74.岩国城 その1

吉川広家の人生を反映した城

立地と歴史

毛利氏を守った広家

岩国は、5連の木造アーチ橋の美しい景観で知られています。錦川(にしきがわ)にかかる錦帯橋は、岩国城を背景としてとても絵になります。岩国を訪れるビジターは、これらは全て昔のままと思うかもしれませんが、少なくともこの城には多くの逸話があり、試練の歴史を経てきたのです。

山上の岩国城を背景とした錦帯橋

吉川広家(きっかわひろいえ)がこの城を築城したのですが、彼は毛利氏の親族で且つ重臣でした。毛利氏は16世紀の終わり頃において、120万石の石高をもって中国地方のほとんどを領有していました。ところが、天下人の豊臣秀吉が1598年に死去したことで政治状況は不安定になりました。多くの大名たちが、250万石の石高を持ち東日本で最大の大名であった徳川家康を、次の天下人として頼ろうとしました。一方、石田三成を含む他の大名はまだ豊臣氏を支えていました。三成は、西日本で最大の大名である毛利輝元を、彼のグループのリーダーに担ごうとしました。毛利家中の意見は真っ二つに割れました。一つは三成に加勢し、輝元を家康の代わりに(豊臣家を戴きつつ)次の天下人にするというもので、主に安国寺恵瓊によって主張されていました。広家はそれに反論し、家康に加勢し毛利氏の領土を維持しようとしました。

吉川広家肖像画、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1600年に関ヶ原の戦いが起きたとき、輝元は西軍の総大将となりましたが、実態としては三成が主導していました。輝元は天下人になりたかったのです。広家は、冷静な判断ができる武将であり、主君の輝元は家康率いる東軍を凌駕することはできないとみていました。よって彼は家康に密かに通じ、毛利の領土保全を条件に毛利の軍勢は戦いでは一切動かないことを約束しました。結果、家康は三成を破ったのですが、戦後になって輝元が天下を取ることを欲していた証拠を見つけたのです(広家は家康に、輝元にはその野心はないと伝えていたようです)。家康は、毛利から全ての領土を取り上げ、その中の2ヶ国(長門と周防)を広家に与えることとしました。広家は家康に、その2ヶ国を広家の代わりに輝元に与えるよう嘆願しました。最終的には、毛利の領土が形式上、120万石からその2ヶ国わずか37万石に削減されることで決着しました。それが長州藩となります。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石田三成肖像画、杉山丕氏蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新領地に岩国城を築城

広家は、難しい立場に立たされました。彼は実際には毛利家の救世主だったのですが、家中の多くの藩士は逆にぶち壊されたと思っていたからです。彼は最終的に、長州藩の領地の東端にあたる、3万石の石高の小さな領地を主家から与えられました。広家は1601年に本拠地として新しい城を築き始めました。それが岩国城となるのです。まず最初に、自然の外堀ともいうべき錦川沿いに御土居と呼ばれた居館を建設しました。その居館は人口の内堀にも囲まれていました。その後、山城部分の建設を行い、山の嶺の北から南の方角に沿って、北の丸、本丸、二の丸を設けました。これらの曲輪は全て石垣によって囲まれており、本丸には4層の天守がありました。城の完成は1608年となります。

長州藩(現山口県)の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

苦渋の決断により山城部分を破却

ところが、1615年に徳川幕府が豊臣氏を滅ぼした後、広家はまたも困難に直面します。徳川幕府は同年、全ての大名に一国一城令を発布し、大名が住んでいる一城を除き、全ての城を破却するよう命じました。幕府は、多くの強力な城を頼りに、大名たちが幕府に反抗することを防ごうとしたのです。この法令によれば岩国城は、周防国ではただ一つの城となり、幕府も広家の吉川家を独立の大名として認めていたため、存続することが可能でした。ところが、毛利主家は吉川氏を単なる毛利の家臣と考えていたため、それを認めませんでした。関ヶ原の戦い以来の両者の悩ましい関係が続いていたのです。広家は毛利家との将来の関係を鑑み、城を破却することを選びました。

意図的に破壊された山上の石垣

その際、山城部分が実際に破却され、川沿いの居館は残され、江戸時代末期まで公式には城ではなく、岩国陣屋と呼ばれるようになりました。錦帯橋は1673年に、3代目の領主である吉川広嘉(きっかわひろよし)によって、居館と川の反対側にあった城下町をつなぐために架橋されました。この橋は(もともと外敵を防ぐための川に架けられたという意味で)当時から平和な時代のシンボルともいえるものでした。

