24.武田氏館 その3

山梨県有数の観光地

その後

明治維新後、山梨県の人たちは武田信玄の業績の顕彰を始めました。更には、1905年の日露戦争での日本の勝利の後、信玄のような軍神を祀ることが推奨されました。結果として、1919年に武田氏館跡に武田神社が創建されました。この神社と信玄は今では県のシンボルとなり、観光名所となっています。

武田神社
武田神社の鳥居

私の感想

武田氏館跡を訪れてみて、信玄を含む武田氏は、彼らの本拠地を強化することに大変な労力を注いだことが理解できました。ただ実は、この館は信玄のような偉大な戦国大名にしてはやはり少し小さいのではないかと思います。その理由として、信玄は攻撃は最大の防御であると考えていたのではないでしょうか。信玄は彼の生涯を通じて領土を拡張しようとしました。城のスタイルは、よくその創始者や持ち主の性格を表しているとも思うのです。

甲府駅前にある武田信玄銅像 (licensed by そらみみ via Wikimedia Commons)
武田氏館西曲輪入口

ここに行くには

車で行く場合:
中央自動車道の甲府昭和ICから約30分かかります。
武田神社近くに駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、甲府駅から歩いて30分か、武田神社行きの山梨交通バスに乗ってください。
東京から甲府駅まで:新宿駅で特急あずさ号かかいじ号に乗ってください。

リンク、参考情報

信玄公のまち、古府を歩く(甲府市)
・「武田信玄 伝説的英雄からの脱却/笹本正治著」中公新書
・「日本の城改訂版第20号」デアゴスティーニジャパン
・「列島縦断「幻の名城」を訪ねて/山名美和子著」集英社新書

これで終わります。
「武田氏館その1」に戻ります。
「武田氏館その2」に戻ります。

24.武田氏館 その1

人は城、人は石垣、人は堀だったのでしょうか?

立地と歴史

武田信虎が守護所として築城

躑躅ヶ崎館とも呼ばれた武田氏館は、現在の山梨県の県庁所在地である甲府市にありました。この館が甲府市発祥の地だと言えるのです。甲斐国(現在の山梨県)の守護であった武田信虎が1519年に最初にこの館を作りました。館は、守護の公邸ということだけでなく、武田氏の本拠地でもありました。よって、日本の城の一つとして分類されています。

武田信虎肖像画、武田信廉筆、大泉寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その立地は、北側に山が控えていて、南側にはその周辺から扇状地が広がっていました。信虎は城下町やその周辺地を見渡すことができました。彼は、館を一辺が200m近くある方形の曲輪の上に築き、土塁と水堀で囲みました。これは当時の日本の守護の典型的な館の築き方で、京都の将軍の御所にあやかったものでした。更に、彼は館の北、約2kmの所にある山にもう一つの城を緊急事態のときのために築き、要害山城と呼ばれました。例えば、信虎とその家族は、戦いが起こったときは館からこの山城に避難できたわけです。実際に、彼の息子、武田信玄は1521年の信虎と今川氏との戦いの最中に要害山城で生まれました。これらの城のネットワークは、当時としては安全を確保するための十分な防御態勢だったのです。

城の位置

武田信玄の言葉と城との関係

日本の最も有力な戦国大名の一人であった武田信玄もまた、1551年に家族と関係者のための西曲輪を加えるなど、館を拡張しました。それ以外に、丸く突き出た形の防御陣地である馬出しが、東側の大手門の前に築かれました。また、北側には信玄の母の館が築かれたと言われています。それぞれの曲輪は10m近い高さの土塁と5mの深さがある水堀に囲まれていました。

武田氏館の想像図(現地説明板より)

ところが、この館は多くの人たちに誤解されているようなのです。これは、江戸時代の17世紀の軍学書である甲陽軍艦に記載されている信玄の言葉「人は城、人は石垣、人は堀・・」から来ているのです。この言葉の意味するところは強い城を築くより人の心を掴むことが大事ということなのですが、後の多くの人たちは、これを信玄が、織田信長や上杉謙信のような他の戦国大名と比べて、なぜこのような小さな城しか持たなかったかということへの理由として考えているのです。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

