18.鉢形城 その3

1590年の戦いにおいて攻撃軍が車山から城へ砲撃したと伝わる話がありうることなのか確かめるために、実際に山の上まで登ってみました。

特徴、見どころ

よく復元されている空堀

三の曲輪と二の曲輪の間には、大規模な空堀が木柵とともに復元されています。堀のラインは折り曲げられていて、守備兵が敵の側面を攻撃できるようになっています。曲輪間を行き来できる場所は2ヶ所だけで、大手道から続く通路と、よく復元されている馬出しのところです。また、これら2つの曲輪を見比べてみると、三の曲輪の方が二の曲輪より高い位置にあることがわかります。他の城では通常、本丸に近い二の丸の方が三の丸より高いところにあります。しかし、鉢形城の場合はそうはなっていません。加えて、三の曲輪は北条氏により改修された結果、4つの馬出しがある強力な防御システムを持つに至りました。作家の伊東潤は、北条氏は城の最終段階において、城の中心部を本曲輪から三の曲輪に移したのではないかと言っています。

城周辺の航空写真、赤いマーカーは4つの馬出しの場所を示しています

三の曲輪と二の曲輪の間の空堀
三の曲輪と二の曲輪をつなぐ馬出し
三の曲輪の方が二の曲輪より高い位置にあります
二の曲輪

本曲輪の素晴らしい景観

舗装された自動車道が二の曲輪と本曲輪の間を通っていて、この辺りが過去にどのようであったのか想像するのは難しいかもしれません。鉢形城歴史館での情報によると、その辺りには本曲輪に入っていくための大門があり、門の前には深い空堀があり、木橋が掛けられていたとのことです。

城周辺の地図

二の曲輪と本曲輪の間には自動車道が走っています
現地にある城ジオラマでの本曲輪への入口部分

本曲輪は城のもう一つの高地で、30mの高さの崖の上にあります。城に関する建物はありませんし、純粋な土造りの曲輪です。しかし、整地されていることが今でも見て取れるため、過去には城主の御殿があったのだろうと想像することができます。その高みからは、眼下の荒川とその周辺地域の素晴らしい景色が見えます。また、自然の要害により城が守られてきたことも理解できると思います。

本曲輪
本曲輪上の建物跡
本曲輪からの景色

そして最後には、崖の突端の近くの笹曲輪に到着します。ここは本曲輪より低い位置にあって、荒川に掛かる正喜(しょうき)橋のたもとにあり。城跡の入口にもなっています。

笹曲輪
城跡にかかる正喜橋

崖の先端は私有地になっていて立ち入りはできないので、川の反対側からしか見ることができません。もしその対岸に渡られたのでしたら、橋から下ったところにある玉淀河原から崖の上にある城跡の素晴らしい景色をご覧になってはいかがでしょうか。

対岸から見た崖の先端部分
玉淀河原から見た城跡

その後

昭和時代の初期(1930年辺り)、JR八高線の建設が城跡を貫く路線で検討されていました。地元の人たちは、路線を変更することと、城跡の保存を政府に請願しました。この運動は成功を収め、城跡は1932年に国の史跡に指定されました。寄居町は1997年から2001年の間に二の曲輪、三の曲輪、笹曲輪の発掘調査を行いました。この成果に基づき、鉢形城公園がオープンし、城の構造物が復元公開されました。2004年には鉢形城歴史館が開館し、城の歴史や研究に関する展示があり、ビジターが見学できるようになっています。

