86.大野城 その1

大宰府政庁は、九州諸国の支配や中国・朝鮮との外交を取り扱う「遠の朝廷(とおのみかど)」でした。大野城は、この大宰府の守護神だったのです。政庁の南門跡、正殿跡などには、柱が立っていた石(礎石)が並んでいます。そして、正殿跡に立つ石碑の背後には山が控えています。山は四王子山といいますが、その上に大野城があったのです。

立地と歴史

Introduction

今回は、まず大宰府政庁跡に来ています。大宰府政庁は、九州諸国の支配や中国・朝鮮との外交を取り扱う「遠の朝廷(とおのみかど)」でした。大野城は、この大宰府の守護神だったのです。政庁の南門跡、正殿跡などには、柱が立っていた石(礎石)が並んでいます。そして、正殿跡に立つ石碑の背後には山が控えています。山は四王子山といいますが、その上に大野城があったのです。この記事では、大宰府や大野城の成立と、歴史的背景についてご説明します。それらは、古代日本が迎えた危機と大きく関係しているのです。

大宰府政庁南門跡
大宰府政庁正殿跡と四王寺山

白村江敗戦後の防衛体制

大宰府と大野城が作られる少し前の、7世紀前半、朝鮮半島には3つの国が並び立っていました(高句麗・新羅・百済)。中国大陸では、618年に統一王朝の唐が成立し、朝鮮半島に勢力を伸ばそうとしていました。唐はまず、新羅と同盟して、百済を滅ぼします(660年)。百済の遺民は国の復興を目指し、友好関係にあった倭国(以下日本と表記)に救援を要請しました。皇太子で実力者だった中大兄皇子は援軍を送る決意をし、その結果起こったのが白村江の戦いだったのです(663年)。しかし日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗しました。その結果を受けて、皇子が恐れたのが、唐・新羅による日本侵攻でした。皇子は、日本の防衛体制を整備していくのです。

白村江の戦いの図(licensed by Samhanin via Wikimedia Commons)

朝廷の正史「日本書紀」によれば、敗戦の翌年(664年)、に対馬・壱岐・筑紫などに防人と烽火を配備し、警備体制を作りました。また九州北部に、防衛線として水城を築きました(下記補足1)。そして665年には、百済からの亡命官僚を派遣して、水城の背後に、大野城、基肄城を築城したのです(下記補足2)。

(補足1)(天智天皇3年)対馬嶋(つしま)・壱岐嶋(いきのしま)・筑紫(つくし)国等に防人(さきもり)と烽(すすみ)とを置く。また筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城(みずき)という。(日本書紀)

(補足2)「(天智天皇4年8月) 達率答㶱春初(だちそちとうほんしゅんそ)を遣わして城を長門(ながと)国に築かしむ。達率憶礼福留(おくらいふくる)・達率四比福夫(しひふくぶ)を筑紫国に遣わして大野(おおの)及び椽(き)二城を築かしむ。(日本書紀)

水城跡
大野城跡
基肄城跡

水城・大野城・基肄城は、直接には大宰府を守るために築かれました。それまでも大陸との外交や軍事を担う拠点はあったと考えられますが「大宰府」として整備されたのは、この頃のようです。その任務を行うだけなら、もっと海岸に近い方がよかったのを、きっと防衛のことも考えて、今遺跡が残っている場所にしたのでしょう。その後も整備は進み、朝鮮への最前線の対馬(金田城)からお膝元の大和(高安城)まで、城を築きました(667年)(下記補足3)。

(補足3)(天智天皇6年11月) 倭(やまと)国高安城(たかやすのき)・讃吉(さぬき)国山田郡の屋嶋城(やしまのき)、対馬国の金田城(かなたのき)を築く。(日本書紀)

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基肄城
金田城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
主要な古代山城の位置

金田城跡

中大兄皇子は、667年には、奈良の飛鳥から内陸の大津に都を移します。そして668年に即位し、天智天皇となりますが、670年に最初の戸籍「庚午年籍」を作成したのは、徴兵を行うための準備だったという意見があります。

大津宮跡 (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)

ところで、天智天皇が築かせたのは、どんなお城だったのでしょうか。その頃のことなので、天守や高石垣はなかったとしても、山の上に曲輪をいくつも築いて、館や櫓をたくさん建てて、戦いに備えたのでしょうか。しかしそれは、中世の武士が築いたお城のイメージで、今回出てくるお城は「古代山城」または「朝鮮式山城」といわれるユニークなものだったのです。

古代山城とは?

