24.武田氏館 その1

人は城、人は石垣、人は堀だったのでしょうか?

立地と歴史

武田信虎が守護所として築城

躑躅ヶ崎館とも呼ばれた武田氏館は、現在の山梨県の県庁所在地である甲府市にありました。この館が甲府市発祥の地だと言えるのです。甲斐国(現在の山梨県)の守護であった武田信虎が1519年に最初にこの館を作りました。館は、守護の公邸ということだけでなく、武田氏の本拠地でもありました。よって、日本の城の一つとして分類されています。

武田信虎肖像画、武田信廉筆、大泉寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その立地は、北側に山が控えていて、南側にはその周辺から扇状地が広がっていました。信虎は城下町やその周辺地を見渡すことができました。彼は、館を一辺が200m近くある方形の曲輪の上に築き、土塁と水堀で囲みました。これは当時の日本の守護の典型的な館の築き方で、京都の将軍の御所にあやかったものでした。更に、彼は館の北、約2kmの所にある山にもう一つの城を緊急事態のときのために築き、要害山城と呼ばれました。例えば、信虎とその家族は、戦いが起こったときは館からこの山城に避難できたわけです。実際に、彼の息子、武田信玄は1521年の信虎と今川氏との戦いの最中に要害山城で生まれました。これらの城のネットワークは、当時としては安全を確保するための十分な防御態勢だったのです。

城の位置

武田信玄の言葉と城との関係

日本の最も有力な戦国大名の一人であった武田信玄もまた、1551年に家族と関係者のための西曲輪を加えるなど、館を拡張しました。それ以外に、丸く突き出た形の防御陣地である馬出しが、東側の大手門の前に築かれました。また、北側には信玄の母の館が築かれたと言われています。それぞれの曲輪は10m近い高さの土塁と5mの深さがある水堀に囲まれていました。

武田氏館の想像図(現地説明板より)

ところが、この館は多くの人たちに誤解されているようなのです。これは、江戸時代の17世紀の軍学書である甲陽軍艦に記載されている信玄の言葉「人は城、人は石垣、人は堀・・」から来ているのです。この言葉の意味するところは強い城を築くより人の心を掴むことが大事ということなのですが、後の多くの人たちは、これを信玄が、織田信長や上杉謙信のような他の戦国大名と比べて、なぜこのような小さな城しか持たなかったかということへの理由として考えているのです。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

武田氏館自体は、信長の安土城や謙信の春日山城より随分小さいものです。しかし、それはその時代や状況が異なっていたからです。信玄の場合は、館は守護の公邸としてスタートしました。当時としては、このような館が守護の住む所として普通でした。武田氏はこれに、城のネットワークや馬出しを状況に応じて加えていったのです。彼らとしてはそれで十分でした。

武田氏館跡

武田勝頼が本拠地を移す

1582年、信玄の息子、武田勝頼は本拠地を大きな新しい城、新府城に移すことを決めました。状況が変わったからです。勝頼は信長の脅威に直面しており、武田氏館より強力で大きな城を必要としていたのです。武田氏館は一時廃城となります。勝頼は、不幸にも信長により滅ぼされてしまい、武田氏館は織田氏や徳川氏により再び使われることになりました。1590年、徳川氏が近くに甲府城を築いたときに武田氏館はついに最後のときを迎えました。

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「武田氏館その2」に続きます

150.古宮城~Furumiya Castle

この城は武田氏の最前線にありました。
This castle was on the frontlines of the Takeda clan.

立地と歴史~Location and History

信玄が作った橋頭堡~Shingen mede a bridgehold

古宮城は、現在の愛知県新城市にあたる作手高原の上にありました。この地域は、戦国時代には徳川氏が本拠としていた三河国に属していました。有力な戦国大名、武田信玄は甲斐国(現在の山梨県)から三河国を侵略しようとしました。彼はそのための橋頭堡を築いたと言われています。それが古宮城でした。
Furumiya Castle was located in Tsukurite hills in what is now Shinshiro city, Aichi Pref. This area belonged to Mikawa Province where the Tokugawa clan was based during the “Sengoku” or Warring States Period. Shingen Takeda, a strong warlord from Kai Province (now Yamanashi Pref) aimed to invade Mikawa Province. It is said that he built a bridgehead for it. That was Furumiya Castle.

