148.浜松城 現地編

浜松駅から少し離れた「連尺交差点」に来ています。国道が交わっていてすごい交通量です。ここは江戸時代も、東海道が曲がり、その先も姫街道になっていました。今も昔も交通の要所なのです。その手前には堀を隔てて、大手門がありました。

イントロダクション

浜松駅から少し離れた「連尺交差点」に来ています。国道が交わっていてすごい交通量です。ここは江戸時代も、東海道が曲がり、その先も姫街道になっていました。今も昔も交通の要所なのです。その手前には堀を隔てて、大手門がありました。

連尺交差点
大手門跡

通りを進んでいくと、浜松市役所があります。この辺りからが二の丸でした。市役所は現代の御殿といったところでしょうか。向こうには天守も見えます。少し先には、ここから左に行くと「浜松城公園」という案内があります。

浜松市役所の向こうに見える天守
浜松城公園の案内

ただ、今回はいろんな時代からの史跡を紹介したいので、まずは、浜松城の出発点となった「引間城跡」に行ってみます。

城周辺の地図

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(浜松城と三方原合戦 現地ツアー)

城の出発点・引間城

更に進んでいき、最初の信号を渡って、脇道に入っていきます。この辺りは、浜松城時代は「古城」と呼ばれた引間城の堀だったようです。やがて、道路が曲がっているところがあります。これが城門の跡で、「霜垂口(しもだれぐち)」と案内があります。

霜垂口

今度は来た方に戻って、旧引間城の本丸に行ってみます。現在そこには、明治時代に創建された元城町東照宮があります。また傍らには「二公像」として、徳川家康に加え、豊臣秀吉の像まであります。少年時代の秀吉が、仕えていた今川家臣の松下加兵衛とともにここを訪れたという説明があります。家康築城の20年近く前とのことです。

元城町東照宮(引間城本丸跡)
二公像

ここから天守は見えるのかチェックしたところ、間にある建物の上に、なんとか見えました。

引間城跡から見える天守

戻りは、もう一つの門跡を通ります。けっこう下っていきます。曲輪の側面が、崖のようになっているのがわかります。その途切れる辺りが城門の跡で、「玄黙口(げんもくぐち)」と呼ばれています。三方原合戦で敗れた家康が、ここに退却したそうです。きっと厳重な構えだったのでしょう。

曲輪の側面
玄黙口

改めて、城の中心部に向かいます。

古風な石垣と再建天守

それでは、さっき通った案内のところから入っていきます。案内の辺りに二の丸裏門があって、通路がある場所は、御殿のど真ん中だったようです。

二の丸を貫く通路

通路が突き当たりますが、実は、ここはもう本丸です。本丸が半分くらい崩されてしまっているのです。ではどうやって天守に行くかというと、突き当たった左右どちらからでも行くことができます。今回は右側(北側)から回り込んでみます。そこからの登り口は、山の上のお城に行くという雰囲気があります。

北側から中心部への登り口

ずっと登っていくと、天守と石垣が見えてきました。反対側は富士見櫓の跡です。名前からして富士山が見えたのでしょうし、説明パネルにも富士山の写真があります。今日はちょっと残念という感じです。

天守と石垣
富士見櫓跡

石垣を見ながら、残された本丸に下っていくと、若き日の徳川家康公像があります。

若き日の徳川家康公像

いよいよ、天守曲輪に行きます。まず現れる石垣は、上に櫓があった感じです。その上では、石垣が築かれたとされる堀尾氏時代の櫓跡が発見されています。石垣は、古風で荒々しい野面積みです。復元された天守門(2014年に木造で復元)ともよく合っています。

かつて櫓があった石垣
復元された天守門

脇にある巨石も迫力があります。鏡石ということなのでしょう。天守曲輪に入ったら、改めて再建天守(1958年鉄筋コンクリート造で再建)を眺めます。元あった天守はもっと大きかったということですが、確かに天守台の石垣が余っています。どうして石垣に合わせて再建しなかったかというと、予算不足だったようです。

天守門脇の巨石
再建天守

天守に入りましょう。現在の入口手前にかつては付櫓があったと考えられます。中は資料館として2021年にリニューアルされました。おすすめは地下にある井戸です。天守を築いたとされる堀尾氏が、後に築いた松江城天守の地下にも井戸があります。

