206.浦添城 その1

浦添城は、沖縄特有の城郭施設「グスク」のうち、大型のものの一つで、琉球王国成立までの歴史にも関わっています。この記事では、浦添城の歴史を、グスクの登場と琉球王国成立までの歴史と絡めながら説明していきます。

Introduction

浦添城は、現在の沖縄県浦添市にあったグスク(城)です。グスクとは、12世紀終わり頃から15世紀中頃にかけて築かれた、按司(あじ)と呼ばれた領主の城館及び地域の宗教・集落施設としても使われた場所のことです。奄美諸島から沖縄諸島、先島諸島にかけて、約300も築かれたと言われています。特に13世紀から14世紀(日本本土の鎌倉~南北朝~室町時代辺り)には、有力按司の居城として長大な石垣で囲まれた大型グスクが出現しました。日本本土で本格的に石垣を使って築かれた城は、戦国時代後半(16世紀後半)に登場しますので、それより200年以上も早かったことになります。しかも、グスクの石垣は琉球石灰岩を使い、優美な曲線を描いていて、日本本土の石垣とは、ルックスも随分異なっています。浦添城は、そのような大型グスクの一つで、琉球王国成立までの歴史にも関わっています。この記事では、浦添城の歴史を、グスクの登場と琉球王国成立までの歴史と絡めながら説明していきます。なお「琉球」という名称は、もともと中国人が命名した地域名で、琉球王国が支配した奄美・沖縄・先島諸島一帯を指すとされています。(「沖縄県の歴史」)

浦添城跡
代表的な大型グスクの一つだった、今帰仁城跡

立地と歴史

グスク時代と三王国の成立

沖縄は古代から夜光貝などの貝殻類の産地として知られていました。夜光貝を加工した螺鈿細工が、美術工芸品や建築の装飾に使われていたのです。当初その交易(「貝の道」と呼ばれた)は、当時日本の境界とされていた奄美諸島の喜界島周辺で活動していた商人たちが、担っていたのではないかという見解があります(「琉球史を問い直す」)。その時点では、沖縄の多くの人たちは、漁労・狩猟・採取を中心とした生活を送っていたと考えられていて、沖縄の時代区分として、11世紀頃までを貝塚時代と呼んでいます。

貝を加工して作られた貝匙(東京国立博物館ホームページから引用)

それが、11〜12世紀頃になってくると、貿易の恩恵が沖縄全体に及んできました。石鍋・陶器(亀焼、かむいやき)・鉄器が普及し、農業が普及し、生活レベルが向上しました。沖縄でも「グスク土器」が生産されるようになります。中国の宋王朝も積極的な貿易政策を取っていました。そして高価な中国製磁器が取引されるようになり、沖縄からは夜光貝や硫黄が輸出されました。貿易商人は、最初は中国・朝鮮・日本本土の人たちが中心でしたが、それに沖縄の人たちも加わるようになります。こうして、沖縄に「按司」と呼ばれるたくさんの有力領主たちが現れ、グスクを築きます。琉球王国が成立するまでの、この時代は「グスク時代」と呼ばれています。

14世紀になると、沖縄本島では有力な按司のもと、3つの王国が成立しました。
・北山(山北):本拠地 今帰仁城
・中山:本拠地 浦添城
・南山(山南):本拠地 島添大里(しましーおおざと)城
彼らの本拠地にもなった大型グスクの築造も、その動きに沿ったものと考えられます。これらの多くは高台に立地し、複数の郭から構成されていて、中心部は、儀式を行う正殿と、宗教的施設の御庭(うなー)から成り立っていました。

島添大里城跡

同じ頃、中国では明が建国されました。創立者の洪武帝は、反対勢力や倭寇を取り締まるために、「海禁」政策(私的な海外貿易や海外渡航の禁止)を実行しました。また、漢民族が再建した王朝の正当性(以前の「元」は異民族国家)を示すため、伝統的な儒教的秩序の確立を目指しました。そのため、日本を含む周りの国々に、宗主国(明)への朝貢を求めたのです(招撫使)。そして、1372年には中山王国に使節が送られました。三王国の中では最大勢力と見なされていたからと思われます。当時の王、察度は直ちにその弟を進貢使として明に派遣しています。続いて、1380年には南山王が、1383年には北山王も明への朝貢を始めました。この朝貢は、貿易とセットになっていたため、三国に莫大な利益をもたらしました。

洪武帝肖像画、国立故宮博物院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中山王国と浦添城

浦添城を本拠とした中山王国については記録が少なく、いつからどのように治められていたかは、後に作られた琉球王国の正史(「中山世鑑」など)しか文献史料がありません。それによると、3つの王統が統治しました。
1187年:舜天即位(3代継続)
1260年:永祖即位(5代継続)
1350年:察度即位(武寧までの2代、1390年には先島が帰順)
最初に即位した舜天は、日本本土から逃れてきた源為朝と、大里按司の妹との子とされています。そのこともあって、最初の王統は伝説上のものではないかと言われています。実在の可能性があるのは、次の英祖からで、考古学から考えられた浦添城の築城時期と重なっています。最後の察度は、中国側の記録にも現れているので、存在がはっきりしています。

