78.丸亀城 その2

素晴らしい石垣、景色と現存天守

特徴、見どころ

現在丸亀城は、丸亀城そのもの、または亀山公園として一般に開放されています。公園の範囲は内堀の内側となります。その堀の前に立ったとき、素晴らしい高石垣とその上に立つ現存天守の姿に驚かれるかもしれません。この高石垣は約60mの高さがあり、日本の多段式石垣の中では最も高いものと言われています。(単独の石垣で最も高いのは、大坂城のもので、約33mです。)

丸亀城の遠景

城周辺の航空写真

大手門から三の丸へ

観光客は通常、北の方から堀にかかった橋を渡り、大手門を通って城に入っていきます。この門は、桝形と呼ばれる典型的な防衛のための仕組みを備えています。2基の門の建物、土壁、石垣が四角い空間を取り囲む形になっています。

大手門と天守
外側の大手二の門
内側の大手一の門

それから、見返り坂と呼ばれる長い登り坂を東側に向かって歩いて行きます。その坂の途中では、この城では単独で一番高い、22mの高さがある三の丸石垣が見えてきます。特に、この石垣の隅の部分はとても美しく、扇の勾配と呼ばれています。下の部分はそれほど急ではありませんが、上に行くに従い垂直に積まれています。

見返り坂
三の丸高石垣

やがて三の丸の東部分に到着します。月見櫓跡からは讃岐富士の素晴らしい景色を目にすることができます。

三の丸月見櫓跡
月見櫓跡から見た讃岐富士

二の丸から本丸へ

その後は、本丸と三の丸の間にある二の丸に入っていきます。この曲輪にはかつては本丸のように土壁によってつながれた櫓がいくつもありました。現在では桜の木が植えられた広場になっており、市民に親しまれています。

二の丸入口
二の丸内部

そして、ついにはこの城で一番高い所にある本丸に入ります。ここからは全方位の景色を眺めることができ、とても素晴らしいです。讃岐富士だけでなく、瀬戸内海に浮かぶ島々や瀬戸大橋まで見えます。

本丸入口
本丸内部
本丸から見た丸亀市街と瀬戸内海
瀬戸大橋

工夫されている現存天守

本丸には現在は天守しか残っていませんが、日本の現存12天守のうちの一つです。三層櫓の形式を取っていて、実は12天守の中では一番小さいものです。

現存天守(本丸から見える裏側)

しかし、山裾から見上げた時により大きく見えるよう工夫がされています。一つには、天守の上方に向かっての逓減率が比較的大きく設定されています。もう一つは、入母屋屋根や唐破風などの天守の装飾が外側に向かって付けられています。これらにより下から見たときに天守が大きく見えるのです。

現存天守(山裾から見た表側)

天守の中に入ることもでき、櫓として実用的に作られていると感じられるかもしれません。上の階にあがる階段はとても急です。戦いのための石落としや狭間も備えられています。現代のものとしては、城の歴史や城の模型が展示されています。

二階への階段
二階にある狭間
三階内部

「丸亀城その3」に続きます。
「丸亀城その1」に戻ります。

44.名古屋城 その2

尾張名古屋は城でもつ

立地と歴史

復活した名古屋城

戦国時代の16世紀中頃、現在の名古屋城と同じ場所に、同じ名前を持つもう一つの那古野(なごや)城がありました。この古い方の那古野城で有名な戦国大名、織田信長が生まれたと言われています。信長は、そのうちに本拠地を清州城に移し、那古野城は廃城となりました。それ以来、清州城(名古屋城の北西約10kmのところ)は尾張国(現在の愛知県西部)の中心地であり続けました。1609年、徳川幕府は度々洪水の被害にあっていた清州城の代わりに、新しい城を築くことを決めました。大坂城にいた豊臣氏との戦いに備え、徳川の親族が入るためのより強力な城が必要とされたのです。その城は、再び名古屋(なごや)城と命名されました。

名古屋城と清州城の位置

清州城跡から見た名古屋城 (licensed by 名古屋太郎 via Wikimedia Commons)

シンプルだが強力な城、最大級の天守

城の範囲は広大で、シンプルであっても強力に作られました。城の中心である本丸は、西の丸などの曲輪群によって全ての方角に対し防御されていました。二の丸は、本丸の南東に付け加えられていて、城主のための御殿が建てられていました。最も大きな三の丸は、他の全ての曲輪の南方にあり、重臣たちの屋敷地となっていました。

尾張国名古屋城絵図(出展:国立国会図書館)