地下にある井戸

一階は若き家康の足跡、二階は浜松城の歴史の展示があります。一番上(三階)はやはり展望台です。三方原は北の方、さっき行った引間城は東の方に見えます。

天守一階の展示
天守東側の眺め

曲輪群の痕跡を探る

これから周りの曲輪に行きますが、その前に天守曲輪の屏風折れの石垣を見学します。埋門の跡から天守曲輪の外側に出ます。一旦下ってから、屏風折れの石垣にアクセスします。側面攻撃ができるよう折り曲げ、実戦的に作ったといわれますが、今では優雅にも見えます。土塁の上の部分に築いた「鉢巻石垣」の造りです。石垣自体を屏風折れにするのは全国的にも珍しいそうです。

埋門跡
屏風折れの石垣
石垣自体を折り曲げています

それでは、北側にあった「作左曲輪」の跡に行ってみましょう。「作左」とは「日本一短い手紙」で有名な家康の重臣、本多作左衛門重次のことです。三方原合戦の後になりますが(1579年、天正7年)、作左曲輪の工事をしたと考えられる記録があります。城の重要拠点の守りを任されていたのです。現在は主に学校の敷地になっていますので、雰囲気を感じるべく、近くの展望広場に行ってみます。幟が立っていて、曲輪という雰囲気があります。早速天守が見えるかチェックしてみます。方角が変わると、違った形に見えます。

作左曲輪跡
展望広場
展望広場から見える天守

天守曲輪の南側に戻ってきました。次は、更に南側にある出丸の跡に行ってみます。まず遠くから見てみると、建物がたっています。出丸の跡は、図書館の敷地になっているのです。図書館の曲輪に登っていきます。「浜松城出丸跡」という案内があります。図書館があるのはいいとしても、天守の見え方をチェックしたいところです。裏手の駐車場がいいようです。見えました。方角は逆ですが、さっきの展望広場と同じように見えます。一番最初の「古城」引間城を含めて、さまざまな曲輪が城を囲んで守っていたのがわかります。

出丸跡(遠景)
図書館への入口
出丸跡の案内
出丸跡から見える天守

「三方原」の史跡を巡る

城周辺の地図

最後のセクションでは、城の近く(市役所南バス停)からバスに乗って、三方原古戦場まで行ってみます。約10km、20分くらいのバス旅です。三方原墓園バス停で降りると、古戦場碑はすぐ近くにあります。ここで合戦があったのだろうと思ってしまいますが、実は、それがよくわからないのです。なんと主戦場について4つも説があり、場所もバラバラなのです(根洗松、大谷、小豆餅、大柴原)。

遠州鉄道のバス
三方原合戦古戦場碑

ここはいさぎよく撤退しましょう。家康が撤退したときの伝説地をめぐります。反対側のバスに乗って、葵町バス停で降ります。この付近には「小豆餅」という地名があり、家康が小豆餅を食べた場所とされています。今も小豆餅を売っている店があります。家康は、追手が迫ったので代金を払わず行ってしまいました。店のおばあさんは怒って家康を追いかけました。代金取立てまでを追ってみます。

葵町バス停
「小豆餅」の住所表示
小豆餅を売っている店

歩きやすい道を選び、バス通りに並行する廃線跡の通りを歩きます(軽便通り、奥山線跡)。ところで、家康が撤退したのは夜だったのですが、お店はやっていたのかとも思ってしまいます。ただ、伝説は伝説として楽しむのがよいのでしょう。バス通りに戻ると、「銭取」バス停がありました。小豆餅~銭取間は約2kmの道のりでした。

軽便通り
「銭取」バス停

次はバスに乗って「さいが崖」で降ります。徳川軍が反撃した場所です。ここにも伝説があって、崖に布を渡して橋に見せかけ、誤った多くの武田兵が崖に落ちたというものです。それにちなんだ「布橋」という地名もあります。崖の下には行けないそうですが、見晴台があるので見学します。草木が茂っていますが、なんとか底は見えます。こういう自然の地形も活用して城を守っていたのです。隣接する犀ヶ崖資料館では、合戦のジオラマなどを楽しめます。

「さいが崖」バス停
犀ヶ崖
浜松市犀ヶ崖資料館
三方原合戦のジオラマ

ここから先はまた歩きます。さっきの廃線跡のルートが遊歩道になっているのです。この道を行けば、浜松城公園に出られるとのことです。公園に着いたところで、見覚えがある小山がありました。最初に行った「古城」の引間城跡です。三方原合戦の後、家康が戻ったのはそこにある城門でした。よって、その場所をゴールにしました。そういえば城の方でも、わざと城門を開いてかがり火をたき、追撃してきた武田軍をかえって警戒させたという伝説がありました。(空城の計)浜松城は、歴史と伝説に彩られた城だと思いました。