源為朝を描いた江戸時代の浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実は正史では、これらの王は全て最初から首里城にいて、琉球は最初は統一されていたが、英祖王統4代目の玉城(たまぐすく)のとき三国に分裂したことになっています(下記補足1)。しかし歴史家の中では、最初から三国だったであろうという意見が多いです。また、中山王国の本拠地についても、歴史家で「沖縄学の父」と伊波普猷(いはふゆう)たちによって、浦添城の存在が明らかになりました。

(補足1)今の王城を首里城というのは、昔天孫氏が初めて天から降臨して、あまねく諸国を巡り、城を築く地を選ばれたところ、今の王城の地が最も優れていたので、初めて経営して城を築かれたから首里というのである。
舜天尊敦と申し上げるのは、大日本人皇五十六代の清和天皇の孫、六孫王より七世の後胤、六条判官為義の八男、鎮西八郎為朝公の男子であらせられる。
この時(玉城王)から世は衰え、政はすたれて朝勤会同の礼も日に日に衰え、内では思うままに女色に溺れ、外では狩猟に耽られたので、諸侯は朝廷に出仕する礼を取らず、国々の戦いが始まった。国は分かれて三つとなり、中山王、山南王、山北王と呼ばれた。(中略)中山というのは、首里の王城である。
(「訳注 中山世鑑」より)

伊波普猷 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浦添城跡にある伊波普猷の墓

浦添城は「浦添断層崖」と呼ばれる琉球石灰岩でできた崖の上に築かれました。頂上部は東西約4百メートルにわたって石積みの城壁に囲まれていました。城の北側は切り立った崖によって天然の要害になっていたので、南側に堀や張り出しの郭(土造り)を築いて防御を固めました。また、崖下を流れる牧港川が貿易港である牧港に通じていました。当時の沖縄では、北山の今帰仁城と並ぶ最大級のグスクだったのです。

浦添城の模型、浦添大公園南エントランス管理事務所に手展示

主郭部には、高麗系の瓦を使った正殿があり、外来の技術者が関わっていました。その前には御庭があり、周辺にも「ディークガマ」などの祈りの場所がありました。城の北側には王墓である「浦添ようどれ」が作られました。後の史書(「琉球国由来記」など)によれば、1261年に英祖王が造営しました。これも、現地の発掘調査による想定と一致しています。英祖王統の王たちが葬られている可能性がある墓室(西室)では、中世本土日本人の特徴がある頭蓋骨が発見され、もう一つの墓室(東室)では中国・東南アジア系人のDNAが検出されています。また、近くには琉球最古の寺院と言われる極楽寺が創建され、城の南側には人工池の「魚小堀(いゆぐむい)」が作られました。こういった城の構成は、後の首里城の原型になったと言われています。

再現された墓室(西室)、浦添グスク·ようどれ館にて展示

明との朝貢貿易は発展していました。明が琉球を優遇していたからです。他の国に対しては「勘合貿易」と言われるように、回数や場所を限っていましたが、琉球はほぼ自由でした(中山は35年間に40回、南山は50年間に35回、北山は33年間で15回)。それだけでなく、貿易船を貸し与えたり、「久米村」と呼ばれる実務者集団を派遣したりしました。これについては、明は新興国の「琉球」を「貿易商社」として使おうとしたとか、「倭寇」として活動していた勢力の受け皿にしようとした、倭寇情報の収集・監視役とした、日本に対する交渉の仲介役にしたなどの見解があります(「琉球史を問い直す」「琉球王国 東アジアのコーナーストーン」)。その結果、中国との交易を制限された国や勢力の間に琉球が入ることになり、ますます三王国が繁栄することになりました。1404年には、中国から冊封使が琉球に派遣され、中国皇帝が中山王・武寧が琉球国中山王として認める儀式が行われました。

「進貢船図」、沖縄県立博物館・美術館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
進貢船の模型、沖縄県立博物館・美術館にて展示
中国皇帝が琉球国中山王に与えた玉冠、那覇市歴史博物館にて展示

尚巴志による琉球統一、首里城への移転

15世紀になると、尚巴志により三山が統一され、琉球王国が成立します。尚巴志(生年:1372年~没年:1439年)は、南山王国の一部・佐敷城の按司でした。佐敷城は土造りの小さなグスクでしたが、その地は農業に適し、近くには良港(馬天、与那原)もありました。後世の史書(「球陽」など)によると、彼は身長が低く(五尺(約150cm)未満)で「佐敷小按司」と呼ばれたそうです。「小按司」が「尚巴志」という名の基になったのではないかという説があります。また、彼の刀を外国船が積んできた鉄塊と交換し、それを農具にして農民に与え、人望を得たという伝承があります。小領主ながら人心を掴める人物だったのでしょう。