城の位置と三河国の範囲~The location of the castle and the range of Mikawa Province

古宮城遠景~A distant view of Furumiya Castle(新城市Websiteより引用)

勝頼が完成させる~Katsuyori completed it

信玄の死後、彼の息子勝頼は1574年、再度試み、そのため古宮城を改良、完成させました。この城は比高が30mしかない宮山という小山にありましたが、地域を見渡せる場所です。一般に城は戦いのためだけでなく、居住、統治、そしてシンボルとしても使われました。古宮城は戦さに特化しており、500名くらいの兵が駐屯していたようです。この地域は武田と徳川との間で緊張状態にあり、兵士たちは常に臨戦態勢にありました。
After Shingen died, his son Katsuyori tried again in 1574, therefore he improved and completed the castle. The castle was on a small hill called Miya-yama which is just 30m relative height, but it overlooked the entire area. Castles were usually used not only for battle, but also for residence, governance, and as a ​symbol. Furumiya Castle was specialized for battle, with an estimated garrison of 500 soldiers. This area was under tense conflict between the Takeda and Tokugawa. The soldiers seemed under arms all the time.

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵、16世紀後半~The Portrait of Katsuyori Takeda, ownd by Koyasan Jimyoin, in the late 16th century(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

勝頼の敗戦により終焉~Katsuyori’s defeat ended it

勝頼は、三河国の東、遠江国にあった高天神城を手に入れ、1575年5月に古宮城と同じ国あった長篠城を攻撃しました。彼は、徳川、そして同盟関係にあった織田氏に決戦を挑み、倒そうとしました。ところが、逆に完全に返り討ちにあってしまいます。勝頼は何とか本拠に逃げ帰ることができましたが、多くの家臣や兵士を失いました。彼は二度と三河国に戻ってくることはありませんでした。古宮城は、長篠の戦いの後、放棄されたか、徳川に占拠されたようです。
Katsuyori captured Takatenjin Castle in Totoumi Province the east of Mikawa Province, and attacked Nagashino Castle in the same province as Furumiya Castle in May 1575. He aimed to invite Tokugawa and their allies, the Oda clan, to a showdown, and defeat them. However, he was completely countered by them instead. Katsuyori was somehow able to escape back to his home, while a lot of retainers and soldiers were lost. He would never return to Mikawa Province, so Furumiya Castle seemed to be abandoned or taken by the Tokugawa after the Battle of Nagashino.

長篠合戦図屏風部分、徳川美術館蔵~Part of “Battle of Nagashino”folding screens, owned by Tokugawa Art Museum(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

特徴~Features

城跡の概要~The overview of the ruins

城跡の航空写真にコメントとラインを付加~The aerial photo of the ruins adding my comments and lines(出典:国土地理院)

現在、古宮城跡には現存建物はなく、木々に覆われていますが、土造りの基礎が武田氏の築城法をよく残していると言われています。この城は、深い空堀により東西の部分に分かれています。
Now, the ruins of Furumiya Castle have no standing buildings and is covered with trees, but it is said that its foundation made of earth shows the Takeda clan’s method of building castles. The castle was divided into an eastern and western part by a deep dry moat.

深い空堀~The deep dry moat

主要な曲輪~Primary enclosures

東部分には、恐らくは司令部があった「主郭」がありました。その入り口は「桝形」と呼ばれ、厳重な防御のため四角く区切られていました。西部分には「二の曲輪」があり、主郭から突き出ていて、空堀を渡るただ一本の土橋によりつながっていました。この構造は、武田独特の防御システムである「馬出し」に似ています。
The eastern part had the Main Enclosure or “Shukaku” where probably the command post was. Its entrance was made in square shaped for strict defense called “Masugata”. The western part had the Second Enclosure or “Nino-Kuruwa” which sticks out from Shukaku and is just connected by one earthen bridge across the dry moat. This structure is similar to Takeda’s unique defense system called “Umadashi”.

