62.和歌山城 その2

この城には山ほど見る所があります。

特徴、見どころ

大手門から中御門跡へ

現在、和歌山城のある場所は、和歌山市により和歌山城公園として整備されています。ここには、もともと城だった範囲の内、主要部分が含まれています。入口の数は、城の現役時代と同じです。大手門、岡口門、追廻(おいまわし)門、不明(あかずの)門跡、吹上(ふきあげ)門跡の5ヶ所です。

城周辺の地図

城の姿がどのようであったか知りたければ、公園の北東の方にある大手門から入ってみるのがおすすめです。この大手門と、その前の内堀にかかっている橋は現代になって復元されたものです。一旦門から入ってみると、城の敷地と堀がどんなに大きいか実感できると思います。

紀伊国名所図会「大手御門辺の図」、現地説明板より
大手門
大手門の内側からの景色
城の東側の内堀

二番目の関門である中御門跡には、今でも石垣が食い違いになって残っています。この辺は面白い場所で、門に使われている2種類の石垣を見ることができます。粗く加工された砂岩を使った場所と、精密に加工された花崗岩を使った場所です。それに、少し進んだ場所では、緑泥片岩の自然石を使った丘を囲む古い石垣を見ることができます。それぞれの石垣は異なる時代に築かれています。

中御門跡
食い違い部分を石垣上から見ています
左側が花崗岩の石を使った場所、右側が砂岩の石を使った場所
緑泥片岩の自然石を使った石垣

二の丸と西の丸

二の丸は、大手門がある場所の西側にあります。ここには今では現代になってから作られた石庭しかありませんが、かつては豪華な御殿と内堀に臨んだ複数の櫓がありました。御殿の中の大広間は、大坂城に移築されて1947年まで存在していましたが、残念ながら失火により焼けてしまいました(当時進駐軍により使われていました)。和歌山市は大広間を元あった場所に復元することを計画しています。また、長期的には一部の櫓と大奥の建物の復元も検討しています。この曲輪から見える天守の遠景は一番映えるかもしれません。

二の丸周辺の地図

二の丸の内部
二の丸の物見櫓跡
二の丸北側の内堀
大坂城に移された大広間(紀州御殿)、和歌山市ホームページから引用
二の丸から見た天守の遠景

そのとなりの西の丸では、紅葉谷(もみじだに)庭園が現代になって復元され、国の名勝に指定されています。二の丸と西の丸の間をつなぐ御橋廊下も2006年に復元されました。この中を歩いてみることもできますが、傾斜している屋根付きの橋は大変珍しいそうです。

西の丸の紅葉谷公園
御橋廊下
御橋廊下の内部

現存している岡口門

公園の南東方面にある岡口門にも是非行ってみてください。門の建物と傍らの土塀は、この城ではわずかに残っている建物の一つであり、重要文化財に指定されています。切妻屋根のシンプルな門に見えますが、かつては両側を櫓によって挟まれていました。

岡口門周辺の地図

岡口門
現存する土塀
岡口門の屋根部分
かつての岡口門、紀伊国名所図会「岡口御門辺の図」部分、現地説明板より

門から入って行くと、大手門がある場所と同じように、二番目の関門があります。左側には、松の丸櫓が乗っていた立派な高石垣が見えてきます。その他の石垣が桝形と呼ばれる四角い空間を形作り、敵が攻めてくるのを防げるようになっていました。ここに建物は残っていませんが、これら新しい方の時代に属する石垣は十分見るに値します。

岡口門から二番目の関門
松の丸櫓台石垣
石垣上から見た桝形部分

坂を登って本丸、天守へ

丘の上の本丸に行くには、2つのルートがあります。表坂と裏坂です。表坂は緩やかですが、その分長いです。登り始めの部分は広い道が曲がりくねっています。緑泥片岩が敷かれていてとても美しいです。

本丸周辺の地図

表坂
美しい緑泥片岩の敷石

後半の部分は長く、右側が丘の側面になっていて、左側は谷側でいつくかの櫓台石垣があります。現代のビジターはこの道をゆっくり楽しみながら歩いていますが、その昔敵がここを通ったときには反撃を受けて相当な困難を感じたことでしょう。

表坂の後半部分
谷側に残る櫓台

裏坂は、急な分短くなっています。この道も石が敷き詰められ、古い石垣によって囲まれていますが、苔むしていて表坂とは違った趣きがあります。

裏坂
苔むした石垣

丘の頂上は二つの峰から成っていて、一つ目にはもう一つの御殿がかつて存在していて、もう一つの方には今でも天守があります。この御殿は、二の丸にあった御殿と共存していましたが、狭かったことと、立地の不便さのためあまり使われませんでした。現在ここは給水場となっていて、天守を眺めるにはよい場所です。

