204.佐和山城 その1

滋賀県彦根市にある城といえば「彦根城」となるでしょうが、もう一つ歴史上重要な城がありました。佐和山城です。城跡にはほとんど遺物が残っていませんが、最後にその役割を彦根城に引き継いだためと見るべきでしょう。この記事では、佐和山城の歴史を4つの時代区分で説明していきます。

立地と歴史

滋賀県彦根市にある城といえば「彦根城」となるでしょうが、もう一つ歴史上重要な城がありました。佐和山城です。彦根駅をスタート地点とした場合、彦根城は西口から向かいます。佐和山城(跡)は、東口の方に行くと、佐和山城の案内と、城があった佐和山が目に入ってきます。それでは、佐和山城といえば、何を思い浮かべるかというと、やはり「石田三成」ということになるでしょう。「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近と佐和山の城」という俗謡が有名です。しかし、この城は三成の時代のもっと前から、重要な役割を果たしていたのです。そして、その役割は変化しながら三成に受け継がれたのです。城跡にはほとんど遺物が残っていませんが、最後にその役割を彦根城に引き継いだためと見るべきでしょう。この記事では、佐和山城の歴史を4つの時代区分で説明していきます。

彦根城
佐和山城跡

南北近江の境目の城

佐和山城があった近江国(現在の滋賀県)は、京都に近く、早くから産業(農漁工商)や交通(水陸)が発達していました。よって領主や城の数も多く、室町時代には南近江・北近江それぞれに守護が置かれ、分割統治されていました。南近江は六角氏、北近江は京極氏で、北近江の範囲は京極5郡(伊香・浅井・坂田・犬上・愛知)と呼ばれたりしました。戦国時代になると、家臣の浅井氏が京極氏に取って代わり、戦国大名として六角氏と対立しました。佐和山城は、その南北近江の国境近くにあり(位置としては坂田郡)、両勢力の争奪の対象となりました。似たような位置づけの城としては、近くの鎌刃城が挙げられます。

近江国の範囲と城の位置

鎌刃城跡

佐和山城が最初に築かれたのは、鎌倉時代に遡ると言われています(下記補足1)。「境目の城」として現れるのは、1552年(天文21年)のことです。当時は六角氏の勢力が大きく、佐和山城は六角氏が有していました。その年に当主の六角定頼が亡くなると、跡継ぎの義賢は佐和山城を拠点(後詰)に北近江の浅井久政領に攻め込みます。ところが、逆に久政の反撃を受け、佐和山城は浅井氏のものになりました。その後、両者は攻防や和睦を繰り返しますが、佐和山城はおおむね浅井氏が維持しました。1561年(永禄4年)以後は、浅井氏の重臣、磯野員昌が最前線の城として守っていました。

(補足1)佐保山(佐和山)ハ昔佐々貴十代ノ屋形太郎判官定綱ノ六男佐保六郎時綱居住ノ所ナリ(淡海温故録)

江戸時代の浮世絵に描かれた六角義賢  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浅井久政肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代の浮世絵に描かれた磯野員昌 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

六角氏の観音寺城、浅井氏の小谷城・鎌刃城は、早くから石垣が導入された事例として知られています。もしかすると、佐和山城にもこのころから石垣が築かれていたかもしれません。

小谷城の石垣
鎌刃城の石垣

信長の近江国での居城

やがて織田信長が台頭すると、佐和山城も新たな局面を迎えます。浅井家の当時の当主、浅井長政は信長と同盟を結び、1568年(永禄11年)の信長上洛時には、宿敵の六角義賢を駆逐しました。このとき、信長は佐和山城に入り、長政と初対面したと伝わります。ところが、2年後の1570年(元亀元年)に信長が朝倉氏を攻めると、突如長政は信長に敵対します。同年6月、信長・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で姉川の戦いが起こり、信長方が勝利しました。磯野員昌は翌年2月まで、佐和山城に籠城しますが、ついに降伏開城しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

以降、信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配置しました。佐和山城は、東西日本を結ぶ東山道が傍を通っていて、当時の信長の本拠地・岐阜城と京都の中間点に当たりました。信長にとっても重要な拠点だったのです。それだけでなく、信長は佐和山城に頻繁に滞在しました。信長の伝記「信長公記」には、元亀2年以後13回も信長が滞在した記録があります。同国に自身の本拠、安土城を築くまでは、佐和山城を近江国での居城としていたのです。