古代山城または朝鮮式山城は、朝鮮で確立し、百済からの亡命者の指導のもとに、日本に導入された築城方式によって築かれました。先ほどご説明した通り、朝鮮半島では内乱や外国からの侵攻が続いていました。この築城方式は、土塁や石垣によって山を囲ってしまうというやり方で、当時の朝鮮の人たちは、敵軍が攻めてくると、その山城に逃げ込み、敵の補給を切れるのを待って、反撃に転じるという戦法を取っていました。一旦逃げ込む先として準備していたのです。その城の中には、倉庫などを建てて、備蓄もしていたのでしょう。この方式が、唐・新羅の連合軍による侵攻に備える日本にも、導入されたのです。

山を囲む土塁は、地形を生かしながら「版築(はんちく)」という方法で築かれました。板で囲った中に土を入れ、踏み固め、それを何層にも重ねていくのです。岡山県の鬼ノ城跡では、復元された版築土塁を見ることができます。土だけでこんな城壁ができるのです。その間には、城門や、角楼といって敵を攻撃するための施設も作られました。

版築を築くイメージ、大野城市ウェブサイトより引用
鬼ノ城の復元された版築土塁

石垣の方ですが。通常の城壁として使われる他、谷部分に作られた水門や、特別に防御や補強が必要な部分にも使われたようです。こんな大昔に石垣を使った城があったのです。これも、朝鮮半島からの技術導入だったのでしょう。しかし残念ながら、日本国内では技術承継されなかったと考えられます。それで石垣を本格的に使った最初の城は、信長の時代からとか言われるのでしょう(他に沖縄のグスクの事例あり)。

基肄城の水門石垣

古代山城は籠城に特化していたので、内部はシンプルで、兵舎・倉庫・貯水池などが作られました。

鞠智城の復元兵舎(licensed by 小池隆 via Wikimedia Commons)

ところで先ほど「日本書紀」に記録されている古代山城をご紹介しましたが、実は記録されていなくても、同じ目的で築かれたと思われる城跡も発見されています。版築のところで出てきた「鬼ノ城」はそのうちの一つです。そういった城跡が16ヶ所発見されていて「神籠石系山城」という名称で分類されています。最初、城跡の石列が発見されたときに、城の記録もないので、呪術や信仰のための遺跡と解釈されたときの名称を引きずっているのです。便宜上、記録があるものは「朝鮮式山城」ないものは「神籠石系山城」と分類する場合もあります。ただ、実態が同じであれば、分類することに意味がないという意見もあります。

鬼ノ城跡

大野城築城と外交戦

大野城は、古代山城の中でも最大級のもので、南北約3km、東西約1.5kmの範囲に、総延長約8kmの土塁を巡らせていました(外周は約7km)。地形図を見ると、山の峰をうまく使っていることがわかります。特に南北の部分は、土塁が二重になっています。さすが守護神だけあって、厳重です。規模が大きいので城門も多く、現在のところ、9ヶ所が確認されています。そのうち、大宰府につながる太宰府口城門は、重要な門の一つだったと考えられます。要の部分では石垣も築かれていて、大石垣など6ヶ所確認されていますが、特に百間石垣は、150メートル以上の長さで、北側の内周の土塁上にあります。

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Leaflet|国土地理院
城周辺の起伏地図

太宰府口城門跡
百間石垣

内部では、8地区、約70棟の建物跡が確認されていて、大部分が米を備蓄した倉庫と考えられています(櫓や役所のような建物もあった模様)。籠城戦の備えだけでなく、災害や飢饉に備えるという用途もあったのではないでしょうか。

