133.鮫ヶ尾城 その2

自然の地形を生かした典型的な山城

特徴、見どころ

3つの登城道

現在、鮫ヶ尾城跡は「斐太(ひだ)歴史の里」という名の歴史公園の一部として整備されています。ここには古代住居の跡や古墳群などもあります。もし車でこちらに来られるのでしたら、これも長い歴史を持つ斐太神社のそばにある駐車場に停めることができます。また、駐車場からは斐太歴史の里総合案内所に立ち寄ると、城跡に関する様々な案内をしてもらえます(冬期間は営業していませんので注意)。

城周辺の地図

公園入口
復元されている古代住居
総合案内所

城跡へは東登城道、北登城道、南登城道の3のルートがあります。前の2つのルートは総合案内所がスタート地点となります。ちなみに、北登城道はあまり史跡がありませんので、この城跡に初めて行かれるのであれば、東登城道がおすすめです。北登城道は帰りに使ってはいかがでしょう。

3つの登城道(現地説明板より、上方が西)
北登城道
北登城道沿いに残る井戸跡「景虎清水」

東登城道を行く

東登城道は、もとは城の搦手道でした。もしそこから登られるのであれば、山の峰の上や、そこに沿って歩いて行くことになります。そのうち、「大堀切6」という標柱が見えてきます。その辺りが城跡の入口となります。そして、「大堀切5」という場所からまたいくつかの堀切が続きます。このルートが堀切を超える場所では両側を細くカットされています。

城周辺の起伏地図

東登城道
右側に「大堀切6」の標柱
大堀切6
「大堀切5」標柱
大堀切5
堀切を渡る土橋は両側を細くカットされています

そうするうちに東一ノ丸に着きますが、ここは物見のための場所だったようです。

また堀切を越えて東一ノ丸に近づきます
東一ノ丸
東一ノ丸からの景色

その後、「堀切6」を過ぎると、坂はとても急になり、次の曲輪に行くのにロープにつかまって登る必要があります。過去には、この場所は防衛上の重要拠点だったに違いありません。

「堀切6」の後の急坂
ロープが必要なほどの急坂です
急坂を上から見下ろしています

やがて「大堀切1」に至ります。ここは東登城道と南登城道が合流する場所です。

大堀切1
東登城道と南登城道の合流地点

南登城道上の二ノ丸と三ノ丸

実は、南登城道が城の大手道だったのです。このルートはジグザグに谷や他の峰を通っていて、敵の攻撃を弱らせるようになっていました。虎口と呼ばれる防御関門の後、三ノ丸と二ノ丸がこのルートの最終地点になっています。発掘調査によれば、両方の曲輪で恐らくは御館の乱による火事の痕跡が発見されました。特に三ノ丸では、兵士の携帯食だったであろう焼けたおにぎりが見つかっています。

南登城道
虎口跡
三ノ丸
二ノ丸

「鮫ヶ尾城その3」に続きます。
「鮫ヶ尾城その1」に戻ります。

133.鮫ヶ尾城 その1

御館の乱と上杉景虎の終焉の地

立地と歴史

春日山城の支城

鮫ヶ尾城は、現在は新潟県である越後国の西部にあった山城でした。この城が最初にいつ築かれたのかは分かっていませんが、16世紀後半には上杉謙信の本拠地である春日山城の支城の一つとなっていました。謙信は、その当時の日本では最も有力な戦国大名の一人であり、その本拠地を守るために城のネットワークを構築したのです。鮫ヶ尾城は、実のところ、支城としてよりも御館(おたて)の乱の最終決戦地として、そしてその乱で敗者となった上杉景勝の終焉の地として有名となっています。

城の位置

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
春日山城を中心とした支城ネットワーク、上越市埋蔵文化財センターにて展示、鮫ヶ尾城は赤丸内

