148.浜松城 その1

徳川家康の出世城

立地と歴史

徳川家康の独立後の本拠地

浜松城は遠江国の中心地にあった城で、現在の静岡県西部にある浜松市に当たります。この城は、後に徳川幕府の創始者となる徳川家康が若かりし頃住んでいた場所として知られています。このことが、この城が「出世城」とも呼ばれている理由の一つとなります。浜松城の前身は、引間(ひくま)城と呼ばれており、天竜川の支流の近くにあった丘の上に築かれました。15世紀頃に築かれたようですが、誰が築いたかはわかっていません。戦国時代の16世紀前半には、駿河国(現在の静岡県中部)を本拠地としていた有力戦国大名、今川氏がこの城を勢力下に収めていました。

遠江国の範囲と浜松城の位置

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康はもともと、遠江国の西の三河国を本拠地としていて、今川氏の配下となっていました。今川氏の力が衰えると、家康は独立を果たし、遠江国に侵攻しようとしました。1568年、家康は引間城及び遠江国を手に入れることに成功しました。しかし、家康はこの城に満足しませんでした。彼は、遠江国のとなりの駿河国に侵攻した武田氏との来たるべき戦いに備える必要があったのです。家康はこの城を西方にあった丘の方にまで拡張し、浜松城という名前に改めました。浜松城の拡張した方の丘にはいくつもの曲輪があり、古い引間城は新しい城の一部となりました。これらの曲輪は土造りで、そこにあった建物は板葺きであったと考えられています。その当時の家康は、家康の同盟者の織田信長が築いた安土城のような城を築く先進的な技術やそのための職人集団を持っていなかったからです。

城周辺の起伏地図

家康時代の浜松城の想像図、現地説明板より
安土城の想像図(岐阜城展示室)

三方ヶ原の戦いの舞台

家康が浜松城に住んでいた時の最もインパクトがあった出来事は、何といっても1573年に起こった三方ヶ原の戦いでしょう。有力な戦国大名、武田信玄が家康や信長の領地に侵入し、二俣城などの家康の支城をいくつも奪取したのです。信玄は、浜松城の周りで示威行動を行い、家康を城から三方ヶ原におびき寄せました。家康は信玄の罠に引っ掛かり、完膚なきまでの敗戦を喫したのです。彼は、命からがら城に逃げ込みました。信玄の軍勢はやがて翌年の信玄の病死により引き上げていき、家康は事なきを得たのでした。この敗戦の後に家康のとった行動がいくつか伝えられています。一つは、信玄の軍勢が家康を追ってきたとき、家康は浜松城の門を開けたままにさせました。信玄の軍勢はこれを罠ではないかと怪しみ、引き上げていったというものです(いわゆる「空城の計」)。もう一つは、犀ヶ崖(さいががけ)と呼ばれる深い谷に布製の橋を渡し、信玄の軍勢に反撃を加えて、(本物の橋と誤認させることで)谷の底に突き落としたというものです。しかし、これらの話が本当のことだったかどうかはわかりません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵、16世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
敗走する家康軍のジオラマ(犀ヶ崖資料館)
犀ヶ崖古戦場

堀尾吉晴が城を改良

1590年に天下人の豊臣秀吉により家康が(現在の東京にある)江戸城に移されたため、秀吉配下の堀尾吉晴が浜松城を治めることになりました。吉晴は、丘上の天守曲輪に石垣と天守を築き、城を進化させました。現存している石垣と、天守台石垣は吉晴によって築かれたものです。しかし、天守がどのような姿をしていたかは全く不明です。それに関する記録がないからです。天守の屋根瓦と井戸が発掘されているのみです。歴史家は、1600年に堀尾氏が浜松から移された後に築いた松江城の現存天守のような姿をしていたのではないかと推測しています。双方の天守台石垣が似通っており、堀尾氏が松江城を築く際、浜松城の設計を参考にしたとも考えられるからです。

堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉晴時代の浜松城の想像図、現地説明板より
松江城

譜代大名の出世コース

家康は17世紀の初めに天下を掌握し、徳川幕府を創設しました。それ以来、浜松城は江戸時代を通じて9つの譜代大名家により受け継がれました。この城の城主は、度々老中などの幕府の要職の地位につきました。この城が「出世城」と呼ばれているもう一つの理由です。例えば、19世紀初頭に唐津城主であった水野忠邦は、浜松城主になることを志願しました。その結果、彼は浜松城主になるとともに、老中首座として天保の改革を主導しました。城自体に関して言えば、天守はやがて失われ、丘上には天守門だけが城のシンボルとして残りました。城の中心部は丘の傍らにある二の丸に移りました。そこには城主のための御殿があり、そこから城がある地の浜松藩を統治しました。

