15.足利氏館 その1

足利氏の本拠地

立地と歴史

源氏の一族が足利荘を開発し定住

足利氏館は、現在の栃木県足利市の中心部に位置していました。実は、その場所は現在では鑁阿寺(ばんなじ)という有名なお寺になっています。そのため、私たちが通常想像する典型的な城のようには見えないかもしれませんが、この館跡は防御機能を伴った日本の武士の館の、初期の形態を残しているとされています。

鑁阿寺楼門(山門)

足利氏は、地方領主としてより、14世紀から15世紀の室町時代の足利幕府の将軍家としての存在の方がずっと知られているでしょう。しかし事実として足利氏の歴史は、12世紀に下野国(現在の栃木県)で足利荘(ほぼ現在の足利市に相当)を開発したときから始まりました。皇室の子孫で清和源氏の足利義国が、最初にその場所に定住し、足利氏の祖先となりました。

足利市の範囲と城の位置

鎌倉幕府が設立される前は、武士たちは自身で開発した土地を維持するためには、形式的に荘園として高位の貴族に寄付する必要がありました。そうでなければ、公的機関から領地を保証されることは一切なかったのです。そのために義国は足利荘となる地に定住し、大変な労力を投じて開発を進めました。それ以来、この一族は自身の苗字として、その地の名前である足利を名乗ったのです。義国の息子、足利義康は足利氏の創始者であり、最初に足利氏館を築いたと言われています。そして、館はその息子で2代目の義兼に引き継がれました。

伝・足利義兼肖像画、鑁阿寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

初期の武士の館の典型

館の特徴として挙げられるのは、そのエリアを囲む土塁とその外側の水堀でしょう。こられにより館の敷地は四角形に区切られ、歴史家はこのような典型的な武士の館を「方館(ほうかん)」と呼びならわしています。その四角形の一辺は約200mで、この館の形式は戦国時代の17世紀まで長い間踏襲されました。その類型として、武田氏館大内氏館などがあります。領主や武士たちは普段このような館に住み、戦のような緊急事態にも対処できるようにしていました。したがって、足利氏館は武士が建てた最も初期の日本の城の一つとみなされています。

足利氏館跡(現鑁阿寺)を囲む土塁と水堀
武田氏館の模型、甲府市藤村記念館にて展示
大内氏館跡(現・龍福寺)

義兼は12世紀末に。源氏の棟梁であり日本の武家政権で最初の将軍となった源頼朝による鎌倉幕府の設立に、頼朝の親族として貢献しました。義兼はまた信仰心が深く、館の中に持仏堂を建立し、仏画を掲げて祈りを捧げました。これが鑁阿寺の起源となります。更には、彼は隠居所として樺崎寺を建て、また足利学校の設立者の一人とも言われています。足利学校は、日本中世の最高学府の一つとなりました。これらにより、足利は中世における一大文化都市となったのです。

樺崎寺跡
現存する足利学校の「学校門」

足利氏は鎌倉時代を生き抜き室町将軍家に

その後源氏将軍の血筋が絶え、北条氏が執権として実権を握りましたが、義兼の息子、義氏は鎌倉幕府の重臣となりました。足利氏としても、現在の愛知県の一部にあたる三河国に新しい領地を獲得しました。そのため、義氏は普段は武家の都、鎌倉に住んでいました。そこには政所が設置され、領地全体をコントロールしていました。もとの本拠地であった足利荘でさえ、足利氏の当主ではなく当地に置かれた公文所の役人によって治められました。よって、義氏は足利の父親の館(足利氏館)を1234年に鑁阿寺とし、父親の冥福と氏族の繁栄を祈る場所としたのです。

足利義氏肖像画、江戸時代の作、鑁阿寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利荘の公文所が置かれたとされる勧農山(現・岩井山)

鎌倉幕府の他の重臣たちが北条氏によって粛清される中、足利氏は鎌倉時代を生き延びました。多くの足利氏当主は、北条氏から輿入れした母親から生まれました。そのために足利氏は、幕府で第2の地位を維持できたものと思われます。その一方で、多くの武士たちが足利氏に対して、源氏の棟梁を継ぐ者として世の中を変えてほしいという期待を持っていました。義氏から5代後の当主、足利尊氏は北条氏出身でない母親から生まれました。そういったことが尊氏が、後醍醐天皇やもう一人の源氏の子孫である新田義貞とともに、鎌倉幕府を倒す要因の一部になったと考えられています。

足利尊氏肖像画、浄土寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
後醍醐天皇肖像画、清浄光寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
新田義貞肖像画、藤島神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「足利氏館その2」に続きます。

