23.小田原城 その3

前回までは、戦国時代までの小田原城の歴史と現地の史跡をご案内しました。今回は、江戸時代から現代までの小田原城の歴史と史跡をまとめてご案内します。この期間の小田原城を一言で表すならば、災害と復興の歴史と言っていいと思います。

前回までは、戦国時代までの小田原城の歴史と現地の史跡をご案内しました。今回は、江戸時代から現代までの小田原城の歴史と史跡をまとめてご案内します。この期間の小田原城を一言で表すならば、災害と復興の歴史と言っていいと思います。

立地と歴史

大久保氏の時代

1590年の小田原合戦の最中から、北条領に徳川家康を移し、その本拠地を江戸にすることが規定路線になっていたようです。小田原城には、家康の重臣・大久保忠世(ただよ)を配置することも、城が開城になった早々に決められました(小田原藩の始まり)。本拠地ではないにしても、関東地方の西の要として重要視されたのです。城は、北条氏時代の中心部に石垣を築くなど、修繕しながら使っていました。この時代から天守があったとされますが(以降の天守とは違うスタイル(望楼型)のもの)、北条時代からのものなのか、このとき築いたものなのかはわかっていません。ただ、少なくとも本丸御殿は北条氏の時代のものを使っていたという記録があります。家康は、領内検分を兼ねた鷹狩りのときや、関ケ原の戦いなど西日本に行く際に、よく小田原城本丸を使っていたそうです。しかし、忠世の跡を継いだ忠隣(ただちか)は1614年に、養女を幕府の許可なく婚姻させたとして改易になってしまいます。実態としては、家康の他の重臣、本多正信・正純父子のとの確執があったのではないかと言われています。その後は主には幕府の直轄領となっていました。

大久保忠世肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
初代天守(加藤図)、現地説明パネルより

稲葉氏の時代

1632年、小田原藩が復活します。藩主(城主)となったのは、3代将軍・徳川家光の側近である稲葉正勝です。彼は、家光の乳母で大奥を取り仕切っていた春日局の息子でした。そのような人物を配置するほど、やはり小田原は重要視されていたのです。この頃には箱根の関所を関東の防衛線とする構想も固まっていたので、その警護も任されたのです。ところがその矢先、1633年(寛永10年)正月、寛永大地震が発生し、城や町が甚大な被害を受けてしまったのです。しかし翌年には家光の上洛が予定され、小田原城に宿泊することになっていたため、幕府の事業として迅速に復興がなされました。これにより、江戸時代の小田原城の骨格が固まります。天守は、現在の復興天守のようなスタイル(3層の層塔型)で築かれました。また、本丸など城の主要部分は石垣で固められました。本丸御殿は将軍の宿泊専用だったので、藩主は二の丸御屋形(おやかた)で政務を行いました。城下町も東海道の小田原宿として整備されました。一方、城の範囲は平地の三の丸までとなり、八幡山古郭など丘陵部分は放棄されました。ただし、総構の土塁などは、藩や町の境界として機能し続けました。例えば、宿場の東の入口、江戸口見附は、総構の土塁が仕切りとして使われていました。また、山ノ神堀切には門が作られ、番人が管理していました。

稲葉正勝肖像画、養源寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代に完成した城のイメージ、現地説明パネルより
2代目天守(正保図)、現地説明パネルより
江戸口見附跡
山ノ神堀切

再び大久保氏の時代

1686年、稲葉氏は高田藩に転封となり、その代わりに大久保氏が小田原藩主に復活します。当時の当主、大久保忠朝は幕府の老中となっていて、将軍の徳川綱吉を支えていました。ところが、それからしばらくたった1703年(元禄16年)11月、元禄地震が起こり、またも城や町が大被害を受けてしまったのです。更にはその4年後には、富士山が噴火(宝永噴火)し、降灰により農作物は大不作となりました。城では、天守、本丸御殿、二の丸御屋形が全て倒壊しましたが、今度は復興への幕府援助はありませんでした。被災した町や住民への救済も基本的には藩任せでした。そのため、復興には長期間を要し、城については18年もかかりました。本丸御殿は、将軍の上洛などはなくなっていたので再建されませんでしたが、天守は以前と同様のものを建て直しました。3代目の天守で、この天守が幕末まで残りました。幕府の江戸城など、災害で天守がなくなると再建しないケースもあったので、小田原城の天守は、この時点で、関東では屈指の天守となっていたのです。関東の入口で「顔」としての役割があったのでしょうか。その後の天災でもなんとか城は維持されました。幕末になって海防の必要性が高まると、海岸の総構の土塁に沿って、台場が3ヶ所築かれました。残念ながら史跡として残っていません。