廃線跡の遊歩道(亀山トンネル跡)
「古城」引間城跡
家康が戻ったとされる玄黙口

「浜松城 歴史編」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

70.岡山城 その2

今回はまず、岡山城に向かうコースを2つご紹介したいと思います。岡山駅から城の正面側に向かうコースと、旭川沿いを歩いて、城の裏門側に至るコースです。城に着いたら、天守に登ってみましょう。その後は、殿様気分で後楽園にも行ってみましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今回はまず、岡山城に向かうコースを2つご紹介したいと思います。岡山駅から城の正面側に向かうコースと、旭川沿いを歩いて、城の裏門側に至るコースです。城に着いたら、天守に登ってみましょう。その後は、殿様気分で後楽園にも行ってみましょう。

岡山駅前の桃太郎像

岡山駅からの正面コース

岡山駅から岡山城までは、2キロくらいあるので、路面電車やレンタルサイクルを利用するのもいいでしょう。

路面電車
岡山市コミュニティサイクル 「ももちゃり」

駅前の「桃太郎大通り」をまっすぐ進むと、道の途中は、すっかり市街地になっていますが、外堀や中堀だった場所がわかるようにパネルが設置されています。

外堀跡
中堀跡

交差点に突き当たった場所は、内堀の中でした。右の方に向かうと、数少ない現存する城の建物の一つ、西の丸西手櫓が姿を現します(国の重要文化財に指定)。かつては、堀に向かってそびえていました。

突き当たりの交差点
西の丸西手櫓

次は、西の丸を回り込んでみましょう。西の丸の石垣が続きます。歩いている道も、堀だったのでしょう。やがて、石山門跡に着きます。建物は残念ながら戦災で燃えてしまいました。入口へは橋が堀を渡っていました。

西の丸石垣
石山門跡

更に進むと、今度は岡山城創建の地が見えてきます。石山の城(旧本丸)です。石垣は、池田氏の時代のもののようです。東側の入口から見ると、今は駐車場になっています。ちなみに、この辺から見える天守の姿は、スマートに見えて面白いです。

石山の城
石山の城への入口
西側から見た天守

いよいよ本丸です。本丸へは、内堀にかかる橋(目安橋)を渡っていきます。渡った先の本丸入口は枡形(四角い防御空間)になっています。内下馬門(うちげばもん)跡です。

目安橋
内下馬門跡

本丸は、三段構成になっていて、高い方から順に、本段、中の段(表向)、下の段と呼ばれています。特に中の段は、小早川・池田時代に拡張されました。門跡から進んでいくと、中の段の隅にある大納戸櫓跡の石垣が見えます。小早川氏の時代に築かれたと言われています。最初に歩いている低い場所が下の段です。

大納戸櫓跡
下の段、中の段の石垣が見えます

本段の石垣も、中の段の入口にかけて改修されています。宇喜多時代の石垣を、小早川・池田時代にかけて継ぎ足したり、修理したりしました。中の段の入口、鉄門(くろかねもん)跡を登っていくと、本段への入口、不明門(あかずのもん、再建)前に着きます。

本段(右)から中の段の入口(左)にかけての石垣
鉄門跡
不明門

旭川沿いの搦手?コース

次のコースは、京橋から旭川沿いに城にアクセスします。京橋は、宇喜多秀家の時代に最初に架けられたそうです。

現在の京橋
川沿いに展示されている江戸時代の京橋の橋脚

川沿いに東門跡、素軒屋敷櫓(そけんやしきやぐら)跡が現れます。こんなところにも門や櫓があったのです。続いて、二の丸伊木長門屋敷内櫓跡もあります。二の丸の重臣の屋敷内にも櫓があったようです。天守も見えてきました。

東門跡
素軒屋敷櫓跡
二の丸伊木長門屋敷内櫓跡
南側から見た天守

本丸に着いたら、石垣を見学しましょう(本段南東部の高石垣)。すごい迫力です。宇喜多秀家時代に築かれたもので、自然石を積み上げた野面積みの手法によります。高さが約15メートルあって、当時は屈指の高石垣でした。見ているうちに、安土城の石垣を思い出しました。やはり、安土城のやり方を引き継いでいるものがあるのでしょう。

