87.肥前名護屋城 その3

秀吉だけにこの戦いの責任があったのでしょうか。

特徴、見どころ

城の「裏側」も歩いてみましょう

また、本丸からは西の方角に、遊撃丸や二の丸を見下ろすことができます。前者には、明朝からの使節のための宿舎がありました。この曲輪の名前「遊撃」とは、使者の一人の官職名に由来しています。後者には、合坂(あいさか)と呼ばれる多くの石段からなる遺跡があります。これは、兵士たちが石垣を素早く登ったり降りたりするために使われました。

二の丸周辺の地図

本丸から見た遊撃丸
遊撃丸の内部
本丸から見た二の丸
二の丸に残る合坂

もし本丸からそちらの方に行くときは、搦手門跡から外に出て、本丸の周りを歩いて水手口と船手口を通りすぎていく必要があります。

名護屋城博物館の模型写真に本丸から二の丸へのルートを追記
本丸の搦手門跡
水手曲輪下(水手口周辺)
遊撃丸下を通ります
二の丸の入口(船手口周辺)

これらの曲輪から本丸の石垣を見上げてみると、その石垣がV字型に破壊されていることがよくわかると思います。これは行政側(佐賀県)が、石垣が意図的に壊された直後の状態を保存しようとしているからです。

遊撃丸から本丸天守台を見上げる
V字型に破壊された状態で保存されています

その後

肥前名護屋城が廃城となった後、全ての城の建物は撤去されました。その内の一部は、唐津城の建設に再利用されたと言われています。前述した通り、石垣の多くの部分が意図的に破壊されました。歴史家はこの石垣の破壊は以下のいずれかの理由によるものと推測しています。
・徳川幕府によって発せられた一国一城令によって実施された。
・島原の乱のように、幕府に反抗する勢力によって城が使われないようにするために石垣を壊した。
・朝鮮からの使者に友好関係を示すために実施された。
この城跡は、1955年以来国の特別史跡に指定されています。

唐津城
破壊された遊撃丸の石垣

私の感想

現在の日本の多くの人たちには、豊臣秀吉によって起こされた朝鮮侵攻について、あまり触れないようにしている傾向があります。また、現在の朝鮮との関係を鑑み、この戦争は秀吉個人の狂った考えから起こされたとも考えがちです。しかしながら、当時の多くの日本の人たちは、より多くの領土を欲していたと思うのです。秀吉でさえ、周りの人々の協力なしにはこのような巨大な規模の城は築けなかったでしょう。また、本当の歴史の共有なしには、外国との真の友好関係は築けないとも思うのです。
もしお時間があれば、城の周囲にある秀吉以外の大名が築いた陣屋跡も併せて訪ねてみてはいかがでしょう。私は肥前名護屋城の後、残念ながら1ヶ所しか行くことができませんでした。

城の搦手口
搦手口ルート下の石垣
毛利秀頼陣屋跡

ここに行くには

この城跡を訪れる際は、車を使われることをお勧めします。
西九州自動車道の唐津ICから約30分かかります。
佐賀県立名護屋城博物館の駐車場を使うことができます。

佐賀県立名護屋城博物館
博物館の駐車場周辺

リンク、参考情報

肥前名護屋城、肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会
佐賀県立名護屋城博物館
・「佐賀県立名護屋城博物館総合案内」
・「黒南風の海、「文禄・慶長の役」異聞/伊東潤著」株式会社コルク
・「よみがえる日本の城21」学研
・「逆説の日本史11 戦国乱世編/井沢元彦著」小学館

これで終わります。ありがとうございました。
「肥前名護屋城その1」に戻ります。
「肥前名護屋城その2」に戻ります。

87.肥前名護屋城 その1

秀吉の最大にして最後の野望

立地と歴史

朝鮮侵攻のための巨大な陣城

肥前名古屋城は、豊臣秀吉の朝鮮侵攻を進めるために築かれた陣城で、九州北西部にありました。秀吉は、16世紀後半に天下統一を成し遂げた天下人として知られています。彼は、1590年の小田原征伐にて、小田原城に立てこもる北条氏を下すことで統一を完成させました。ところが、天下統一の間もない1591年に、秀吉は中国征服を宣言し、日本中の大名たちにその準備をするよう命じました。秀吉配下の多くの大名や武士たちも、この新たな領地が得られる計画に賛同しました。天下統一後の戦がない中、日本国内では新たな領地を得ることができなかったからです。