3代目天守(文久図)、現地説明パネルより

現代の小田原城まで

明治維新後、城は廃城となり、城の建物はほとんどは解体・売却されました。しかし本丸・二の丸の跡地は石垣とともに残され、皇室の御用邸として使われました。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生しました。御用邸は全壊し、石垣もほとんどが崩壊しました。唯一残っていた城の建物、二の丸平櫓も倒壊しました。この震災により、江戸時代の小田原城がほぼ消滅してしまったと言っていいでしょう。御用邸は廃止となり、小田原城址公園となりました。ここからまた城の復興の事業が始まり、1934年(昭和9年)に二の丸の石垣が積み直され、平櫓も再建されました。そして、天守とその石垣が、1960年(昭和35年)に再建されました。以降、1970年(昭和45年)には常盤木門が、1997年(平成9年)には銅門(あかがねもん)が、2009年(平成21年)には馬出門が復元されています。これまでは、江戸時代の小田原城の姿を再現する方向で、復元事業が進められています。これらも、大きな流れの中では、震災からの復興であるとも言えるのではないでしょうか。

関東大震災で崩壊した本丸石垣
現在の4代目天守
現在の馬出門

特徴、見どころ

三の丸から二の丸に進む!

通常、小田原城への登城ルートとしては、昔だったら大手門から、今だったら、二の丸のお堀端からスタートするのでしょう。もう一つの選択肢として、小田原郵便局脇の「幸田口門跡入口」から三の丸の土塁を歩き、幸田口門跡を経由してからお堀端を進むのもいいでしょう。この門は、その前は「蓮池門」という名前で、お城の大手門でした。上杉謙信も武田信玄も、この門から小田原城を攻めたそうです。二の丸堀は、戦国時代から存在し、当時は「大池」「蓮池」とか呼ばれていたようです。

三の丸の大手門跡、石垣の一部が鐘楼として使われています
幸田口門跡にある説明パネル
二の丸のお堀端

向こうに見える石垣や平櫓は、関東大震災後、最初に再建されたものです。オリジナルの石垣はもっと高かったとのことです。

再建された二の丸石垣と平櫓

「正規登城ルート」とされる正面入口から入ると、お堀の土橋を渡って「馬出門」に入ります。今のところ一番新しい門で、木造復元されています。防御のため、門の中に四角いスペース(桝形)があります。

復元された馬出門

次の銅門(あかがねもん)に入るためには、堀を回り込んで、もう一回橋を渡る必要があります。この門は、二の丸の正門で立派に作ってあります。絵図や文書、発掘の結果の他、古写真が残っていて、かなり正確に木造で復元できたそうです。中の桝形も更に厳重です。

復元された銅門

二の丸の中は、今は広場になっています。かつては、藩主の屋形や、御用邸がありました。

現在の二の丸広場、向こうに見えるのは本丸

いよいよ本丸、天守攻略

いよいよ、本丸に向かいます。本丸へは「常盤木橋」という橋を渡っていくのですが、かつては本丸東堀が、本丸の周りを囲んでいました。今は堀跡が花菖蒲園になっていて、斜面にはアジサイも植えられています。

本丸東堀跡

橋を渡ると、本丸の正門「常盤木門」です。手前に桝形を作るもう一つの門があったのですが、復元されていません。復元された部分はコンクリート造りです。

復元された常盤木門

小田原城の天守は、3層の天守としてはかなり大きいです。高さ27.2メートル、石垣を含めると約39メートルもあります(内部は4階建て)。現在日本にある天守(再建含む)の高さランキングでは、7位につけています。江戸時代に修繕に便利なように作られた天守雛型や、絵図を参考に4代目として建築されました(コンクリート造り)。最上階に展望スペース(高欄付廻縁)を設けるなど、オリジナルと違う外観であるため、「復興天守」に分類されています。中身は歴史博物館になっていて、2016年に耐震補強や展示のリニューアル工事がされています。

