66.津和野城 その2

壮大な石垣が山上に残っています。

特徴、見どころ

町並みを見ながら城跡へ

現在、多くのビジターが津和野町への旅を楽しんでいます。もちろん津和野城跡もその中に含まれます。車でも電車でも町に近づいていくと、石州瓦と呼ばれる赤褐色の瓦を葺いた家並みが見えてきます。この瓦は寒冷な気候でも丈夫であるという特徴を持っています。それとともに、町の傍らの山の上に壮大な石垣があるのも見えてきて、石州瓦で彩られた町とよいコントラストを醸し出しています。

電車の車窓からの眺め

もし電車で来られた場合は、山麓に位置する城跡の入口は、津和野駅から約1.5km離れたところにあります。駅から城跡まで歩いたとしても、その途中に元城下町だった町を歩くこと自体が、楽しい旅の一部となるでしょう。城跡の入口周辺は、領主の御殿が建てられていた場所ですが、現在では津和野高校となっています。また、御殿の庭園は広場となっています。御殿にあった2つの櫓(馬場先櫓と物見櫓)のみが現存しています。

城周辺の起伏地図

津和野高校
かつて御殿の庭園があった場所(喜楽園)
現存する馬場先櫓
現存する物見櫓

出丸を通って城跡中心部へ

城跡がある山上は、山麓から約200mの高さがあります。よって、津和野町が運営しているリフトに乗っていくのが効率的かもしれません。リフトに乗れば数分で山の上に行けますが、その途中では急峻な地形や、山上へ歩いて登るための道が見えます。

山上に向かうリフト
歩いて登るための山道が見えます

リフトの降り場からは、城跡上の通路を歩いて頂上の方に向かいます。まず最初に、城の中心部から少し離れている、物見のために使われた出丸に着きます。現在は石垣しかありませんが、地域一帯の素晴らしい景色を眺めることができます。次には、オリジナルの通路が危険なのか発掘中であるためか、仮設通路で中心部に向かいます。

城周辺の航空写真

リフト乗降場から城跡へ
出丸入口
出丸内部
出丸からの眺め
仮設通路で城跡中心部へ

石垣を苦労して維持

城の中心部にも建物はありませんが、今でも壮大な石垣に囲まれています。一部の石垣は崩れていて、更なる崩壊を防ぐためにシートで覆われています。これは、1997年の北部山口地震とそれに続く豪雨により発生しました。

城周辺の地図

東門跡に向かいます
一部崩れている石垣

ビジターは通常、ここでも仮設の階段を登って、東門跡から入っていきます。右側には三段石垣がありますが、過去にはその上に三段櫓が建てられていました。下段の部分は崩壊防止のためのネットが張られています。他の二段は1972年に積み直されました。津和野の人たちは今でも石垣を維持するために大変な努力をしているのです。

仮設階段
三段石垣

頂上部を囲む三の丸

三の丸には西側と南側に門跡があり、城の頂上部をベルトのように囲んでいます。西櫓門跡に行ってみると、数えきれない程の石州瓦の破片が散らばっているのが見えます。恐らく門にあった建物で使っていたものでしょう。破片であっても国の史跡の一部分であるため、持ち帰ってはいけません。

西櫓門跡
無数の石州瓦の破片

南門跡は、山の峰の端部分にあり、すぐ下は急崖になっています。ここに立ってみると少し怖い気がするかもしれません。この辺りの石垣は城の中でも一番古く、坂崎直盛が築かせたものです。

南櫓門跡に向かいます
南櫓門跡
石垣は城では最も古いものです
門跡の下は急崖になっています
門跡からの眺め

南櫓門跡から振り返ってみると、人質櫓の櫓台石垣が目に入ってきます。この城で一番高い石垣であり、隅部分のカーブのラインがとても美しいです。しかし、名前の通り人質を留めるためにこの櫓が使われていたとすれば、この石垣は孤立して築かれているので、人質たちはとても逃げられなかったでしょう(しかし、少なくとも江戸時代には、その用途では使われなかったようです)。

南櫓門跡から振り返ったときの風景
人質櫓の櫓台石垣
美しい姿をしています

「津和野城その3」に続きます。
「津和野城その1」に戻ります。

94.大分府内城~Oita-Funai Castle

大分府内城は、現在はビル街の中にありますが、かつては海城だったのです。
Oita-Funai Castle is among the modern buildings now, but was a sea castle.

