21.江戸城 その2

江戸城は、徳川将軍家の本拠地として完成しました。どの大名の城とも別格であり、将軍の権威を誇示し、反逆心など起こさせないようにする存在となりました。そのため、日本一広いだけでなく、独特の意匠や構造を持つ城になったのです。城と一体であった江戸の町は、当時から世界有数の都市でした。各大名は参勤交代により、江戸と居城を往復するたびに、莫大な費用をかけながら、江戸の城と町を見せつけられたのです。まさに、戦わずして勝つ仕掛けでした。

立地と歴史(君臨の歴史編)

江戸城の防衛システム

江戸城は、徳川将軍家の本拠地として完成しました。どの大名の城とも別格であり、将軍の権威を誇示し、反逆心など起こさせないようにする存在となりました。そのため、日本一広いだけでなく、独特の意匠や構造を持つ城になったのです。城と一体であった江戸の町は、当時から世界有数の都市でした。各大名は参勤交代により、江戸と居城を往復するたびに、莫大な費用をかけながら、江戸の城と町を見せつけられたのです。まさに、戦わずして勝つ仕掛けでした。

「江戸図屏風」国立歴史民俗博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

江戸城は、江戸幕府の本拠地でもあるため、中央政庁としての役割もありました。敵を撃退するというより、不審者を簡単に侵入させないセキュリティ維持の仕組みも求められました。特徴として、城の敷地面積のわりには櫓が少なかったそうです。それでも、天守のほかに、三重櫓が最盛期には本丸に5棟(富士見三重櫓、遠侍東三重櫓、台所前三重櫓、菱櫓、数寄屋櫓)、二の丸に3棟もありました。(蓮池巽三重櫓・巽奥三重櫓・東三重櫓)天守がなくなってからは、富士見三重櫓が、天守の代用になったと言われています。全体(本丸・二の丸・三の丸)では、約30基の櫓があったようです(多聞櫓除く)。

富士見三重櫓(現存)
蓮池巽三重櫓(古写真)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
(左から)巽奥三重櫓、東三重櫓(古写真)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


一方、城門が数多く設置されていて、その数は約90に達しました(諸説あり)。入口をしっかり警護し、不審者をここでロックアウトするのです。そのうち、主要なものが「三十六見附」と称されて、江戸の名所のようになっていました。「赤坂見附」「四谷見附」がそのまま地名として残っています。「見附」とは見張りの番兵を置いた場所のことですが、外郭と中心部ではその対象が違っていました。例えば、外郭に設置された「浅草見附(浅草橋御門)」は、日光・奥州街道の通り道に当たりました。よって、一般の通行人や物品の出入りを監視していました。「見附」の外側、街道上の町の出入口には「大木戸」というのも設置され、同じような役割を果たしていました。

浅草見附の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
広重の浮世絵に描かれた高輪大木戸(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中心部においては、城の正門、大手門は、大名たちが登城するための門です。大手門の前の「下馬所」で大名以外の従者は馬や駕籠から降り、ここから先は人数制限もありました。次の大手三の門(下乗門)では、御三家以外の大名も乗物から降りなければなりませんでした。この門の内側にある同心番所が現存しています。そして、圧倒的な規模の中の門が現れます。更に、本丸への最後の城門、中雀門は豪華絢爛を誇っていました。これらの城門は、幕府・将軍の権威を具現化する役割を担っていたのです。

大手門(戦後の再建)
大手三の門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
同心番所(現存)
中の門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
中雀門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

江戸城天守比べ

江戸城には、家康・秀忠・家光の時代ごとに、3代の天守がありました。なぜわざわざ一代ごとに建て替えるのかとも思いますが、それぞれの治世を象徴しているようにも思います。家康の天守は、建てた時期から「慶長天守」とも呼ばれます。家康が天下を取った後、初めて行った天下普請のときに建てられました(1607年、慶長12年)。
詳細は不明ですが、そのとき健在だった豊臣大坂城天守をしのぐ大きさだったと推定されています。(5重5階で、石垣を含めた高さが約55mという説あり)位置は、現在残る天守台よりも、南側、本丸中心に近いところだったようです。外観は、漆喰が塗られた白壁と、屋根は銀色に輝く鉛瓦で、白亜の天守だったという記録があります。最近発見され絵図(「江戸始図」)によると、連立式天守だった可能性があり、イメージは姫路城天守に近かったかもしれません。

