: It takes about 20 minutes from the Sakura IC or the Yotsukaido IC on Higashi-kanto Expressway. The park offers a parking lot.
If you want to go there by bus from JR Sakura station or Keisei-Sakura station: Take the Chiba Green bus for Tamachi-shako and take off at the Kokuritsu-Hakubutsukan-Iriguchi bus stop or the Kokuritsu-Rekishi-Minzoku-Hakubutsukan-Mae bus stop.

リンク、参考情報~Links and References

佐倉城址公園について、佐倉市~Sakura City
・「よみがえる日本の城2」学研(Japanese Book)

6.盛岡城(Morioka Castle)

盛岡城跡はまるで石作りの鎧をまとった武者のようです。
Morioka Castle Ruins look like a warrior wearing an amour made of stone.

盛岡城の石垣(The stone walls of Morioka Castle)

Location and History

岩手県の県都である盛岡市は、この城から始まりました。盛岡はまた、この城の城主であった南部氏により名付けられました。この城はもともと北上川と中津川の合流地点の北側にある丘の上に築かれました。(現在、北上川は西の方角に付け替えられています。)
Morioka City, the capital of Iwate Prefecture, started from this castle. Morioka was also named by the lord of the castle, the Nanbu clan. The castle was originally located on a hill in the north of the meeting point of Kitakami River and Nakatsu River (Now, Kitakami River has been replaced in the western direction).

南部領盛岡平城絵図部分、江戸時代(Part of the illustration of Morioka Castle in Nanbu Domain in Edo Period)|出典:国立公文書館

最新の城周辺の地図(The latest map around the castle)


南部氏は、北東北地方の有力な戦国大名の一族で、その運営は一族の合議によりなされてきました。三戸城の南部信直がやがて力を持ち、天下人の豊臣秀吉に南部氏の頭領であると認められました。
Nanbu clan had been a great warlord group in the north Tohoku region with their operations run by the relatives’ council. In the end of the Civil War Period, Nobunao Nanbu in Sannohe Castle had an influence, and he was allowed to be the head of the clan by the ruler, Hideyoshi Toyotomi.

南部信直像、もりおか歴史文化館蔵(The portlait of Nobunao Nanbu, owned by Morioka History and Culture Museum)licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

彼は、豊臣の配下である蒲生氏郷や浅野長吉らの助けを借り、九戸城で反乱を起こした一族の九戸政実を滅ぼしました。そして彼は一旦九戸城に移り、そこを「福岡」と名付けました。しかし福岡は南に広がっていた南部領にとって北にありすぎました。そこで蒲生や浅野は再度南の方に移るよう提案しました。それが不来方(盛岡の前の名前)だったのです。そこで信直は1598年から新しい城造りを始めました。
He beat a rebellious relative, Masazane Kunohe in Kunohe Casle with the help from Toyotomi’s men such as Ujisato Gamo and Nagayoshi Asano. Then, he once moved to Kunohe Castle and renamed it “Fukuoka”. But Fukuoka was too much on the north because Nanbu’s territory spread to the south. So, Gamo and Asano suggested Nobunao to move again to another southern place. That was Kozukata (the former name of Morioka) where Nobunao started to build a new castle in 1598.

九戸城跡(The ruins of Kunohe Castle)

蒲生と浅野は更にその城を、西日本で一般的であった総石垣作りとするよう提案しました。その当時の東日本おいては、より強い防御力を持つ特別な城となったのです。城の建設には長い時間を要し、信直の息子、利直の代の1615年に完成しました。利直はそのとき不来方を盛岡と改名したのです。
Gamo and Asano also suggested to build the castle made up entirely of stone walls that was popular in the western Japan. That style would be more defensive and special in the eastern Japan at the point. The construction took a long time before its completion in 1615 by Nobunao’s son, Toshinao who renamed Kozukata, Morioka then.

本丸(右)と二の丸(左)(Honmaru on the right and Ninomaru on the left)

南部氏は、江戸時代を通して盛岡城とその城下町を支配しました。城はしばしば火事、地震そして洪水の被害を受けましたが、その度に修復され、部分的には拡張されました。
Nanbu clan governed Morioka Castle and town all through the Edo Period. The castle sometimes suffered from fires, earthquakes and floods, but were repaired and partly improved.

腰曲輪の石垣(The stone walls of Koshi-Guruwa)

Features

現在、盛岡城跡には、たった一つ現存している「彦御蔵」を除いては、建物がない石垣だけが残っています。それでも石垣の存在は際立っています。城跡のどこに行っても素晴らしい石垣が見れます。全てが地元産の白花崗岩を使っています。それではいくつか代表例を見てみましょう。
Now, the ruins of Morioka Castle remain stone walls without buildings except for only one warehouse called “Hiko-Okura”, but they are even more outstanding. Wherever you get around the ruins, you can see amazing stone walls. They are all made of white granite locally produced. Let’s look at some typical stone walls we can see in the ruins.