丹羽長秀肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特に、1573年(元亀4年)5月からは、大船建造のため、2ヶ月も滞在しています(下記補足2)。この当時は、琵琶湖の付属湖の一つ、松原内湖(まつばらないこ)が、佐和山城のすぐ近くまで入り込んでいました。その松原で、信長は陣頭指揮を取り、長さ約53メートル、幅約13メートルもの当時としては巨船を建造したのです。信長は早速、7月6日にその船で坂本まで乗り付け、26日には高島攻めにも使いました。ところが、その大船の活躍の記録はそれきりで、3年後には解体され、十艘の小舟に作り替えられてしまったのです(下記補足3)。湖で使うには大きすぎて、入れる港や場所が限られたためです。それでもその後、城主の丹羽長秀は安土城普請の総奉行となり、大船建造の棟梁・岡部又右衛門は天主建築の大工頭を務めました。

(補足2)五月廿二日、佐和山に御座を移され、多賀・山田山中の材木をとらせ、佐和山山麓の松原へ勢利川通り引下し、国中鍛冶、番匠、杣(そま)を召し寄せ、御大工岡部又右衛門棟梁にて、舟の長さ三十間・横七間、櫨(ろ)を百挺立てさせ、艫舳(ともえ)に矢蔵を上げ、丈夫に致すべきの旨、仰せ聞かせられ、在佐和山なされ、油断なく夜を日に継仕候間、程なく、七月五日出来訖。事も生便敷(おびただしき)大船上下耳目を驚かす、案のごとく(信長公記)

(補足3)先年佐和山にて作置かせられ候大船、一年公方様御謀反の砌、一度御用に立てられ、此上は大船入らず、の由候て、猪飼野甚介に仰付けられ取りほどき、早舟十艘に作りをかせられ(信長公記)

大船の模型、安土城考古博物館にて展示

信長は後に、安土城を中心とする琵琶湖岸の城郭ネットワークを構築し、支城には重臣を配置します。佐和山城は水上交通の拠点でもあったので、その中でも最重要の支城の一つになりました。佐和山城跡からは、信長時代のものと思われる瓦片(コビキA)が発見されています。瓦葺きの建物があったということです。他の琵琶湖岸の支城、坂本城には「天主」があったという記録があるのと、信長が長期滞在していることから、佐和山城にもこの頃から「天主」があってもおかしくはありません。一歩譲って、石垣の上に、信長のための御殿はあったのでしょう。

安土城天主模型、安土城郭資料館にて展示

秀吉領国の最前線→そして三成登場

1582年(天正10年)本能寺の変が起き、信長が明智光秀に討たれますが、その後は豊臣(羽柴)秀吉が天下統一を進めます。1584年(天正12年)に、徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが起きたときには、近江国は秀吉領の最前線に当たりました(味方の池田氏が美濃国にいましたが)。佐和山城には、秀吉の重臣・堀秀政が入っていました。秀政が出陣するときには、多賀秀種を城代としていました。秀種は、後に大和国(奈良県)の宇陀松山城を整備したことでも知られています。この頃「広間之作事」を行ったという記録があるので、佐和山城の拡張も行ったのでしょう。(堀秀政書状、多賀文書)

堀秀政肖像画、長慶寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
多賀秀種肖像画、石川県立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇陀松山城跡

翌年には、近江国に当時の秀吉の後継者候補・豊臣秀次の居城・八幡山城が築かれました。佐和山城には、秀次を補佐する堀尾吉晴が配置されました。吉晴は、後に浜松城の天守・石垣を整備した人物です。家康との緊張関係は続いていたため、佐和山城も更に強化されたと見るべきでしょう。関ケ原の戦いのときには天守があったことが記録されていますが(伊達家文書・結城秀康書状)吉晴の時代までに整備されていたのではないかという意見もあります。天守は5層であったという伝承もありますが(西明寺絵馬)、山上の天守なので3層程度であろうという推定もあります(中井均氏など)。

八幡山城跡
堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浜松城の復興天守と現存石垣
佐和山の山麓にある5層天守の模型