姫路城天守

2代将軍・秀忠は、家康逝去後、これも天下普請のとき(3次、1622年・元和8年~)天守を改築しました。これも時期から、元和天守とも呼ばれます。その理由は定かではありませんが、家康との確執があったとか、慶長天守が破損したためとも言われます。本丸御殿の拡張に伴って、位置を現在の天守台付近に移しているので、単に移築しただけなのかもしれません。ちょうど江戸幕府の体制を盤石にする段階でしたので、政治の場所としての江戸城を意識したのではないでしょうか。

元和天守のものとされる「江戸御殿守絵図」(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、3代将軍・家光が「寛永天守」として、日本史上最大の天守を築くのです(1638年、寛永15年完成)。今度は同様の場所で建て替えたので、天守そのものに意図を込めたと考えられます。祖父・家康を尊敬していた家光が、家康の天守を壊した秀忠に、意趣返しをしたとの見解もありますが、江戸城の総構えが完成したところで、将軍の権威を改めて示そうとしたこともあったでしょう。残っている資料や各種研究から、寛永天守は5重5階地下一階で、高さは約45m、石垣を含めると訳59mあったとされます。

徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


天守の高さ・史上ランキングを示します(現存・再建・消失したが推定できるもの、カッコ内は石垣含む、同じ城の重複は除く)。
① 寛永期江戸城:45m(59m)
② 徳川期大坂城:44m(57m)、現在のものは42m(55m)
③ 名古屋城:36m(48m)
④ 駿府城:34m(53m)
⑤ 島原城:33m(39m)
⑥ 安土城:32m(41m)
⑦ 姫路城:32m(47m)
⑧ 熊本城:31m(37m)
4位までを天下普請で作った徳川の城が占めています。再建された現在の大坂城・名古屋城では、その大きさを実感することができます。寛永天守は、それをも上回っていたのです。

再建された大阪城天守
外観復元された名古屋城天守


外観は、前代までと異なり、壁は、上部は漆喰、下部は銅板を張って黒で塗装していました。瓦も銅瓦葺きで、当時の銅は高価で、耐久性・防火性を兼ね備えていました。また、特筆すべきこととして、壁には狭間・石落としはありませんでした。つまり、この天守は、権威・平和のシンボルとして建てられたのです。ところが、完成からわずか19年後の1657年(明暦3年)の明暦の大火で、焼失してしまうのです。江戸の町の過半、江戸城も本丸が全焼した火事で、火炎に吹き上げられた窓から引火したそうです。

寛永天守模型、皇居東御苑本丸休憩所にて展示

時は4代将軍・家綱のことで、天守台は前田綱紀により迅速に再建されましたが、天守が再建されることはありませんでした。後見役の保科正之の進言により、市中の復興を優先したのです。それ以降、江戸城には天守はありませんでした。3代通じて天守があったのは、わずか50年ちょっとだったのです。

4代目天守台(現存)

政治の中心、本丸御殿

天守がなくなった江戸城の中心は、御殿でした。江戸城に限らず、平和な江戸時代には、政治の場・大名の居住地として、御殿が城の中枢だったのです。江戸城には御殿がいくつもありましたが、代表的なものは、本丸御殿、二の丸御殿、西の丸御殿でした。
西の丸御殿は、主に隠居した将軍や将軍の跡継ぎが暮らしていました。二の丸御殿は、様々な用途で使われたようです。そして本丸御殿が、将軍が暮らし政務を行った、まさに時代の中心地でしたので、これについてご説明します。

「江戸御城之絵図」、東京都立図書館蔵、黄色と桃色で塗分けられている部分が御殿

よく知られている通り「表」「中奥」「大奥」の三つに区分されていました。「表」は、儀式が行われ、幕府の役人が職務を行う、公邸に当たる場所でした。例えば、大名が将軍に謁見する場合、玄関(式台)から入って、遠侍という建物の「虎の間」で待ちます。そして大広間で謁見となるのですが、大身の大名でも、上段の間の将軍から相当離れた下座で平伏したそうです。