佐敷城跡

尚巴志の琉球統一のストーリーですが、琉球王国の史書に、3つの異なった説が書かれているのです。
・中山世鑑(ちゅうざんせいかん):1650年成立、琉球王国初の正史
・蔡鐸本中山世譜(さいたくぼんちゅうざんせいふ):1701年成立、「中山世鑑」を修正
・蔡温本中山世譜(さいおんぼんちゅうざんせいふ):1725年成立、更に加筆修正
地元の伝承に基づいて書かれた最初の説を、中国の記録などを見ながら修正したらしいのです。現在の定説は、最後の説(蔡温本中山世譜)を基にしたもので、それをご紹介しますが、最初の説(中山世鑑)も捨てがたいので、異説として括弧書きで掲載します。

1402年、尚巴志は近くの島添大里城を攻撃・占領し、そこに本拠を移しました。この城は南山王国の本拠地とされていましたが、1429年まで明に朝貢を行っていることなどから、別の場所(島尻大里城か)に本拠が移ったと解釈されています。当時、南山王国では中山との抗争や内紛が起きていて(下記補足2)、尚巴志はその混乱に乗じたのかもしれません。(異説:尚巴志が島添大里城に移ったときに南山王になった、南山は尚巴志による傀儡政権になったとする歴史家もいます。)尚巴志の次のターゲットは、南山ではなく、中山の本拠地・浦添城でした。1406年、尚巴志軍に対し、当時の中山王・武寧は呆気なく降伏しました。そして尚巴志は父親の恩紹を中山王としました(異説:11421年に中山を倒し、尚巴志が中山王になった)。史書によると、武寧は周りの按司たちの支持を失っていたとされます。しかし、恩紹が1409年に朝鮮に使者を送ったときの記録によると、敵対勢力を鎮圧するのに数年を要したことが伺えます(下記補足3)。

(補足2)
朝鮮に在逃する山南王子承察度の発回(「李朝実録」太祖3年(1394年)中山王察度の願い出)
山南王温沙道(おんさどう)が中山王に追われ来たりて晋陽に寓す(「李朝実録」太祖7年(1398年)中山王察度の願い出)
是れより先、(先王の)応祖は兄達勃期(たぶち)に弑される所と為る。各塞官兵を合わせて、達勃期を誅し、他魯毎(たるみー)を推して国事を摂らしむ(「明実録」永禄13年(1415年)山南王世子他魯毎が明皇帝にあてた奏文)

(補足3)武寧が死んだ後、各按司が争いを起こし連年遠征をしていたため、使者を派遣するのが遅れた(「朝鮮太宗実録」、訳は「尚氏と首里城」より)

そして尚巴志は1416年(北山最後の進貢の翌年)、最大の敵・北山王国と対決、これを倒しました。(異説:1422年に北山を倒しこの時点で琉球統一)1421年には父から王位を継ぎ、1429年に南山王国を制圧し、ついに三山統一を果たしました(異説:すでに統一済み)。琉球王国の成立です。この間、尚巴志は本拠地を浦添から首里に移したと考えられています。現存する琉球最古の石碑「安国山樹華木之記碑」が1427年に作られ、城の周辺に人工池(龍潭)を作り、花木を植え、太平の世の記念としたことが記されています。かつての浦添城の姿が再現されたのでしょう。首里城は、以前の中山王国のときから支城として使われたと考えられていますが(「京の内」の範囲)、尚巴志が本拠とした大きな理由は、近くの那覇港の存在がありました。サンゴ礁に囲まれた沖縄は、大型船が安全に停泊できる港は、当時那覇港と運天港(今帰仁城の近く)くらいでした。尚巴志の政権は、貿易を司る「久米村」との結びつきも強めていました。城の範囲は、現在「内郭」とされる瑞泉門から内側であったとされています。尚巴志の王統(第一尚氏)は6代続きました。

龍潭から首里城の眺め
首里城の模型、首里杜館(首里城公園レストセンター)にて展示

主のいなくなった浦添城は、荒れ果てた状態になったという記録があります(下記補足4)。しかし一方で尚氏(尚巴志の王統である第一尚氏)は、王墓である浦添ようどれを改修したと考えられています。自分たちが正当な王権を継ぐ者であることを示そうとしたのでしょう。墓室である洞窟内にあった瓦葺きの建物が撤去され、中国産の石(輝緑岩)で作られた石棺墓を設置しました。そこには沖縄最古とされる仏教彫刻が刻まれています(第二尚氏の尚真、または察度王統の時代の可能性もあり)。

(下記4)城毀壊し、宮殿荒蕪して、瓦廃れ垣崩れ、鞠りて荒野と為る(「球陽」)