主郭の入口「桝形」~The entrance of the Main Enclosure called “Masugata”
二の曲輪~The Second Enclosure
主郭と二の曲輪を結ぶ土橋~The earthen bridge connecting the Main and Second Enclosures

厳重な防御~Its strict defence system

この部分は西側にある道路に向かって大手口が開いていたようです。訪問者でも敵でも二の曲輪に達するためには曲がりくねった道を登っていく必要がありました。特に、二の曲輪の北西側には空堀が何重にも取り巻いていました。武田が、徳川がこの方角から攻めてくると思ったからかもしれません。
The part seemed to open the main entrance to a road in the western direction. Visitors or enemies would have to climb up winding routes to reach Nino-Kuruwa. In particular, there were multiple dry moats in the north-west of the enclosure, as Takeda might have thought that Tokugawa would attack this castle from the direction.

二の曲輪の土塁~The earthen walls of the Second Enclosure
多重空堀の一部~One of the multiple dry moats

城跡の楽しみ方~How to enjoy the ruins

現在の城跡入り口は神社の脇にあり、元あった場所とは異なります。この入り口を通って、主郭に向けて直接登って行くことができます。城のレイアウトは、これまで述べた通り残っています。城を理解するポイントを押さえておけば、城は昔はどんな風だったのか想像する楽しみがあります。
The present entrance the ruins is set beside a shrine at a different place from the original. You can go straight up to Shukaku through the entrance. The layout of the castle remains as mentioned above. If it is possible to keep the key points of the castle in mind, you can also enjoy imagining how the castle was in the past.

現在の城跡入り口~The present entrance of the ruins
主郭は入口のすぐ近くです~The Main Enclosure is close to the entrance

その後~Later History

古宮城がは廃城となってからは、1617年には山麓に古宮白鳥神社が設立されました。作手高原は過去においては大方湿地帯でした。そのため白鳥がよく見られたそうです。この地期の人たちは白鳥を愛し、それに関わる神社を設立したのです。城跡は、この神社のおかげで長い間維持されてきたようです。
After Furumiya Castle was abandoned, Furumiya-Shiratori Shrine was established at the foot of the hill in 1617. Tsukurite hills was mainly waterlogged in the past, so cranes could be seen at that time. People in the area loved them and established many shrines related with them (Shiratori means crane). The ruins of the castle seemed to have been kept by these shrines for a long time.

古宮白鳥神社~Furumiya-Shiratori Shrine

私の感想~My Impression

古宮城跡には、現存建物も、石垣も、案内所さえもありません。歴史家は、古宮城には元々小屋、簡単な櫓、木柵くらいしかなかっただろうと推測しています。更には外側から見れば城跡は木がこんもりした小山にしか見えないかもしれません。でも一旦中に入って城の痕跡に気づけば、武士や作業者たちががこの城を築くのにどんなに大変だったか見て取れるでしょう。城を見ることの面白さの一つは、限られた資材や資源を基に、城がいかに効率的に、しかし強力に作られたか理解することだと思うのです。
Frumiya Castle Ruins don’t have any standing buildings, stone walls, or even a guide house. Historians speculate that even the original Furumiya Castle had just huts, simple turrets, and wooden fences. In addition, you may think the ruins look like a hill with forests from the outside. But once you have realized the traces of the castle inside, you can see how hard the warriors and workers made efforts to build the castle. I think that one of the most interesting things to see castles is to understand how they are built efficiently but strongly using limited materials and resources.

主郭から二の曲輪を見下ろす~Looking down the Second Enclosure from the Main Enclosure

ここに行くには~How to get There

ここに行くには車がおすすめです。新東名高速道路の新城ICから国道151号と301号を通って約40分程です。神社の前に小さいですが、駐車スペースがあります。
公共交通機関を利用する場合には、新城駅近くの新城栄町バス停で新城市バス(作手線)に乗り、鴨ヶ谷口バス停で降りてください。バス停から徒歩約10分で現地に着きます。
東京、名古屋または大阪から新城駅まで:東海道新幹線で豊橋駅まで行き、JR飯田線に乗り換えてください。
I recommend using a car to get there. It takes about 40 minutes from the Shinshiro IC on Shin-Tomei Expressway through Route 151 and 301. There is a small parking lot in front of the shrine.
If you want to use public transportation, take the Shinshiro city bus (Tsukurite line) at the Shinshiro-Sakaemachi bus stop near Shinshiro station, and get off at the Kamogayaguchi bus stop. It takes about a 10-minutes walk from the bus stop to get there.
From Tokyo, Nagoya or Osaka to Shinshiro st.: Take the Tokaido Shinkansen super express to Toyohashi Station, and transfer for JR Iida line.