万治造営本丸御殿平面図、皇居東御苑現地説明パネルより
「虎の間」のイメージ、名古屋城本丸御殿障壁画より

その奥の方が、諸大名などと対面も行ったのが白書院です。大広間と白書院をつなぐのが、「赤穂事件」で有名な松の大廊下です。白書院から竹の廊下を経た奥が、幕閣などとの対面などに使われた黒書院です。

松の大廊下の襖絵図、現地説明パネルより
松の大廊下での刃傷事件(赤穂事件)を扱った歌舞伎の浮世絵、実際の松の大廊下は閉じられた空間で暗かったそうです(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そこから先が将軍の公邸の「中奥」です。対面所として使われる「御座の間」、寝室や居間として使われた「御休息の間」などがありました。ところで、老中などの幕閣はどこにいたかというと表と中奥の中間にある「御用部屋」でした。初期は中奥にあったそうですが、刃傷事件が起きたことで、少し遠くに移されました。それが、取次ぎを行う側用人が台頭する一因になったそうです。それから、各大名が登城したときの居場所ですが、これも大名のランクで細かく分けられていました。例えば、大身の外様大名は大広間席、御三家は大廊下席に詰めていました。意外と将軍の居場所とは離れていて、中央の政治にはなるべく関与させないという意図があったのかもしれません。譜代大名は、白書院にある「帝鑑の間」にいました。段々、将軍に近づいていきます。そして黒書院にあった「溜の間」詰めが最も格が高く、重要事項は幕閣の諮問を受ける立場にありました。会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家は常にこの場を占め(定溜)、功績によって認められる大名家もありました(飛溜)。これも、大名の忠節を奨励し、将軍・幕府の下にコントロールするシステムの一つだったのでしょう。

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 、彼は対応になる前から溜の間詰めでした(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
堀田正睦、一旦老中を退いた後、溜の間詰めになりました (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして「大奥」ですが、奥女中には、大奥のことを口外しないという厳しい法度あったため、その関心の高さの割に実態は知られていません。この制度は春日局が確立したと言われ、ここにも厳しい身分制度がありました。

大奥と中奥をつなぐ御鈴廊下のセット、東京国立博物館特別展「江戸大奥」にて展示
春日局肖像画、麟祥院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高位になると、城から外に出ることは、ほとんどできませんでした。将軍や御台所の代理で寺社に参詣することはありましたが、門限に遅れ「絵島事件」のようなことも起こっています。将軍にしても、よりどりみどりではなく、予め吟味され選ばれた将軍のお世話係(御中臈)から側室が出たのです。男子禁制と相まって、筋目正しい将軍の世継ぎを得るという、これも権威・体制を維持するための仕組みの一つでした。

江島事件を扱った浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それでも、生涯をかけて務めたり、奉公務めのキャリアとして応募する女性もいたので、当時はステイタスの一つだったのでしょう。大奥の女中の限られた娯楽の中に、大奥内で行われた歌舞伎鑑賞がありました。大奥なので、演じたのも女性の役者でした。そのときの衣装が残されていて、大奥の華やかな一面を伝えています。

大奥で行われた歌舞伎で使われた衣装、東京国立博物館特別展「江戸大奥」にて展示

江戸城激動の歴史

盤石に見えた幕府と江戸城でしたが、その最大の敵は火事でした。天守のところで出てきた明暦の大火の他にも、多くの火災に見舞われます。しかし、中枢の本丸御殿に限れば、明暦の大火後、1659年(万治2年)に建てられた御殿が、その後180年以上健在でした。江戸の町では大火が度々ありましたが、江戸城の中心部は延焼を逃れていたのです。この状況が変わったのが幕末です。町の火災は減ったのに、御殿の火災が頻発するようになるのです。水野忠邦による天保の改革が挫折した後くらいからです。1844年(天保15年)長らく保った本丸御殿が焼けましたが、翌年再建されました。ところが、次に本丸御殿が焼けたのは、ペリー来航後の1859年(安政6年)で、15年も持たなかったのです。ときの将軍・徳川家茂は、西の丸に移りました(本丸御殿はまた翌年再建)。大老・井伊直弼の彦根藩救援隊が活躍したそうです。