1590年(天正18年)の小田原合戦により秀吉の天下統一がなされると、家康が関東に移り、秀次とその家老たちも東海地方に移っていきました。秀吉の家康に対する前線が東に移動したことになります。その空いた近江国は秀吉の直轄領になりますが、その代官として佐和山城を任されたのが石田三成だったのです(彼自身の領地は美濃国にありました)。そして文禄の役(朝鮮侵攻)の後、1595年(文禄4年)頃、佐和山城を含む北近江の大名(約20万石)となりました。三成は文禄の役のとき、他の奉行とともに朝鮮に渡り、中央と現地との調整に奔走していて、その論功とも考えられます。

石田三成肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三成自身は秀吉を支える最側近であり(秀吉が病のときには片時も離れることを許さなかったといいます)、政権の奉行として国内外の政策(各大名の取次・指導、太閤検地、朝鮮侵攻など)に多忙であり、城にはほとんどいませんでした。そのため城を守っていたのは、父親の正継や兄の正澄でした。領地の統治は、家臣の嶋左近などに任せていました。

石田正継肖像画(写)、妙心寺寿聖院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、その方針については、三成が1596年(文禄5年)に領内に発布した掟書が残されています。
その掟書には、主には以下のことが定められていました。
・領主側の夫(人足)遣いの制限
・検地帳記載者に対する耕作権の保証
・年貢率の決定プロセスの明示化
・升の公定と統一
・身分確定と居住地の固定化
・百姓訴訟権の保証(目安)など
領民として認められる権利と、それに対応する義務が明確化されていました。他の大名と比べ、きめ細かさが際立っていて、三成が優れた官僚・民政家だったことが伺われます。三成の時代には、城全体を惣構(土塁・堀)で囲んだという記録があり(須藤通光書状)これが城の完成形と言われています。大手門や城下町は、もともと東側の山麓にありました。しかし、三成の居館は西側にあったとされるので、城の大手や城下町が、西側に移動または拡張したとも考えられます。

「佐和山城古図」彦根市立図書館蔵

井伊家つなぎの城

秀吉が亡くなると、三成は豊臣政権の中枢である5奉行の一人となりました。ところが、いわゆる「三成襲撃事件」の収拾策として、佐和山に隠退となりました。その後はご存じの通り、西軍の総大将として、1600年(慶長5年)9月15日、関ケ原で家康と戦い敗れてしまいました。しかし、総大将は大坂を動かなかった毛利輝元であり、三成は現地司令官として悪戦苦闘したという見方もあります。三成は佐和山城に戻れず、北近江の領内に潜伏しているところを捕縛され、京都で斬首となりました(嶋左近は関ケ原で戦死)。佐和山城は、関ケ原の2日後、東軍に包囲され落城しました。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦後、三成の領地は、家康の筆頭家老ともいうべき井伊直政に与えられました。今度は、大坂に居座る豊臣家に対する最前線・包囲網という位置づけでした。やはり、この地は家康にとっても重要な拠点だったのでしょう。そして、家康と井伊家は、新しい拠点として彦根城を築城します。しかし、井伊直政は当初、佐和山城に入城し、1602年(慶長7年)にそこで亡くなったのです。直政の家老たちの屋敷も、佐和山の山上にありました。彦根城を築城したのは、跡継ぎの直継なのです。

井伊直政肖像画、彦根城博物館 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐和山城の建物や石垣は、彦根城に部材として転用されました(下記補足4、5)。佐和山の南側の斜面は、不自然にえぐられていますが、石垣を搬出する経路だったのではないかという意見があります(中井均氏)。三成の城であったため、徹底的に破壊されたとの見解が多いですが、むしろ利用されたと言うべきでしょう。佐和山城の役割は、彦根城に引き継がれたのです。佐和山の山麓には、井伊家の菩提寺である清凉寺と龍潭寺が建てられ、山自体も「御山」として彦根藩により維持されました。山は今でも、両寺の所有となっています。

(補足4)石垣ノ石櫓門等マテ佐和山・大津・長浜・安土ノ古城ヨリ来ル(井伊年譜)

(補足5)本丸之天守茂只今之より高ク御拝領之後御切落シ被遊候由、九間御切落とも云又七間とも申候実説相知レかたく(古城御山往昔咄聞集書)