水野忠邦肖像画、東京都立大学図書情報センター蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
唐津城
江戸時代の浜松城の想像図、現地説明板より

「浜松城その2」に続きます。

147.高天神城 その1

武田氏と徳川氏の戦いの天王山

立地と歴史

城になるための山

高天神城は、現在の静岡県西部にあたる遠江国にありました。この城は土造りのシンプルな山城だったのですが、この国をコントロールするには絶妙な位置にありました。多くの戦国大名がこの城を手に入れようとした結果、この城で起こったことが中でも武田氏と徳川氏双方の運命に決定的な影響を及ぼしました。この城が築かれた山は、標高はわずか132mで、麓からは約100mの高さでした。しかし、その山の峰は複雑に入り組んでいて、且つ切り立っていました。その上に、山の頂上周辺はそれ程広くなく、そこからの眺望は抜群でした。これらの特徴は、少ない守備兵でも大軍の攻撃から城を守り抜けることにつながります。まさに城になるために存在しているような山だったのです。

遠江国の範囲と高天神城の位置

城周辺の起伏地図

高天神城想像図、現地説明板より

今川氏、徳川氏、武田氏による争奪戦

この城が最初にいつ築かれたか定かでありませんが、遅くとも16世紀前半には今川氏の勢力下となっていました。今川氏の勢力が衰えた後は、徳川家康がこの城を手に入れることに成功しました。有力な戦国大名、武田信玄もまたこの城を手に入れようとし、1571年にこの城を攻撃しました。しかし城を落とすことはできず、その後1572年に信玄は亡くなります。信玄の息子、武田勝頼は再度高天神城を攻略するため、1573年にこの城の北に橋頭保として諏訪原城を築きます。勝頼は1574年に高天神城に猛攻を加え、ついに守備兵が降伏することでこの城を手にしました。この時点で勝頼は、武田氏にとって最大の領土と(父親の信玄が果たせなかった高天神城を落としたことによる)最高の名声を得たことで、まさにそのパワーはピークに達していました。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
諏訪原城跡

ところがこの流れは、1575年に長篠城近くで起こった長篠の戦いで、勝頼が織田信長と家康の連合軍に惨敗したことで急激に変わってしまいます。家康はそして、高天神城を含む遠江国の領地の奪還のための反撃を一歩ずつ開始しました。1576年、最初に諏訪原城を勝頼より奪いました。この城はかつては、勝頼が高天神城を占領するための足固めとなったのですが、今度は家康が同じ目的のために使うことになったのです。家康は次に1578年に、自軍への補給のためと、勝家の高天神への補給を断つために、高天神城の西方に新しく横須賀城を築きました。一方武田方も高天神城の西側部分の曲輪の間に、土塁、空堀、堀切などを造成し、城を強化しました。その部分は他の山につながっていて、城の唯一のウィークポイントだったからです。最後の決戦の時が迫っていました。

長篠合戦図屏風部分、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
長篠城跡
横須賀城跡

家康の慎重な城攻め

勝頼とは違って、家康はこの城を強攻しませんでした。彼は恐らくそんなに簡単にはこの城を落とせないとわかっていたのでしょう。長い時間をかけて、この城を包囲すべく周りに多くの砦を築きました。それらは高天神六砦として知られています。小笠山(おがさやま)砦、能ヶ坂(のがさか)砦、火ヶ峰(ひがみね)砦、獅子ヶ鼻(ししがはな)砦、中村(なかむら)砦、三井山(みついやま)砦です。しかし実際には、20もの砦が築かれたのです。それぞれの砦には明確な役割が与えられていました。例えば中村砦は補給のため、火ヶ峰砦は武田の攻撃を防ぐため、山王山砦は城の包囲のため、などです。このことにより、高天神城は完全に孤立しました。

高天神城と高天神六砦、横須賀城の位置

獅子ヶ鼻砦跡

1580年、家康は満を持して高天神城への攻撃を開始しました。一方、勝頼は城への援軍を送ることが困難になっていました。勝頼の勢力は衰え、また他の敵(北条氏など)にも備える必要がありました。飢餓に陥った守備兵は家康に降伏を申し出ました。ところが、家康との同盟でリーダー格だった織田信長が受け入れませんでした。これは多くの戦いが起こった戦国時代においても稀なことでした。1581年、守備兵は最後の抵抗を期して城から打って出ましたが、撃退され、ついに城は落城したのです。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康と勝頼の運命の転換点