17.金山城 その1

北関東地方の重要で強力な城

立地と歴史

金山城は、現在の群馬県太田市にあった城です。この城は「難攻不落」として知られていて、「あの上杉謙信も落とせなかった」というフレーズ付きです。謙信だけでなく、武田・北条も攻めたことがありますが、力攻めでは落とすことができませんでした。また、城に比べると城主たちの名前は知られていないように思いますが、その城主たちにも色々なドラマがありました。城と城主があいまって、難航不落が達成できたと言えるのだと思います。この記事では、城主たちを交えながら城の歴史を紹介していきます。

太田市の範囲と城の位置

岩松家純による築城と横瀬氏による下剋上

太田市周辺の地域は中世には新田荘と呼ばれていて、源氏の一族である新田氏が開発、定住していました。新田氏の中でも最も有名な人物は、何といっても1333年(元弘3年)に鎌倉幕府を攻め滅ぼした新田義貞でしょう。その後南北朝時代となり、南朝に属した義貞は、北朝方の同じ源氏一族、足利尊氏の軍勢によって討たれてしまいました。新田荘を引き継いだのは、新田氏の支族で、足利氏に従った岩松氏でした。岩松氏は、足利氏が設立した室町幕府の下、新田一族を代表する立場となりました。

新田義貞肖像画、藤島神社蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

室町時代後半になると、関東地方に動乱が起こります。1415年(応永22年)関東公方・足利持氏に対して前関東管領・上杉禅秀が反乱を起こしたのです。当時の岩松氏の当主・満純は、禅秀に味方しましたが、禅秀は敗れ、1417年(応永24年)満純も処刑されました。岩松家は、満純の甥・持国が継ぎました(京兆家)。満純の遺児・家純は京都に逃れ、時の将軍・足利義教に保護されました(礼部家)。義教と持氏は対立していたので、義教は家純を持氏牽制のためのカードとして使おうとしたのです。

やがて、その機会がやってきました。1438年(永享10年)持氏と、関東管領・上杉氏及びバックアップする幕府との間で永享の乱が勃発したのです(持氏の敗死で終了)。2年後には、更に公方方と上杉・幕府方間で、結城合戦が起こりました。このとき、岩松家当主・持国(京兆家、けいちょうけ)は公方方でしたが、京都にいた岩松家純(礼部家、れいぶけ)が上杉・幕府方として参戦したのです。これは関東諸将にとって驚きだったようです(ただし家純は後見の足利義教暗殺事件があって帰京した模様)。そして1454年(享徳3年)後任の関東公方(のちに古河公方)・足利成氏と上杉氏(+幕府)との間で再び戦が始まり、関東地方が戦国時代に突入します(享徳の乱)。岩松家は持国が公方方、家純が上杉方でしたが、戦いが進むにつれ、岩松家全体が上杉方に傾き、家純が当主として迎えられることになったのです。それは1469年(文明元年)のことでした。それは彼が上杉禅秀の乱の結果、流浪の身になってから52年もの歳月が経っていました(家純61歳)。その家純を迎えるため、重臣の横瀬国繁らの手によって築かれたのが金山城だったのです(下記補足1)。

(補足1)文明元年2月25日、新田(岩松)家純が僧松陰を代官として地鎮の儀式を行い, 70余日断絶なく普請に走り回り、同8吉日に完成した。重臣の横瀬国繁らが由良原まで出迎え、家純は五十子陣から金山城に入城して祝賀の宴を行った。(長楽寺僧・松陰西堂「松陰私語」、「妙印尼輝子」ホームページによる要旨引用)

城が築かれた金山は新田荘の北部にあり、麓から約180mの高さがある独立丘陵で、山城を築くのに適していました。また山上に泉が湧いていて、平安時代から聖地とされ(現在の日ノ池)、城にとっては貴重な水源となったのです。岩松氏の当主はもともと、岩松(氏)館と呼ばれた平地の居館に住んでいたと考えられていますが、戦国時代の到来により、安全な山城に移動する必要もありました。関東地方の類似例としては、箕輪城唐沢山城が挙げられるでしょう。金山城の築城は、岩松家純の帰還(両岩松家の統一)と併せ、地域にとっても画期的な出来事でした。1478年(文明10年)には太田道灌も訪れています。

岩松氏館跡、現在は岩松山青蓮寺になっています
岩松氏館付近から見える金山

家純は、通常は上杉方の本拠地、五十子陣(いかっこじん)に滞在し、京都から彼の跡継ぎ・明純も到着しました。1477年(文明9年)に内乱(長尾景春の乱)により五十子陣が崩壊すると、岩松勢は金山城に戻り、家純はその場で今後は古河公方に従うと宣言しました。そしてあろうことか、息子の明純を勘当してしまったのです。両者の間で路線対立があったのかもしれません。紆余曲折の後、跡継ぎは孫の尚純(ひさずみ)ということになりました。