景虎、北条氏から上杉氏の養子となる

上杉景虎は謙信の養子でしたが、もとは謙信と関東地方をめぐって戦っていた北条氏の一族として生まれました。景虎が上杉家に来ることになった理由は、1569年に武田氏に対抗して上杉と北条が一時的に講和を結ぶことになったからです。武田氏(武田信玄)は、武田・今川・北条による三国同盟を今川氏の両国に攻め込むことで破っていたのです。北条氏(北条氏康)はこれに大いに怒っていました。ところが、上杉と北条の新しい同盟はたった2年しか続かず、北条は上杉との同盟を止めて1571年に再び武田と同盟を結びました(北条が氏康から氏政に代替わりしたことが大きな要因でした)。通常であれば、ここで景虎は北条に返されるはずでした。ところが謙信はなぜか景虎を上杉の一員として留めたのです。一説として謙信が景虎を個人的に気に入っていたと言われています。景虎の肖像画は残っていないのですが、記録によれば、彼は魅力的でかつ眉目秀麗だったとされています。

上杉景虎の想像画、現地説明板より

謙信の死後、2人の養子が対立

北条との同盟が手切れになったことで、謙信は親族よりもう一人の養子を迎えます。それが上杉景勝でした。謙信は、景虎が景勝を支え、お互いに協力していくことを願ったようです。また多くの歴史家は、謙信は1578年3月の突然の彼の死までに、明確に後継者を決めていなかったと言います。実際には、二人の養子は養父の死後しばらくは、景勝が当主であるかのごとく同じ春日山城で暮らしていました。ところが周りの状況が二人の平穏を許してくれなかったのです。景勝の古くからの家臣は、上杉家の中枢として当然景勝を支持しました。越後国の地方領主や他国の戦国大名は景虎を支持しました。彼が外部出身者だからです。特に景虎の実家である北条氏とその同盟者である武田氏は、景虎が後継者となることを望みました。このことにより二人の候補者は1578年5月に戦うことになってしまったのです。この戦いは御館の乱と呼ばれています。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

御館はもともと、元関東管領で、謙信の養父でもあった上杉憲政の屋敷でした。景虎は春日山城から約5km離れた御館に避難していたのです。この場所は乱の間、1年近く彼の本拠となりました。この戦いの初期の段階では景虎の方が他からの支援を受けられることで、景勝より優位な立場にありました。6月には武田勝頼が軍勢を率いて景虎を支持するために越後国に達していたのです。ところが景勝は、多額の金銭贈与と領土の割譲を約束することで、勝頼を引き返させてしまったのです。その結果、状況は逆転しました。景勝は多くの忠誠を誓う家臣がいる一方、景虎はその出自のせいで頼りになる家臣は少なかったのです。景勝はついに御館の屋敷に対して総攻撃をかけ、1579年3月に御館は陥落しました。景虎はそこから逃れ、彼の実家である北条氏の本拠地である小田原城に至ろうとしたのです。そして、彼を支援する堀江宗親(ほりえむねちか)の城に立ち寄りました。そして、そこが彼の最後の地となったのです。それが鮫ヶ尾城でした。

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
炎上する御館の想像図、斐太歴史の里総合案内所にて展示

景虎敗れ、鮫ヶ尾城で自刃

鮫ヶ尾城は一支城でしたが、規模は大きく、それは謙信と勝頼の父である武田信玄が何度も戦った信濃国(現在の長野県で越後国の南方)の途上にある場所だったからです。この城は当時の典型的な山城であり、自然の地形を利用して防御を固めていました。土造りの多くの曲輪が山の峰上に築かれていました。これらの曲輪は人工的な堀切によって区切られ、両側を垂直にカットされた細い通路によってつながっていました。谷を通る通路は曲がりくねって作られ、敵が城を容易に攻撃できないようになっていました。