表坂から本丸へ
本丸御殿跡
本丸御殿跡から見た天守

ほとんどのビジターの目的地はやはり天守でしょう。実際にはオリジナルではなく、近代的ビルとして1958年に外観復元されたものです。天守台石垣はオリジナルであり、城の中では最も古い石垣であるとされています。天守のような建物が城の初期段階から建てられていたのかもしれません。

天守近景
天守台石垣

この天守の形式は連立式と呼ばれていて、大天守と小天守が廊下のような多聞櫓によってつながっています。天守の内部は歴史博物館となっていて、最上階は展望台として使われています。

大天守最上階から見ると連立式の形がわかります
展示物の一つ、茶道具を入れてあった長持
大天守最上階の展望台
展望台から東側の眺め、本丸御殿跡が見えます

「和歌山城その3」に続きます。
「和歌山城その1」に戻ります。

62.和歌山城 その1

3つの時代を経て完成した城

立地と歴史

主要都市であった和歌山

和歌山城は、過去は紀伊国といった和歌山県の県都である和歌山市にある城です。現在では和歌山は一地方都市として、日本の大動脈である東京、大阪、福岡のラインからは離れたところにあるという印象です。しかし、この城が実際に使われていた江戸時代までは、和歌山は日本で十指に入る都市だったのです。それは、和歌山が東日本と西日本を結ぶ海上交通の主要ルート上にあったからです。その結果、ついに和歌山城は徳川御三家の一つ紀州徳川家の本拠地となりました。更には、紀州徳川家からは、徳川宗家の跡継ぎとして、2人の将軍(吉宗と家茂)を輩出しているのです。

紀伊国の範囲と城の位置

徳川吉宗肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家茂肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

桑山氏の時代

戦国時代の16世紀には、地方領主の集団である雑賀(さいか)衆が自らのこの地方を治め、他の戦国大名に度々傭兵を派遣したりしていました。ところが1585年には、天下人の豊臣秀吉がこの地方を征服し、雑賀衆は壊滅させられてしまいます。そして秀吉はある丘を選び、弟の秀長にそこに城を築くよう命じました。それが和歌山城となったのです。秀長の家臣で、後に築城の名手となる藤堂高虎が奉行を務めました。城が完成してからは、別の家臣である桑山氏が居城としました。和歌山城の歴史は、3つの時代に区分されます。1つ目は桑山氏がいた時代です。その時代に城がどのようであったのかはよく分かっていません。しかしその範囲は大体丘とその周辺だったと考えられています。それは、緑泥片岩の古い石を使った石垣が丘の周りに築かれていて、城の他の石垣とはかなり違って見えるからです。その緑泥片岩が石垣に最初に使われた理由は、その丘かその周辺から簡単に入手できたからです。

豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
和歌山城の丘を囲む石垣

浅野氏の時代

1600年、浅野氏が紀伊国の領主となり、和歌山城を根拠地としました。桑山氏は転封となりました。浅野氏の領地は桑山氏時代よりずっと大きく、そのため、その体格に見合った城に改修したのです。丘の上には天守と御殿が築かれ、北側の麓にも新しい曲輪が築かれそこには茶室が建てられました。その曲輪群は石垣に囲まれていましたが、粗く加工された砂岩が使われていました。その砂岩は、友ヶ島など城から離れた場所で採取され運ばれてきました。加工しやすかったのです。また内堀が曲輪群の北と東を囲んでいました。城の南側と西側は、海に面した天然の砂丘によって守られていました。また、大手門が南側から北側に移されました。後に和歌山城の市街地となる城下町がこの方面に作られたからです。城の基本的構成は、浅野氏によって確立されたと言われています。

江戸時代の本丸御殿の想像図、現地説明板より
和歌山御城内惣御絵図、江戸時代、和歌山城内にて展示
砂岩の石を使って築かれた砂の丸の石垣

徳川氏の時代

1619年、浅野氏が広島城に移され、代わりに徳川頼宣(よりのぶ)がこの城にやってきました。彼は、和歌山城を徳川御三家の一つの本拠地として改修しました。城をより強化するため、砂丘があった場所に曲輪が築かれ、砂の丸等となりました。これらの曲輪は高石垣に囲まれていましたが、浅野氏が作ったものと同じ方法で積まれました。城の石垣の一部は後の時代に、熊野石と呼ばれるより精密に加工された花崗岩を使って積まれています。頼宣は、内堀の北側に三の丸を築き、そこは武家屋敷として使われました。彼は外堀を作って城を更に強化しようとしますが、中止せざるを得なくなります。徳川宗家を含む幕府側が、頼宣が幕府に反抗するのではないかと疑ったからです。