山麓の御土居跡
葛飾北斎「諸国名橋奇覧」より「すほうの国きんたいはし」、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「岩国城その2」に続きます。

75.萩城 その1

270年間に渡る長州藩の本拠地

立地と歴史

毛利輝元が関ヶ原敗戦後に築城

萩市は、古い町並みでよく知られています。近くの津和野町とセットでよくツアーが設定されています。萩市はまた、明治維新で活躍した志士たちを多く輩出した地域たということも歴史ファンの間では有名です。吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、そして日本の初代総理大臣となった伊藤博文などです。それは萩が、1604年の萩城築城以来、270年もの間長州藩の本拠地であったからなのです。

萩市の範囲と城の位置

この城を築いた毛利輝元は、もともと広島城を居城として、中国地方のほとんど、石高120万石の領地を治める大大名でした。ところが、1600年の関ヶ原の戦いにおいて、徳川幕府の創始者となる徳川家康に敗れてしまいました。その結果、家康は輝元の領地を、現在の山口県にあたる長門国と周防国のわずか2ヶ国、37万石に削減しました。輝元は新しい本拠地を定める必要となり、その候補地として3ケ所が挙げられました。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の広島城

一つ目は瀬戸内海に臨んだ桑山、二つ目は日本海に面した萩、三つ目は前者の中間に位置し、現在の県庁所在地である山口でした。結果的には萩となりました。その理由としては、幕府が毛利氏が二度と幕府に反抗しないよう、奥まった場所に毛利氏を閉じ込めたためと言われてきました。しかし、最近歴史家の中には輝元が幕府との議論の末に、最も防御力が高い場所として積極的に萩を選んだのではないかと推測している人もいます。萩は、輝元の以前の本拠地であった広島城のごとく、デルタ地帯の上にあったのです。

長州藩(現山口県)の範囲と城の位置

安芸国広島城所絵図、江戸時代(出典:国立公文書館)

デルタ地帯に立地

萩のデルタ地帯は、松本川と橋本川に挟まれていて、北側が海に面していました。そして、デルタの北側は砂丘となっていました。その上、最北端の部分には標高143mの指月(しづき)山が海沿いにあったのです。城の本丸は山の手前にあり、石垣と内堀に囲まれていました。本丸には城の中心として、5層の天守と藩主の御殿がありました。二の丸は本丸の南側にあり、中堀に囲まれていました。二の丸には2つの虎口があり、その石垣は海外部分までにまで及んでいました。三の丸は前述の曲輪群の更に南側にあって、重臣たちの屋敷地として使われていました。城下町とは外堀によって隔てられていました。指月山もまた、詰めの城として使われていました。輝元は、ここにも頂上に独自の本丸と二の丸を築いたのです。その内部には最初から建物はありませんでしたが、周りを櫓群と石垣によって囲まれていました。基本的にこの場所は戦のような緊急事態に備えたものでしたが、平時には物見台として使われていました。

萩市周辺の地図、今でもデルタ地帯上にあります

萩城下町絵図、1652年。現地説明板より
萩城天守の古写真、現地説明板より

城下町から明治維新の志士を輩出

城下町については、この区域はデルタ地帯の北側の砂丘部分より低い位置にあったので、最初は湿地帯でした。萩の人たちは排水のために運河を掘り、これによって城下町の建設が可能となりました。実際、明治維新で活躍したヒーローたちはこの城下町出身です。興味深い話としては、高杉や木戸のような階級が高い武士は城に近い方に住み、松陰や伊藤のような階級が低い武士は城からずっと離れた所に住んでいました。当時の武士たちにとってこれは一般的なことでした。

萩市周辺の起伏地図、今でも旧城下町は低い位置にあります

4人の志士の誕生地または旧宅位置

高杉晋作写真、1933年か1934年に出版 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
木戸孝允(桂小五郎時代)、1869年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉田松陰肖像画、山口県文書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊藤博文写真、1909年以前 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

本拠地が山口に移転

それからもう一つ興味深い儀式が、城の御殿で毎年行われていたと言われています。この儀式では、家老が藩主に対して「今年は幕府を討つべきか」と聞き、藩主が「いや、時期尚早だ」と答えたというのです。ところが、状況が変わり、将軍を倒すことが可能になる時代がやってきました。長州藩は、幕末に本当に幕府に反抗したのです。そして萩城をとりまく状況も変化しました。城が築かれた当時は、海沿いに城を築くことは防御に有効でした。しかし、軍艦から砲撃される可能性が出てきた幕末には、その立地は逆に危険となってしまったのです。また、長州藩は他藩との連携を欲していて、本拠地としては山口が適切と考えるようになりました。その結果、藩主と藩士たちは幕府の許可なしに、萩を離れ、山口城に移っていきました。萩城が正式に廃城となったのは1874年のことです。

現存する山口城時代の山口藩庁正門

「萩城その2」に続きます。

73.広島城~Hiroshima Castle

広島は平和都市ですが、城からできた都市でもあるのです。
Hiroshima is a city of peace, but also a city from the castle.