現存する「彦御蔵」(The remaining Hiko-Okura)

盛岡城跡の地図、マーカーは以下の写真を撮った位置
(The map of Morioka Castle Ruins, Markers show the points pictures below were taken)




・本丸周りの石垣:基本的に自然石を積み上げ、隅石には加工石を用いており「野面積み」と呼ばれます。城跡では一番古く、築城が始まった直後に築かれたと考えられています。
・The main enclosure “Honmaru” surrounded stone walls: They consist of piled-up natural stones basically, and processed stones in the corner, called “Nozura-Dumi”. They are thought to be the oldest in ruins, and might have been made in the earliest time since the castle began to be built.

本丸周りの石垣(Honmaru surrounded stone walls)

・腰曲輪石垣:ここに使われている石は粗く加工されてから積まれており、「乱積み」と呼ばれます。この方法は城が完成した時期に使われました。一部は最近元の方法で積み直されています。
・The bounded enclosure “Koshi-Guruwa” stone walls: These stones are roughly processed and piled called “Ran-Dumi”. The method was used around the same time as the castle was completed. Part of them were restored recently in the original way.

腰曲輪石垣(Koshi-Guruwa stone walls)

・二の丸西側石垣:四角くカットされた石を使い、整列させて積み上げたもので「布積み」と呼ばれます。17世紀になって北上川が付け替えられてから築かれました。
・The second enclosure “Ninomaru” west side stone walls: They are made with square cut stones and piled with aligning called “Nuno-Dumi”. They were added in the late 17th century, after the replacement of Kitakami River.

二の丸西側石垣(Ninomaru west side stone walls)

上記の通り、異なる時代や方法による様々な石垣があります。新しく進んだ方法による石垣がお好みとは限りませんよ。
As mentioned above, there are many types of stone walls from different times and methods. New and advanced ones are not always the best for you.

腰曲輪石垣からもう一枚(Another photo from Koshi-Guruwa stone walls

Later Life

明治維新後、城の建物は撤去されました。城は荒廃していき、周辺の人たちはそれを憂いました。そこで岩手県がその地を借り受け(後に盛岡市が購入)、岩手公園として1906年に一般に公開しました。城跡はまた、1941年に国の史跡に指定されました。
After the Meiji Restoration, the buildings of the castle were demolished. The castle went to ruin, people around were worried about it. Then, Iwate Prefecture rented it (Morioka City bought it later), and opened to the public as the Iwate Park in 1906. After that, the ruins were designated as a National Historic Site in 1941 as well.

公園内の石垣と木々(Stone walls and trees in the park)taken by NR1000 from photoAC

My Impression

最近、盛岡市はこの公園に「盛岡城跡公園」という愛称を付けました。この主な理由は観光のためなのでしょうが、どうやら建物の再建を含めた城の復元方法を模索しているようなのです。私は将来も城跡をこのまま維持することが最善と思います。なぜなら石垣の上に建物が復元されてしまうと、人々の関心が分散してしまうからです。
Recently, Morioka City nicknamed the park “Morioka Castle Ruins Park”. The main reason for it should be for tourism, while the city seems to be searching for the way of restoring the castle including some buildings. I think that keeping the ruins is in the future would be the best way. Because if a building is restored on the stone walls, people’s interest might be destructed by them.

二の丸から木々を見下ろす(Ninomaru overlooking the trees)

石垣に囲まれた城跡は、できてから400年以上経ちます。木々や植物のおかげで城跡はより美しく見えます。ある作家は、自身による石垣の写真に添えて「春は花、夏は緑、秋は紅葉、冬は雪」と述べています。
The ruins surrounded by stone walls are over 400 years old. Trees and plants help them look more beautiful. A writer says “Flowers in spring, green in summer, leaves in autumn, snow in winter” with his pictures of the stone walls.

石垣に桜の花(The stone walls featuring cherry blossoms)taken by 政宗っ。from photoAC

How to get There

車で行く場合:東北自動車道盛岡ICから約10分です。城跡公園に地下駐車場があります。
盛岡駅からバスで行く場合:西口バス16番乗り場から循環バス「でんでんむし」に乗り、盛岡城跡公園バス停で降りてください。駅から歩くと約20分です。
東京から盛岡駅まで:東北新幹線に乗ってください。
If you want to go there by car: It takes about 10 minutes from the Morioka IC on Tohoku Expressway. The park offers an underground parking lot.
If you want to go there by bus from Morioka station: Take the Den-Den-Mushi bus at the east exit bus terminal bus stop No.16, and take off at the Morioka-Joato-Koen bus stop. Or it takes about 20 minutes on foot from the station.
From Tokyo to Morioka st.: Take the Tohoku Shinkansen super express.

Links and References

盛岡城跡公園(岩手公園)~盛岡市(Morioka Castle Ruins Park (Iwate Park)~Morioka City)
・「史跡盛岡城跡整備基本計画/盛岡市」(Japanese Document)
・「盛岡城の石垣/高橋喜平」(Japanese Book)