伝・岩松尚純自画像、青蓮寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1494年(明応3年)カリスマ的存在の家純が86歳で亡くなると、家中が動揺します。当主・尚純を重臣・横瀬氏が後見する体制であったのが、勘当されていた明純が翌年、尚純と謀り、横瀬氏を除くべく反乱を起こしたのです(屋裏の錯乱、横瀬氏の当主・成繁が草津湯治に行ったタイミングを見計らった)。しかし、明純は、横瀬一族が立てこもる金山城を落とすことができず、ついに古河公方・足利成氏が調停に乗り出しました。その結果は、尚純は隠居、尚純の幼児・昌純(まさずみ)が跡を継ぐというものでした。つまり、京都帰りの家純以下に代わって実際に家中を取り仕切っていたのは、重臣・横瀬氏であり、それが名実ともに明らかになったのです。これが下剋上の始まりでした。隠居させられた尚純は、京都育ちの教養人であったため、岩松の館で和歌・連歌の道の没頭しました(下記補足2)。昌純が成長すると、横瀬氏の当主・泰繁(やすしげ)と対立するようになり、逆に討たれてしまうという事件が発生しました。この事件で、横瀬氏の下剋上達成とされています(岩松氏は形式上の主君として継続)。

(補足2)明る朝、利根川の舟渡りをして、上野の国新田の庄に、礼部尚純、隠遁ありて今は静喜、かの閑居に五六日。連歌たび〱におよべり。(往路)新田の庄に大沢下総守宿所にして、草津湯治のまかなひなどに六七日になりぬ。静喜にてまた連歌あり。(復路)(連歌師宗長「東路の津登」)

岩松尚純の墓、青蓮寺の近くにあります

上州の戦国大名、由良成繁

泰繁の子、成繁(前述の成繁とは別人)は1545年(天文14年)に跡を継ぎました。彼の時代は、まさに関東地方が戦いの渦中にありました。北条・上杉・武田が覇権を争う中で渡り歩き、一族の独立を守っただけでなく、領土も広げました(館林・桐生地域を攻略)。成繁は当初、北条氏に服属していましたが、(北条氏が傀儡としてた古河公方・足利義氏に仕えていた)京都の将軍・足利義輝とも交流を持っていました。例えば、義輝から伝来間もない鉄砲を下賜されています。(下記補足3)この交流は中央からの情報源にもなっていました。そしてついには苗字を、新田氏ゆかりの地名から「由良(ゆら)」に変え、自分たちが新田一族の正統であると称したのです(新田義宗の子、貞氏が養子に入ったとした、由良家伝記)。義輝からは、岩松氏と同等以上の役職(刑部大輔・御供衆、岩松氏は治部大輔、由良文書)に任じられました。この時代に下剋上を戦国大名として生き残るには、武力だけはなく、人々から認められるための権威も必要だったのです。

(補足3)数寄之由、相聞候条、鉄放(砲)壱丁遣之候、猶晴光可申候也、五月廿六日(花押)横瀬雅楽助とのへ(天文22年足利義輝御内書、安川由良文書)

1560年(永禄3年)越後国の上杉謙信(当時は長尾景虎)が、本格的な関東侵攻(越山)を開始します。この動きを京都からの情報で得ていた(下記補足4)成繁は、いち早く謙信に味方します。越後勢と戦うことは不可能と判断したようです。謙信の下に参陣した武将名を記録した「関東幕注文」にも「新田衆」の筆頭にその名が見えます。(下記補足5)北条氏は、横瀬氏(当時)からの人質に危害を加えませんでした。これが後の成繁の行動に影響したかもしれません。

(補足4)関白殿御下国の処、馳走せしむの由、尤も神妙候(永禄3年10月3日足利成繫宛義輝御内書、集古文書)

(補足5)新田衆 横瀬雅楽助 五のかゝりの丸の内の十万(関東幕注文、上杉家文書、「新田殿御一家(岩松一族)」はその後に記載)

ところが成繁は、1566年(永禄9年)8月頃、再び北条氏に従うことにしました。(下記補足6)同年3月、謙信は下総国臼井城攻めに失敗し、その権威が大きく低下していたからです。成繁は後に遺言で「北条氏のやり方は常に無道である」(補足7)と言っているので、信頼したわけではなかったでしょうが、その時点で冷静な判断をしたと思われます。その結果、上州の領主が次々に北条方につき、謙信の重臣・厩橋城の北条高広までが離反しました。上杉方は、上野国の拠点のほとんどを失い大打撃となりました。謙信は激怒し(補足8)、上野国に攻め込み、自身の書状で新田(金山城)攻めの予定を告げていますが、実行したかどうかはわかっていません。