増長天礎石群

大野城に築城に関わった亡命百済人として、憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)の2人が日本書紀に記録されています。百済の都・扶余の扶蘇山城(プソサンソン)になぞらえたとも言われています。都の姿を再現させたかったのでしょうか。

百済の都・扶余と扶蘇山城の図、大野城市ウェブサイトより引用

その後は、史実の通り、唐・新羅は攻めてきませんでした。単純に助かったと思ってしまいますが、その裏では熾烈な外交戦があったのです。実は白村江の翌年から2年続けて、唐の外交団が来日しているのです。目的は記録されていませんが、何らかの要求があったのかもしれません。日本側は外交団に応対しながら、防衛体制を整備したのです。和戦両様です。唐は、百済の次は、高句麗を滅ぼそうとしていました。その最中の666年から、今度は高句麗が3回も日本にやってきます。これは明らかに救援要請だったのでしょう。667年には唐も、わずか4日間の滞在で、日本に使いを寄越しています。結局日本は、高句麗には加担せず、更に防衛体制を固めていきます。唐・新羅は、668年に高句麗を滅ぼしました。

そうなると、唐の次の狙いはどこでしょうか?日本と新羅は、その辺りから接近し始めていました。また、その頃、唐が日本に遠征するとの噂が流れていて(下記補足4)、日本が669年に遣唐使を派遣したり、唐からは671年に、捕虜を送還する目的で、2千人が来日したりしました。虚々実々の駆け引きに思えてしまいます。最初の戸籍が作られたのがその頃です。しかし結局、唐と新羅が戦いになり、675年に唐が撤収することで、新羅が朝鮮半島を統一するのです。そうなると、新羅と仲良くしていれば、日本の地位は安定します。結果的に、古代山城を実際に使わなくて済んだのです。ただ、来るか来ないか待っていたわけではなかったのです。やがて、701年に高安城が廃城になるなど(下記補足5)、古代山城の多くは廃止されたと考えられます。

(補足4)又消息を通じて云う、国家(唐)船艘を修理し、外倭国を征伐に託し、其の実新羅を打たんと欲す 百姓之を聞き、驚愕不安す(「三国史記」新羅本紀)

(補足5)高安城を廃(と)め、その舎屋、雑の儲物を大和国と河内国の二国に移し貯える。(続日本紀)

その後

ところが、大野城を含む大宰府周辺の3城は修繕され、存続したのです。籠城の準備のためでなく、常設の備蓄倉庫として使われたと考えられます。大野城の場合、倉庫が増築されていて、籠城用にしては多すぎるからです。

大野城の倉庫想像図、現地説明パネルより

また、新たに別の役割も与えられました。774年、城内に四王寺が建てられ、四天王像が置かれたのです。その頃、日本と新羅との外交関係が悪化していて、新羅が日本を呪詛しているという情報があって、それに対抗するためだったのです(下記補足6)。当時は、神仏や祈りの力も、物事を左右すると信じられていたのです。やり方は変わっても、守護神(仏)だったのです。この寺では、疫病の退散も祈願されました。仏教は。国家鎮護のための手段の一つだったのです。その頃は、敵国も疫病も、一緒の扱いでした。それ以来、お城の山が「大野山」「大城山」から「四王寺山」と呼ばれるようになりました。

(補足6)太政官符す 応に四天王寺埝像四躯を造り奉るべきこと〈各高さ六尺〉
(中略)聞くならく、新羅の兇醜、恩義を顧みず、早く毒心を懐き常に咒咀を為し、仏神誣し難く、慮或いは報応す。宜しく大宰府をして新羅に直する高顕の浄地に件の像を造り奉り、その災いを攘却せしむべし。よりて浄行僧四口を請い、おのおの像の前に当たり、一事以上最勝王経四天王護国品に依りて、日は経王を読み、夜は神咒を誦せ。但し春秋二時一七日ごとに、いよいよ益々精進し法に依りて修行せよ。よりて監已上一人その事を専当せよ。
(中略)供養の布施は並びに庫物および正税を用いよ。自今以後、永く恒例と為せ。(「類聚三代格」宝亀5年(774年)3月3日官符)