現在の小田原城天守(4代目)
天守内部

最上階からは、城の周りの景色を楽しめます。

最上階からの景色(小田原駅方面)
八幡山古郭方面
本丸・二の丸方面
相模湾方面

将来への期待、教訓

本丸の北口から出て、御用米曲輪の方に行ってみましょう。現在発掘調査中で、中には入れませんが、周りにこれまでわかったことが、パネル展示されています。戦国時代の、切り石を使った、珍しい庭園の跡が発見されています。小田原合戦のときには「百間蔵」という倉庫群になっていたようです(ここかどうかわかりませんが、合戦後に伊達政宗が城の倉庫群を見て、備えのすごさに驚嘆しています)。それが、江戸時代に米蔵として引き継がれたのです。今後どんな史跡になるのか、楽しみです。

御用米曲輪
切石を使った庭園遺構発見の説明パネル
江戸時代の葵御紋瓦出土についての説明パネル

本丸の南の斜面では、関東大震災によって崩れた石垣を見ることができます。本丸の石垣は「鉢巻石垣」といって、斜面の上の方だけが石垣になっていました。ここでは、クランクした形の石垣が、上の方からそのまま滑り落ちています。恐ろしい地震のパワーを感じてしまいます。地震への備えを考えさせられる、目に見える展示といっていいでしょう。

クランクた石垣部分がそのまま崩落しています
崩落した本丸石垣

最後に、南堀も見ておきましょう。ここは戦国時代における呼び名と同じように、蓮池になっています(今も別名は「蓮池」です)。こういう場面を見ると、小田原城は戦国時代から今までの歴史が折り重なっていることが実感します。

南堀
近くには、三の丸の箱根口跡もあります

私の感想

戦国時代、江戸時代、そして現代まで、小田原城には盛りだくさんの見どころがありました。1日かけても回り切れません。それにしても小田原城の城主たちは、敵から守るために戦国最大級の城を築いたり、災害にあっても天守を3回も建て直したりするなど、地味なことの積み重ねかもしれませんが、なかなかできないことをやってのけました。城主は違っていても、受け継がれるものがあったのでしょう。自然の宿命として、過去のような災害が再び起こるかもしれませんが、きっとまた乗り切ることでしょう。他の地域へのお手本にもなるのではないでしょうか。

現在の小田原城天守

リンク、参考情報

【公式】小田原城 難攻不落の城
総構、小田原市(「総構マップ」はこちら)
地誌のはざまに、【旧東海道】その14 小田原宿と小田原城と海嘯(その4)
城びと、理文先生のお城がっこう、城歩き編 第9回 小田原城を歩こう(近世編)
・「戦国期小田原城の正体/佐々木健策著」吉川弘文館
・「実録 戦国北条記 戦史ドキュメント/伊東潤著」エイチアンドアイ
・「シリーズ藩物語 小田原藩/下重清著」現代書館
・「北条氏五代と小田原城 (人をあるくシリーズ)/山口博著」吉川弘文館
・「小田原城総構-戦国最大級の城郭-」小田原市教育委員会
・「北条氏滅亡と秀吉の策謀、森田善明著」洋泉社
・「年金ロックンローラー内沢裕吉」ダイヤモンド社
・「よみがえる日本の城2」学研
・「後北条氏民政への反抗」岩崎義朗氏論文
・「神奈川の中世城郭-小田原城支城を中心に-」神奈川県教育委員会文化遺産課、令和4年度第4回考古学講座資料

これで終わります。ありがとうございました。
「小田原城その1」に戻ります。
「小田原城その2」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

23.小田原城~Odawara Castle

この城には2つの顔があります。
This castle has two faces.

八幡山古郭から見た復興天守~The reconstructed Tenshu keep from Hachimanyama-Kokaku (old castle)

立地と歴史~Location and History

小田原城は大まかに、「八幡山古郭」と呼ばれる古い西側の部分と、通常「小田原城」と呼ばれている新しい東側部分に分けられます。新しい方は、JR線から簡単にアクセスでき、小田原駅の南側にあります。この城は最初は中世に大森氏により築かれたと言われています。
Odawara Castle can roughly be divided into an older western part called “Hachimanyama-Kokaku” and a new eastern part, which we now usually call “Odawara Castle”. The new part can be easily accessed by JR railways, and is located the south of Odawara Station. It is said that the castle was first built by the Omori clan in the Middle Ages.