城の位置

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小田原城

秀吉はまた、朝鮮に近い九州の地に陣城を築くよう大名たちに命じました。これが肥前名護屋城です。陣城とはそもそも一回限りで使われ、単純な作りでした。秀吉はかつて小田原征伐のときに、もう一つの豪華に作られた陣城である石垣山城を築きました。ところが、肥前名護屋城はさらに大きく、強力に作られました。その大きさは、秀吉の本拠地の大坂城に次ぐほどでした。この城の建設は、大名たちによる割り普請の結果、わずか8ヶ月で完了しました。約120の大名たちが集まり、城の周りに彼ら自身のための陣屋の建設も行いました。この城が築かれた場所は、もともと単なる漁村でした。ところが、ここは極めて短期間に日本有数の都市になったのです。20万人近くの兵士たちがこの軍事都市から朝鮮に渡り、10万人以上の人たちがここに留まりました。

石垣山城跡
大坂城
肥前名護屋城、城下町、各大名の陣屋敷地の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)

豪華かつ強力な作りの城

肥前名護屋城の一番高い場所には、天守と御殿を伴う本丸がありました。登城ルートは五つありました。主なものとしては、大手口、搦手口、そして山里口が挙げられます。大手口は、南方から本丸の東側にあった三の丸に、東出丸を経由して通っていました。本丸の大手門は、この三の丸に向かって開いていました。搦手口は、本丸の西側にあった二の丸の外側から始まっていました。ところが、このルートは直接本丸には至らず、その南側を回り込んで東側の三の丸に通じていました。歴史家の中には、こちらの方がより防御がしっかりしているため、搦手口こそが本当の大手口であったのではと推測しています。山里口は、三の丸より低く、またその北側にあった山里丸に通じていました。茶室が付属した秀吉の居館が、手前の方に建てられました。全ての曲輪は石垣で囲まれており、城を強固にするとともに、秀吉の権威を見せつけていました。

名護屋城模型の本丸及び天守部分
現地案内図に3つの主要登城ルートを加筆
名護屋城模型の秀吉居館部分(手前の方)

長引く戦いと秀吉の死による挫折

朝鮮侵攻は1592年に始まりました(文禄の役)。この戦いはもとは中国征服が目的でしたが、必然的にその途上にある朝鮮で戦いが起こりました。日本軍は、最初は短期間のうちに朝鮮のほとんどを占領しました。秀吉は、肥前名護屋城に居座り、そこから軍を指揮していました。彼はそのよい知らせを聞き、満足した様子で、中国と朝鮮をどのように分割するかということまで計画しました。ところが、中国の明王朝から派遣された援軍や、朝鮮の義勇兵や水軍による反撃により戦線は南朝鮮で膠着しました。1593年には明王朝からの使節が停戦交渉のために肥前名護屋城を訪れました。

1592年の釜山鎮の戦いを描いた「釜山鎮殉節図」 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日本の軍船、安宅船の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)
明軍の武器、フランキ砲の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)

この交渉は長期間続きました。しかし決裂し、1597年に戦いが再び朝鮮南部で起こりました(慶長の役)。戦意に乏しい日本軍は、無益な戦争を明軍と戦わねばなりませんでした。朝鮮の無辜の人民も多く殺されました。1598年の秀吉の死の直後、ようやく日本軍は朝鮮から引き上げました。この戦いの失敗は、豊臣氏の凋落と徳川幕府の設立を早める結果となりました。肥前名護屋城は、撤退とともに廃城となり、静かな場所へと戻っていきました。

1597年の蔚山城の戦いを描いた「蔚山籠城図屏風」部分、 福岡市立博物館所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「肥前名護屋城図屏風」、佐賀県立名護屋城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「肥前名護屋城その2」に続きます。

169.米子城~Yonago Castle

この城には2つの天守が並び立っていました。
Two main towers stood in a row at the castle.

立地と歴史~Location and History

海に面した城~A castle facing the sea

米子市は、中国地方の鳥取県西部にあり、ゆったりした雰囲気を感じる所です。戦国時代には中国地方のほとんどを毛利氏が支配していました。その一族である吉川広家は、天下人の豊臣秀吉に海の近くに新しい城を築くよう命じられ、それは1592年の秀吉の朝鮮侵攻の補給基地の役割がありました。この辺りは朝鮮に近かったからです。それが米子城でした。
Yonago City has a relaxed atmosphere, located in the western part of Tottori Prefecture, Chugoku Region. In the “Sengoku”, or Warring States Period, the Mori clan governed most of this region. Its relative Hiroie Kikkawa was ordered to build a new castle near the sea by the ruler Hideyoshi Toyotomi as a supply base for Hideyoshi’s invasion of Korea in 1592. Because the area is close to Korea. That was Yonago Castle.