かつて四王寺があっと思われる付近にある毘沙門堂

大宰府と大野城の施設は、平安時代には衰退してしまったようですが、四王寺は、中世まで存続したと考えられています。その頃には、周辺で経塚が築かれ、そこにお経が収められていました。国の施設がなくなっても続いたということは、人々の祈りの場になったということです。:戦国時代には、中腹に岩屋城が築かれて、山の一部がお城として使われましたが、江戸時代(寛政年間)には「四王寺山三十三石仏」がお参りの場として作られました。昭和時代まではお参りが盛んだったようで、今でも石仏たちが残っています。城と山の歴史が、ずっと引き継がれているのです。

経塚に納められた経瓦の事例、東京国立博物館にて展示
岩屋城跡
四王寺山三十三石仏(十六番)

「大野城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

186.金田城 その1

金田城は、西日本にあった古代山城のひとつでした。これらの城は、663年に朝鮮で起こった白村江の戦いの後、朝廷によって築かれました。金田城は唐・新羅連合軍の侵攻の恐れに対峙する最前線に当たりました。金田城ががあった対馬は朝鮮からわずか約50kmのところに位置していたからです。

古代山城(朝鮮式山城)の一つ

金田城は、西日本にあった古代山城のひとつでした。これらの城は、663年に朝鮮で起こった白村江の戦いの後、朝廷によって築かれました。日本は百済を助けようとしましたが、唐と新羅の連合軍に敗れました。天智天皇は、連合軍による日本侵攻を恐れ、城の建設を命じたのです。金田城は連合軍の侵攻に対峙する最前線に当たりました。金田城ががあった対馬は朝鮮からわずか約50kmのところに位置していたからです。

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基肄城
金田城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
主要な古代山城の位置

白村江の戦いの図 、緑色部分が百済、青色部分が新羅 (licensed by Samhanin via Wikimedia Commons)

古代山城はまた、朝鮮式山城と呼ばれていて、これは朝鮮で確立し、百済からの亡命者の指導のもとに日本に導入された築城方式です。古代朝鮮(現在の北朝鮮と韓国に相当)では、中国からの侵攻と三国(百済、新羅、高句麗)による内乱が続いていて、多くの戦いが起こっていました。この築城方式は、石垣もしくは土塁により山の周りを囲ってしまうというやり方で、後に確立した日本式の城郭とは随分違っていました。当時の朝鮮の人たちは、敵軍に攻撃されると山城に逃げ込み、敵の補給が切れるのを待ってから、反撃に転じるという戦法を取っていました。この方式が、唐・新羅の連合軍による侵攻に迅速に備えるため、日本にも適用されたのです。

金田城跡のジオラマ、対馬観光情報館にて展示

山の全周を囲む石垣

朝廷は、最初の古代山城として、664年に水城を建設しました。その後、最古の公式の歴史書である「日本書紀」によると、大野城基肄(きい)城が665年に、高安城・屋島城・金田城が667年に築かれました。トータルでは、記録されているものもされていないものも含め、30近くもの古代山城が、想定された侵攻ルートである北九州から瀬戸内海に沿って築かれたと考えられています。また、朝廷は「防人(さきもり)」と呼ばれた兵士を東日本から徴発し、北九州地方に送って防衛と監視にあたらせました。それとともに、狼煙(のろし)によって情報伝達が迅速にできるようになっていました。