小田原中心部の航空写真~The aerial photo of the central Odawara(国土交通省航空写真に加筆)

また、北条早雲が伊豆国(現在の静岡県東部地方)から来て大森氏から城を奪ったとも言いますが、詳細は不明です。戦国時代には、北条氏がこの城を本拠地として使いました。新しい部分の方に館を構え、古い部分の方は籠城するときに使われたようです。
It is also said that Soun Hojo from Izu Province (now the eastern part of Shizuoka Pref.) seized it from the Omori, but these details are uncertain. During the Warring States Period, the Hojo clan utilized the castle as their home base. It seems they lived in the hall in the new part and used the older part for besieged.

北条早雲肖像画の複製、小田原城天守閣蔵~The replica of the portrait of Soun Hojo, owned by Odawara Castle(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この城は3回籠城戦を経験しました。まず上杉謙信、次には武田信玄によるものです。2人ともよくその強さを知られた戦国大名ですが、北条は両方とも城を守り切ることに成功しました。最後の3回目は、天下人の豊臣秀吉による名高い1590年の小田原征伐と呼ばれる戦いです。
The castle was besieged three times. First, by Kenshin Uesugi. Second, by Shingen Takeda. While both are well known strong warlords, the Hojo were successful in defending the castle both times. The third and last one was the famous Siege of Odawara in 1590 by the ruler Hideyoshi Toyotomi.

上杉謙信肖像画~The portrait of Kenshin Uesugi(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

北条は秀吉と戦いたくありませんでした。この戦いが始まったのは、秀吉が決定した北条と真田の領地の取り決めを、北条が破ったからだと言われています。しかしある歴史家は、秀吉は最初から北条と戦って排除するために騙したのだと主張しています。私は、その方が妥当と思います。
Hojo didn’t want to fight with Hideyoshi. It is said that the battle started with Hojo defying Hideyoshi’s decision of the territories of Hojo and Sanada. However, a historian argues that Hideyoshi tried to fight and exclude Hojo from the first, then deceived them. I’d rather prefer the later.

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵~The Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, owned by Kodaiji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

どちらにしろ、戦いの前に北条は城下町を含む城全体を、巨大な土塁と空堀で囲みました。これを「総構え」といいます。その外周は約9kmあり、一部は二重三重に囲まれていました。秀吉は、20万以上の軍勢をもって3ヶ月間城を取り囲みました。
Anyway, before the battle, Hojo surrounded the whole area including the castle town by huge earthen walls and trenches called “So-gamae”. Their perimeter was about 9 km and part of them were doubled or tripled. Hideyoshi laid siege to the castle with over 200,000 soldiers for three months.

赤い線は総構え土塁の推定ライン~The red line shows the estimated line of So-gamae earthen walls

籠城している間に、ほとんどの北条の支城は落城しました。多くの歴史家は北条は成す術がなかったと言います。一方では、秀吉側は一兵たりとも小田原城の中には侵入できなかったのです。事実、秀吉自身がこの戦いの後、彼の大坂城でこの城を真似ています。この戦いに参加した多くの他の大名も同様でした。
During the siege, most of Hojo’s branch castles were captured. Many historians say there was nothing for Hojo to do. On the other hand, any soldier on Hideyoshi side was not able to invade the inside of Odawara Castle. In fact, Hideyoshi himself emulated the castle for his Osaka Castle after the battle. Many other lords who joined the battle did so too.

大坂城~Osaka Castle

北条は、秀吉に降伏した後改易となりました。しかし秀吉は味方に対しても過酷でした。彼は徳川家康に対して、領地に戻ることなくそのまま北条の領地に移るよう命令しました。織田信雄もまた移封を拒んだため改易となります。江戸時代には、城の領域は新しい部分だけに縮小し、小田原藩に属しました。
Hojo got fired after he surrendered to Hideyoshi, who was also cruel to his supporters. He ordered Ieyasu Tokugawa to directly move to Hojo’s territory without returning home. Nobukatsu Oda was also fired because he rejected his transfer. In the Edo Period, the castle was reduced to the new area belonging to Odawara Domain.