リンク、参考情報~~Links and References

古宮城跡、新城市Komiya ruin of a castle, Shinshiro City
・「歴史群像143号、戦国の城/三河古宮城」学研(Japanese Magazine)
・「趣味どきっ/お城へ行こう! 第二の陣 武田氏の城造り」NHK、2016年(Japanese TV Program)

46.長篠城~Nagashino Castle

この場所が日本の歴史を大きく動かしました。
This place had a large role in Japanese history.

立地と歴史~Location and History

勝頼、長篠城を狙う~Katsuyori tries to get the castle

長篠城は三河国(愛知県の東側に相当)の山側に位置しており、二つの川の合流地点にある崖の上に築かれました。城そのものよりも、1575年の長篠の戦いによって有名なのかもしれません。
Nagashino Castle was located in a mountain side of Mikawa Province (what is the eastern part of Aichi Pref.), on a cliff at the meeting point of two rivers. It may be more famous for the battle of Nagashino in 1575 than for itself.

城の位置と三河国の範囲~The location of the castle and the range of Mikawa Province

戦国時代の1574年、武田勝頼は遠江国にある高天神城を徳川家康より奪いました。武田は東方にある甲斐国(山梨県)と駿河国(静岡県の中部)を領しており、徳川は西方にある遠江国(静岡県西部)と三河国を有していました。勝頼は、高天神城の更に西方にある長篠城を手に入れようとします。家康にとっては脅威でした。そして盟友の織田信長に援軍を要請します。
In 1574, the “Sengoku” or Waring State Period, Katsuyori Takeda took Takatenjin Castle in Totoumi Province away from Ieyasu Tokugawa. Takeda owned Kai (Yamanashi Pref.) and Suruga (mid Shizuoka Pref.) Provinces in the east, and Tokugawa had Totoumi (west Shizuoka Perf) and Mikawa Provinces in the west. Katsuyori aimed to capture Nagashino Castle, further west than Takatenjin. That was a threat to Ieyasu. He asked his ally, Nobunaga Oda for help.

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵、16世紀後半~The Portrait of Katsuyori Takeda, ownd by Koyasan Jimyoin, in the late 16th century(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

勝頼、決戦を挑む~Katsuyori wants a decisive battle

1575年5月、勝頼は医王寺にある丘に本陣を置き、武田騎馬隊を含む1万人以上の軍勢で長篠城を包囲しました。一方、城の守備兵は僅か5百名でした。信長と家康は3万人以上の兵を率いて城の西方約4キロにある設楽原に至り、現地に陣地を築き、鉄砲隊を配置しました。
In May 1575, Kstduyoti set his stronghold on a hill at Ioji Temple, and surrounded the Nagashino Castle with over 10,000 soldiers including the Takeda Cavalry. On the other hand, defenders in the castle were only 500 in number. Nobunaga and Ieyasu took more than 30,000 soldiers to Shitara-ga-Hara field, about 4km west from the castle, and built fortresses along the field and brought gun troops.

城周辺の地図~The map around the castle

城の運命はさておき、両方の陣営はこれは決着をつける場であると考えました。勝頼は本陣の丘を下り、信長の方に向かっていきました。しかしながら、それは信長の罠だったのです。
Beside the destiny of the castle, both sides thought it would be the chance to have a showdown. Katsuyori went down the hill and headed towards Nobunaga. However, he was going to be trapped by Nobunaga.

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半~The portrait of Nobunaga Oda, attributed to Soshu Kano, owned by Chokoji Temple, in the late 16th century(licensed under Public Domain via Wikimedeia Commons)