水城跡
大野城跡
基肄城跡

金田城は、対馬の中心部の浅茅(あそう)湾に面した城山(じょうやま)に築かれました。城は、現在の厳原(いずはら)港近くの対馬国府から北に約15km離れたところにありました。これは恐らく、城の使われ方が朝鮮の場合に準じて、避難所という位置づけだったからと思われます。その全周は約2.2kmで、大半が石垣によって囲まれていました。大半が土塁によって囲まれていた鬼ノ城(きのじょう)などの他の山城とは対照的です。金田城の北側と西側は、山の険しい峰に沿っていて、自然の要害となっていました。一方、南側は谷に向かって開いていて、城の入口であったようです。また、東側は湾に面していました。よってそれらの場所では、門や高石垣が築かれたりしていました。発掘の結果によると、城の内側には官庁や倉庫の建物はなく、防人が駐屯した兵舎のような建物があったと考えられています。

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城山山頂
Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真

浅茅湾
金田城の石垣(東南角石塁)
鬼ノ城の土塁

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城山山頂
Leaflet|国土地理院
城周辺の起伏地図

侵攻の脅威が遠のき短期間で廃城

城が築かれた一方で、外国との交渉が続けられていました。例えば、666年に唐と高句麗との戦いが始まりましたが、両方の国が日本に支援を求めてきました。天智天皇は667年に飛鳥からより内陸の大津に都を移しました。そして、恐らくは徴兵の準備のために670年に最初の戸籍(庚午年籍)を作成させました。668年に唐が高句麗を滅ぼした後は、日本と唐の緊張関係はピークに達しました。そのとき唐は実勢に、日本遠征計画を立てていたと言われています。しかし、670年に唐と新羅との戦いが始まったことで、その計画は中止になりました。そして新羅が唐を撃退し、676年に朝鮮統一を果たす結果となります。天智の跡をついだ天武天皇は新羅との友好関係構築に努め、日本への深刻な脅威は遠のきました。

大津宮跡 (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)

その結果、古代山城を維持する必要がなくなりました。金田城を含む多くの古代山城は、7世紀の終わり頃までは修繕や拡張がなされていました。しかし、金田城については、8世紀初頭には廃城になったと考えられています。日本の最古の歌集である「万葉集」が8世紀終わり頃に編纂されましたが、そこには対馬で任務にあたっていた防人の短歌が収められています(巻14-3516:対馬の嶺は下雲あらなふ可牟の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも)。しかし興味深いことに、この短歌が世に出たのは、城が廃城となってから1世紀近く経ってからということになります。金田城が現役であったのはわずか30~40年のことでした。

金田城跡(一の城戸)

「金田城その2」に続きます。

69.鬼ノ城~Kino-Jo

ここは決して鬼の城ではないのです。
This is never a devil’s castle.

立地と歴史~Location and History

伝説の城~Legendary Castle

「鬼ノ城」と名付けられ、現在の岡山県にあるこの城は、不可思議です。誰も城の由来を知らないのです。一切の記録に表れていないからです。地元の伝説によると、朝鮮から渡ってきた「温羅」という鬼がそこに住んでいたと言います。温羅はその一帯で悪事を働きました。そこで朝廷は、「吉備津彦」という貴族を派遣します。吉備津彦は温羅と戦い、これを倒したのでした。この地の人々は、この言い伝えをもってこの城を鬼ノ城と呼んでいるのです。この伝承は、日本の昔話で最も有名なものの一つ、「桃太郎」にもつながっていると言われています。
This castle named “Kino-jo”, or Devil’s Castle, located in what is now Okayama Prefecture, is mysterious. No one knows the origin of the castle, because it is not recorded in any document at all. In folk stories, a devil called “Ura” from Korea lived in the castle. He did bad things around the area. The Imperial Court sent a noble called “Kibitsu-hiko”. Kibutsu-hiko fought with Ura and defeated him. People call the castle Kino-jo based on this belief. It is also said that the belief might be connected to one of the most popular folk tales in Japan called “Momotaro”.