本段南東部の高石垣
安土城二の丸の石垣

川沿いに戻って、天守の方に進むと、宇喜多時代と小早川時代の石垣の継ぎ目を見ることができます。後の小早川時代の方が、小さい石を使って積まれています。急いで作ったからなのでしょうか?池田氏の時代に作られた門(六十一雁木下門跡)の跡を見て進むと、天守台石垣に至ります。

2つの時代の石垣の継ぎ目、左側が宇喜多時代、右側が小早川時代
六十一雁木下門跡

オリジナルの天守が焼けたとき、外側の石垣の方に崩れてきたそうです。そのため、石垣も焼けてしまっています。まさに歴史の証人です。

天守台石垣
天守を見上げています

天守の近くにある、本丸裏手の廊下門(再建)から入ると、このコースも本丸・中の段に到着です。

天守のビュースポット
廊下門

天守登閣→御殿めぐり

それでは、不明門から本段の中に入っていきましょう。本段はお殿様の住居なので、普段はこの門が閉ざされていて、こういう名前になったと言われています。本段の中には、オリジナルの天守の礎石が並んでいます。天守焼失後に現在地に移されました。

不明門
オリジナル天守の礎石

現在の外観復元天守の中は歴史博物館になっていますが、最近リニューアルされました。例えば、「城主の間」が再現されていたり、3大名家の「それぞれの関ヶ原」の展示があったりします。

現在の天守(外観復元)
天守地階
城主の間(天守2階)
それぞれの関ヶ原・宇喜多パート(天守3階)
それぞれの関ヶ原・小早川パート(天守3階)
それぞれの関ヶ原・池田パート(天守3階)

天守5階には、金鯱が展示されています。実際に屋根に乗っているものも、同じ階から間近に見ることができます。最上階(6階)では、屋内からではありますが、周りの景色を楽しむことができます。天守1階には休憩コーナがあって、城の解説ビデオを視聴することができます。

展示されている金鯱(天守5階)
屋根の上の金鯱(天守5階から)
最上階からの景色(後楽園)
天守1階

その解説ビデオで殿様の一日を再現していたので、少しトレースしてみましょう。帰りは、天守の脇から廊下門の方に出てみます。お殿様が、本段の御殿から、政務を行った表書院に通ったルートだったからです。お殿様は、門の上の渡り廊下を渡ったのです。

天守から廊下門のところに出ました。

廊下門から、表書院に向かい、中の招雲閣で政務を行い、南座敷で書画に親しみました。現在では、地面の上に間取りが表現されています。そして家老と相談があるときには、茶室で行ってました。

奥が天守、左側が廊下門、手前が表書院のあった中の段
表書院の招雲閣(奥)、南座敷(手前)跡
茶室跡

それから中の段で面白いのが、掘り出された宇喜多時代の石垣が見学できることです。中の段を広げるときに埋められたものです。元は、門の一部だったのでしょうか。

宇喜多時代の石垣

殿様気分で後楽園へ

後楽園に行く前に、現存する月見櫓もチェックしていきましょう。この櫓は池田時代に立てられているので、天守台の石垣や、天守の建物とは雰囲気が違います。石落としが、ばっちりこちらを狙っていて、となりの石垣には銃眼が並んでいます。内側から見たときの優雅な姿とは全然違います。守りのために漆喰で塗り固めたので、戦災を生き残れたという話もあります。現在は、国の重要文化財に指定されています。

現存する月見櫓(外側)
石垣に並ぶ銃眼
内側から見た月見櫓

それでは、後楽園に向かいましょう。

城と後楽園を結ぶ月見橋
後楽園入口(正門)

ここでは、園外の景色も一体として考えているそうです。岡山城もその一つです。

後楽園と借景(操山)
後楽園と借景(岡山城)

かつては、タンチョウが放し飼いにされていました。現在は、秋冬にタンチョウの園内散策が披露されています。

現在の鶴舎

これが、藩主の居間だった延養亭(えんようてい)で、戦災で焼失しましたが復元されています。

延養亭

となりに、鶴鳴館(かくめいかん)という接待用の建物があったのですが、これも戦災で焼失し、戦後に岩国の吉川家のお屋敷(明治時代建築)を移築して、同名の建物として継続しています。

鶴鳴館(移築)

築山(唯心山)は、創建者・池田綱政の子、継政が作りました。ここからだと、芝生や池がよりきれいに見えますが、その中には田んぼ(井田、せいでん)もあります。それは後楽園(御後園)の当初の姿の名残りと言われています。

唯心山
唯心山からの景色(井田)