勝頼、信長に突撃~Katsuyori attacks Nobunaga

5月21日、信長は別働隊を勝頼の背後に送り出しました。勝頼は当惑し、すぐさま信長の陣地に突撃するしかなくなりました。設楽原は狭い上に真ん中に連吾川が流れており、周囲は湿地帯となっていました。武田騎馬隊は機動力と攻撃力で知られていましたが、このような状況では普段の力を発揮できません。武田は陣地に向かって一部隊ずつ攻撃せざるをえません。信長の陣地は、設楽原の西側の丘状の場所に築かれ、鉄砲隊の前には木柵が幾重にも設置されていました。まるで城のようだったのでしょう。武田は柵に阻まれ、鉄砲で撃たれ、各個撃破されていきました。
On May 21, Nobunaga sent his detached force to the back of Katsuyori. Katsuyori was confused and there was no other way than charging Nobunaga’s fortresses right away. Shitara-ga-Hara field is narrow with the Rengogawa River flowing at the center, and was waterlogged around. Takeda Cavalry was known for its mobile and strong power, but its power was less than usual under such conditions. Takeda had to attack from one troop to another against the fortresses. Nobunaga’s fortresses were constructed in a hilly area on the western side of the field, which installed several wooden fence layers in front of gun troops. They seemed to look like castles. Takeda was blocked by the fences, shot by the guns, and defeated one by one.

長篠合戦図屏風部分、徳川美術館蔵~Part of “Battle of Nagashino”folding screens, owned by Tokugawa Art Museum(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

勝頼、完敗す~Katsuyori completely defeated

勝頼は攻略を諦め、撤退しました。そして信長は追撃を開始します。この戦いの間、武田の軍勢のうち約半数が失われたと言われています。武田の多くの重臣や指揮官も戦死しました。この戦いの結果は、信長の天下統一事業と、武田氏の滅亡への動きを加速しました。大きな歴史の節目となりました。
Katsuyori gave up and withdrew. Then Nobunaga started to chase them. It is said that about half of Takeda’s soldiers were lost during the battle. Many senior vassals and troop leaders of Takeda were also killed. The result of the battle would lead to the boost of Nobunaga’s unification of Japan and the destruction of the Takeda clan. It was a big turning point.

武田重臣、馬場信春の最期、長篠合戦屏風より~The last moment of Nobuharu Baba, a Takeda’s senior vassal, from “Battle of Nagashino”folding screens(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

多くの歴史家は、この戦いの勝敗の要因は、戦術革命(鉄砲対騎馬隊)にあると言います。しかし、そんなに単純な話ではなく、信長は強力な武田軍に対処するため考え抜いたと指摘する人もいます。彼の決断は、自軍を防御することに徹しながらも、有利な条件下に武田を誘いこむことでした。実際彼は兵士に対し、武田が撤退するまでは陣地から出ないよう命令しました。彼はまた、戦略的にも完勝したのです。
Many historians have said that the result was caused by the tactics revolution (gun vs cavalry). However, it was not so simple. Others point out that Nobunaga considered how they should deal with strong Takeda. His decision was to be devoted to protecting themselves, but to invite Takeda there under advantage. He actually ordered his soldiers that they were no to go out of the fortresses until Takeda withdraw. He was completely successful by his strategy, too.

設楽原古戦場~Shitaragahara Battlefield

特徴~Features

長篠城だけではなく、関連遺跡も一緒に回ってみることをお勧めします。歴史への理解をより深めることができます。
I recommend you to visit not only Nagashino Castle but also relative ruins. That will help you to learn more about history.

城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

長篠城跡~Nagashino Castle Ruins

現在、崖の上の本丸が残っています。本丸は土塁で囲まれていて、外側とは空堀で隔てられています。過去にはもっと多くの曲輪が広がっていました。城跡は国の史跡に指定されています。
Now, the Main enclosure or “Honmaru” remains on the cliff. It is surrounded by earthen walls and divides from outside by a deep dry moat. More enclosures spread out in the past. The ruins have been designated as a National Historic Site.

本丸の土塁と空堀~The earthen walls and dry moat of Honmaru
本丸の内部~The inside of Honmaru

川を越えて城の反対側に行ってみると、崖の下の川の合流地点を見下ろす、素晴らしい景色です。城が自然の要害の上にあったこともわかると思います。
If you go to the opposite of the castle across the rivers, you can see a great view of the meeting point of the revers under the cliff. You can also realize that the castle was on a natural fortress.

川の合流地点~The meeting point of the rivers

医王寺(勝頼の本陣跡)~Ioji Temple (The ruins of Katsuyori’s stronghold)

本陣は、この寺の裏山にありました。山道を通って簡単に登ることができます。
The stronghold was on the back hill of the temple. You can easily climb up to the top through the trail.