(補足6)東口の事、宇都宮を始め両皆川・新田(由良)当方へ申し寄せ候、なかんずく成田の事、我々の刷(あつかい)を以て時宜(じき)落着す、(8月25日付正木時忠宛北条氏照書状、三浦文書)

(補足7)北条氏のやり方は常に無道であるので、北条家の御陣の供に兄弟一緒に出てはならぬ」(「石川忠総留書」坤より、黒田基樹「由良氏の研究」)

(補足8)第一の侫人成繁を始めとして退治を加うべし(永禄10年正月28日付佐竹義重宛謙信書状、伊佐早文書)

永禄11年12月、状況がまた変わります。武田信玄が武田・今川・北条の三国同盟を破り、今川領に侵攻したのです。それにより、北条氏の当主・氏康も、長年の宿敵・謙信と講和することを決断しました。その交渉役になったのが、由良成繁と北条高広でした。(下記補足9)この二人は上杉への最前線にいて、かつて上杉方だったため知己も多かったからです(成繁のルートは「由良手筋」と呼ばれました)。交渉は困難を極めましたが、成繁は金山城を交渉の場として提供するなど努力を重ねました。自らも戦国大名でありがなら、地域の安定を願ってのことだっだと思われます。講和(越相同盟)によって、上野国は上杉方となりました。

(補足9)越・相取扱の儀、旧冬以来源三(北条氏照)・新太郎(氏邦)如何様にもと存じ詰め、様々その稼ぎを致す、なかんずく新太郎には愚老(氏康)申し付け、由信(成繁)取扱について相違なく相整え候、(永禄12年3月3日付上杉方沼田在城衆宛北条氏康書状、歴代古案三)

ところが、1571年(元亀2年)に氏康が亡くなると、跡継ぎの氏政は、武田との同盟を復活します。同盟のメリット(上杉方の武田領への侵攻)が機能しなかったからです。成繁は氏政に対して不満を露わにしますが、結局北条方に戻ってきました。これも彼の戦国大名としての判断だったのでしょう。新田はまた争乱の地となり、上杉方が金山城北方の丸山砦を占領した一方、由良方も桐生城を落とし、周辺地域を領土としました。謙信はまたも激怒し、1574年(天正2年)二度に渡って上野に出兵しました。謙信本体が3月に由良領に侵攻し、4月に金山城を攻めました。城の物見から死角となる藤阿久という所に陣を布いたそうです。由良方は籠城に徹し、上杉方も簡単には城を落とせないので、周辺地域の放火・略奪に終始しました。領内にダメージを与えるためです。「義」といってもその当時は「イコール民衆のため」ではなかったのです。北条軍は資材の支給・上杉軍への牽制を行って由良方を支援しました。5月頃謙信は退陣したようです。同年10、11月にも謙信による由良領侵攻と退陣がありました。謙信は1578年(天正6年)3月に没しますが、成繁も6月に隠居先の桐生城で亡くなりました。戦国大名として波乱の人生でした。跡継ぎの国繁も、今度は武田勝頼(天正8年に新田に出陣)や滝川一益(織田信長配下)の関東侵攻を乗り切り、領土を守ったのです。国繁は、両者からの服属要求をあいまいにしていたようです。

成繁が仲介を行った北条氏の当主、北条氏康肖像画、小田原城所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
城跡の近くの金龍寺にある由良成繁の墓(真ん中)
成繁が仲介を行った上杉氏の当主、上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

金山城の発展

金山城は、当初は金山丘陵の頂上周辺に小規模に築かれていました。頂上に実城(本丸)があり、周りの二の丸・三の丸くらいの範囲と推定されています。また、城主が普段住む館は、山麓にあったと考えられます。それが、横瀬氏が実権を握る時期になると、「中城」と呼ばれる範囲まで広がりました。それは、城の中心部を区切る物見台下堀切辺りまでと推定されています。由良成繁が戦国大名となった頃には、度重なる戦に対応するため、城の改修が進められ、最終的には、丘陵外側に「北城(きたじょう)」「西城(にしじょう)」が、南側にある八王子丘陵には「八王子山ノ砦(はちおうじやまのとりで)」が築かれました。山全体が城郭化し、山麓の館とも連携する形となりました。
防御の仕組みとしては、山城なので自然の地形を利用しながら、それを加工して土塁・堀切・切岸・虎口などを備えました。また金山城は、関東地方で戦国時代から石垣が多用された珍しい城として知られています。石材は金山そのものから調達できたので、城の主要部分で石敷・石組として活用されました。これらの石垣を最終的に整備したのは北条氏なのですが、改修が何度もされていて、初期の工事は由良時代ではないかとされています。北条氏は、石垣以外にも、その当時先進の防御構造を、見附出丸などに導入しました。