現存する建物の一つ、流店で休憩するのもいいでしょう。最後は、これも現存する廉池軒(れんちけん)の前にきました。池田綱政のお気に入りの場所だったそうです。貢献した家臣をここに招いたりもしていたそうです。

流店
廉池軒

リンク、参考情報

・岡山城公式ウェブサイト
・川面に映える金烏城 岡山城、岡山市
・岡山後楽園
・宇喜多直家公の足跡を巡る、岡山市・瀬戸内市観光連携事業実行委員会
・「現代語訳 備前軍記/土肥経平原著 柴田一編著」山陽新聞社
・「宇喜多直家・秀家/渡邊大門著」ミネルヴァ書房
・「「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家/大西泰正著」角川新書
・「宇喜多秀家: 秀吉が認めた可能性/大西泰正著」平凡社
・「シリーズ・実像に迫る13 宇喜多秀家/大西泰正著」戎光祥出版
・「歴史群像名城シリーズ12 岡山城/学研」
・「よみがえる日本の城5」学研
・「小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「百間川小史」国土交通省岡山河川事務所
・「池田家文庫絵図展(図録) 岡山藩の教育」岡山大学付属図書館、岡山市デジタルミュージアム

「岡山城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

70.岡山城 その1

岡山城は、岡山県の県都・岡山市に今でもそびえている城です。天守はその黒さから「烏城」とも呼ばれています。この記事では、岡山城が完成するまでのストーリーをご説明します。

立地と歴史

Introduction

岡山城は、岡山県の県都・岡山市に今でもそびえている城です。天守はその黒さから「烏城」とも呼ばれています。オリジナルの天守は、1945年(昭和20年)6月29日の岡山大空襲で焼失しましたが、1966年(昭和41年)に外観復元されました。また、城の堀とも言うべき旭川を挟んで、日本三名園の一つ、後楽園もあり、人気の観光地になっています。これら優美な姿は、一遍に現れたのではなく、3つの大名家の関わりによって出来上がりました。城を築いた宇喜多氏、城を受け継いで近代化した小早川氏、そして完成させた池田氏です。そして、現在の岡山市の繁栄の基にもなりました。この記事では、岡山城が完成するまでのストーリーをご紹介します。

現在の岡山城天守

「戦国の梟雄?」宇喜多直家による築城

宇喜多直家は一代で、現在の岡山県周辺地域(備前・美作国)の戦国大名にのし上がりました。しかしその手段が卑劣だったということで「戦国の梟雄」「戦国三大悪人(の一人)」などと呼ばれてもいます。実はそのような評判は江戸時代初期からのことでした。当時の作家・小瀬甫庵の「甫庵太閤記」に取り上げられているのです(下記補足1)。

(補足1)直家義も露程も知らず事ども、甚だもって夥し。かつ記すに、先主浦上備前守宗景を隠謀をもって弑し、舅中山備中守を属託にふけり殺害し、作州ゑびの城主後藤を聟に取り、毒して殺しけり。かやうの類悪のみにて、備作の城主をあまた生害し、その領知を奪取て、威猛く富溢れ出、一往栄え侍れども、天その不義をば赦し給わずなり。(略)まことに無道の報、直家にかぎらず。松永弾正忠久秀、斎藤山城守道三、この両人等も直家にひとしく、才高くして利を好み、義を疎にせしが、何も後絶にけり。(甫庵太閤記)

要するに「義」を疎かにし、「才」能を「利」得のために使う者は、滅びる運命にあるということの典型例として、直家の名を挙げているのです。甫庵の考え方(儒教の忠孝)に基づき、結果論から語っているようにも思いますが、結果的に平和になった江戸時代の人々に受け入れられました。宇喜多家は大名としては滅びたので、抗議の声もあがらなかったでしょう。

宇喜多直家像(復元、岡山城にて展示)

この傾向に拍車をかけたのが、直家の前半生を記した記録が、江戸時代後期に書かれた軍記物の「備前軍記」くらいしか残らなかったことです。宇喜多家にあった記録は、没落により散逸してしまったからでしょう。ここでは敢えて直家の生い立ちを「備前軍記」に基づいて簡単に記してみます。