広島城の外観復元天守~The apparently restored Tenshu keep of Hiroshima Castle(licensed by Taisyo via Wikimedeia Commons)

立地と歴史~Location and History

広島は今、平和を希求する都市となっています。この都市は毛利氏により築かれた広島城から始まりました。毛利氏もともと吉田郡山城という広大な山城に住んでいましたが、その城は戦国時代において防御力に優れていました。しかし統治や通商には不向きだったのです。豊臣氏による天下統一の後、毛利輝元は当時の他の事例にならい、本拠地を他の地に移すことにしました。彼は1589年に太田川のデルタ地帯にある島の上に新しい城を築きはじめました。この城と城下町は南方の海の方角に向かって広がっていきました。
Hiroshima is now a city for promoting peace. The city comes from Hiroshima Castle built by the Mori clan. The clan originally lived in a large mountain castle called Yoshida-Koriyama which was specialized for defense in the Warring States Period. But it was not convenient for governance and business. After the unification of the whole country by the Toyotomi clan, Terumoto Mori decided to move his home base to another place by emulating other cases at that time. He started to build a new castle on an island on the delta of Otagawa River in 1589. The area of the castle and its town spread towards the sea in the south.

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵~The portrait of Terumoto Mori, owned by the Mori Museum(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
安芸国広島城所絵図、江戸時代~The illustration of Hiroshima Castle in Aki Province, in the Edo Period(出典:国立公文書館)

徳川幕府が設立されてから後に、福島氏が城を完成させたと言われています。城には5層の天守の他、88もの櫓がありました。主要な曲輪は水堀により区切られて、橋でのみつながっていました。また、他の川や堀によっても囲まれていました。代わりにこのような環境下では、洪水から被害を受けやすくなります。福島は洪水の度に城を補修せざるを得ませんでした。しかながら、頻繁な工事は幕府に福島が反乱を起こすのではないかと疑念を生じさせ、福島は1619年に改易となってしまいます。
After the Tokugawa Shogunate was established, it is said that the Fukushima clan completed the castle. It had a five layer Tenshu keep and 88 turrets. Primary enclosures were separated by water moats, connected by only bridges. They were also surrounded by many other rivers and moats. Instead, in such conditions, it could suffer from flooding. Fukushima had to repair the castle constantly after floods. However, frequent constructions made the Shogunate doubt Fukushima might be against the Shogunate. Fukushima was fired in 1619.

広島城の城主だった福島正則肖像画、東京国立博物館蔵~The portrait of Masanori Fukushima, the lord of Hiroshima Castle, owned by the Tokyo National Museum(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後、浅野氏が広島を250年以上統治しました。浅野氏は城をほとんど同じ状態で維持しましたが、市街地や農地を埋め立てにより拡張しました。埋め立て地は、広島市の礎になっています。
After that, the Asano clan governed Hiroshima for 250 years. They had kept the castle almost the same as original. They continued to reclaim land for towns and fields. The reclaimed area is the foundation of Hiroshima City.

広島市周辺の現代の地図~The present map around Hiroshima City

特徴~Features

現在、主に本丸と二の丸の跡地が内堀に囲まれて残っています。そこには現存建物はありません。天守は本丸の北西隅に外観復元されています。その内部は歴史博物館として使われていて、広島市や広島城の歴史を学ぶことができます。二の丸は外部から本丸に向かう途中に、出丸のようになっていて、周りの内堀により独立しています。とても独特なスタイルです。
Now, ruins of mainly Honmaru and Ninomaru enclosures surrounded by the inner moat remain. No remaining buildings are there. The Tenshu has been apparently restored at the north-west corner of Honmaru. Its interior is used as a historical museum where you can learn about the history of the city and castle. Ninomaru is like a barbican on the way from outside to Honmaru, isolated by the inner moat around. It’s a very unique style.

城周辺の航空写真~The aerial photo around the castle

外観復元天守~The apparently restored Tenshu(taken by NR1000 from photoAC)

二の丸では、表御門や太鼓櫓といったいくつかの建物が最近になって元来の工法で復元されています。
Several buildings like the Front Gate and the Drum Turret were recently restored in the original way at Ninomaru.