石垣が復元された金山城跡(大手虎口)
同じ部分の復元模型、史跡金山城跡ガイダンス施設にて展示

城と一族の意地を貫いた妙印尼

戦国時代末期、関東地方はほぼ北条氏の覇権に下に治まりました。1583年(天正11年)10月、由良氏と金山城にとって大事件がまたも起こります。当主・國繁と実弟の長尾顕長が突然北条氏によって捕らえられ、金山城・館林城の明け渡しが要求されたのです。この話は、場所は厩橋城・小田原城とも、口実は接待、作戦会議とも、理由は両城の借用に難色を示したとか言われていますが、北条氏が城の直接支配に乗り出したことは間違いありません。2人は小田原に護送監禁されました。このとき、金山城に残って抗戦の決意をしたのが、成繁の妻・妙印尼です(国繁の子もいました)。こうして最後ともいうべき籠城戦が始まりました。北条方は、氏政・氏直・氏照らトップクラスが出陣し、翌年にかけて城外の領地でも戦いが続きました(藤岡・沼尻合戦など)。由良方は佐竹氏と連携し、外交面でも豊臣秀吉や徳川家康にも連絡を取りました(下記補足10)。これはこの時でなく後に効果が現れます。城は落ちませんでしたが、劣勢は如何ともし難く、監禁された2人と交換で、金山城・館林城を引き渡すことで降伏しました(下記補足11)。由良氏は桐生城に移り、北条氏の家臣・清水太郎左衛門尉が金山城に入り、城の改修を進めました。

(補足10)先年小田原へ檎置かれ、居城へ取り懸かり相渡すべき旨申し懸かり候といえども、母覚悟として城を相抱え、京都へ御届け申し上げ候刻、先成り次第に仕るべき旨、仰せ出だされ候に付いて、料簡に及ばず、小田原へ城を相渡し、(天正18年8月朔日付由良・長尾老母宛豊臣秀吉朱印状、安川由良文書)

(補足11)由信・長新帰城の上、両地南方へ明け渡し候儀、是非なき次第に候(2月5日付宇都宮国綱書状、佐竹文書)

1590年(天正18年)3月に豊臣秀吉による北条領侵攻が始まると、また劇的な出来事が起こります。由良氏の当主・国繁は、小田原城に召集されていました。そのとき77歳になっていた妙印尼は、孫の貞繁とともに、いち早く桐生城を開城し、豊臣北陸軍の大将・前田利家の下に参じました(下記補足12)。そして、由良家の今後について嘆願を行ったのです。それに対する利家の返事が残っています(下記補足13)。それは北条氏が7月に降伏した後、秀吉から朱印状が発せられることで成就しました(補足10)。事実かどうかわかりませんが、妙印尼と貞繁が、利家とともに小田原合戦に加わり、秀吉に謁見したという話まで伝わっています。

(補足12)新田・桐生の城も拙者請け取り申し候(6月2日付安威摂津守宛前田利家書状写、山中文書)

(補足13)新田身上の事、うえさま御前別条なきよう精を入れ、馳走申しまいらせ候、我々たしかに請け取り申し候、ゆくゆくまでも疎意あるまじく候間、ご安心あるべく候、かしく 六月七日 ちくぜんの守とし家(黒印)新田御老母へ まいる(金谷由良文書)

一方、北条氏が強化したはずの金山城は、4月頃あっけなく落城(または開城)してしまい、その後は廃城となりました。妙印尼は本当は金山城に戻りたかったのでしょうが、常陸国牛久に領地を与えられ、1594年(文禄3年)に81歳で亡くなるまでその地で過ごしました。北条氏の関係者の多くが改易になった中、由良家存続には成功したのです。由良家は最終的には江戸幕府下で高家の一つとなりました。もし妙印尼と由良氏が、わずかな守備兵であっても金山城に居続けていたならばどうなっていたでしょうか。忍城では、地元生え抜きとして城を守っていた成田長親が、石田三成の水攻めに耐え抜いていました。金山城も簡単に降伏せず、後に名が残るような攻防戦が起こっていたかもしれません。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小田原城