1534年(天文3年)島村観阿弥が宇喜多氏の居城・砥石城を奇襲、祖父・能家は自害、直家(6歳)は父親(興家)とともに流浪
1543年(天文12年)浦上宗景に仕官(直家15歳)、その後元服して乙子城を預けられる
1549年(天文18年)浮田大和を攻め、砥石城を落とした手柄で、新庄山城(奈良部城)を預けられ居城とする
1559年(永禄2年)舅の中山信正を、亀山城で酒宴で油断させて自ら斬る、城を乗っ取る、また、祖父の仇・島村観阿弥を砥石城からおびき寄せ討ち取る、城も取り返す
1561年(永禄4年)龍の口城の穝所元常を美少年の小姓を使い、酒を飲ませて生害
1566年(永禄9年)備中の大名・三村家親を、部下に鉄砲で生害させる
1568年(永禄11年)金川城の娘婿・松田元堅を討つ
1570年(元亀元年)岡山城主・金光宗高(別書では娘婿)を切腹させる
1573年(天正元年)岡山に移転
1577年(天正5年)主君の浦上宗景を天神山城に攻め、宗景は落ち延び、浦上氏滅亡
1578年(天正6年)妹聟の虎倉城主・伊賀久隆に毒を盛る
1579年(天正7年)三星城主・後藤勝基を(別書では娘婿)攻め自害させる

まさに、目的のためにはたとえ身内相手でも手段を選ばずといった感じですが、他に直家の詳しい経歴がわかるソースがないため、これがそのまま直家の「戦国の梟雄」イメージを作り上げ、現代まで続いているのでしょう。現在では、島村観阿弥への仇討ちが他の史料で確認でなかったり、必ずしも直家が単独で行ったのか疑問を持たれるケース、年次の誤り(例:浦上氏滅亡は実は2年前、伊賀久隆没は3年後)、「酒を飲ませる」パターンなど誇張された表現などが指摘されています。しかし仮にグレーな部分が全て事実だったとしても、程度の差はあれ、戦国時代は生き残りのため親族間であっても謀略・寝返りは普通に行われていました。これらのストーリーは、直家の戦国大名としての優れた能力をも示しているのではないでしょうか。「主君」を攻めるという件についても、当時は完全な上下関係ではなく、有力大名と地方領主の関係で力関係によって下剋上となったのです。

直家が最後の本拠地とした岡山の近くには、瀬戸内海が湾のように入り組んでいて、旭川の河口がすぐ南にありました。そのデルタ地帯の「石山」という丘を中心に城を構えたとされています。後の岡山城よりはずっと小規模でした。1572年(元亀3年)に毛利氏と宇喜多氏が和平を結んだときの文書に「岡山」という地名が初めて見られるということです(十月二日付小早川隆景書状「乃美文書」)。「備前軍記」には、直家が岡山を選んだ理由と経緯が書かれています(下記補足2)。こういったところも、直家の先見性を示しています。

(補足2)(これまでの城と比べて)岡山は城下が殊のほか広大で、城の東を流れる大川は、海に通じて運送の便もよく、行く行く繁昌する条件を備えた土地であった。しかし、岡山の城はこれまで金光宗高の居城で、城の規模も小さく、家臣の屋敷も少なく、このままでは居住できなかったので、城の郭を押し拡げ、或いは作り添え、新規に縄張りを行い、土居や堀を改築することにした。そのためこの地にあった寺社を外に移転した。(「現代語訳 備前軍記」より引用)

中世当時の岡山周辺の推定海岸線(岡山城にて展示)
直家時代の城の範囲(緑色部分、岡山城にて展示)

また後に羽柴秀吉が毛利氏と対決するため、備前国に駐留した時に出した掟書には、岡山に城下町があったことがわかります(下記補足3)。

(補足3)
一 岡山町で売り買いするときには、従来どおり「かわり(為替か)」を取り交わして買うこと。
一 町中において、在陣の者たちは無礼な振る舞いをしないこと
一 備前国衆と喧嘩口論があった場合は、理非を問わず、在陣の者に非があること。
(羽柴秀吉掟書写「諸名将古案」訳は「宇喜多直家・秀家」より)

直家がメジャーな存在になると、他の記録にも現れるようになり、その動向がはっきりしてきます。しかしそれは、最後の試練に悩む姿でした。直家が戦国大名化したとき、中国地方は織田信長と毛利輝元が対決するフェーズに入っていました(1576年(天正4年)足利義昭が毛利氏を頼って以後)。直家は毛利氏の傘下で、織田軍と戦っていたのです(上月合戦など)。毛利氏は当初善戦していて、1578年(天正6年)には上月城を落とし、別所長治(三木城)・荒木村重(有岡城)が織田方から離反していました。しかし翌年には三木城包囲戦が始まり、有岡城は開城されました。直家はその動きを見ていたものと思われます。そして、羽柴秀吉の仲介で織田方に寝返ったのです。この決断は織田方の先鋒として毛利と戦うことを意味し、熾烈な戦いが続きました。やがて直家は病に倒れ、1582年(天正10年)正月までに亡くなったとされています(「信長公記」に宇喜多秀家が信長から家督継承の許可を得たという記事あり)。秀吉は中国戦線のテコ入れを図り、4月に岡山城に入城、5月に有名な備中高松城の戦いが始まり、6月に本能寺の変を迎えます。直家の判断は正しかったことになります。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
備中高松城跡