城周辺の起伏地図

清涼寺
龍潭寺

リンク、参考情報

・「近江佐和山城・彦根城/城郭談話会」サンライズ出版
・「近江の山城を歩く/中井均編著」サンライズ出版
・「佐和山城跡のご案内」彦根観光協会パンフレット
・「よみがえる日本の城22」学研
・「石田三成伝/中野等著」吉川弘文館
・「歴史群像153号、戦国の城 近江佐和山城」学研
・「信長と家臣団の城/中井均著」角川選書
・「週刊日本の城改訂版第21号」デアゴスティーニジャパン
・「堀尾氏ゆかりの城館を辿る」堀尾吉晴公共同研究会
・「佐和山城と石田三成/米原市柏原宿歴史館」稲枝地区公民館講座資料
・「文化財教室シリーズ124 近世の古城Ⅲ 佐和山城」滋賀県文化財保護協会
・「埋蔵文化財活用ブックレット5(近江の城郭1) 佐和山城跡」滋賀県教育委員会」
・「びわこの考湖学22・23」産経新聞滋賀版
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫

「佐和山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

154.田丸城 その1

織田信雄の本拠地

立地と歴史

織田信雄が伊勢国司として居城

田丸城は、ほぼ現在の三重県に相当する伊勢国の中心部にあった城です。この城には長い歴史があり、最初は南北朝時代の1336年に北畠氏によって築かれました。北畠氏はその後も戦国大名として生き残り、戦国時代の16世紀後半に至るまで伊勢国の国司を務めていました。そのときはこの城は支城の位置づけでした。この城が有名になったのは、1575年に織田信雄(のぶかつ)が伊勢国司になったときです。そして、信雄は同じ年にこの城を本拠地として居城とし、改良しました。織田氏と北畠氏はそれまで戦っていたのですが、講和の証として信雄が北畠氏の養子に入っていたのです。

伊勢国の範囲と城の位置

織田信雄肖像画、総見寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下人たちに利用される

信雄は、日本の歴史の中でも最も適正な評価が難しい人物の一人でしょう。彼は、天下人の織田信長の息子の一人でした。信長が北畠氏を自らの勢力に取り込むために利用されたのです。信長は実際、伊勢国を完全に織田の支配下とするために、信雄に彼の義父(北畠具教(とものり))を殺害するよう命じました。歴史家はよく、信雄は愚かで無能であったと言います。例えば、彼は1579年に独断でとなりの伊賀国に攻め込み、それに失敗したことで、信長から叱責を受けました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北畠具教肖像画、伊勢吉田文庫所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1582年の本能寺の変で実父の信長が殺された後は、今度は次の天下人となる豊臣秀吉に利用されます。秀吉は、柴田勝家や織田信孝を倒すときや、徳川家康を従えようとするときに、信雄を当て馬に使ったりしました。(賤ヶ岳の戦いでは、形式上は信雄は秀吉の部下ではなく、信孝に切腹を命じたのも信雄とされています。また、秀吉と対立した信雄が家康と組んで戦った小牧・長久手の戦いでは、秀吉は電撃的に信雄と講和することで家康を孤立させました。)そしてついに1590年、秀吉は天下統一を果たした直後、信雄が領地を移動することを断ったことを口実に、彼を改易し追放してしまいました。これは秀吉が、これまで主筋であった織田氏を完全に凌駕した瞬間でした。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

教養人でもあった信雄

しかし、確かに信長、秀吉、家康といった天下人たちに比べれば劣っていたとしても、信雄は本当に無能だったのでしょうか。信雄は、最終的には家康により、大和国の宇陀松山や上野国の小幡を含む以前よりは小さな領地を与えられました。信雄は、最初の領地伊勢から、最後の領地のときまで、大過なく統治しています。彼はまた、高レベルの教養人でもありました。南朝の貴族であった北畠氏の養子になっていたからです。これは、彼が小幡で築いた現存している日本庭園、楽山園(らくさんえん)を見ると理解できます。そして、彼が戦国大名としてどうだったのか知りたければ、田丸城を見ればよいと思います。