リンク、参考情報

妙印尼輝子
・「新田一族の戦国史/久保田順一著」あかぎ出版
・「戦国史-上州の150年戦争-」上毛新聞社
・「妙印尼輝子/浜野春保著」武蔵野書房
・「不落の城 新田金山城ガイドブック」群馬県太田市教育委員会
・「上野岩松氏(シリーズ・中世関東武士の研究 第15巻)/黒田基樹編」戒光祥出版
・「戦国の山城を極める 厳選22城/加藤理文 中井均著」学研プラス
・「企画展 越山、上杉謙信侵攻と関東の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館

「金山城その2」に続きます。

55.千早城~Chihaya Castle

典型的な日本の山城の原点
The origin of typical Japanese mountain castles

立地と歴史~Location and History

楠木正成の活躍~Activities of Masashige Kusunoki

楠木正成は14世紀に河内国(現在の大阪府東部)を根拠地とした有力武将でした。彼は最初は、中世に武士のための政権を担った鎌倉幕府に仕えていました。しかし、1331年に後醍醐天皇が幕府に反抗したとき、正成は天皇を助け、赤阪城で幕府と戦いました。ところが、この城は急ごしらえで、敵と戦うには不十分であったこともあり、正成は敗走せざるを得ず、そして姿をくらましました。天皇は幕府に捕らえられ、日本海の隠岐の島に配流されました。
Masashige Kusunoki was a great general based in Kawachi Province (what is now the eastern part of Osaka Prefecture) in the 14th century. He first worked under the Kamakura Shogunate, a government body for warriors in the middle ages, but when Emperor Godaigo was against the Shogunate in 1331, he supported the Emperor fighting with the Shogunate in Akasaka Castle. However, the castle was built in a hurry and wasn’t very strong enough to protect against enemies, so Masashige had to run away and disappear. The Emperor was caught by the Shogunate and brought to Okinoshima Island in Japan Sea.

楠木正成肖像画、狩野山楽筆、楠枇庵観音寺蔵~The portrait of Masashige Kusunoki, attributed to Sanraku Kano, owned by Nanpian Kannonji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
後醍醐天皇肖像画、清浄光寺蔵~The portrait of Emperor Godaigo, owned by Shojokoji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1333年、正成は雪辱を期し、上赤阪、下赤阪、そして千早といった城のネットワーク作りを開始しました。千早城は、その内で詰めの城の役割でした。この城は、河内と大和国(現在の奈良県)を結ぶ千早街道沿いにあり、日本の山岳修業の流派である修験道の場として知られた金剛山へ向かう途上にありました。そしてこの城は、全面を谷に囲まれた峰の上に位置していました。
In 1333, Masashige wanted to take revenge, so he started making his new network of castles: Kami-Akasaka, Shimo-Akasaka, and Chihaya. Chihaya Castle was the last one of the network. It was located alongside Chihaya Road connecting Kawachi and Yamato (now Nara Prefecture) Provinces, and
on the way to Mt. Kongosan which was known for the training of Shugen-do, i.e., Japanese mountain asceticism. The castle was also on one peak, surrounded by valleys on all sides.

城の位置~The location of the castle

千早城の模型、千早赤阪村郷土資料館蔵~The miniature model of Chihaya Castle, owned by Chihaya-Akasaka Folk Museum(licensed by Wikiwikiyarou via Wikimedia Commons)

千早城の戦い~Siege of Chihaya

正成と僅か千名の兵士からなる部隊は、千早城に籠城し、幕府の大軍から何回も攻められました。 これは千早城の戦いと呼ばれ、日本で最初の本格的な山城での戦いでした。幕府軍の武士たちはこのような戦いでどう攻撃してよいかわからず、陣地や攻めどころといった戦略や計画もなく、しゃにむに城に突進していきました。正成とその部下たちは、敵と戦うのに大抵は盾や矢を使ったのですが、更には岩、丸太、油と火、煮えた汚物までも使って幕府軍を撃退したのでした。また、夜襲をかけて、敵を更に疲弊させました。この籠城戦は3ヶ月間続きます。
Masashige, with his small army of one thousand soldiers, was besieged in Chihaya Castle, by the massive Shogunate troops several times. It is called Siege of Chihaya, and it is the first big battle to occur in a mountain castle in Japan. The shogunate warriors didn’t know how to attack in such a battle, so they straightaway charged the castle without any strategies or planning, with regards to position or location of attack. Masashige and his army mostly used shields and arrows in order to fight the enemies. In addition, they also used rocks, logs, oil and fire, and even boiled filth to repel the Shogunate. They also delivered night attacks to further tire the enemies. The siege lasted for three months.