復元された二の丸の表御門~The restored Front Gate at Ninomaru(taken by NR1000 from photoAC)
復元された二の丸の太鼓櫓~The restored Drum Turret at Ninomaru(taken by acworks from photoAC)

その後~Later Life

この城の近代の歴史はより過酷だったかもしれません。明治維新後、城跡は日本陸軍の広島鎮台の用地に転用されました。多くの城の建物は軍施設に置き換わりました。特に、1894年の日清戦争時には大本営が移ってきました。明治天皇が東京からここに来て、直接軍隊を指揮したのです。近くの宇品には大きな軍港もあり、広島は第二次世界大戦までは軍都として繁栄したのでした。
The modern history of the castle might be stormier. After the Meiji Restoration, the ruins of the castle were turned into the ground for Hiroshima Chindai of the Japanese Army. Many castle buildings were replaced with military facilities. In particular, the Imperial Headquarters was relocated there during the Sino-Japanese War in 1894. Emperor Meiji moved there from Tokyo to order his soldiers. There was a large navy port called Ujina nearby, and Hiroshima had been a military-based city until World War II.

右側が広島大本営の建物~The building of the Imperial Headquaters on the right(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1945年8月、広島の人たちはなぜ大きな空襲がここにはないのか訝しんでいました。それは、広島が原子爆弾の標的の一つだったからでした。8月6日の朝、8時15分、原爆は非戦闘員、婦女子を含む約15万人もの人たちを殺し、市街地のすべての建物を破壊しました。現存していた広島城の天守は、原爆の爆風により一瞬のうちに倒壊し、それから燃え出しました。
In August 1945, people in Hiroshima were wondering why they didn’t suffer from large air raids. That was because the city was one of the targets of the atomic bombs. At 8:15 AM on August 6, the bomb killed around 150,000 people including non-combatants, women and children as well as all of the buildings in the city area. The remaining Tenshu keep of Hirosima Castle collapsed in an instant by the bomb blast before burning out.

第二次世界大戦まで現存した天守~The remaining Tenshu until World War II(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦争直後の城周辺の航空写真~A aerial photo of around the castle just after the World War II

戦後になって、人々は焼土となった城跡をどう扱うべきか議論を行いました。1951年の広島国体の間のみ仮の天守が作られました。そのとき人々は広島の平和と復興のシンボルとして天守が必要だと気付いたのです。そのため、現在の天守が1958年に外観復元されました。
After the war, people discussed how they should treat the burned ruins of the castle. When the temporary Tenshu was built in 1951 just during a National Sports Festival in Hiroshima, they realized that they need to rebuild the Tenshu as a symbol of peace and restoration for the city. That’s why the present Tenshu was apparently restored in 1958.

復元された天守~The restored Tenshu

私の感想~My Impression

広島城は、城の存在意義が戦争から平和のためにと変わっていった典型例でしょう。日本のプロ野球球団、広島東洋カープの「カープ」という名前は、この城の愛称「鯉城」から来ています。この城が末永く平和と繁栄のシンボルであり続けるよう願ってやみません。
Hiroshima Castle is a typical example of a castle’s role being turned from war into peace. Hiroshima Toyo Carp is a Japanese pro baseball team. The name “Carp” comes from the castle’s nickname, the Carp Castle “Ri-Jo”. I hope that the castle will be a symbol of peace and prosperity now and forever.

広島城の堀にいる鯉~Carps in the water moat of Hiroshima Castle(taken by tomo3368 from photoAC)

ここに行くには~How to get There

広島駅から:徒歩で約25分かかります。市内電車の場合1・2・6番電車に乗り、紙屋町東停留所で降りてください。バスの場合は広島駅南口バスターミナルで7・8・9番乗り場から乗り、合同庁舎前バス停で降りてください。
車で行く場合:山陽自動車道の広島ICから約10分かかります。城の周りにいくつか駐車場があります。
From Hiroshima station: It takes about 25 minutes on foot. Or take the tram line 1, 2, or 6, and take off at the Kamiyacho-Higashi stop. Or take the bus line 7, 8, or 9 at Hiroshima Station south exit bus terminal, and take off at the Godochosha-Mae bus stop.
If you want to go there by car: It takes about 20 minutes from the Hiroshima IC on San-yo Expressway. There are several parking lots around the castle.

リンク、参考情報~Links and Rererences

広島城公式ホームページ~Hiroshima Castle
・広島城400年、中国新聞社編、第一法規(Japanese Book)
・決戦!広島城、松永弘高著、朝日新聞出版(Japanese Book)
・よみがえる日本の城7、学研(Japanese Book)