大分府内城の西南隅櫓と二ノ丸堀~Seinan-Sumi-Turret and Ninomaru-Moat of Oita-Funai Castle (taken by TECHD from photoAC)

立地と歴史~Location and History

大分市は大分県の県都です。府内は大分市の以前の名前です。つまり「大分府内」という名前は新旧両方の名前が組み合わさったものです。府内も同じように豊後国(大分県の以前の名称)の国府であり、中世においては長い間大友氏によって統治されました。大友氏は、大友氏館に住んでいましたが、そこは大分府内城とは違う場所です。その館は中世の典型的は領主館で、恐らく足利氏館と同じようなものだったでしょう。
Oita City is the capital of Oita Prefecture. Funai is the former name of the city. So, the name “Oita-Funai” is combined from both of new and old names. Funai was likewise the capital of Bungo Province (the former name of Oita Pref.) governed by the Otomo clan for many years in the Middle Ages. They had been living in the Otomo Clan Hall which is different from Oita Funai Castle. It was a typical hall for a lord in the Middle Ages probably like the Ashikaga Clan Hall.

大分府内城と大友氏館の位置関係~The location of Oita-Funai Castle and Otomo clan hall)

大友氏館庭園遺構~The ruins of the Otomo clan hall’s garden(出典:文化庁)

府内の城下町は、館を中心に繁栄しましたが、戦国時代としては防御力が不足していました。1586年に島津氏の侵攻があり、館を含む市街地は焼き尽くされてしまいます。当主の大友宗麟とその息子義統は、その一族の危機の間他所に避難を余儀なくされました。彼らは天下人の豊臣秀吉からの助けにより何とか生き延びましたが、宗麟の死後、義統は秀吉により改易されました。
The Funai castle town flourished around that hall, but it had weak defenses in the Warring States Period. In 1586, Shimazu clan’s invasion happened. The city including the hall was burned out . The master, Sorin Otomo and his son Yoshimune had to escape to another place, during the destruction of the clan. They could somehow survive due to the help from the ruler, Hideyoshi Toyotomi. However, Yoshimune was fired by Toyotomi after Sorin passed away.

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵~The portrait of Sorin Otomo, owned by Zuihoin(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして秀吉は彼の配下である福原直孝を、1597年に府内の領主とて派遣しました。直孝はもっと安全な城が必要と考え、荷の積み降ろし港の場所に新しい城を築き始め、「荷揚(荷を積むという意味)城」と名付け、その後いつしか「府内城」と改名されました。17世紀初期に、竹中氏が4層の天守や多くの櫓を含む城として完成させ、九州地方では有数な城となったのです。
Then, Toyotomi sent his man, Naotaka Fukuhara as the lord of Funai in 1597. Fukuhara thought that he needed to have a more secure castle. He started to build a new castle at a port of unloading, called “Niage Castle” (Niage means unloading), which was renamed to “Funai Castle” sometime later. In the first 17th century, the Takenaka clan completed the castle including the four-layer Tenshu keep and many turrets, becoming a prominent castle in Kushu region.

大分府内城でライトアップされた仮想天守~The illuminated virtual Tenshu on Oita-Funai Castle(taken by seama2 from photoAC)

城の中心は安全確保と交通の便のため、細い堤を挟んで大分川の河口に面していました。河口から、本丸から二の丸へ、更には三ノ丸まで外側に向かって広がっていて、水堀によって互いに隔てられていました。特に二の丸へは、「廊下橋」と呼ばれた二つの橋のみが通じていて、もしこれらの橋を落とした場合、本丸と二ノ丸は完全に外部から遮断されるようになっていました。
The center of the castle faced the estuary of Oita River across a thin bank for safety and transportation. From the estuary, the main enclosure “Honmaru”, to the second enclosure “Ninomaru” until the third enclosure “Sannomaru” spread towards outside, separated by water moats each other. Particularly, only two bridges called “Roka-Bashi” led to Ninomaru area. If these bridges were fallen, the Honmaru and Ninomaru could be shut down from outside.

豊後国府内城之絵図部分、江戸時代、コメントを付加~Part of the illustration of Funai Castle in Bungo Province in Edo Period, adding comments出典:国立公文書館)

しかし、松平氏統治下の1743年に城下町の大火による被害を被りました。天守を含むほとんどの城の建物が焼け落ちました。その後、櫓はいくつか再建されましたが、天守は再建されませんでした(天守台だけが残ります)。
But in 1743, under the Matsudaira clan’s governance, the castle suffered from a great fire around the castle town. Most of the buildings of the castle including Tenshu keep were burned down. After that, some turrets were restored, but Tenshu wasn’t (just the Tenshu base remains).