医王寺~Ioji Temple
頂上への山道~The trail to the top

頂上には簡単な物見やぐらが復元されています。ここからは長篠城は見えるのですが、信長の陣地があった設楽原は見えません。十分な情報なしに勝頼がなぜ山を下り、信長の方に向かっていったのか考えてみるのも一興です。
There is a restored simple watch tower on the top. You can see Nagashino Castle from the tower, but can’t see Shitara-ga-Hara where Nobunaga’s fortresses were. It may be interesting to speculate why Katsuyori decided to go down the hill and head towards Nobunaga without enough information.

復元された物見やぐら~The restored watch tower
頂上からの眺め~A view from the top

設楽原古戦場~Shitara-ga-Hara Battlefield

この場所は現在は水田になっていますが、丘状の地形に囲まれた谷のようになっているのが今でもわかります。ここが更に湿地帯であったなら、騎馬隊は十分な能力を発揮できなかったでしょう。
This place has now become a rice field, but you can still see it is like a valley surrounded by hilly areas. If it was also waterlogged, troops with horses couldn’t fulfill their potential.

設楽原~Shitara-ga-Hara Field

設楽原の西側には木柵と空堀がいくらか復元されています。実際にはもっと縦横に広がっていたはずです。武田は明らかに不利な状況で織田・徳川連合軍と戦わざるをえなかったのです。それが信長の戦略眼だったのです。
There are some restored wooden fences and dry moats on the western side of the field. They must have been spread wider and deeper. Takeda clearly had to fight with the allied forces of Oda and Tokugawa under disadvantage. That was the idea of Nobunaga’s strategy.

復元された木柵~The retored wooden fences

その後~Later History

長篠城は、長篠の戦いのわずか1年後、1576年に廃城となりました。ここの城主が新しい城を作り、移っていったからです。その後は、江戸時代には城跡の地に旗本や庄屋の屋敷があったようです。城跡は最終的には1929年に国の史跡に指定されました。
Nsgashino Castle was abandoned 1n 1576, just one year later the battle of Nagashino, because the lord of the castle built and moved to another castle. After that, a shogunal retainer and local administrator seemed to have their residences at the ruins of the castle in the Edo Period. The ruins were lastly designated as a National Historic Site in 1929.

城址の石碑~The monument of the ruins

私の感想~My Impression

長篠の戦いから得られる教訓は3つあると思います。
1.リーダーは普段は乾坤一擲の戦いは避けなければならない。
2.どうしても避けられないときは、十分な情報を基にした決断が必要である。
3.リーダーは常にいかに安全に撤退するかも考えておくべきである。
信長は、もし勝頼に敗れたとしてもどう撤退するか考えていたと思うのです。
I think we can learn three lessons from the battle of Nagashino.
1.Leaders must usually avoid playing for all or nothing.
2.If they can’t avoid it, informed decision will be essential, or withdraw immediately.
3.Leaders must always consider how to withdraw safely.
I believe that Nobunaga had considered how to withdraw if he was beaten by Katsuyori.

勝頼の本陣があった丘~The hill where Katsuyori’s stronghold was
長篠城の土塁~The earthen walls of Nagashino Castle

ここに行くには~How to get There

これまで述べた遺跡を回るには、車を使うのが便利です。みな新東名自動車道の新城ICの近くです。
長篠城だけでよければ、電車で行くこともできます。JR長篠城駅から徒歩10分くらいで現地に着きます。東京または名古屋からでしたら、東海道新幹線で豊橋まで行き、飯田線に乗り換えてください。
I recommend you using car to visit these ruins mentioned above. They are all near Shinshiro IC on Shin-Tomei Expressway.
If you want to visit only Nagashino Castle, it is also accessible by train. It takes about 10 minutes to get there on foot from JR Nagashino-Jo Station. From Tokyo or Nagoya, take the Tokaido Shinkansen super express to Toyohashi Station, then transfer for Iida local line.

リンク、参考情報~Links and References

史跡長篠城跡、新城市(Multilingual service is available)
新城市設楽原歴史資料館、新城市(Multilingual service is available)
・「長篠の戦い/藤本正行著」洋泉社(Japanese Book)
・「籠城/榎本秋著」宝島社(Japanese Book)
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫(Japanese Book)