「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家による大拡張

直家の跡を継いだのは若干11歳の秀家でした。宇喜多勢はこの後、羽柴から豊臣となった秀吉とともに、天下統一事業に加わります。叔父の宇喜多忠家がバックアップしていましたが、秀家は若年で異例の出世を遂げ、最後は五大老の一人に上り詰めます。(秀吉没時 秀家27歳、徳川家康57歳、前田利家61歳、毛利輝元46歳、上杉景勝44歳、伊達政宗でさえ32歳)この主な要因は4つあると考えられています。

宇喜多秀家肖像画、岡山城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1.宇喜多直家・秀家親子に対する秀吉の恩義
秀吉が天下を取るための最も大切な時期に、秀吉軍の主力として戦いました(下記補足4)。

(補足4)備前・美作両国の宇喜多直家は、さきに播磨の別所長治が寝返った時、「西国(毛利方)」から離脱した。秀吉陣営の領域は度々危機に見舞われたが、並々ならぬ覚悟をもって尽力してくれた。だから直家が没すると、その嫡男を取り立てて、温床として秀吉の婿に迎え、「羽柴」の名字を与えて「羽柴八郎」と名乗らせた。さらに「分国の外」にも所領を与えた。(「天正記」二、現代語訳を「宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性」から引用)


2.樹正院(豪姫)に対する秀吉の愛情
樹正院は前田利家・芳春院(まつ)の子ですが、秀吉・北政所の養女となり、秀吉から溺愛されました(下記補足5)。その婿となったのが秀家でした。樹正院が出産後に大病を患ったときには、秀吉は野狐の祟りと考え、伏見稲荷社に祈祷を命じ、万一のことがあれば、稲荷社を破壊し、毎年日本国中で狐狩りを行うとまで言っています。

(補足5)大こうひそのこにて候まゝ、ねよりうへのくわんにいたしたく候(略)八郎ニハかまわす候(太閤秘蔵の子であるから、北政所より上の官につけたい、秀家にかまうことはない。)(豊臣秀吉書状、賜芦文庫所蔵文書、現代語訳は「宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性」から引用)


3.秀吉と秀家との良好な関係
秀家が、気まぐれであった秀吉の勘気に触れた記録はないそうです。朝鮮侵攻初期には、秀家を日本の関白か朝鮮の支配者にすると言っていました。特筆すべき武功はないが、出陣(紀州・朝鮮など)したときには積極性を見せているので、それが気に入られたかもしれません(下記補足6)。秀吉が好んだ能、茶道、鷹狩りに莫大な経費をかけ、上方の屋敷では秀吉の御成を受けて豪華な饗宴が開かれました。(イケメンだったからかもしれないが、知られている肖像(上記)は、昭和に描かれた想像画です。)

(補足6)就其大明国へ先懸同備之事、備前之宰相都ニ相残儀迷惑之由、達而申越候条、(天正20年6月13日付豊臣秀吉朱印状、「成仏寺文書」)


4.身内を引き立てようとする秀吉の意図
跡継ぎの秀頼を除き、弟の秀長、切腹した秀次、その弟の秀勝・秀保と、一門が次々と亡くなっていました。一門と呼べる大名が秀家くらいになっていたのです(小早川秀秋は他家の養子扱い)。秀頼を補佐する次代のリーダーと見込まれていたのかもしれません。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀家は、大名としても約50万石(諸説あり)もの領地を有していました。岡山城は、その本拠地に相応しいものとして大拡張されました。工事が始まったのは1590年(天正18年)とされていますが、その2年前から工事の準備が始まった記録があります(下記補足7)。まず、城の中心部が「石山」から東の方にあった「岡山」に移されました。中心部の本丸は、自然石をあまり加工しないで積まれた、野面積みの高石垣で、最高15メートルあり、関ヶ原前では屈指の高さでした。本丸から西と南側に多くの曲輪を作り、三重の堀で囲みました。当時は、旭川が分流して城の周りを流れていましたが、流れを一本化して本丸の北と東に、天然の堀として通しました(下記補足8)。
城の堀も、元の川の流れを利用したものと言われています。城下町も整備し、西国街道を城下町や旭川に沿って付け替えました。秀家はあまり領国にいなかったようですが、朝鮮から指示を出した文書が残っています(下記補足9)。