武田氏館自体は、信長の安土城や謙信の春日山城より随分小さいものです。しかし、それはその時代や状況が異なっていたからです。信玄の場合は、館は守護の公邸としてスタートしました。当時としては、このような館が守護の住む所として普通でした。武田氏はこれに、城のネットワークや馬出しを状況に応じて加えていったのです。彼らとしてはそれで十分でした。

武田氏館跡

武田勝頼が本拠地を移す

1582年、信玄の息子、武田勝頼は本拠地を大きな新しい城、新府城に移すことを決めました。状況が変わったからです。勝頼は信長の脅威に直面しており、武田氏館より強力で大きな城を必要としていたのです。武田氏館は一時廃城となります。勝頼は、不幸にも信長により滅ぼされてしまい、武田氏館は織田氏や徳川氏により再び使われることになりました。1590年、徳川氏が近くに甲府城を築いたときに武田氏館はついに最後のときを迎えました。

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「武田氏館その2」に続きます

26.松代城~Matsushiro Castle

中世と近世が同居している城
A castle mixed with the Middle Ages and the Modern times

立地と歴史~Location and History

武田信玄の本陣~Stronghold for Shingen Takeda

長野県長野市にある松代城は、真田氏の城下町として有名な観光地です。この城には長い歴史があります。16世紀に武田氏が最初に築城し、その頃は海津城と呼ばれていました。この城の建設の理由は、近くの川中島が越後国(現在の新潟県)の上杉氏との最前線であったからです。城は北側が千曲川に接していて、土塁や水堀に囲まれていました。また、城の門の外側には馬出しという武田氏独特の防御システムが備えられていました。城は実際に、1561年の非常に有名な上杉謙信との川中島の戦いにおいて武田信玄の本陣として使われました。
Matsusshiro Castle is a famous attraction in Nagano City, Nagano Prefecture, which was known as a Sanada Clan castle town. The castle has a long history. It was first built by the Takeda Clan in the late 16th Century and was called Kaizu Castle. The reason for the construction was that the area nearby called Kawanakajima was the front line against the Uesugi Clan in Echigo Province (what is now Niigata Prefecture). The castle bordered Chikuma-gawa River on the north and was surrounded by earthen walls and water moats. It is also said that it was equipped with the Takeda Clan’s unique defense system called Umadashi outside the castle gates. The castle was actually used as the stronghold for Shingen Takeda when he fought with Kenshin Uesugi in the very famous fourth Battle of Kawanakajima in 1561.

城の位置~The location of the castle

城内にある「海津城」の碑~The monument of “Kaizu Castle” in the castle
川中島古戦場にある武田信玄と上杉謙信の銅像~The statues of Shingen Takeda and Kenshin Uesugi at the Kawanakajima Battlefield (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

真田氏による統治~Governance by Sanada Clan

1582年に武田氏が織田氏により滅ぼされた後は、この城の城主は何度も変わりました。最終的には真田氏が、城と城下町を含む松代藩を1622年から江戸時代末まで支配しました。また、1711年には徳川幕府により、城の名前が松代城と変更されました。城はそれまでに改修が続けられます。例えば、城の中心地である本丸は、内堀とともに石垣によって囲まれました。石垣の四隅の上には4基の櫓が築かれ、3基の門が本丸の入口に設置されました。本丸の内部には御殿があり、城主が住んでいました。一方、外堀とともに本丸と内堀を囲む二の丸は、まだ土塁があるだけでした。また、恐らくは武田時代に由来する馬出しも残っていました。
After the Takeda Clan was defeated by the Oda Clan in 1582, the lords of the castle were changed several times. The Sanada Clan finally governed the Matsushiro Domain including the castle and the castle town from 1622 until the end of the Edo Period. The castle was also renamed Matsushiro Castle by the Tokugawa Shogunate in 1711. The castle continued to be improved until then. For example, the center of the castle called the Main Enclosure was surrounded by stone walls with the Inner Moat. Four turrets were built on the four corners of the stone walls, and three gates were set at the entrances of the enclosure. The Main Hall was inside of the enclosure where the lord lived. On the other hand, the Second Enclosure with the Outer Moat surrounding the Main Enclosure and InnerMoat still had the earthen walls. The Umadashi system which probably originated in Takeda’s period, also remained.