徳川家茂肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして翌年、安政7年3月3日、桃の節句の総登城の日に、桜田門外の変が起こります。彦根藩は事前に襲撃情報をつかんでいましたが、お供の人数は決まっているので、警護を強化させなかったそうです。幕府を守るためのルールが、時代に合わなくなった象徴的な例だったのかもしれません。その年の11月に本丸御殿が再建されますが、その3年後(1863年、文久3年)またも焼失しました。同時に二の丸御殿も焼け、6月に西の丸御殿も焼けていたので、家茂と妻の和宮は、行くところがなくなり、御三卿の清水邸、田安邸を転々とする有様でした。この前後で、家茂は2度の上洛をしています。幕末の混乱で幕府の財政事情はきびしく、これらの御殿を全て建て直す余力はありませんでした。再建中の西の丸御殿の規模を縮小して完成させ、これが最後の御殿となったのです(1864年、元治元年)。1865年(慶応元年)家茂は、西の丸御殿から第二次長州征討のために出陣し、二度と戻ってくることはありませんでした(翌年大坂城で病没)。

桜田門外の変を描いた浮世絵、月岡芳年作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

政局の中心は、朝廷がある京都に移りました。「最後の将軍」徳川慶喜が将軍になったのも、大政奉還により辞めたのも二条城です。その慶喜が江戸城(西の丸)に帰ってきたのは、1868年、慶応4年1月13日、鳥羽伏見の戦いに敗れ、朝廷に恭順の意思を固めていました。主戦派の小栗忠順をクビにし、恭順派の勝海舟をトップに据えて、2月12日は寛永寺で謹慎に入ります。そして3月13・14日の勝海舟・西郷隆盛の会見を経て、4月11日の江戸城引き渡しとなるのです。官軍が入ったのは御殿のある西の丸でした。明治元年と改称された10月13日、「東京城」と改められた江戸城に明治天皇が行幸しました。その場所も西の丸御殿だったので、それ以来、その場所が皇居になったのです。

二条城
将軍時代の徳川慶喜 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「江戸開城談判」、結城素明作、聖徳記念絵画館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「東京御着輦」、小堀鞆音作、聖徳記念絵画館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
皇居となった西の丸

リンク、参考情報

江戸城に迫る、東京都立図書館
特別展「江戸 大奥」、東京国立博物館
・「幻の江戸百年/鈴木理生著」ちくまライブラリー
・「江戸城の全貌/萩原さちこ著 」さくら舎
・「日本の都市 誕生の謎/竹村公太郎著」ビジネス社
・「江戸城の土木工事 石垣・堀・曲輪/後藤宏樹」吉川弘文館
・「江戸城 将軍家の生活/村井益男著」吉川弘文館
・「歴史群像名城シリーズ7 江戸城」学研
・NHK「ザ・プレミアム よみがえる江戸城」2014年放送
・NHK日曜美術館「大奥 美の世界」2025年放送

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

21.江戸城その1~Edo Castle Part1

江戸城は間違いなく日本で最大の城です。なぜなら城が東京そのものになったからです。時々、外国からの旅行者の方は、どこに有名な城や城跡があるのかと尋ねられます。もし、そこが東京の中心地であるなら、もうそこは城の中かもしれません。
Edo Castke was definitely the largest castle in Japan, because it became Tokyo itself. Some foreign tourists ask that where famous Japanese castles and ruins are. They may be standing among castles if they are in the center of Tokyo.

皇居正門石橋と伏見櫓~The Imperial Palace Main Entrance Bridge and Fushimi Turret

立地と歴史~Location and History

東京を含む関東平野には、中世までは大きな湿地帯がありました。この理由から、はるか昔の東海道は西日本から伸びてきて、 海を越えて房総半島に至っていました。利根、渡良瀬、隅田といった大河が直接江戸湾に注いでいたのです
The Kanto Plain including Tokyo had large waterlogged area until the Middle Ages. For this reason, the Tokaido road went from eastern Japan to Boso peninsula over the sea hundreds years ago. Large rivers like Tone, Watarase, and Sumida directly flow into what is now Tokyo Bay.