石棺に刻まれた仏教彫刻、浦添グスク·ようどれ館にて再現されたもの

その後

その後、琉球王朝は尚巴志とは違う王統の第二尚氏によって引き継がれましたが、その3代目の尚真王の子・尚威衡(しょういこう)が1524年に浦添城に移り住み、浦添尚家となりました。浦添城もその本拠として再整備されました。やがて尚家本家に跡継ぎがいなくなると、1589年に尚威衡のひ孫・尚寧(しょうねい)が王位を継ぎました。尚寧は首里城に移りましたが、浦添城には出張機関(浦添美御殿)を残し、両城の間を石畳の道で結びました。

復元整備された石畳道

ところが1609年、琉球王国は薩摩の島津氏の軍による侵攻を受けてしまいます。島津軍は読谷海岸に上陸し、浦添城の屋敷や城下の寺の焼き討ちを行いました。そして、尚寧が作った石畳道を通って、首里城に迫ったのです。城を包囲された尚寧は降伏し、琉球は薩摩藩の支配下に入りました。尚寧王が亡くなると、その亡骸は浦添ようどれに葬られました。2つある墓室のうちの一つ(東室)が、そのとき作られたものとされています(察度王統によるものではないかという意見もあります)。ようどれはその後、御墓番(比嘉家など)によって守られていました。

浦添ようどれの案内パネル、左側の墓室が尚寧王陵
戦前の浦添ようどれ、現地案内パネルより

そして1945年の沖縄線では、浦添城にとって最大の悲劇が起こりました。米軍は読谷海岸に上陸し、日本軍司令部があった首里を目指して南下しました。そのとき激戦があったのが、崖上にあった城跡に設置された陣地「前田高地」です(米軍は「ハクソー・リッジ」と呼称)。12日間にわたる戦闘で、浦添ようどれを含む城跡はほぼ壊滅しました。何よりも日米両軍兵士だけでなく多くの住民も犠牲となったのです。

壊滅した浦添ようどれ、現地案内パネルより

戦後、城跡は採石場となり、ますます城跡の荒廃が進みました。1955年になって、当時の琉球政府がわずかに残った墓室の修復を始めました。その後公園用地となり、1989年には国指定史跡になりました。それを受けて浦添市は発掘調査を行い、2005年には浦添ようどれの復元を行いました。現在は浦添城の復元を目指した調査や整備を行っています。

復元された浦添ようどれ、現地案内パネルより

「浦添城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

199.座喜味城~Zakimi Castle

悲劇のヒーロー、護佐丸の城
A tragic hero, Gosamaru’s castle

立地と歴史~Location and History

護佐丸が作った~Gosamaru built it

座喜味城は、琉球諸島(現在の沖縄諸島)周辺に300以上築かれた「グスク」を呼ばれた大規模な要塞の一つです。沖縄本島西海岸の近く、高さ120mの丘の上に築かれました。そのため、この城は非常に戦略的な位置にあり、この島と海を広範囲に見渡すことができます。また、この城は誰がいつ築いたのか明確である数少ないグスクの一つなのです。
Zakimi Castle was one of the over 300 large-scale fortresses called “Gusuku” around the Ryukyu Islands (what is now Okinawa Islands). It was located on a 120m high hill near the western coast of the mid Okinawa Island. That’s why the castle had a very strategic location where wide views of the island and sea can be seen. It is also one of the few Gusuku which people know when and who built it.

城の位置~The location of the castle

「按司」と呼ばれた有力な領主の一人、護佐丸が15世紀初頭に最初にこの城を築きました。それ以前は、彼は別のグスク、山田城に住んでおり、後の琉球王国となる中山王国に仕えていました。1416年、中山王国が北山王国を倒した時、彼は多大な貢献をしました。その後、彼は北山(沖縄本島北部)守護職に任命されました。一方彼は新しい本拠地として座喜味城の築城を始めたのです。
One of the powerful lords called “Aji”, Gosamaru first built the castle in the first 15th century. Before that, he lived in another Gusuku called Yamada Castle, and worked under the Chuzan Kingdom, the later Ryukyu Kingdom. He made a significant contribution when the Chuzan Kingdom beat the Hokuzan Kingdom in 1416. After that, he was appointed as the military governor of the Hokuzan Region (the northern part of Okinawa Island), while he started to build Zakimi Castle as his new home base.

今帰仁城、北山王国の首都~Nakijin Castle, the capital of the Hokuzan Kingdom

護佐丸名を揚げる~Gosamaru made his mark

この城の下にある丘は、岩盤ではなく軟弱な地盤でした。しかし護佐丸は、美しい高石垣を伴う強力な城を築くことに成功したのです。この工事により、彼は勇猛な将軍としてだけではなく、優れた築城家としても知られるようになりました。彼は1422年にこの城に移り、18年間在城しました。貿易の統制を含め、この城の周辺地域を支配していました。
The hill under the castle was soft ground, not rocky, but Gosamaru succeeded in building a strong castle with beautiful, high stone walls. This construction made him a great castle builder as well as a brave general. He lived in Zakimi Castle for 18 years since moving to it in 1422. He governed the area around the castle, while controlling the trading near the castle.