城の想像図(正面)~The imaginary drawing of the castle (the front) (現地説明板より~from the signboard at the site)
城の想像図(背面)~The imaginary drawing of the castle (the back) (現地説明板より~from the signboard at the site)

新しい御殿~New Main Halls

しかしながら、この城の川に近い立地は防御には有利でしたが、統治や居住には不利でした。城は洪水の被害に何度も見舞われました。火災による被害もあり、真田氏は居宅を城の中心地から南西部分に移すことを決め、花の丸御殿を建設します。江戸時代末には城から離れた地に、親族関係者(婦女子)のための新御殿も建てました。
However, this castle’s location near the river was positive for defense, but negative for governance and living. The castle suffered damage from floods several times. It was also damaged by fires, so the Samada Clan decided to escape their home from the center of the castle to the southwest part, building Hananomaru Main Hall. The clan also built the New Main Hall for their relatives (women and children) far from the castle at the end of the Edo Period.

新御殿~The New Main Hall

特徴~Features

江戸時代末期のように復元~Restored like End of Edo Period

現在、松代城の中心部は以前の姿に似通って見えます。本丸の石垣のみが現存しているのですが、本丸の2つの門、内堀と2つの橋、そして二の丸を囲む土塁さえもが長野市によって復元されています。市の関係者によると、江戸時代末期の姿を再現したということです。
Now, the center of Matsushiro Castle looks similar to its former appearance. Only the stone walls of the Main Enclosure are original, but two gates to the Main Enclosure, the Inner Moat with two bridges, and even earthen walls surrounding the Second Enclosure have been restored by Nagano City. The city officials say they tried to restore the castle to show its appearance at the end of the Edo Period.

復元された本丸~The restored Main Enclosure

城周辺の航空写真~The aerial photo around the castle

対照的な二の丸と本丸~Contrastive Second and Main Enclosures

観光客は通常、二の丸の入口である南門跡から城に入っていきます。この門跡は、復元された土塁に囲まれていて、その近くには馬出しの痕跡がわずかに残っています。この土塁と本丸の石垣はとても対照的です。それぞれが元々は別の時代に作られたからです。土塁は中世の戦国時代に由来し、石垣は主に江戸時代に作られました。
Visitors usually enter the castle through the ruins of the South Gate, the entrance of the Second Enclosure. The ruins are surrounded by the restored earthen walls and the trace of the Umadashi system slightly remains nearby. The earthen walls and the stone walls of the Main Enclosure are very contrastive because both of them come from different periods. The earthen walls are from the Sengoku Period of the Middle Ages and the stone walls are mainly from the Edo Period of the Modern Times.

南門跡~The ruins of the South Gate
復元された二の丸~The restored Second Enclosure

本丸へは内堀にかかっている橋を渡り、太鼓門を通って入ります。これらは皆復元されたもので、城の新しいシンボルになりました。本丸の内側は1717年の大火以降は空き地になっています。角にあった4つの櫓は復元されていませんが、石垣は残っています。北西角のものは一番大きく、櫓の以前には天守が立っていたのではないかと言われています。また、この櫓の石垣とその積み方は他のものよりは古風であり、とても荒々しく見えます。櫓台の上に階段で登り、城周りの景色を見ることができます。
You can enter the Main Enclosure through the Taiko-mon Gate after crossing the bridge over the Inner Moat. These structures have all been restored and have become new symbols of the castle. The inside of the Main Enclosure has remained empty since the great fire in 1717. The four turrets on the corners have not been restored, but their stone wall bases remain. The northwest one is the largest and it is said that the Main Tower might have stood on it before the turret. Its stone walls and the method for piling them are also older than other stone walls, so they look very rough. You can go up the stairs to the top of the base to see a view around the castle.