徳川頼宜肖像画、和歌山県立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
花崗岩の石を使って築かれた中門跡の石垣

平和であった江戸時代の間、生活や統治の利便のため、城の中心地は丘の上から麓の方に移りました。北麓にあった二の丸には御殿があり、表(藩庁)、中奥(藩主公邸)、大奥(藩主私邸)に分かれていました。江戸城にあった徳川宗家の将軍の御殿のようになっていたのです。そのとなりにあった西の丸は、城での文化の中心地でした。そこには能舞台、庭園、茶室があり、藩主がそこで楽しむだけでなく、外部の人々も招き入れました。御橋廊下(おはしろうか)と呼ばれる廊下橋が、内堀を渡って建設されました。この橋は二の丸と西の丸をつないでおり、藩主とその親族のみが渡ることができました。

和歌山御城内惣御絵図の二の丸(右)と西の丸(左)部分
西の丸庭園と廊下橋(奥の方)

しかし一方で、丘の上の天守は1846年の落雷により焼け落ちてしまい、1850年に再建されました。第二次世界大戦中の1945年には、空襲により再び焼けてしまいますが、1958年には同じ外観で再び建て直されました。その焼けてしまった天守が浅野氏が建てたものと同じであったかどうかは不確かです。

城中心部の復元模型、和歌山城内にて展示
現在の天守

「和歌山城その2」に続きます。

176.一宮城 その2

山上に突然現れる石垣

特徴、見どころ

よく整備された登山道

もし一宮城跡に車で行かれるのでしたら、鮎喰川と山地に挟まれた狭い地域を通る道路を行くことになります。城を守るためにはよい立地であることがわかると思います。城跡への登山道入口は、一宮神社の反対側にあります。ここから標高144mの山頂まで登っていく必要があります。しかし、登山道には石段があり、よく整備されています。

現地の案内図より

城周辺の地図

登山道入口
石段が作られ、よく整備されています

しばらく登っていくと、登山道に沿った坂に竪堀を見ることができます。これは、敵の攻撃を防ぐための仕掛けです。近くにある分かれ道に入っていくと、倉庫跡があります。

竪堀
倉庫跡 (licensed by ブレイズマン via Wikimedia Commons)

自然の地形を生かした防御システム

登山道の本道の方に戻って進んでいくと、いくつかの曲輪の下にある、切岸と呼ばれる人工的に作られた急崖に至ります。この崖下には、湧水も見られます。ここから更に曲がりくねった登山道が崖を伝って登っていきます。

切岸によって作られた急崖
崖下の湧水
崖を登っていきます

崖を登った後でも、堀切と呼ばれる人工的に作られた谷の底にたどり着くのみです。敵の軍勢は、上方の曲輪から反撃を受けることになったでしょう。この谷によって、城の中心部と、才蔵丸という曲輪が分けられています。ここから左の方に行けば、才蔵丸に着きます。この曲輪は、三の丸とも呼ばれています。「才蔵」とは、かつてこの曲輪を任せられていた部将の名前に由来しています。

崖を登ってもまだ堀切の底です
明神丸入口
明神丸内部

城の中心部へ

谷から右の方に行ってみると、二つの主要な曲輪(明神丸と本丸)がある城の中心部への門跡に至ります。この二つの曲輪は、腰曲輪と呼ばれる細長い曲輪によってつながっています。

城の中心部への門跡
腰曲輪

その門跡から再び右の方に曲がっていくと、明神丸です。この曲輪はまた二の丸とも呼ばれていて、眺望を楽しむためと思われる縁側付きの建物跡が見つかった所です。今でもここからは、東の方角に徳島県中心部の景色がよく見えます。

明神丸入口
明神丸内部
明神丸からの景色

本丸のすばらしい石垣

先ほどの門跡に戻り、その前から見て左の方にいくと、ついに山の頂上にある本丸に到着します。蜂須賀氏が築いたすばらしい石垣が突然現れるので驚かれるかもしれません。この城の石垣はとても珍しく、美しいものです。深緑色の縞模様がある緑泥片岩を使って積み上げられているからです。これらの石は阿波の青石としても知られています。同じ石垣の作り方は、蜂須賀氏が一宮城の後で築いた徳島城でも見ることができます。

本丸の石垣
緑泥片岩が使われています
徳島城の石垣

本丸の中には、若宮神社の小さな祠があるだけです。城主のための御殿の礎石が見つかったのは最近のことで、これも蜂須賀氏によって築かれました。ここからは、鮎喰川を含む周辺地域の景色もよく見渡すことができます。

本丸内部
若宮神社の祠
本丸からの眺め

「一宮城その3」に続きます。
「一宮城その1」に戻ります。