城跡にある温羅の記念碑~The monument of Ura at the ruins
吉備津彦を祀る吉備津神社~Kibitsu Shrine worshiping Kibitsu-hiko

実は古代山城~In fact, Ancient Mountain Castle

しかしながら、調査研究によって、この城は西日本一帯にあった古代山城の一つであったことが判明しています。これらの城は、663年の朝鮮における白村江の戦いの後、朝廷によって築かれました。日本は百済を助けようとしたのですが、唐と新羅の連合軍に敗れたのです。天智天皇は連合軍による日本侵攻を恐れ、防御のためこれらの城を築かせました。鬼ノ城跡は、記録がある他の城と大変似通っており、歴史家は鬼ノ城は古代山城の一つと結論づけています。
However, it has recently been found out that the castle was one of ancient mountain castles in western Japan by researches and studies. They were built by the Imperial Court after the Battle of Baekgang, Korea in 663. Japan tried to help Baekje, but was beaten by the ally of Tang and Silla. Emperor Tenchi was scared of an invasion by the ally, so he built these castles for protection. The ruins of Kino-jo are very similar to other recorded ones. Historians have concluded Kino-Jo must be a an ancient mountain castle.

白村江の戦いの図~The map about the Battle of Baekgang(licensed by Samhanin via Wikimedia Commons)

この城は、吉備高原の南端にあり、標高は約400mです。崖の部分は急ですが、高原に登ってしまうと比較的平らかです。また、この場所は古代の海岸線から約10kmの地点にあり、陣地を張るには最適な場所でした。ほどんどの日本の他の城とは違い、古代山城は主に外郭部分の防御施設から成り立っていました。中心部分には倉庫や兵舎のような施設がありました。
The castle was on the southern edge of Kibi-kogen Highlands which is about 400m above sea level. The cliffs are steep, but the top of the highlands are relatively smooth. It is also about 10 km away from the ancient coastline. It had the best location to be a strong point. Unlike most Japanese castles, ancient mountain castles mainly consisted of an outer fortification. Their center area had facilities like warehouses and barracks.

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鬼ノ城Kino-Jo
Leaflet|国土地理院
城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

土塁に囲まれた城~Castle surrounded by Earthen Walls

鬼ノ城の場合、外郭の総延長は2.8kmあり、その約90%は土塁でしたが、残りの部分は石造りでした。城には4つの門、6つの水門、「角楼」と呼ばれる櫓がありました。とりわけ土塁は版築という方法で築かれ、いくつもの土の層を、ひとつひとつ踏み固めながら積み上げていくものです。更には、土塁の前後には石が敷き詰められていました。また、門の周辺には、外郭の内側に木の柵も並行して設けられていました。
In the case of Kino-Jo, the perimeter was about 2.8 km, about 90% of it was earthen walls, and the rest was work of stone. The castle also had four gates, six water gates, and a turret called “Kakuro”. In particular, the earthen walls were built in a method called Rammed Earth or “Hanchiku”. The method consists of building many earthen layers by ramming down each layer of soil. In addition, stones were placed in front and back of the walls. Wooden fences ran parallel to wall, inside the fortification around the gates.

鬼ノ城の全体模型~The full model of Kino-Jo(鬼城山ビジターセンター)
復元された門、土塁、敷石、木柵~The restored gate, earthen walls, placed stones, and wooden fences

特徴~Features

現在、鬼ノ城跡は、鬼城山ビジターセンターを出発点として整備が進められています。ビジターセンターでは、遺跡に関する展示がされています。センターから登っていくと、トレッキングコースにもなっている城跡の外郭に着きます。その外郭を反時計回りに進んでいくと、最初は復元されているエリアです。
Now, the ruins of Kino-jo have been developed with the Kinojosan Visitor Center as the starting point. The visitor center has exhibitions about the ruins. You can climb up from the center to the outline of the ruins which can also be used for trekking. If you go along the outline counterclockwise, the first part is the restored area.