太鼓門~The Taiko-mon Gate
本丸の内部~The inside of the Main Enclosure
北西櫓石垣(内側)~The stone walls for the Northwest Turret (the inside)
北西櫓石垣(外側)~The stone walls for the Northwest Turret (the outside)

独特な構造~Unique Structures

本丸の北側にはもう一つの復元された北不明門があります。その門をくぐっていくと、本丸を囲んでいる二の丸に戻っていきます。二の丸の北外側は、かつては千曲川でした。江戸時代に洪水を防ぐため、川の流路が替えられたのです。面白いものとしては、埋門という復元された小さな門が二の丸の土塁の所にあります。土塁に通した穴の中に組み込まれていますが、戦が始まったときには埋められるようになってました。
The northern side of the Main Enclosure has another restored gate called Kita-Akazu-mon. You can go through the gate back to the Second Enclosure surrounding the Main Enclosure. The outside of the Second Enclosure on the north was the Chikumagawa-River in the past. The route of the river was changed in the Edo Period to prevent floods. There is an interesting small, restored gate called Uzumi-mon in the earthen walls of the Second Enclosure. It was originally set in a hole through the walls which would have been filled when a battle happened.

北不明門(櫓門部分)~The Kita-Akazu-mon Gate (the turret gate part)
北不明門(表門部分)~The Kita-Akazu-mon Gate (the front gate part)
二の丸の北外側~The outside of the Second Enclosure on the north
復元された埋門~The restored Uzumi-mon Gate

その後~Later History

明治維新後、松代城は廃城となり、ほとんどの建物は売られるか撤去され、ほとんどの土地は元藩士に分け与えられ農地となりました。1904年、元藩主であり新御殿に住んでいた真田家は土地の一部を買い戻し、城跡を公園として公開しました。最終的には1951年にその土地を公共のものとして寄付しました。1981年には城跡は国の史跡に指定されましたが、当時は城の中心部に石垣だけが残っている状態でした。長野市は城跡を調査しいくつかの門、橋、土塁、水堀の復元を開始します。その復元は2004年に完了し、現在私たちは城が過去どのような姿であったか目にすることができるのです。
After the Meiji Restoration, Matsushiro Castle was abandoned, most of its buildings were sold or demolished, and most of its land was divided by former warriors to be turned into farm. In 1904, the former lord of the castle, the Sanada Clan, living in the New Main Hall, bought part of the land back to open the ruins of the castle as a park. The clan lastly donated the land to the officials in 1951. The ruins of the castle were designated as a National Historic Site in 1981, but only the stone walls remained at the center of the castle at that time. Nagano City investigated the ruins and started to restore some of gates, bridges, earthen walls and water moats. The restoration was completed in 2004 and we can now see what the castle looked like in the past.

復元中の城跡~The castle ruins being restored
復元後の城~The castle after the restoration

私の感想~My Impression

松代城には、異なる時代の異なる特徴が同居しており、独特の雰囲気があると思います。石垣と土塁の面白い組み合わせを見ることができるからです。加えて、城から250m南にある真田邸をご覧になることをお勧めします。真田邸は実は新御殿の現在の名前なのです。城に関連する数少ない現存建物の一つです。これもまた国の史跡となっています。もともと藩主の近親者のために作られたものなので、その内装はとても優雅です。
I think that Matsushiro Castle has a unique atmosphere because it has different perspectives from different periods. You can see the interesting combination of its stone walls and earthen walls. In addition, I recommend that you visit the Sanada Hall, about 250m south of the castle. In fact, Sanada Hall is the present name of the New Main Hall, one of the few remaining buildings that form part of the castle. It is also designated as a National Historic Site. Its interior is very elegant as it was first built for the lord’s relatives.

本丸の石垣~The stone walls of the Main Enclosure
二の丸の土塁~The earthen walls of the Second Enclosure
真田邸の内装~The interior of the Sanada Hall
真田邸の御居間~The living room of the Sanada Hall
真田邸の縁側と庭園~The veranda and garden of the Sanada Hall

ここに行くには~How to get There

上信越自動車道の長野ICから約5分のところです。城の周りにいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、長野駅からバスに乗り、松代駅バス停で降りてください。
It takes about 5 minutes from Nagano IC on Joshinetsu Expressway. There are parking lots around the castle.
If you want to go there by public transportation, take the bus from Nanano Station and get off at the Matsushiro-eki bus stop.

リンク、参考情報~Links and References

松代城の環境整備、長野市(Nagano City Official Website)
・よみがえる日本の城14、学研(Japanese Book)
・「日本の城改訂版第7号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)