座喜味城の石垣~The stone walls of Zakimi Castle

1440年、琉球王国は護佐丸に対して、座喜味城の東にある中城城に移るよう命じました。王国に対抗して力をつけていた別の有力按司、阿麻和利が島の東海岸にある勝連城にあったからです。護佐丸は、現在我々が素晴らしい城跡として見ているように、中城城をも改築したのです。彼はまた、王国の親戚筋にもなり、緊密に連携していました。
In 1440, the king of Ryukyu Kingdom ordered Gosamaru to move to Nakagusuku Castle, located east of Zakimi Castle, as another great Aji, Amawari, who lived in Katsuren Castle located in the eastern coast of the island, grew in strength against the Kingdom. Gosamaru also improved Nakagusuku Castle like we can now see the great ruins of the castle. He also became a relative of the Kingdom to work closely with it.

護佐丸が改築した中城城~Nakagusuku Castle which Gosamaru improved
阿麻和利がいた勝連城~Katsuren Castle which Amawari owned

護佐丸非命に倒れる~Gosamaru dies unnatural death

ところが、護佐丸は王国への反逆者とみなされてしまい、1458年に阿麻和利によって滅ぼされてしまいます。阿麻和利から攻撃されたとき、護佐丸は自身への疑いのことを聞き、嘆き悲しんで、阿麻和利と戦うことなく自ら命を絶ったといいます。阿麻和利が王国と護佐丸を騙したのだと言われていますが、詳細は不明です。発掘によれば、護佐丸が去った後の座喜味城は、16世紀まで使われたとのことです。
However, Gosamaru was considered a rebel against the Kingdom, and beaten by Amawari in 1458. When Amawari attacked, Gosamaru heard the doubt about him, felt very sad, and killed himself without fighting with Amawari. It is said that Amawari deceived the Kingdom and Gosamaru, but the details are uncertain. Zakimi Castle after Gosamaru left, was used until the 16th century, according to the excavation.

座喜味城~Zakimi Castle

特徴~Features

石垣の特徴~Features of stone walls

現在、座喜味城跡はよく整備され、また維持されています。この城にはもともと2つの曲輪しかなかったので、場所自体はそんなに広くありません。主には石垣が残っていますが、最高で13mの高さがあり、とても美しく見えます。曲線を描く石垣が、頂点部分でつながり、扇状に広がっています。このような形状は、軟弱な地盤を補い、頂点の部分は見張りや防御地点として使われたと言われています。それぞれの曲輪にはアーチ型の門があり、他の石をつなぎ合わせるために楔形の石が使われています。この方法は珍しい方法で、このため沖縄のグスクの中では、座喜味城の門は最も初期段階のアーチ門であると考えられています。
Now, the ruins of Zakimi Castle are well developed and maintained. The site is not so large, because the castle originally had just two enclosures. The stone walls mainly remain and look very beautiful with at highest 13m height. They are curved walls jointed by their apexes, spreading fan-wise. It is said that such a shape can cover the soft ground, and the apexes could be used as the points for monitoring and protecting. Each enclosure has an arch-shaped gate which uses a keystone connecting other stones. It is a unique method and Zakimi castle gates are thought to be the first case for arch-shaped gates among Okinawa’s Gusuku.

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

美しく屈曲している石垣~The beautiful curved stone walls
楔石を使ったアーチ型門~The arch-shaped gate using a keystone
城跡の入口~The entrance of the ruins

二の郭~Second Enclosure

城跡の入口に入って、石垣に囲まれた二の郭の門の方に歩いていきます。このアーチ門は現存しているもので、修復がなされました。郭に入ると、内側から美しい曲線からなる石垣が目に入ります。それから一の郭へと続く石段とアーチ型の門も見えてきます。一の郭の門は一旦破壊され、石段も埋められてしまいますが、両方とも現在では復元されています。
You can enter the entrance of the ruins and walk to the gate of the Second Enclosure, surrounded by the stone walls. Its arch shaped gate is the original and has been repaired. After entering the enclosure, you will see the beautiful curved shape of the stone walls from the inside. You can also see the stone steps to the First Enclosure and its arch shaped gate. The gate was once destroyed, and the steps were buried, but now both have been restored.