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西門Weat Gate
Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

復元エリア~Restored Area

その中では西門が特に目立っています。その土塁、石垣、石舗道、木柵ができる限り忠実に再現されています。門の建物も、当時の類似の事例を参考にして再建されています。門の手前にある角楼は部分的に復元されています。その土台部分は、西門と同じように再建されていますが、構造物は現代に残る事例がないため再建できませんでした。
The restored West Gate is outstanding. Its earthen walls, stone walls, stone pavement, and wooden fences were rebuilt in the original way as much as possible. The gate building was also rebuilt referring to similar examples at that time. The Kakuro turret in front of the gate is partly restored. Its foundation was rebuilt in the same way as the West Gate, but its structure couldn’t be rebuilt because there are no modern examples of it.

復元された西門~The restored West Gate
土台だけ復元された角楼~Kakuro Turret, only its foundation was restored.

トレッキングコース~Tail for Trekking

その他の遺跡物は、修復され、そのまま展示されています。それでも見る価値は十分にあります。例えば、第二水門には排水溝があり、いまだに機能しています。東門跡周辺の野性味のある自然石群は必見です。
The other ruins were repaired and shown as they are, but are great to visit. For instance, the Second Water Gate has a drain which still works. You should check out wild natural stones around the East Gate Ruins.

第二水門~The Second Water Gate
東門跡~The East Gate Ruins
自然石群~The natural stones

その門跡を過ぎると、勇壮な高石垣に至り、そこからの岡山平野の眺めは素晴らしいです。城の守備隊には、そこから城外の動きがよく見えたことでしょう。また、倉庫群があった場所にも遺跡が点在しています。
Passing the gate ruins, the high stone walls look great and the views of Okayama Plain are very beautiful. That also meant defenders in the castle were able to watch the situation outside. There are some other ruins scattered about where the warehouses once stood.

高石垣~The high stone walls
岡山平野の眺め~A view of Okayama Plain
倉庫群跡~The ware houses ruins

その後~Later History

鬼ノ城は、8世紀の初頭には放棄されてしまったようです。その後、城跡は寺の敷地になったり、仏教徒の修業の場となったりしました。戦国時代には、その一部分を城として再利用されたりしました。そしていつしか人々は、この城は最初は鬼が作ったものと考えるようになりました。
Kino-Jo was most likely abandoned in the first 8th century. After that, the ruins were used for temple grounds or training grounds for Buddhists. In the “Sengoku” or Warring States Period, warriors used part of them again as a castle. People thought the castle was originally built by a devil for some time.

仏教徒が修業を行った痕跡~A trace of Buddhist training

1970年になって、ある歴史家が初めてここを史跡として調査し、古代山城の一つではないかと提唱したのです。このことが1978年に学会で認められ、ついには1986年に国の史跡に指定されました。それ以来、総社市が城跡を整備しています。
In 1970, a historian first explore the ruins as a historic site, and suggested that it might be an ancient mountain castle. That was proved by academic research in 1978. As a result, the ruins were designated as a National Historic Site in 1986. Since then, Soja City has been rebuilding them.

復元された西門と土塁の全景~The whole view of the West Gate and the earthen walls

私の感想~My Impression

鬼ノ城跡は、日本で最もよく保全されている城跡の一つだと思うのです。城跡の一部は元あったように復元され、他の部分は良好な状態で保存されています。良いバランスです。また、ひと汗かきながら歴史の勉強もできるのです。
I think that the ruins of Kino-Jo are one of the most well conserved ones in Japan. Because part of the ruins were restored to look like the originals, and the others were preserved in good conditions. it’s a good balance. You can also choose to learn history while working up a sweat.

版築で復元された土塁~The restored earthen walls by Rammed Earth

ここに行くには~How to get There

ここに行くには車がおすすめです。山陽自動車道の岡山・総社ICから約8kmの道のりです。ビジターセンターに駐車場があります。
I recommend using a car to get there. It takes about 8km away from the Okayama-Soja IC on Sanyo Expressway. The visitor center offers a parking lot.

リンク、参考情報~Links and References

鬼ノ城、総社市公式観光WEBサイト(Soja City Official Site)
・「鬼ノ城/谷山雅彦著」同成社(Japanese Book)
・「歴史群像45号/鬼ノ城、吉備路を睥睨する古代山城」学研(Japanese Book)

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