相模国小田原城絵図部分、江戸時代~Part of the illustration of Odawara Castle in Sagami Province, in the Edo Period(出典:国立公文書館)

特徴~Features

現在、小田原駅の東口からは、JRの線路に沿って小田原城の本丸まで近道で行くことができます。もし時間があれば、正面の方に向かって、それからお城端通りを右に曲がってください。その内に二の丸に着きますが、ここは最近整備計画が完了したところです。
Now, from the east entrance of Odawara Station, you can take a shortcut directly to the Honmaru enclosure of Odawara Castle along the JR railways. If you have time, I recommend going towards the front, then turn right on Oshirobata Street. You will reach the Ninomaru enclosure where the development project was done recently.

城周辺の地図~The map of around the castle

城への登城ルートが再現されていて、復元された馬出門と銅門を通ります。これらは、古写真や図面などを基に復元されました。
The original route to the castle has been recreated with the restored Umafdashi-mon Gate and Akagane-mon Gate. They were restored based on old photographs, drawings and so on.

馬出門~Umafdashi-mon Gate
銅門~Akagane-mon Gate

そこから更に登っていくと、常盤木門を通り過ぎて天守に到着します。両方とも昭和時代に外観復元されたものです。
You can go up further and arrive at the Tenshu keep passing through the Tokiwagi-mon Gate. Both of them were apparently restored in the Showa Era.

本丸に向かいます~Going to Honmaru enclosure
常盤木門~Tokiwagi-mon Gate

天守は博物館としても使われています。左後方から戻ってくると、1923年の関東大震災で崩れたままになっている本丸石垣も見ることができます。
Tenshu is also used as a museum. If you return taking the left back route, you can also see abandoned stones which collapsed from Honmaru stone walls when Great Kanto Earthquakes in 1923 happened.

外観復元天守~The apparently restored Tenshu keep
崩れた石垣~The collapsing stone walls

古い方の小田原城にご興味があるのでしたら、近くにいくつか遺跡があります。
If you interested in the older part of Odawara Castle, there are few ruins near it.

古城周辺の地図~The map of around the old castle

・八幡山古郭東曲輪:ここは古城の端に当たりました。最近整備されて一般公開されています。ちょっと地味に見えますが、ここからは海を背景に天守の写真を撮ることができます。ここはちょうど線路を挟んで天守の反対側にあるからです。
・The Eastern Enclosure of Hachimanyama-Kokaku: It was the edge of the old castle. It has been developed recently and open to the public. It still seems to be simple, but you can take a picture of Tenshu with the background of the sea because of its location being just the opposite of Tensh across from the railways.

八幡山古郭東曲輪~The Eastern Enclosure of Hachimanyama-Kokaku
曲輪からの眺め~A view from the enclosure

・小峰大堀切:ここは「総構え」の数少ない遺構の一つです。この遺構のうち、「東堀」は約170mの長さがあり、一部曲がりくねっています。堀の底を歩いて通り抜けできるので、大きさを実感できます。小田原城下全体をこのような壮大な仕掛けで取り囲んでいたのです。
・Komine large-scale trenches: They are a few remaining ruins of “So-gamae”. Out of them, The East Moat “Higashi-bori” is about 170m long and partly zigzagged. You can walk through the bottom of the trench and feel how large it is. Imagine such huge structures surrounded the whole of Odarwara City!

東堀大堀切~Higashi-bori large-scale trench
曲がりくねった部分~The zigzaged part

・三の丸外郭新堀土塁:こちらは2012年から公開されている場所です。第二次世界大戦前まで皇族の閑院宮家の別荘でした。戦後になって、小田原市がある機関から購入しました。ここからは、小田原周辺の山や海を一望に見渡せます。秀吉が本陣を置いていた石垣山城も見えます。
・Sannomaru outline Shinbori earthen walls: They have been open since 2012. The ground was used for the second house of the Imperial Family Kaninnomiya before World War II. After the war, Odawara City bought it from an institution. You will have a great view of mountains and the sea around Odawara including the ruins of Ishigakiyama Castle where Hideyoshi built his stronghold.