織田信雄の最後の領地の位置

宇陀松山陣屋の春日門跡 (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)
小幡陣屋跡
楽山園

城は徳川氏に受け継がれる

田丸城は、伊勢神宮に程近い(約10km離れていますが)丘の上に、主要部として北の丸、本丸、二の丸が築かれました。本丸には三層の天守もありました。三の丸は、これら主要部の丘の麓にあり、全体を内堀と外堀により二重に囲まれていました。堀の内側や三の丸にはに三つの門があり、その内側の通路は曲げられていて、敵が容易に攻められないようになっていました。この構造は、後の時代に桝形と呼ばれる四角い防御空間に発展していきます。天守台を含む石垣も築かれましたが、天守に関する詳細は不明のままです。この城を見る限りは、信雄はよい城の立地を選択していますし、城自体もよく築かれています。ところが、この城は1580年に放火により焼け落ちてしまい、信雄は他の城(松ヶ島城)に移らざるをえませんでした。

田丸城の天守台石垣
「田丸城宝暦年間之図」、現地説明板より、名称を赤字で加筆

その後、この城は蒲生氏により復旧され、稲葉氏、藤堂氏、そして最後には徳川氏に引き継がれました。特に稲葉氏は、この城の大改修を行い、城の主要部が石垣により囲まれました。1619年以降は、徳川御三家の一つ、紀伊藩が江戸時代を通じてこの城を保有しました。この藩の本拠地は和歌山城でしたが、重臣の久野氏の居城となったのです。久野氏は、老朽化や地震などの自然災害による破損があっても、この城の維持修繕に努めました。

久野氏が修築した田丸城本丸の石垣

「田丸城その2」に続きます。

166.宇陀松山城~Udamatsuyama Castle

杉林に囲まれた城跡
The castle ruins surrounded by a cedar forest

立地と歴史~Location and History

大和三城の一つ~One of Three Greatest Castles in Yamato Province

宇陀松山城は奈良県の北西部、宇陀市にありました。宇陀市は、林業と古い町並みで知られています。大阪市から車で約1時間ほどの場所です。宇陀松山城は最初は「城山」という473mの高さの山の上に、秋山氏によって築かれました。
Uda-Matsuyama Castle was located in Uda City in the north east part of Nana Prefecture. Uda City is known for its forest industry and old town. The city is approximately one hour by car from Osaka City. The Uda-Matsuyama Castle was first built on a 473m high mountain called “Shiroyama” by the Akiyama Clan.

城の位置~The location of the castle

1585年、豊臣秀長が大和国(現在の奈良県)の統治を始めたとき、彼自身は大和郡山城を居城としていました。一方で、彼は家臣を、支城である高取城と宇陀松山城に派遣しました。その家臣のうち、主には多賀秀種が宇陀松山城を拡張しました。秀種は大和国の東部に領地を持っていて、東にある伊勢国との国境の防衛のため、城を用いていました。
In 1585, when Hidenaga Toyotomi started to govern Yamato Province (what is now Nana Prefecture), he lived in Yamato-Koriyama Castle, while he sent his retainers to Takatori and Uda Matsuyama Castles as his branch castles. Among the retainers was Hidetane Taga, who mainly developed the Uda Matsuyama Castle. Hidetane was granted the eastern part of the province with the intention to use the castle to prepare for the defense of the border between Yamato and Ise Province from the east.

多賀秀種肖像画、石川県立歴史博物館蔵、The portrait of Hidetane Taga, owned by Ishikawa Prefectural History Museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

多賀秀種が城を改修~Hidetane Taga improves Castle

秀種は、この城を近世的なスタイルに変えました。城はいくつかの部分に分けられていました。御殿があった「本丸」と天守があった「天守郭」が山頂にありました。天守は、郭の大きさからすると2階か3階建てだったと考えられています。郭周辺の土壌から発掘により多賀氏の家紋が入った瓦が発見されています。
Hidetane changed the castle to an early modern style. The castle was divided into several sections: the Main Enclosure or “Honmaru” with the Main Hall, and Tenshu Enclosure with the Main Tower or “Tenshu” on the top of the mountain. The Main Tower is thought to be two or three stories based on the scale of the enclosure. The roof tiles with Taga Clan’s family crest were found by the excavation of the land around the enclosure.

家紋が入った瓦~A rooftile with the clan’s family crest (宇陀市パンプレットより引用)

「二の丸」や「帯郭」などの他の郭は、城の中心を取り囲んでいました。城の主要部の基礎部分は全て石垣造りで、多くの櫓が立ち並んでいました。城の出入り口である「虎口」は、櫓門や屈曲した通路によって厳重に守られていました。
Other enclosures such as the Second Enclosure or “Ninomaru” and the Belt Enclosure or “Obi-kuruwa” surrounded the center of the castle. The foundation of this main portion was all made of stone walls where a lot of turrets stood. The entrances to the castle called “Koguchi” were guarded strictly by turret gates and zigzagged routes.