城の位置~The location of the castle

この城は、湊山と呼ばれる90mの高さの山の上に築かれました。城の背後はちょうど中海に面しており、港として使われていました。初期の城に関する詳細は不明なのですが、頂上には4階の天守がありました。
The castle was built on a 90 m mountain called Minato-yama. The back of the castle just faced Nakaumi Lake, and was used as a port. The details regardomg the first castle are uncertain, but there was a four-story main tower or Tenshu on the top.

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

2つの天守が並ぶ~Two Main towers stands

徳川幕府が設立された後は、1600年に米子城と米子藩の領主として、中村一忠が配置されました。一忠は城と城下町の拡張を続け、完成させました。彼はまた、新しく元あった天守より大きな5階の天守を築きました。その当時、大きな天守を築くことが大名たちの間でブームとなっていました。民衆に権威を示すためです。既に古い天守があった場合には、大抵は置き換えられました。
After the Tokugawa Shogunate was established, they placed Kazutada Nakamura as the lord of Yonago Castle and the Yonago feudal Domain in 1600. He continued to improve and complete the castle along with the castle town. He also built a new five-story Tenshu that was larger than the old one. At that time, building large Tenshu was a boom for lords, as they tried to show their authority to people. If there was already an old Tenshu, it was often replaced with the new one.

中村一忠の彫像、観應寺蔵~The statue of Kazutada Nakamura, owned by Kannouji Temple(licensed by Reggaeman via Wikimedia Commons)

しかし、米子城の場合は、元あった4階の天守は残され、単に名前が副天守または四階櫓と変えられただけでした。つまりそれ以来、2つの天守が並び立っていたのです。何と勇壮な姿だったことでしょう。
However, in the case of Yonago Castle, the old four-story Tenshu remained and was just renamed the Sub Main Tower or the Four-Story Turret. That meant two Tenshu were standing in a row since then. They must have looked so great!

米子市立山陰歴史館にあるツイン天守の模型~A miniature model of twin main towers at Yonago municipal historical museum

鳥取藩の所有となる~Tottori feudal Domain owns

1609年、一忠は若くして亡くなり、彼には後継ぎとなる子どもがいなかったため、改易となってしまいました。最終的には米子は池田氏による鳥取藩に属することになります。池田氏は一時、当時の本拠地である鳥取城から、米子城に移り、ここを新本拠地にすることを検討しました。それだけ米子城が魅力的だったのですが、結局は中止になりました。結果、鳥取藩の家老である荒尾氏が米子城とその城下町を江戸時代いっぱい統治しました。
In 1609, Kazutada died young, then his clan was disbanded because he didn’t have children or successors. Lastly the Yonago area belonged to the Tottori feudal Domain owned by the Ikeda clan. The clan once considered Yonago Castle as their new home base by moving from their current home base, Tottori Castle. Yonago Castle was attractive to them, but the plan was canceled. Finally, the Arao clan, chief retainer of Tottori Domain governed Yonago Castle and the castle town until the end of the Edo Period.

米子城古図、鳥取県立博物館蔵~The old map of Yonago Castle, owned by Tottori Prefectural Museum(米子市 Website より引用)

特徴~Features

城周辺の地図~The map aroud the castle

頂上へ上る~Climbing up to the top

現在、米子城の城跡は湊山公園として残っています。基礎の上に石垣がありますが、現存する建物はありません。城を訪れる人は通常は城の正門であった大手門跡から頂上の方に上っていきます。他にもいくつか登り口があります。
Now, the ruins of Yonago Castle remain as Minato-yama Park. There are stone walls on their foundation, but with no remaining buildings. Visitors can usually climb up to the top from the ruins of the Main Gate or Ote-mon which was the front entrance of the castle. There are also several trails to climb.

大手門跡~The ruins of the Main Gate
向こうに見える長屋門は他から移されてきました~The long house style gate over there was moved from another place.

山はそれ程高くありませんので、15分か20分くらいあれば頂にある城の中心地に到達できます。
The mountain is not so high, so you can reach the center of the castle at the peak in around 15 to 20 minutes.

山頂への山道~A trail to the top

2つの天守台~The two stone wall bases for Tenshu

そこには2つの天守のための天守台石垣があります。新しい天守用の方は古い石を使い、三段積みの形式となっています。
There are stone wall bases for two Tenshu. The one for the new Tenshu has a three-layer style using older stones.