二の郭の入口~The entrance of the Second Enclosure
二の郭の内部~The inside of the Second Enclosure
一の郭から見た二の郭~The Second Enclosure from the First Enclosure
一の郭へ続く門~The gate to the First Enclosure

一の郭~First Enclosure

一の郭の内側は、二の郭と似た形ですが、礎石を伴った建物跡があります。もとあった建物は、瓦の破片が見つかっていないため、杮葺きか萱葺きであったようです。一部分の石垣の上には登ることができますので、東の方には島の、西の方には海の素晴らしい景色を眺めることができます。
Inside the First Enclosure, its shape is similar to the Second Enclosure. It has the ruins of buildings with cornerstones. The original buildings seemed to have a shingled or thatched roof, because pieces of roof tiles were not found. You can also go up to part of the top of the stone walls, then you will have a great view of the island on the east, and that of the sea on the west.

一の郭の内部~The inside of the First Enclosure
建物跡~The ruins of the buildings
一の郭からの海の眺め~A view of the sea from the First Enclosure
一の郭からの島の眺め~A view of the island from the First Enclosure

その後~Later History

座喜味城は長い間放置されてきました。第二次世界大戦の間、城跡は日本陸軍により高射砲陣地として使われていました。戦後になってさえ、米軍によってレーダー基地として再度利用されたのです。これは城跡がまだ戦略的に重要な場所にあったと言えるのかもしれません。しかし工事により遺跡の一部は破壊されてしましました。1972年の沖縄日本返還の後は、直ちに国の史跡に指定されました。ついには、2000年から琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録されています。
Zakimi Castle had been abandoned for a long time. During World War II, the ruins were used by the Japanese Army as the ground for anti-aircraft guns. Even after the war, they were reused by the U.S. Military as a radar station. That might show the ruins still had a strategic location, but part of stone walls were destroyed due to the construction. The ruins were designated as a National Historic Site immediately after the reversion of Okinawa to Japan in 1972. Lastly, they have also been on the World Heritage List as Gusuku Sites and Related Properties of the Kingdom of Ryukyu since 2000.

1957年の座喜味城跡、沖縄県公文書館蔵~The picture of ruins of Zakimi Castle in 1957, owned by Okinawa Prefectural Archives(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

私の感想~My Impression

初めて座喜味城を訪れたとき、城の石垣が完全に復元、修復されていることに驚きを感じました。この城の美しい曲線状の姿は完ぺきに沖縄の景色にマッチしています。また、城跡のとなりにあるユンタンザミュージアムに行ってみるのもお勧めです。この城のことをもっと知るともに、周辺の地域の歴史や文化を学ぶことができます。
When I saw the ruins of Zakimi Castle for the first time, I was surprised to see the stone walls have been completely restored or repaired. Their beautiful curved appearance perfectly matches the scenery of Okinawa Island. I also recommend you to visit Yuntanza Museum next to the ruins. You can learn more about the castle as well as the history and culture of the area around the castle.

石垣の曲線~The curved stone walls

ここに行くには~How to get There

ここに行くには車がお勧めです。
那覇空港から:
車の場合、那覇空港自動車道に名嘉地ICから入り、西原JCTで沖縄自動車道に合流し、沖縄南ICで降りてください。城跡はそこから30分程かかりますが、城跡周辺に駐車場があります。
I recommend you to visit it by car.
From the Naha Airport:
By car, enter Naha Airport Expressway at the Nakachi IC, join Okinawa Expressway at the Nishihara JCT, and get off the expressway at Okihawa-minami IC. The ruins are about 30 minutes away from the IC. There are parking lots around the ruins.

リンク、参考情報~Links and References

世界遺産座喜味城跡、ユンタンザミュージアム(Yuntanza Museum)
萩原さちこの城さんぽ 第10回 座喜味城(Only Japanese)
・「列島縦断「幻の名城」を訪ねて/山名美和子著」集英社新書(Japanese Book)

98.今帰仁城~Nakijin Castle

沖縄北部の優美な城跡です
Elegant castle ruins in the northern Okinawa

立地と歴史~Location and History

北山王国の首都~Capital of Hokuzan Kingdom

14、15世紀頃、琉球諸島(現在の沖縄諸島)は貿易により栄えました。その結果、「按司」と呼ばれる多くの有力な豪族が中国や他国と貿易を行い、力をつけていきました。彼らは「グスク」と呼ばれる大規模な要塞を琉球諸島周辺に300以上築きました。やがて「北山」「中山」「南山」のという3つの王国にまとまっていきます。今帰仁城は北山王国の首都でした。
Around the 14th and 15th centuries, the Ryukyu Islands (what is now Okinawa Islands) prospered thanks to trading. As a result, many powerful clans in Ryukyu called “Aji” traded with China and other countries, and had great power. They built over 300 large-scale fortresses called “Gusuku” around the Ryukyu Islands. They eventually gathered three large groups called the Kingdoms of “Hokuzan”, “Chuzan”, and “Nanzan”. Nakijin Castle was the capital of the Hokuzan Kingdom.