阿紀山城図、1593年 、「阿紀山城」は宇陀松山城の古名、現地案内板より~The illustration of Akiyama Castle, in 1593, “Akiyama Castle” is the old name of Udamatsuyama Castle, from the signboard at the site

城は破壊された~Castle is Destroyed

1600年、広島城を治めていた有名な福島正則の弟、福島高晴が、多賀秀種の代わりとして、徳川幕府により宇陀松山城に送られてきました。彼は城を改修するとともに、城下町を整備しました。ところが、1615年に彼は幕府により、幕府に反抗していた豊臣氏を支援した疑いから改易となってしまいます。
In 1600, Takaharu Fukushima, the little brother of the famous lord, Masanori Fukusima who governed Hiroshima Castle, was sent to Uda Matsuyama Castle instead of Hidetane Taga by the Tokugawa Shogunate. He also improved the castle and the castle town, however, in 1615, he was fired by the Shogunate due to suspicions about his support of the Toyotomi Clan who was against the Shogunate.

福島高晴の兄、福島正則肖像画、東京国立博物館蔵~The portrait of Masanori Fukushima, the big brother of Takaharu Fukushima, owned by the Tokyo National Museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その結果、城は完全に破壊されることになり、建物と石垣は撤去され、通路は埋められました。執行者の一人、小堀政一の手紙が残っていて、作業は進んでいるものの、作業者が足りないということが書かれています。
As a result, the castle was completely destroyed removing the buildings and stone walls and burying the routes. A letter written by one of the executors, Masakazu Kobori, remains and says that he was destroying the castle, but lacked enough workers.

小堀政一肖像画、頼久寺蔵、The portrait of Masakazu Kobori, owned by Raikyu-ji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特徴~Features

杉林の中を進む~Going through Cedar Forest

以前観光客は宇陀松山城跡へは、市街地にある城の正門であった春日門跡から行くことができました。ところが、2018年の豪雨災害により「大手道」が閉鎖されており、通ることができません(2021年4月現在)。代わりに、まちづくりセンター「千軒舎」の脇道を通って行くことができます。もしかすると、城跡に向かっているのか疑問に思うかもしれません。美しく、よく手入れが行き届いた杉林が見えてくるからです。
Previously, visitors could visit the ruins of Uda-Matsuyama Castle from the Kasuga Gate Ruins in the town area which was the front gate of the castle. However, visitors can no longer do so because the Main Route or “Ote-michi” to the castle is closed (as of January 2021) due to a storm disaster in 2018. Instead, visitors can go through the side road beside the Town Planning Center called “Sengensha”. You may not be sure you are going to the ruins of a castle, as you will see a beautiful, well-maintained cedar forest.

まちづくりセンター「千軒舎」~The Town Planning Center “Sengensha”
杉林に囲まれた通路~The route surrounded by the cedar forest

わずかに残る遺跡~Few remaining Ruins

約10分間登っていくと、城跡の入口に着きます。そこから山道をあと数分を登らねばなりませんが、そうするうちに空堀と櫓門跡が見えてきます。この門は「雀門」と呼ばれ、「桝形」という四角い空間がありました。桝形は、典型的な防御構造で、その四角い空間は櫓や石垣に囲まれていました。敵は、強力な防御の下を屈曲した通路をくぐり抜けねばなりません。
After about a 10-minute climb, you will reach the entrance of the ruins. You have to climb another trail for a few minutes, then you will see the ruins of a dry moat and one of the turret gates. This gate was called “Suzume-mon” which had a square space called “Masugata”. Masugata refers to a typical defensive structure where the square space is surrounded by turrets and stone walls. Enemies have to survive through a zigzagged route under the strong defense.

城跡の入口~The entrance of the castle ruins
山道を進みます~Going on the trail
空堀~The dry moat
雀門跡~The ruins of Suzume-mon Gate

城の中心部分~Center of Castle

この城跡は、杉林によって隠されていて、少し変わった雰囲気があります。門を過ぎた後は、本丸に至るジグザグの道をまた進んでいきます。その道上にまた虎口郭門がありましたが、現在は何の痕跡もありません。本丸は、この城では最も広い郭です。ここには5つの棟を持つ御殿があり、また櫓や石垣に囲まれていました。
These ruins have a bit of a unique atmosphere, hidden from view by the cedar forest. After passing through the gate, you also have to go on another zigzagged route to reach the Main Enclosure. There was also the Entrance Enclosure Gate on the route, but there is no trace of it now. The Main Enclosure is the largest enclosure of the castle. It had the Main Hall with five houses and was also surrounded by turrets and stone walls.