古代の関東平野の海岸線~The coastline of Kanto Plain in ancient times(licensed by Llhoi2013 via Wikimedia Commons

江戸城は1457年に太田道灌によって最初に築かれました。彼には敵との境界線であった利根川の近くに城を築く必要があったのです。その後この城は、戦国時代の間関東地方の支配者であった北条氏の支城の1つであり続けました。しかし、地理的な制約から武士たちの都とするには不十分でした。
Edo Castle was first built by Dokan Ota in 1457. He needed to build the castle near the border with his enemy, Tone River. After that, the castle had been one of the branch castles of the Hojo clan who were the ruler of Kanto region during the Warring States Period. But the castle still didn’t deserve warrior’s capital because of its geographical features.

太田道灌肖像画、大慈寺蔵~The portrait of Dokan Ota, owned by Daijiji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊臣秀吉は1590年に北条氏を滅ぼし、徳川家康に対し、北条氏に代わり関東地方に転封するよう命じました。秀吉はまた、家康の首府として江戸を指定したと言われています。秀吉は、彼による攻撃を3ヶ月間も耐えた北条氏の首府、小田原に家康が居座るのを恐れたからといいます。
Hideyoshi Toyotomi defeated Hojo clan in 1590, and ordered Ieyasu Tokugawa to move to Kanto region instead of Hojo. It is said that he also designated Edo as Ieyasu’s capital because he feared Ieyasu would settle at Hojo’s capital Odawara which could withstand Toyotomi’s attack for three months.

豊臣秀吉肖像画部分、加納光信筆、高台寺蔵~part of the Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, owned by Kodaiji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康は江戸に到着した直後から、江戸城への驚くべき大改造を開始しました。これは、日本人による湾岸地域での都市作りの初めての試みと言われています。
Immediately after Ieyasu arrived at Edo, he started an incredible renovation of Edo Castle. It is said that it was the first attempt for Japanese people to build a city on a waterfront area.

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵~The Portrait of Ieyasu Tokugawa, attributed to Tanyu Kano, owned by Osaka Castle Museum(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

初期の江戸城は、現在の山の手地域にありました。現在の下町地域は、海面下か湿地帯でした。そして、江戸前島と呼ばれた砂州がありました。また、陸地と砂州の間には日比谷入江が入り込んでいました。
The first Edo Castle was in the present uptown area. The present down town area was below the Sea or waterlogged. There was a sand bank called Edo-Maeto. There was also the Hibiya arm of the sea between the land and the bank.

Leaflet, © OpenStreetMap contributors
赤い線は現在の地図に残された江戸前島と日比谷入江の痕跡~The red line shows the remaining trace of Edo-Maetou and Hibiya Arm of the Sea on the present map

徳川家臣団は、水上交通のために江戸前島を横切る運河を掘り、川の流路を付け替えたりしました。彼らはまた、このような湾岸都市であったため、上下水道の設備も整えなければなりませんでした。その結果、江戸は水の都となったのです。
Tokugawa team created a canal across Edo-Maeto and change the route of rivers for water transportation. They also had to build a system for water supply and sewerage on such a waterfront city. As a result, Edo became a city of waterways.

Leaflet|国土地理院
戦前の東京の航空写真、まだ水路がたくさん残っていました~A aerial photo of Tokyo before the World War II, a lot of wateways still remained.

家康が1600年に天下を取った後、彼は全国の諸大名に天下普請と呼ばれる城の拡張工事を命じました。日比谷入江は城の用地拡大と防衛上の必要のため、埋め立てられました。この大規模な工事により、天守を含む多くの建物が作られ、多くの堀が掘られ、石垣が高く積まれました。
After Ieyasu got the power in 1600, he ordered lords of the whole country to improve the castle called Tenka-Bushin. They reclaimed Hibiya arm of the sea to spread the ground for the castle as well as the need for defense. Many buildings including Tenshu keep were built, many moats were dug, and high stone walls were built by the large scale construction.

「江戸図屏風」左隻部分、17世紀、国立歴史民俗博物館蔵~Part of “View of Edo” left screen. pair of six-panel folding screens, in the 17th century, owned by National Museum of Japanese History(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

大名たちは少なくとも6万個もの百人石と呼ばれた4トン石を、伊豆半島から海を越えて江戸まで運ばねばなりませんでした。1603年から1660年まで続いた天下普請は江戸を日本一の大城郭に仕立てたのです。
These lords had to carry at least 60,000 four ton stones called Hyakunin-Ishi from Izu Peninsula to Edo over the sea. Tenka-Bushin between 1603 and 1660 resulted in Edo Castle being the largest castle in Japan.