千早城合戦図、歌川芳員筆、江戸時代、湊川神社蔵~The illustration of Siege of Chihaya, attributed to Yoshikazu Utagawa, in the Edo Period, owned by Minatogawa Shraine(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

籠城戦の間、後醍醐天皇は島を脱出し、幕府の配下を含む全ての武士たちに協力を求めました。そして足利尊氏や新田義貞といった幕府の有力な部将たちが天皇方についたのです。千早城を攻撃していた軍勢はそれを聞き、撤退していきました。ついに正成は勝利し、幕府は千早城の籠城戦が終わってからわずか12日後に滅びました。
During the siege, Emperor Godaigo escaped from the island, and requested all the warriors, even those that backed Shogunate, to support him. Some influential retainer of the Shogunate, such as Takauji Ashikaga and Yoshisada Nitta, took sides with the Emperor. The troops attacking Chihaya heard about it and withdrew. Finally, Masashige won and the Shogunate was destroyed in just 12 days after the Siege of Chihaya ended.

足利尊氏肖像画、浄土寺蔵~The portrait of Takauji Ashikaga, owned by Jodo-ji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正成と城の最期~End of Masashige and Castle

後醍醐天皇は建武の新政を始めますが、朝廷はすぐに後醍醐の南朝と、尊氏が別の天皇を立てて設立した北朝に分裂します。正成は最後まで後醍醐に仕えました。しかし、残念なことに1336年の摂津国(現在の兵庫県の一部)での湊川の戦いで尊氏に敗れてしまいます。千早城は正成の子孫により継承されますが、ついには1392年の北朝方の攻撃により落城しました。
Emperor Godaigo started Kenmu Restoration, but the kingdom was soon divided into his Southern Court and the Northern Court that Takauji established with another Emperor. Masashige followed Godaigo till the end, but was unfortunately defeated by Takauji in the Battle of Minatogawa, 1336 in Settsu Province (now part of Hyogo Prefecture). Chihaya Castle was kept by Masashige’s descendants, but eventually fell due to the attack of the Northern Court in 1392.

河内千破城図、湊川神社蔵~The illustration of Chihaya Castle, owned by Minatogawa Shrine(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特徴~Features

急坂を登る~Climbing Steep Slope

現在、千早城跡への入口は、いまだに金剛山への玄関口になっています。ここから急坂に沿った500段以上の石段を登っていかねばなりません。石段は元はなかったのですが、神社が建設されたときに一緒に作られました。山道は所々曲がりくねっていて、過去は敵を防げるようになっていました。
Now, the entrance to the ruins of Chihaya Castle is still the gateway for Mt. Kongosan. You have to climb up over 500 steps of stones along the steep slope. The steps were not there originally, instead they were developed when a shrine was constructed . The trail is partly zigzagged to prevent enemies in the past.

千早城跡入口~The entrance of Chihaya Castle Ruins
石段の急坂~The steep stone steps
曲がりくねっている山道~The zigzagged trail

城の中心部は神社に~Center of Castle becomes Shrine

20分程かけて150mの高さを登っていくと、この城では最も広い郭である第四郭にたどり着きます。そこから更に山の鞍部を通る通路を通って第三郭に至ります。この郭には神社の社務所や、城の記念碑があります。
After about 20 minutes of 150m high climbing, you will reach the Fourth Enclosure which is the roomiest space in the castle. You can go further the route on a saddle of the mountain to the Third Enclosure. The enclosure has the shrine office and the monument of the castle.

第四郭~The Fourth Enclosure
山の鞍部~The saddle part of the mountain
第三郭~The Third Enclosure
城の記念碑~The monument of the castle

第三郭の後は第二郭となり、正成を祀る千早神社が鎮座しています。第一郭がまた第二郭の背後にありますが、聖地として一般の立ち入りは禁止されています。第一郭にはかつては見張り台のような建物があったと考えられています。
Chihaya Shrine that worships Masashige is on the Second Enclosure in at the back of the Third Enclosure. The First Enclosure is also at the back of the Second Enclosure, but it is closed to visitors of the shrine as it is considered the sanctuary. It is thought that a building, like a watchtower, stood on the First Enclosure in the past.

千早神社~Chihaya Shrine
第一郭は立ち入り禁止~The First Enclosure is closed

残っているものはあるか?~Does something original remain?