城周辺の航空写真

本丸には5層の天守があり、史上最も大きな天守の一つでした。頂にあった2つの金鯱は人々の間で特に人気がありました。初代の金鯱には215kgもの金が使われていたと言われています。また、本丸御殿もありましたが、これは将軍が滞在するためだけに存在しました。実際には3人の将軍しか使用していません。人々は「尾張名古屋は城でもつ」と言い慣わしてきました。

元あった天守と本丸御殿の写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

焼亡と復興

明治維新後、二の丸、三の丸といった大きな曲輪は日本陸軍の駐屯地となりました。しかし、政府は本丸周辺は城として維持していくことを決断しました。天守や本丸御殿を含む伝統的建物群がそのまま残されたのです。1930年には、城として初となる国宝にも指定されています。ところが、誠に残念なことに1945年にほとんどの建物が焼け落ちてしまったのです。現在は3つの櫓と3つの門が残るのみです。

空襲で燃え上がる天守 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現存している本丸の西南隅櫓
現存している本丸表二之門

その悲劇から14年後、名古屋の人々は現在見る天守を再建しました。再建のための予算の3分の1は市民からの寄付によりました。天守の外観はほとんど元通りでしたが、実は元の石垣の内側にあるケーソンの上に建てられた、コンクリート製の近代的ビルだったのです。元あった金鯱は1945年に一緒に燃えてしまいましたが、同時に復元されました。現在のものは88㎏の金を含んでいるそうです。2018年、本丸に、従来工法により本丸御殿が復元されました。本丸はかつての姿を取り戻しつつあります。

現在の再建された天守
現在の復元された金鯱
復元された本丸御殿

「名古屋城その3」に続きます。
「名古屋城その1」に戻ります。

44.名古屋城 その1

本当に木造天守が必要でしょうか?

何が起きているか?

名古屋市の方針

名古屋市にある名古屋城はとても有名です。その天守の頂には金鯱がそびえ、市の最も知られたシンボルの一つです。天守は現存しているものではありませんが、1959年に外観復元されました。元の天守は、第二次世界大戦中の1945年の名古屋空襲により焼け落ちてしまいました。

城の位置

名古屋市長である河村たかし氏は、元あった天守と同じ設計の木造天守の建設を提案しています。現在の天守は建設から60年以上経ち、耐震性が低いことが指摘されています。河村氏は現在のコンクリート製の天守をほとんど元通りの木造製に置き換えるいい機会だと強調しています。また、市には焼け落ちる前の天守の多くの写真、図面、その他の記録があるので十分可能だと言います。彼は市民に対して、木造の天守は自信を与え、観光にも有効だと説明しています。多くの市民は彼を支持していますが、事はそう単純ではありません。

元あった天守の写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

文化庁の主張

河村市長は、天守置き換えを始める前に文化庁からの承認が必要です。城が国の特別史跡に指定されているからです。文化庁は名古屋市に天守置き換えの前に天守台石垣を調査するよう要求しています。天守台は現存しているものですが、空襲のときに傷んだままになっています。文化庁にとっては、木造天守を復元するより天守台を修理する方が重要なのです。

天守台の石垣
空襲で傷んだ部分

現在の天守は実際にはエレベーター付きの近代的なビルであり、博物館として使われています。もしこの建物が元通りの木造天守として置き換えられた場合には、エレベーターを付けることはできません。障がい者の団体は新しい建物にもエレベーターを付けるべきだと主張しています。更には、その木造の建物が火災防止のためスプリンクラーを付けたり、地震から守るために柱を増やしたとしても、政府は博物館として使うことは認めないでしょう。また、入場時の人数制限のような規制も行われるでしょう。

現在の天守には外側と内部にエレベーターがあります。

他の意見

木造の天守は、全く元通りではなく、エレベーターや非常設備を備えられるよう設計変更されるべきだと言う人もいます。役所の中にもこれに賛同する人がいますが、河村市長はあくまで木造天守は元のまま建てられるべきだと言っています。少数派ですが、木造天守は不要で、代わりに現在の天守を耐震工事と博物館改装により一新すべきだとの意見もあります。木造天守を作るには500億円以上かかるのに対し、改装は70億円程で済みます(大坂城での実績)。また、現在の天守自身が文化遺産になりうるのです。事実、大坂城の現在のコンクリート製の天守は、現在建設から90年経っており、最近、国の登録有形文化財になっています。

登録有形文化財になっている大坂城天守

「名古屋城その2」に続きます。