川中島古戦場にある武田信玄(左)と上杉謙信(右)の銅像
鮫ヶ尾城跡図、現地説明板より

いくら強力な城に滞在しているとは言え、景虎は他からの援軍がなければ生き残ることはできません。彼は、景勝は発した景虎追討軍にすぐに追いつかれ攻撃されました。ある記録によれば、城主である堀江宗親まで景虎を裏切ったと言われています。景虎はついに、景勝の軍勢により火をかけられた城内で自刃しました。享年26歳でした。

鮫ヶ尾城跡

「鮫ヶ尾城その2」に続きます。

128.要害山城 その3

よりよい史跡にするためにやっていただきたいこと

特徴、見どころ

強力な城の後方の防御

お時間があれば、城の背後の側も見ていただきたいです。それは後方の峰はとても狭まっていて、オリジナルの城の通路や遺跡が峰に沿って昔ながらのごとく残っているからです。主郭とその後方にある曲輪は、人工的に作られた堀切によって隔てられていて、後方からの敵の攻撃を防げるようになっていました。その堀切は崩れないように部分的に石垣によって支えられていて、日本の城では稀な事例です。

主郭の後方を区切っている石垣のある堀切

城周辺の地図

その上、2つの土造りの物見台が、堀切で区切られた後方に、峰に沿って並んでいました。物見台台もまた一部が石垣あるいは石積みによって支えられていましたが、これもまた誰が築いたか、または改修したのか分かっていません。

物見台
物見台を支える石垣
通路は物見台の脇を通ってより細くなります

通路は物見台の脇と間を通っていて、見張り台の間を通っている部分は両側が竪堀によってカットされていてとても細くなっています。物見台の上の守備兵は、敵が攻めてきても容易に捕捉し、反撃できたことでしょう。

物見台の間の通路
細くなっている通路から物見台を見上げます
物見台から通路を見下ろしています

その後

江戸時代には、武田不動尊の石像が2番目と3番目の門跡の間にある曲輪の場所に作られました。それ以来、その曲輪は不動曲輪と呼ばれるようになりました。明治維新後、城があった場所はますます荒廃していきました。そこで地元の人たちは、城跡を保存するため、1929年に「武田信玄公誕生之地」の石碑を建てました。石碑の題字は、旧日本海軍の有名な提督、東郷平八郎が揮毫しました。城跡は1991年以来、国の史跡に指定されています。

武田不動尊
本丸に立つ「武田信玄公誕生之地」の石碑

私の感想

要害山城を訪れる時には、武田氏館と両方同時にご覧になることをお勧めします。両方見ることによって武田氏がどのようにその本拠地を守ろうとしていたのか理解できるからです。この2つの城はセットで1つの城のように機能していたのです。ただ、1つだけ甲府市にお願いしたいです。武田氏館においては、ここ最近発掘や研究が頻繁に行われています。ところが、要害山城に限っては同じように発掘や研究が進んでいるようには思えません。現地においても、歴史ファン向けにもっと説明板などが必要ではないでしょうか。また、遺跡一部はかなり草木に埋もれたりしてわかりにくくなっています。武田氏館とセットであるものとして、将来この山城についても整備を進めていただきたいです。

武田氏館跡
武田氏館の西曲輪北桝形虎口
武田氏館跡では発掘作業が進んでいます
要害山城の竪堀跡の状況

ここに行くには

この城跡を訪れるには車を使われることをお勧めします。バスの本数がとても少ないからです。
中央自動車道の甲府南ICから約20分のところです。城跡への入口の手前に駐車スペースがあります。
公共交通機関を使う場合は、JR甲府駅から積翠寺行きの山梨交通バスに乗って終点で降りてください。バス停から歩いて約15分で城跡入口に着きます。
東京から甲府駅まで:新宿駅から特急あずさ号か、かいじ号に乗ってください。

城跡入口前の駐車スペース

リンク、参考情報

要害山、甲府市
・「武田信玄 伝説的英雄からの脱却/笹本正治著」中公新書

これで終わります。ありがとうございました。
「要害山城その1」に戻ります。
「要害山城その2」に戻ります。