城の位置~The location of the castle

発掘の成果によれば、この城は最初は14世紀の初め頃、沖縄本島北部の本部半島にある、100mの高さの丘の上に築かれました。しかし当初は丘の上の平地を柵で囲っただけだったようです。その後、北山王国の勢力が高まるにつれ、城は拡張され、15世紀までに正殿や長大な高石垣が築かれました。中国の古書には、この城や王国から中国への朝貢があったことが記録されています。当時の中国製陶器の破片が遺跡から発掘されています。
According to the excavation, the castle was first built on a 100m high hill in Motobu peninsula of the northern Okinawa Island around the beginning of the 14th century, but it was just plane area on the hill which was surrounded by fences. After that, the castle was developed with the main palace and long, high stone walls being built until the 15th century, while the power of the Hokuzan Kingdom grew. An old Chinese book records the castle and the kingdom bringing a tribute to China. Peaces of Chinese potteries at that time are also unearthed from the ruins now.

現地にある城跡の模型~The miniature model of the castle ruins at the site

2度の落城~Castle fell twice

最盛期にはこの城は、後に琉球王国になる中山王国の首都にある首里城に匹敵する規模となりました。ところが、城はそこから2度落城します。1416年、中山王国の家臣である護佐丸がこの城を攻撃しました。最後の城主、攀安知(はんあんち)は城外で護佐丸と戦いますが、彼の部下である本部平原(もとぶていはら)の裏切りに合い敗れてしまいます。それ以来、城は琉球王国のものとなり、島の北部を治めるために「監守」と呼ばれる行政官が置かれました。
At its peak time, the castle became as large as Shuri Castle, the capital of the Chuzan Kingdom, the later Ryukyu Kingdom. However, the castle fell twice after the peak. In 1416, a retainer of Chuzan Kingdom, Gosamaru attacked the castle. The last lord of the castle, Han-annchi fought with Gosamaru outside the castle, but his retainer, Teihara Motobu betrayed him, and he was lastly beaten. Since then, Ryukyu Kingdom owned and stationed an administrator called “Kanshu” in the castle to govern the northern part of the island.

監守の業績を記した記念碑~The monument for the achievements of Kanshu

1609年、薩摩の武士たちが琉球王国に侵攻したとき、真っ先にこの城を占領し焼き払いました。侵攻後、王国は薩摩の支配下に置かれますが、この城には領主は置かれませんでした。その代わりに沖縄の人々が城を祈りの地として維持したのです。
In 1609, when the Satsuma warriors invaded Ryukyu Kingdom, they first captured and burned the castle. The kingdom was under the control of Satsuma after the invasion, but the castle had no lord. Instead, the people of Okinawa maintained the castle as a spiritual center.

祈りの場所の一つ、城内下之御嶽(うたき)~Jonai Shitano-Utaki, one of the places for praying

特徴~Features

城跡に入る~Entaring the castle ruins

現在、今帰仁城跡は素晴らしい景色と自然の中に位置しています。城跡の近くには便利な施設もあります。グスク交流センターでは、城跡へのチケットを買ったり休憩することができます。また、歴史文化センターでは、城やその周りの地域のことをより深く学ぶことができます。
Now, the ruins of Nakijin Castle are located in wonderful views and nature. There are also useful facilities near the ruins. One of them is the Gusuku Exchange Center where you can buy a ticket to the ruins and rest. The other is the History & Culture Center where you can learn more about the castle and the area surrounding it.

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castl

城跡の入口に歩いていくと、見事な曲線を描いた高石垣が目に入っていきます。この石垣は大隅(ウーシミ)の城壁と呼ばれ、高さが8mあり、この城の中では最も高いものです。城の守備兵は、曲線の頂点部分から敵に対して反撃することができました。城跡ガイドの方は、この石垣は中国の万里の長城に影響されていると説明しています。観光客は、現在石垣の脇にあるアーチ門を通って城跡に入っていきます。この門は1962年に復元されたものです。
When you walk to the entrance of the ruins, you will see finely curved high stone walls. They are called Ushimi Stone Walls and 8m high, the highest ones in this castle. The defenders of the castle could counterattack enemies from the top of the curve. The Guides of the ruins say that the walls were inspired by the Great Wall of China. Visitors will now enter the ruins through the arch gate beside the stone walls which was restored in 1962.

大隅(ウーシミ)の城壁~Ushimi Stone Walls
遺跡入口のアーチ門~The arch gate at the entrance

石の階段が城の中心部に向かって伸びていますが、これは最近になって観光用に作られたものです。旧道が階段の右側に沿って残っています。敵からの攻撃から守るため、狭く、急で、岩がごつごつした道になっています。
The stone steps go straight to the center of the castle, but they were built recently for tourism. The Old Pathway goes along on the right side of the steps. It is a narrow, steep and rocky path for defense against attacks in the past.