鉢形城歴史館

私の感想

私は、1590年の戦いにおいて攻撃軍が車山から城へ砲撃したと伝わる話がありうることなのか確かめるために、実際に山の上まで登ってみました。攻撃軍の武将、本田忠勝が大鉄砲を山に引き上げ、城を砲撃し、大手門を破壊したというのです。車山は標高227mで、城からは約100m高いところにあります。そして、城の三の曲輪からは約1km離れています。山頂から見る城の眺望は、周りに茂っている木々のためにあまりよくありませんでした。個人的な結論を申し上げると、この伝承の全てが本当とは限らないということです。砲撃を行ったというのは事実でしょう。数cmの大きさの大鉄砲の弾が、城の外曲輪から発掘されているからです。しかしながら、それを山の上から行うことが有効であったとは思えません。1614年の大坂冬の陣において、徳川家康は西洋の大砲を借りてきて、川のデルタ地帯にあった陣地から大坂城への砲撃を行いました。城へは約500mの距離がありました。この実績によって考えると、これより24年前に恐らくは日本製の鉄砲を使って、500mも余計に遠くから砲撃することは、たとえ山の上からとはいってもあり得ないという結論です。想像ですが、忠勝は山上に陣地を置いたけれども、ずっと城に近いところから砲撃を加えたのではないでしょうか。

城跡の南側入口周辺から見た車山
車山の頂上
城跡は草木のために本曲輪の一部しか見えませんでした
本多忠勝肖像画、良玄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

鉢形城周辺の起伏地図

大坂城周辺の地図(上と同じ縮尺にしています)

ここに行くには

この城跡を訪れるには、車を使われることをお勧めします。バス便がほとんどないからです。関越自動車道の花園ICから約20分かかります。公園の中にいくつも駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、寄居駅から歩いて約30分かかります。
東京から寄居駅まで:池袋駅から東武東上線に乗るか、東京駅から上越新幹線に乗って、熊谷駅から秩父鉄道に乗り換えてください。

リンク、参考情報

鉢形城公園案内、寄居町公式ホームページ
・「太田道灌と長尾景春/黒田基樹著」戒光祥出版
・「城を攻める 城を守る/伊東潤著」講談社現代新書
・「北条氏康の子供たち/黒田基樹・朝倉直美編」宮帯出版社
・「北条氏邦と鉢形領支配/梅沢太久夫著」まつやま書房

これで終わります。ありがとうございました。
「鉢形城その1」に戻ります。
「鉢形城その2」に戻ります。

18.鉢形城 その2

今回この記事では、城の南側から城跡公園に入り、中心部を通って、崖の先端部まで歩いていくのを追体験する形で進めていきます。

特徴、見どころ

鉢形城公園として整備

現在、鉢形城跡は約5ヘクタールもある広大な鉢形城公園として整備されています。多くの人々がこの公園を訪れ、歴史的な城の遺物や復元物を見学したり、自然の中で散歩したりくつろいだりしています。例えば、公園には大きな桜の木があるのですが、城主であった北条氏邦にちなんで「氏邦桜」として最近有名になっています。是非ご自身で公園を歩き回って、城の重要なアイテムを確認しながら、自分なりに興味を持てるものを見つけていただければと思います。この記事では、城の南側(三の曲輪の外側)から城跡に入り、中心部(本曲輪)を通って、崖の先端部(川の合流地点の近く)まで歩いていくのを追体験する形で進めていきます。

氏邦桜

城の正面入口は、通路と八高線が交差する踏切の近くにあります。踏切を越えた後、通路は3つに分かれます。真ん中の舗装された通常ビジターが進んでいく道路、右側のかつての大手道、そして左側の三の曲輪に至る道です。とりあえず公園に来てみたいという方には真ん中の道が便利なのですが、今回は右側と左側の道を選択して、城のオリジナルの道がどうなっていたのかできるだけ迫ってみたいと思います。