信長は、勝頼の権威を失墜させるため、勝頼が城を最後の瞬間まで助けられなかったことを見せつけたのだと言われています。事実、その次の年に信長が勝頼の領地に攻め入ったとき、勝頼のほとんどの家臣は戦わずして降伏するか、主人を見限って逃亡したのです。高天神城の戦いは、武田氏の滅亡を導いただけでなく、その後家康がついに天下人となるきっかけになったかもしれません。

高天神城跡遠景

「高天神城その2」に続きます。

137.福井城 その1

越前国の中心地

立地と歴史

北ノ庄城としてスタート

福井城は、福井県の県庁所在地である現在の福井市にありました。この都市の名前は、この城に由来しているのです。しかし、この城はもとは北ノ庄城と名付けられていました(北ノ庄とは、北にある荘園といった意味でしょうか)。有力な戦国大名、織田信長の部将であった柴田勝家が1575年に最初にこの城を築きました。現在の福井県の一部にあたる越前国を征服したときでした。

城の位置

柴田勝家像(現地説明板より)

後に天下人、豊臣秀吉となる羽柴秀吉が1583年にこの城を攻撃したとき、彼は書状にこの城には九層の天守があると記しました。しかし、本当に九層の天守だったかどうかは全く分かりません。当時の日本語では、九層という言葉は単に「多層である」ことを意味していたからです。勝家は不幸にも秀吉により倒されてしまい、北ノ庄城は燃やされ、破壊されてしまいました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
初期北ノ庄城の想像図(現地説明板より)

結城秀康が大藩の藩主として再建

1601年、最終的に天下人となった徳川家康の息子、結城秀康が北ノ庄藩の創始者として北ノ庄城を再建しました。秀康は、家康の後継者となった徳川秀忠の兄でした。ところが、彼は秀吉の元に(実質的には人質として)送られ、後には結城氏の跡継ぎ養子となりました。この理由は、彼が父親である家康から愛されていなかったからとも言われています。それでも秀康は、その父親が徳川幕府の創始者となる契機となった、1600年に起こった関ヶ原の戦いで大いに貢献したのです。家康はついに秀康を受け入れ、幕府における重要な役割を任せたのです。秀康は、幕府そのものを除いて、日本で2番目に大きな領地を治めることとなり、その石高は75万石に及びました。彼はまた、将軍の親戚であることを表す「松平」という姓を使うことも許されました。越前国は幕府にとってとても重要な地点であり、日本の首都である京都に近く、最大の領地を持つ前田氏に隣接していました。

福井城跡にある結城秀康の彫像
徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀康の父親、家康が北ノ庄城の一部の縄張りを行ったと言われています。本丸は城の中心部であり4層の天守と御殿があり、石垣と内堀に囲まれていました。二の丸、三の丸、外郭がその中心から同心円状に築かれました。これらの曲輪群は水堀によって隔てられていました。その結果、この城は4重場所によっては5重の水堀に囲まれることになったのです。この城には10基の櫓、40基の門が備わっていました。城の大きさは、約2km四方に達しました。

福井城本丸の想像図(現地説明板より)
現代の地図上に示した江戸時代の城の範囲(現地説明板より)

繁栄した越前松平氏

1604年に秀康が亡くなった後の1606年に城は完成しました。結城氏から改めた松平氏は、城と藩を江戸時代の終わりまで統治しました。その間、城と藩の名前は、第3代藩主の忠昌(ただまさ)によって「北ノ庄」から「福井」に改められました。天守は不幸にも1669年の火災により焼け落ちてしまいましたが、再建はされませんでした。第14代藩主の松平春嶽は、幕末と明治維新の頃、中央政府で活躍しました(幕府の政事総裁職、新政府の議定などを歴任)。

松平忠昌肖像画、福井市立郷土歴史博物館による展示 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松平春嶽写真、福井市立郷土歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ちなみに、秀康の子孫は大いに繁栄しました。秀康の息子たちから始まる分家の当主は江戸時代末までに、津山城松江城、前橋城、明石城の城主となりました。これらの分家は、福井城の城主を含めて、しばしば越前松平氏と呼ばれています。秀康の努力は、十分報われたと言えるのではないでしょうか。

津山城
松江城
明石城

「福井城その2」に続きます。