伊豆半島に残されている江戸築城石~A quarry stone for building Edo Castle left in Izu Peninsula(licensed by GuchuanYanyi via Wikimedia Commons)

江戸城は、内郭と外郭に分かれていました。内郭は内堀の内側で、城の中心部分で、主要な曲輪である本丸、二の丸、西の丸から構成されていました。その外周は8km近くありました。そこには天守、それぞれの曲輪に御殿があり、そして警備のために多くの櫓や門がありました。
Edo castle was divided into Naikaku and Gaikaku. Naikaku was the inside of the inner moat, and consisted of the center portion of the castle including main enclosures Honmaru, Ninomaru, and Nishinomaru. Its perimeter was nearly 8 km. It had the Tenshu keep, halls for each main enclosure, many turrets and gates for security.

Leaflet|国土地理院
今に残る内郭部分の航空写真~The aerial photo of the remaining Naikaku portion

外郭は、外堀に囲まれていた区域で、その外周は約16kmもありました。見附と呼ばれた大型の門と橋のセットが約50ヶ所、主要街道と堀との交差点に置かれ、民衆と交通を監視していました。
Gaikaku was the surrounding area by outer moat whose perimeter was about 16 km, even including the city area. About 50 sets of a large gate and bridge called Mitsuke were placed at the intersections of the moat and major roads to check people and transportation.

江戸古地図上での外郭範囲~The range of Gaikaku on the old Edo map(licensed by Tateita via Wikimedia Commons)

その完璧な構造にも関わらず、この城は敵からではなく、火災による被害を受けました。もっとも有名なのは1657年に発生した明暦大火です。この大火により、大半の江戸市域、江戸城、そして3代目の天守が焼け落ちました。大火の後、4代目天守の再建工事が開始されましたが、中止となりました。そのための天守台は今でも見ることができます。
Despite the perfect structure, the castle suffered not from enemies, but from fires. The most famous one was the great fire of Meireki in 1657. It burned out most of Edo City, Edo Castle, and the third Tenshu keep. After the fire, the rebuilding of a fourth Tenshu was launched, but canceled. We can now see the prepared Tenshu base for it.

4代目天守台~The base of the forth Tenshu keep(taken by 松波庄九郎 from photoAC)

将軍は本丸御殿に住み、統治を行いましたが、御殿も火災での焼失と再建を繰り返しました。幕末になってから、将軍は焼けた本丸御殿から通常は隠居した将軍が住む西の丸御殿に移らなければなりませんでした。予算がなかったからです。
Shogun lived and governed in Honmaru hall, but the hall was also burned down and restored several times. At the end of the Edo Period, Shogun had to move from the burned Honmaru hall to Nishinomaru hall where retired Shogun usually lived, because of the lack of money.

江戸東京博物館にある本丸と二ノ丸御殿の模型~The miniature model of Honmaru and Ninomaru halls at Edo-Tokyo Museum(licensed by Daderot via Wikimedeia Commons)

明治維新のとき、西日本の方で新政府と幕府の間で戦いが起こりました。結果として、西郷隆盛と勝海舟との会談が行なわれ、江戸城は新政府に平和裏に引き渡されました。
During the Meiji Restoration, a battle between the New Government and Shogunate was fought in eastern Japan. As a result, Edo Castle was handed over to New Government without war after the meeting between Takamori Saigo and Kaishu Katsu.

西郷・勝会談の記念碑~The monument of the meeting between Saigo and Katsu(licensed by 江戸村のとくぞう via Wikimedia Commons)

1869年、江戸は東京と名前を変え、日本の首都となりました。そして明治天皇が将軍と入れ替わりで、古都京都から東京の江戸城西の丸御殿に移りました。そのため、現在西の丸は皇居の一部となっています。
In 1869, Edo was renamed Tokyo which became the capital of Japan, before the Emperor Meiji move from old capital Kyoto to Nishinomaru hall of Edo Castle in Tokyo instead of Shogun. That’s why Nishinomaru is now part of the Imperial Palace.

明治天皇の東京到着を描いた錦絵~The picture that shows the arrival of Emperor Meiji to Tokyo(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「江戸城その2」に続きます。~To be continued in “Edo Castle Part2”

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