現存している人質櫓と天守台~The remaining Hitojichi-Turret and Tenchu base(licensed by Reggaeman via Wikimeia Commons)

特徴~Fertures

現在、本丸と二ノ丸の範囲は「大分城址公園」として公園になっています。この公園は今でも二の丸の水堀と石垣に囲まれています。しかし本丸の水堀は埋められていて、そのため公園の範囲はただ一つの曲輪のように見えます。ここにはまた櫓もあり、そのうち2つだけが元からあるものです(人質櫓と宗門櫓)。更には、一基の廊下橋が最近復元されました。
Now, the area of Honmaru and Ninomaru has been turned into a park called “Funai Castle Ruins”. The park is still surrounded by the Ninomaru water moat and stone walls. But the Honmaru water moat has been filled, so the park area looks like just one enclosure. It also has several turrets, out of whom only two turrets are original (Hitojichi-Turret and Shumon-Turret). In addition, one Roka-Bashi has recently been restored.

宗門櫓の裏側、修繕中か~The back side of Shumon-Turret, it appears being repaired.
復元された廊下橋~The restored Roka-Bashi bridge(licensed by Reggaeman via Wikimeia Commons)
廊下橋の内部~The inside of Roka-Bashi

ところが、公園の周りの地域は全て埋め立てられ、近代的な都市に変貌しています。歴史の知識がなければ、ここが海城だったとは想像できません。
However, all area outside the park has been filled in ground for the modernized city. No one can imagine that was a sea castle without historical knowledge.

城周辺の航空写真~An aeriel photo around the castle

その後~Later Life

明治維新後、大分県庁が本丸に置かれました。大正時代にその建物が新築拡張されることになり、本丸の水堀が埋め立てられました。第二次世界大戦では、米軍による大分空襲があり、城の現存櫓もいくつか焼けてしまいました。戦後市の復興計画により、城跡は大分城址公園となりました。県庁は以前の三ノ丸に移転し、そして本丸と二ノ丸の範囲は1963年に初めて県の史跡として指定されました。「西南隅櫓」「大手口多門櫓」「着到櫓」といった櫓が外観復元されました。それ以外に模擬櫓もあります。
After the Meiji Restoration, the Oita Prefectural Building was placed on Honmaru area. In the Taisho Era, the building was replaced to a new large one that caused the Honmaru water moat to be filled. In World War II, Oita Air Raid by the US Air Force burned out the Oita city area including several remaining turrets of the castle. After the war, with the reconstruction plan of the city, the castle ruins was turned into Funai Castle Ruins park. Prefectural Building was moved to the former Sannnomaru area, then the area within Honmaru and Ninomaru was first designated as a prefectural historic site in 1963. Some turrets such as “Seinan-Sumi-Turret”, “Oteguchi-Tamon-Turret” and “Chakuto-Turret” were externally restored. There are also some imitational turrets there.

大手口多門櫓~Oteguchi-Tamon-Turret(licensed by 663highland via Wikimedia Commons)

大分市は城跡の将来に向けた整備計画を検討しています。この計画によると、本丸石垣が部分的に復元され、地面に本丸水堀があったことを示す線が表示されることになっています。過去に海城があったことを周知したいようです。
Oita City is considering the development plan for the future of the ruins. They plan to restore part of the Honmaru stone walls and express the line of Hommaru water moat on the ground. They seem to let people know that there was a sea castle in the past.

2026年までの城跡整備計画マップ~The development planning map of the castle ruins by 2026 (大分市Websiteより引用)

私の感想~My Impression

面白いイベントが城址公園で開催されました。それは、鉄骨のフレームとLEDライトによって天守の姿を再現したものでした。このイベントは終わってしまったのですが、私が最近訪れたときにはまだフレームが残っていました。フレームが存在していれば、また再開することも可能と思います。そうなったらよいですね。
An interesting event was held in the ruin park. That was recreating of the image of the Tenshu keep by using a steel frame and lots of LED light bulbs. Though the event has finished, the frame remained when I visited the ruins recently. The show could be held again as long as the frame is there. Hopefully that will happen.

大分府内城の仮想天守~The virtual Tenchu in Oita-Funai Castle(taken by ぴょんにゃん from photo AC
仮想天守の骨組み(The flame of the virtual Tenshu)

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:東九州自動車道大分ICから約20分です。城址公園内に駐車場があります。
大分駅から:徒歩で約15分かかります。バスの場合大分駅南口から「大分きゃんバス」に乗り、市役所前バス停で降りてください。
大分空港から大分駅まで:空港アクセスバス(エアライナー)に乗ってください。
If you want to go there by car: It takes about 20 minutes from the Oita IC on Higashikyushu Expressway. The park offers a parking lot inside.
From Oita station: It takes about 15 minutes on foot. Or take the Oita-Can-bus at the south entrance of the station, and take off at the Shiyakusho-Mae bus stop.
From Oita Airport to Oita st.: Take the Airpor Eepress Airliner bus.

リンク、参考情報~Links and Rererences

・よみがえる日本の城20、学習研究社(Japanese Magazine)
・大分城址公園整備・活用基本計画、大分市(Japanese Document)