城周辺の地図、赤破線は大手道に近いルート、青破線は三の丸に至るルート

八高線の踏切
3つの通路の分岐点

大手道を進む

右側の大手道は、大手曲輪に沿った大きく深い堀を越えていきます。防りがしっかりしていると感じます。

右側の大手道
大手道入口脇の堀(左側)
大手道右側の大手曲輪

次に、城の防御の要である四角い馬出しのところで左折します。そこからは城の中心部に向かって進み、三の曲輪と二の曲輪の境界の辺りに達します。

馬出しのところで左折します
二の曲輪の方に向かいます
現地にある城ジオラマの大手道部分

もう一つの馬出しが、道から外れたところにあるのですが、かつての大手道はその馬出しの中を通っていました。

現在の通路の右外側にある馬出し
現在の通路はそのまま二の曲輪に入っていきます
城ジオラマでは馬出しを経由して二の曲輪に入っています

諏訪曲輪を通って三の曲輪へ進む

左側の道は、諏訪曲輪と呼ばれている諏訪神社の参道になっています。そこは、四角く区切られた土地で今でも土塁と深い空堀によって囲まれています。見るからに馬出しという感じです。

諏訪曲輪に入っていきます
曲輪を囲む土塁
土塁の外側の空堀

もう一本の細道が、その馬出しの側面から三の曲輪の入口の方に出ています。この入口の守りも固そうです。この組み合わせが典型的な鉢形城の防御システムと言えるでしょう。

諏訪曲輪の馬出しから三の曲輪へ
三の曲輪の入口(虎口)を内側から見ています
城ジオラマの諏訪曲輪部分、赤矢印は現在の通路の方向

重要な拠点、三の曲輪

三の曲輪は城ではもっとも高い位置にあり、厚く高い土塁が曲輪を取り囲んでいます。また、内側ではまるで石垣のように見える石積みが土塁を支えている構造になっています。これらの構造物は、現代になってから発掘の成果により復元されたものです。四脚門も発掘によって存在していたことがわかり、同じく復元されています。これまでのところ御殿のような建物の痕跡は見つかっていませんが、この曲輪は城にとってはとても重要な場所でした。

三の曲輪
曲輪を囲む石積み土塁
復元された四脚門

「鉢形城その3」に続きます。
「鉢形城その1」に戻ります。

18.鉢形城 その1

鉢形城は、現在の埼玉県北部、寄居町にあった城です。この城は、関東時代における戦国時代のちょうど始まりと終わりのときに表舞台に立ちました

立地と歴史

鉢形城は、現在の埼玉県北部、寄居町にあった城です。この城は、関東時代における戦国時代のちょうど始まりと終わりのときに表舞台に立ちました。

城の位置

関東地方の戦国時代の幕開け

関東地方は、1455に起こった享徳の乱によって動乱の戦国時代に突入しました。関東公方の足利氏と、関東管領の上杉氏が対立し、関東一の大河の利根川をはさんで対峙したのです。上杉氏は利根川西岸に五十子(いかっこ)陣を建設し、20年以上もそこに滞陣しました。上杉氏は実際には山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に分かれていました。それぞれに家宰がいて、配下の武士たちの処遇や懸案の処理を行っていました。山内家の家宰は長尾氏で、扇谷家の方は太田氏が務めていました。家宰の一人であった長尾景信(かげのぶ)が1473年に亡くなると、主君の山内顕定(あきさだ)は弟の忠景(ただかげ)に跡を継がせました。

五十子陣跡周辺
五十子陣があった頃の関東地方の勢力図、現地説明板より

戦国の風雲児、長尾景春が築城

この決定は妥当なものでした。忠景は一族の中でも年長で経験豊富な人物とみなされていたからです。ところが、景信の息子、景春(かげはる)はそうは考えませんでした。家宰の地位は、彼の祖父から父へと引き継がれていたからです。景春は五十子陣を離れ、1475年に鉢形城を築き、翌1476年には反乱を起こしました。鉢形城は、関東のもう一つの大河、荒川と、深沢川との合流地点にある高い崖の上に築かれました。その場所は半島のように突き出た自然の要害だったのです。初期の城の詳細はよくわかっていませんが、景春にとってそこから五十子陣を攻撃するのは容易だったはずです。陣の南側の城に面する方角には何の防御もなかったからです。新体制に不安を感じた多くの配下の武士たちが景春側につき、1477年についに陣は崩壊しました。

長尾氏の家紋、九曜巴 (licensed by WTCA via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図