2つの天守台~The two stone wall bases for Tenshu
新しい天守用の三段積み石垣~The three-layer style stone walls for the new Tenshu

一方、古い天守(副天守)用には新しい石を使い、一層積みとなっています。これは、江戸時代後期に古い天守が大改装されたからです。この時、天守台が置き換えられたと言います。
On the other hand, the one for the old Tenshu (Sub Main Tower) has a single-layer style using newer stones. This is because the old Tenshu was renovated in the late Edo Period. It is said its base was replaced then.

古い天守用の一層積み石垣~The single layer style stone walls for the old Tenshu

本丸とその他の曲輪~Main and other enclosures

鉄門と呼ばれる正門跡を通り過ぎると、本丸に入っていきます。
Going through the front gate ruins called Kurogane-mon, you will enter the Main enclosure or “Honmaru”.

鉄門跡~The front gate ruins

この曲輪からは、城を囲む市街地、海そして山の素晴らしい景色を堪能できます。但し、周りに柵がありませんので、足元お気を付けてください。
From the enclosure, you can get a great view of the surrounding area such as the city, the sea and mountains, but watch your steps, because there are no fences.

本丸の眺め~A view of the Honmaru
本丸からの眺め~A view from the Honmaru
足元にお気をつけください~Watch your step

本丸には水手門という裏門もあり、かつては港につながっていました。
Honmaru also has the back gate ruins called Mizunote-mon which led to the port in the past.

水手門跡~The back gate ruins
かつて港だった場所~There was the port in the past

城には、他にも山麓に二の丸があり、内膳丸というのもありました。内膳丸は山の中腹なり、見張りや連絡のために使われました。最近の発掘調査により、かつてはこの曲輪から本丸にまっすぐ通じる石垣でできた通路があり、登り石垣と呼ばれました。歴史家は、朝鮮侵攻のときに日本軍が似たような仕組みを作ったことから、これは吉川氏がその時の経験を基に作ったのではないかと考えています。
The castle had other enclosures like the Second enclosure or “Ninomaru” on the foot and “Naizen-maru” enclosure. Naizen-maru is on the midslope and was used for observation and connection. A recent excavation found that this was the direct route made with stone walls called Nobori-Ishigaki from this enclosure to Honmaru in the past. Historians say it might have been built by Kikkawa from the experience of the invasion of Korea where Japanese warriors built similar systems.

内膳丸~Naizen-maru enclosure
内膳丸から本丸を見上げる~Looking up Honmaru from Naizen-maru

その後~Later History

明治維新後、米子城は廃城となり、元藩士に無償で譲渡されました。しかしながら、城をそのまま維持するは大変困難でした。すべての城の建物は、廃材として売られていきました。1933年、米子市が城跡を取得し、しばらくして湊山公園として整備しました。2006年に城跡は国の史跡に指定されました。それ以来、発掘調査が進められています。
After the Meiji Restoration, Yonago Castle was abolished and assigned to former warriors for free. However, it was too difficult for them to keep the castle as it had been. They had to sell all of the buildings in the castle as waste materials. In 1933, Yonago City owned the castle ruins, then developed them as Minato-yama Park after a whole. The ruins were designated as a National Historic Site in 2006. Since then, excavation and investigations have been ongoing.

登り石垣跡~The ruins of Nobori-Ishigaki(licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)

私の感想~My Impression

もし藩士たちが少しでも城の建物を残していてくれたらと思います。そうであったなら現在の松江城のようになっていたでしょう。どちらにしろ米子城跡に訪れる価値はあります。とてもゆったりできますし、観光客も市民も歴史を学ぶ場になります。
I wish the warriors could have kept some of the castle buildings so I could see them today like Matsue Castle. In any case, the ruins of Yonago Castle are still attractive. Visiting the ruins can be relaxing, an exercise and an opportunity to learn history for tourists and citizens.

2つの天守台を町から見上げる~Looking up the two Tenshu bases from the town

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:山陰自動車道米子西ICから約4kmです。公園に駐車場があります。
電車では、JR米子駅から歩いて約20分です。
米子空港から米子駅まで:米子空港駅から境線に乗るか、空港連絡バスに乗ってください。
If you want to go there by car: It is about 4 km from the Yonago-Nishi IC on San-in Expressway. The park offers a parking lot.
By train, it takes about 20 minutes on foot from JR Yonago station.
From Yonago Airport to Yonago station :Take the Sakai line from Yonago-Kuko station, or take the connecting bus for Yonago station.

米子駅~Yonago Station

リンク、参考情報~Links and References

国史跡 米子城跡(Yonago City Official Website)
・「歴史群像150号、戦国の城/伯耆米子城」学研(Japanese Magazine)
・「よみがえる日本の城6」学研(Japanese Book)