三の丸外郭新堀土塁~Sannnomru outline Shinbori earthen walls
土塁からの眺め~A view from the earthen walls

その後~Later Life

明治維新後、ほとんどの城の建物は撤去されました。明治中期には、城跡は御用邸の一つとして使われましたが、関東大震災で壊滅してしまいます。その後、小田原城址公園として整備されました。天守は1960年に再建されますが、それまでは天守台の上に観覧車がありました。
After the Meiji Restoration, most of the castle buildings were demolished. In the mid Meiji Period, the ruins of the castle were used as one of the Imperial Villas, but the Great Kanto Earthquakes broke all of them. After that, they were developed as Odawara Castle Park. Tenshu keep was rebuilt in 1960 after a Ferris wheel was installed on the Tenshu base.

天守台の上の観覧車、1950年代~The Ferris wheel on the Tenshu base, in the 1950s(小田原市Websiteより引用)

私の感想~My Impression

日本語には「小田原評定」という比喩表現があり、延々結論が出ない会合のことを指します。北条は3ヶ月の間降伏するか否か逡巡していたと思われたのでしょう。ところがこの表現は、この戦いから100年以上後の江戸時代の軍記物により最初に広まったのです。滅びた北条は反論できません。
In Japanese, there is a figurative expression called “Odawara Hyojo” which means an inconclusive conference. People think Hojo wondered if they should surrender or not during the three month siege. However, the expression first spread more than 100 years after the battle in war chronicles of the Edo Period. The defeated Hojo couldn’t argue that.

北条氏政肖像画、北条氏四代目当主、小田原城天守閣蔵~The portrait of Ujimasa Hojo, the forth head of the Hojo clan, owned by Odawara Castle(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

守備側の主な2つの選択肢としては、援軍を待つか、攻撃側を撃退するかでしょう。私は、北条は同盟を結んでいた伊達政宗の援軍を待っていたのだと思います。しかし、正宗はついには秀吉に臣従してしまい、一方秀吉を撃退することも不可能でした。残ったのはいかに降伏するかです。実際、北条の降伏とその条件を交渉する使者が行き来していました。その条件は、北条は一部の領地を維持できるものであったと言われています。北条はそれを受け入れましたが、最終的には再び騙されてしまったのです。
The two major options for defenders are to wait for reinforces or to repel the attackers. I think that Hojo was waiting for Masamune Date who was once their ally, but finally served Hideyoshi as a vassal. The other option, beating Hideyoshi back was impossible. The rest was how they surrendered. Indeed, some messengers suggested Hojo surrender and negotiate conditions. It is said that the condition might allow Hojo to keep part of their territory. Hojo accepted that, but they were deceived again in the end.

伊達政宗像、仙台市博物館蔵(The picture of Masamune Date owned by Sendai City Museum)licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

ここに行くには~How to get There

新しい方の「小田原城」または八幡山古郭東曲輪に行くには:
電車の場合は、小田原駅から徒歩で約10分です。車の場合は、西湘バイパス小田原ICから約5分です。小田原城址公園周辺に私営の駐車場があります。
小峰大堀切または三の丸外郭新堀土塁に行くには:
電車の場合は、小田原駅から徒歩で約20~30分です。車の場合は、小田原厚木道路荻窪ICから約5分です。遺跡近くの城山公園に駐車可能です。
To the new “Odawara Castle” or The Eastern Enclosure of Hachimanyama-Kokaku:
When using train, it takes about 10 minutes on foot from Odawara Station. When using car, it takes about 5 minutes from the Odawara IC on Seishou Bypass. There are private parking lots around Odawara Castle Park.
To Komine large-scale trenches or Sannomaru outline Shinbori earthen walls:
When using train, it takes about 20 to 30 minutes on foot from Odawara Station. When using car, it takes about 5 minutes from the Ogikubo IC on Odawara-Atsugi Road. You can park at the Shiroyama Park near the ruins.

リンク、参考情報~Links and Refernces

【公式】小田原城 難攻不落の城~【Official】Odawara Castle Immortal Castle
小田原市、まち歩きパンフレットOdawara City, Town walk brochure
小田原城街歩きガイド(Only Japanese)
・「北条氏滅亡と秀吉の策謀、森田善明著」洋泉社(Japanese Book)
・「よみがえる日本の城2」学研(Japanese Book)