石段~The stone steps
旧道~The Old Pathway

城の中心部~Center of Castle

城の中心部は3つの部分に別れています。「大庭(ウーミャ)」は入口に最も近い場所であり、行事の際に使われた広場です。行事のために正殿、北殿、南殿といった建物がありました。次の場所は、「御内原(ウーチバル)」で城で奉仕する女性たちが住んでいました。ここはまた城の中では神聖な場所でした。現在では、ここから北の方角に素晴らしい海の景色が望めます。最後は「本丸」で、恐らくは城主が住んでいた場所です。発掘によっていくつもの建物があったことがわかっています。
The center of the castle has three parts. “Umya” Court is the first part from the entrance, which is was used as the square for ceremonies. There were the Main, North, and South Palaces for the ceremonies. The next part is called “Uchibaru” Ground where the women who served the castle lived. It is also a very religious place for the castle. You can now have a great view of the sea in the northern direction. The last part is the Main Enclosure or “Honmaru” where the lord of the castle probably lived. The excavation found that several buildings had been built.

大庭(ウーミャ)~“Umya” Court
御内原(ウーチバル)~“Uchibaru” Ground
御内原からの眺め~A view from “Uchibaru” Ground
もう一枚~Another view
本丸~The Main Enclosure

背後にある郭~Enclosure in Back

中心部からは、城の背後の部分が見え、そこに行くこともできます。「志慶真門郭(しげまじょうかく)」と呼ばれる場所で、ここもまた、長大な石垣に囲まれています。城主に仕える人たちが住んでいたと考えられています。この郭に降りていくときには、古石灰岩でできた石垣を間近に見ることができます。
You can see and go to the back of the castle from the center. This is called “Shigema-jokaku” Enclosure which is also surrounded by high, long stone walls. It is thought that the closest subjects who served the lord lived at the enclosure. You can also see the walls made of Paleozoic lime stones closely when you go down to the enclosure.

本丸から見た城の背後部分~The back of the castle from the Main Enclosure
志慶真門郭(しげまじょうかく)~“Shigema-jokaku” Enclosure
石垣~The stone walls

その後~Later History

第二次世界大戦で破壊された他の遺跡と異なり、今帰仁城跡は今に残りました。沖縄戦の戦場からは遠かったからです。戦後、城跡は1972年に国の史跡に指定されました。ついには、2000年から琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録されています。
The ruins of Nakijin Castle remained though many other ruins were destroyed during World War II, as they were far away from the battlefields of Okinawa. After the war, they were designated as a National Historic Site in 1972. Lastly, they have also been on the World Heritage List as Gusuku Sites and Related Properties of the Kingdom of Ryukyu since 2000.

今帰仁城跡の正面~The front side of Nakijin Castle Ruins

私の感想~My Impression

私が初めて今帰仁城の石垣を見たときは、ただ単に石を積んであるだけのように見えました。日本の本土にある石垣は通常土か細かい石の芯の部分を覆って築かれます。その一つの理由は本土は地震が多く発生するので、石垣は強固な中心部分が必要だからでしょう。沖縄にはあまり地震がありませんが、雨が多く降ります。今帰仁城のような沖縄の城の石垣は雨を素通りさせます。後からその違いの理由を学びました。いすれにせよ、素晴らしい石垣を持つこの城跡は、沖縄の自然とよくマッチしています。
When I saw the stone walls of Nakijin Castle for the first time, they looked like the stones are just piled simply. This is because stone walls in the Mainland of Japan are were usually built covering their core of soil or small pieces of stone. One of the reasons for it this is that the Mainland often suffers from earthquakes, so stone walls needs a strong core. On the other hand, Okinawa has few earthquakes, but has a lot of rain. The stone walls of Okinawa’s castles like Nakijin can make rain slip through. I learned the reason for the difference later. Anyway, I think the ruins with elegant stone walls match the nature of Okinawa.

今帰仁城の石垣~The stone walls of Nakijin Castle

ここに行くには~How to get There

ここには車で行かれることをお勧めします。
那覇空港から:
車の場合、那覇空港自動車道に名嘉地ICから入り、西原JCTで沖縄自動車道に合流し、許田ICで降りてください。城跡はそこから30分程かかり、城跡周辺に駐車場があります。
バスの場合は、運天港行きのやんばる急行バスに乗ってください。空港から約2時間半かかりますが、城跡近くの今帰仁城址入口バス停で降りてください。
I recommend you to visit it by car.
From the Naha Airport:
By car, enter Naha Airport Expressway at the Nakachi IC, join Okinawa Expressway at the Nishihara JCT, and get off the expressway at Kyoda IC. The ruins are about 30 minutes away from the IC. There are parking lots around the ruins.
By bus, you can take the Yanbaru Express Bus bound for Unten Port. It takes about 2.5 hours from the airport to the Nakijin-joshi-iriguchi bus stop near the ruins.

リンク、参考情報~Links and References

世界遺産 今帰仁城跡(Officisl Website)
・「列島縦断「幻の名城」を訪ねて/山名美和子著」集英社新書(Japanese Book)
・「琉球王国、東アジアのコーナーストーン/赤嶺守著」講談社(Japanese Book)