荒川と城があった崖地帯
深沢川

景春が実際に何を求めて事を起こしたのかは不明ですが、彼は味方とともに多くの領地を得ようとし、敵対していた足利氏とも講和しました。景春は優れた武将でしたが、扇谷家の家宰、太田道灌は更に上手でした。道灌は、江戸時代に政治の中心地となり、現在は皇居となっている江戸城を最初に築いたことで知られていますが、彼自身も優れた軍略家かつ政治家でした。彼は、小机城など景春方の城を一つ一つ落としていき、足利氏とも一時的な講和に持ち込むことに成功しました。そのため、景春は追い詰められ、本拠地の鉢形城に戻ることになります。1478年、道灌は城を攻め、ついには落城に追い込み、景春はそこから逃亡しました。道灌はこの活躍により関東で最強の武将となりましたが、1485年に主君である扇谷定正に殺されてしまいます。道灌の権勢を恐れた結果でした。関東地方は再び動乱状態となり、景春は傭兵隊長として主筋である山内家と生涯戦い続けました。最後には北条氏の創始者、伊勢宗瑞(北条早雲)の食客に落ち着き、1514年に亡くなりました。

太田道灌肖像画、大慈寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸城跡(現在の皇居)
小机城跡
北条早雲肖像画の複製、小田原城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

北条氏の支城となる

鉢形城はしばらくの間、山内家によって使われましたが、一旦は廃城となったようです。16世紀になると、山内・扇谷両家による上杉氏の勢力は衰え、代わりに北条氏が関東地方に侵攻してきます。北条氏は相模国(現在の神奈川県)の小田原城を本拠としていましたが、関東地方を統治するために重要な支城を定め、それぞれに親族を送り込みました。鉢形城は、北条の領地の北端に位置していたため、支城の一つに選ばれました。そして、北条氏邦が1568年に城主となりますが、その維持には苦労しました。例えば北条氏が、山内家の後継者で最強の戦国大名の一人とされた上杉謙信と講和を結ぶときは、氏邦は交渉役となりました。ところが、その講和が破綻すると、謙信は鉢形城を攻撃し、城下町に火をかけ、そして去っていったのです。

北条氏の家紋、北条鱗 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
小田原城
上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最後の城主、北条氏邦

このような厳しい状況に対処するため、氏邦は城を大いに改修しました。この城は当初から自然の要害で、東西と北の三方を2本の川に挟まれた高い崖の上にありました。主な曲輪として本曲輪、二の曲輪、三の曲輪があり北から南に一直線に並んでいました。そのため、敵は南側の三の曲輪から攻める必要がありました。攻撃を防ぐため、曲輪群は深い空堀によって区切られ、高く分厚い土塁によって囲まれていました。土塁の一部は、まるで石垣のように見える石積みによって支えられていました。曲輪の入口は、門と馬出しのセットにより防御されていました。馬出しとは、門の前に接続された小さな曲輪で、背後の大きな曲輪とは細い通路によってつながっていました。防御と攻撃両方に使える陣地でした。

現地にある鉢形城のジオラマ、北方面から見ています
復元された石積み
復元された馬出し

1590年、天下人の豊臣秀吉がその統一事業を完成するため、北条の領土であった関東地方に攻め込んだとき、鉢形城は突然の最期を迎えました。秀吉は20万人以上の軍勢とともに関東地方に赴き、そのうちの約3万5千人が前田利家に率いられて5月に鉢形城を攻撃しました。氏邦と約3千人の守備兵は約1ヶ月間籠城しました。攻撃側は城を強引に攻めることはせず、代わりに城の大手門の南側、約1km離れた車山から大鉄砲により砲撃したと言われています。氏邦はついに6月に降伏し開城しました。援軍の見込みがなかったか、砲撃による損害が大きかったからでしょうか。城は、北条氏の代わりに関東地方に入った徳川氏に引き継がれますが、やがて戦国時代の終わりには廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
城の外曲輪から見える車山
鉢形城跡

「鉢形城その2」に続きます。