神社からは脇道が分かれ出ています。その道から見下ろすと、何か腰曲輪のようなものがあります。これらは元からあったものなのでしょうか。第三郭と第四郭の間の鞍部に戻ると、神社への脇参道を使って、山から下りることができます。谷底の一つは林道になっていて、そこから見ると坂道がとても急になっていて、この城がいかに自然の地形をうまく活用しているかがわかります。
The side tail goes from the shrine. From the trail, you can look down at something like bounded enclosures. I wonder if they are original or not. If you go back to the saddle between the Third and Fourth Enclosures, you can go down from the mountain using the side pathway to the shrine. One of the valleys’ bottoms has become a forest road. When you look up at the mountain from the road, you can see how steep the slope is, and how well the castle used natural terrain.

腰曲輪のように見えます~They can look like bounded enclosures
自然の断崖~The natural cliff

その後~Later History

千早城は長い間放置されてきました。ところが、明治維新後、状況は劇的に変化しました。北朝の子孫である明治天皇がどういうわけか南朝が正統と決めたのです。正成は、歴史家の間では優れた戦略家として知られてきましたが、突然日本史上最も有名な人物に祭り上げられてしまったのです。第二次世界大戦まで、彼の戦略とイデオロギーは全ての国民を忠良な臣民として教育するために利用されたのです。その結果、1879年に千早神社が城跡の上に建設されました。
Chihaya Castle had been abandoned for a long time. However, after the Meiji Restoration, the situation dramatically changed. Emperor Meiji who was a descendant of the Northern Court decided that the Southern Court was orthodox for some reasons. Masashige, who had been recognized as a great strategist only popular among historians, suddenly transformed into the most famous historical figure. His strategies and ideologies were used to educate all the nations in Japan, which was to be loyal subjects, until World War ll. As a result, Chihaya Shrine was built on the castle ruins in 1879.

皇居外苑にある楠木正成の銅像~The statue of Masashige Kusunoki at Outer Gardens of the Imperial Palace(licensed by David Moore via Wikimedia Commons)

現在でさえ、多くの年配の日本人は正成は単に忠臣だと思っています。一方で、若者の間では彼の名前さえ知らない人もいます。最近では歴史家たちは彼個人について一部研究が進んでいますが、いまだに謎のままです。この地は1934年から国の史跡に指定されています。
Even now, many old people in Japan think Masashige is just a loyal retainer. On the other hand, some young people even don’t know his name. Historians are recently studying about him as some parts of his personality still remain a mystery. The site has been designated as a National Historic Site since 1934.

私の感想~My Impression

私は千早城は日本の典型的な山城の先駆けだと思うのです。なぜなら敵から守るために、自然の障壁を最大限活用していたからです。その後の武士たちはこの城とここでの戦いから多くを学んだに違いありません。神社がよく整備され、正成の名が不朽なものとして残るのはよいことですが、せめて第一郭に立ち入らせてもらえないでしょうか。自治体の方にも城跡を史跡として整備し、もっと本当の正成を人々に知ってもらうようにすることを望みます。
I think that Chihaya Castle is the forerunner of typical mountain castles in Japan, because it used natural hazard at maximum to protect from enemies. Later warriors must have learned a lot from the castle and the battle on it. I am pleased to see that the shrine are is well maintained and Masashige’s name is kept intact .I hope that the shrine will allow visitors to enter the First Enclosure, and that the local government will preserve the ruins really like a historic site to let so that people know more about real Masashige more.

第一郭を見上げる~Looking up the First Enclosure

ここに行くには~How to get There

車の場合、阪和自動車道美原南ICから約30分かかります。城跡の入口周辺にいくつか駐車場があります。
バスの場合、近鉄長野線富田林駅から、金剛バス千早線の千早ロープウェイ前または金剛登山口行きに乗るか、
南海高野線か近鉄長野線の河内長野駅から、南海バス窪田線の金剛山ロープウェイ前行きに乗ってください。
どちらのケースでも、金剛登山口バス停で降りてください。
By car, it takes about 30 minutes away from the Mihara-Mnami IC on Hanwa Expressway. There are several parking lots around the entrance of the castle ruins.
By bus, you can take the Kongo Bus on Chihaya Line bound for Chihaya-Ropeway-Mae or Kongo-Tozanguchi from Tondabayashi Station on Kintetsu Nagano Line, or take the Nankai Bus on Kobuka Line bound for Kongosan-Ropeway-Mae from Kawachi-Nagano Station on Nankai Koya Line or Kintetsu Nagano Line. Get off at the Kongo-Tozanguchi bus stop in both cases.

リンク、参考情報~Links and References

千早城 千早神社、千早赤阪村観光協会(Chihaya-Akasaka Village Tourism Association)
・「日本の城改訂版第103号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)
・「日本の攻城戦55/柘植久慶」PHP文庫(Japanese Book)