城周辺の航空写真~The aerial photo around the castle

虎口郭門があったと思われる場所~The place where the Entrance Enclosure Gate seemed to be there
本丸~The Main Enclosure

天守郭は、本丸の隣りにあります。ここは山の頂点であり、天守がかつて立っていた天守台石垣の一部分がまだ残っています。頂上からは、杉林に囲まれた他の郭や、遥か彼方の他の山々が見えます。
Tenshu Enclosure is next to the Main Enclosure. It is the highest spot of the mountain and parts of the base of the stone walls still remains where the Main Tower once was. You can now see other enclosures surrounded by the cedar forest and other mountains far away from the top.

天守郭~Tenshu Enclosure
天守郭全景、現地案内板より~A whole view of Tenshu Enclosure, from the signboard at the site
山頂からの眺め~A view from the top

その後~Later History

宇陀松山城が破壊された後、織田氏がこの地域を治めましたが、城下町の辺りの館に住んでいました。また、春日門跡を修繕して館の門として使用しました。幕府は最終的には織田氏を他の所に移し、直接この地域を統治します。城下町は、商業の町として繁栄を続けました。
After the Uda-Matsuyama Castle was destroyed, the Oda Clan governed this area, but the clan lived in the hall around the castle town. They also repaired and used the Kasuga Gate Ruins as their hall’s gate. The Shogunate lastly governed the area after it transferred the Oda Clan to another place. The castle town continued to prosper as a commercial town.

春日門跡~The ruins of Kasuga-mon Gate (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)

1995年、宇陀市は城跡の発掘と研究を始めました。その結果、城には山の上に石垣を使った豪華な建物があったことがわかったのです。発掘の成果により、城跡は2006年に国の史跡に指定されました。
Uda City started to excavate and study the ruins of the castle in 1995. It found out that the castle was built using stone walls and had luxurious buildings on the mountain. The ruins were designated as a National Historic Site in 2006 due to the achievement of the excavation.

私の感想~My Impression

発掘や研究の方法は年々進化しています。現在建物がなくても城の建物がどのようなものであったか推測できるのです。今回の訪問と宇陀松山城についての研究により、私は過去にこのような立派な城があったことに本当に驚きました。
The methods of excavation and study have been improving. They have made it possible to speculate what buildings in a castle looked like even if there are no buildings now. From my visit and research about the Uda-Matsuyma Castle, I was actually surprised to learn that there was such a great castle in the past

天守郭の石垣~The stone walls of Tenshu Enclosure

更には、ある城が残るかどうかは、ほんの小さなことで違ってきてしまうことも知りました。宇陀松山城の場合、高晴がもう少し長く持ちこたえていれば、城跡は高取城のように少なくとも石垣くらいはまともに残っていたと思うのです。
In addition, I also learned that whether something of a castle can remain or not is sometimes based on very small things. In the case of the Uda-Matsuyama Castle, if Takaharu survived a little longer, the ruins of the castle would include at least with decent stone walls like Takatori Castle.

発掘された雀門跡周辺の石垣~The excavated stone walls around the ruins of Suzume-mon Gate

ここに行くには~How to get There

車で行かれる場合は、南阪奈道路の葛城ICから約40分かかります。まちづくりセンターに駐車場があります。
電車の場合は、近鉄大阪線の榛原駅から大宇陀行きのバスに乗って、終点で降りてください。
If you wish to visit there by car, it takes about 40 minutes from the Katsuragi IC on Minami-Hanna Road. There is a parking lot at the Town Planning Center.
When using the train, take the bus for Ouda from Haibara Station on Kintetsu Osaka Line, and get off at the last stop.

リンク、参考情報~Links and References

宇陀松山城跡、宇陀市(Uda City Official Website)
・鬼面百相、史跡宇陀松山城出土資料展パンフレット(Japanese Pamphlet)
・「日本の城改訂版第120号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)