(補足7)其元(岡山)普請之事、大石如何程取置候哉、承度候、岡山之詰衆徒ニ戻申候間、其方御呼越候て普請可被仰付候、(天正16年7月26日付花房秀成書簡、「湯浅家文書」)

(補足8)中納言秀家卿当城普請のとき、先づ二流の朝日川を、石を以て西の流をせき入、東一方へ流したり、今の川筋は是也(地誌「和気絹」)

(補足9)
一 あまし(天瀬)の内、さふらい(侍)のほか、商売人一人も不可居住事、
一 しやうはい(商売)人之事、よき家をつくり候ハゝ、新町をはしめ、いつれの屋敷にかきらす、あしき家をこほさせ可遣、但二かひ(二階)つくりたるへき事、
一 大河に橋を可懸之あいた、川東へなり共、心まかせに、や敷(屋敷)とり(ら)すへし、請銭之事、いつれの給人雖為進退、一段可為貫別事、
(文禄2年5月2日宇喜多秀家覚書、「黄薇古簡集」)

城の大きさの移り変わり(現地説明パネルより)
秀家時代の城の範囲(濃色部分、岡山城にて展示)
本丸に残る秀家時代の石垣

そして特徴的なのが、城のシンボルである天守です。3重(屋根が複雑なため4重または5重とも表現される)6階で、建物の高さは20メートル以上ありました。当時の天守台石垣は、技術的な問題から、地形に沿って多角形に作られました。岡山城の場合は、不等辺五角形になっています。そのため一階部分も同じ形になっていて、上の階に行くほど、四角形に修正されていきます。その結果、一重目と二重目(4階まで)が大きな櫓(入母屋屋根)の形をしていて、小さな三重目(5階と6階)が望楼として乗っかっています。このスタイルを望楼型といいますが、岡山城天守は、天守の魁である安土城や秀吉大坂城の姿を引き継いでいると言われています。天守の壁は、黒く塗られた下見板張り(横長の板材を階段状に重ねたもの)で、別名「烏城」のもととなりました。屋根には、特別に許された、金箔瓦が使われ、城主の権威を表していました。
城の改修には、秀吉の指導もあったと言われ、1597年(慶長2年)までに完成しました。

天守古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
天守模型(岡山城にて展示)
発掘及び復元された金箔瓦(岡山城にて展示)

しかし1598年(慶長3年)に秀吉が亡くなると、状況は一変します。秀吉のバックアップで成り立っていた秀家の権威が低下し「宇喜多騒動」と呼ばれるお家騒動が勃発したのです。浮田左京亮(うきたさきょうのすけ)など重臣たちと、秀家の政策を進める近臣たち(中村次郎兵衛など)が、惣国検地のやり方などを巡って対立したのです。秀家はこの騒動を治めることができず、徳川家康の裁定に持ち込まれました。結果、多くの家臣が宇喜多家を去ることになりました(浮田左京亮は、関ヶ原で東軍に属し、坂崎出羽守と名前を変えて、津和野城主になります)。

坂崎出羽守肖像画、個人蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
津和野城跡

1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原合戦では、秀家軍は西軍主力として戦いますが、敗れました。秀家はわずかな家臣とともに美濃山中に潜伏し、樹正院・芳春院の影なる援助もあって、堺から船で薩摩に乗り付け、島津氏を頼ったのです(下記補足10)。生き延びて、自らの復権を願ったのです。そして2年後に徳川・島津の講和が成立すると、秀家は翌年に伏見に出頭しました。島津氏や家康側近の本多正純(弟が宇喜多に仕官していた)などの助命嘆願が功を奏し、八丈島への配流ということで決着しました。秀家はその後も復権を諦めていなかったそうです。そして1655年(明暦元年)、84歳になるまで生き抜きました。「貴公子」というイメージ以上にしたたかな人物だったのではないでしょうか。

(補足10)我ら心中、申し置き候間、宜しき様にその心得たのみ入り候、以上、今度我ら身上の儀に付いて、一命を顧みられず、山中え罷り越され、その以後、方々堪え難き所、付きそい奉公の儀、誠にもって満足の至り、浅からず候、我ら身上成り立ち候わば、その方事、一かどの身躰に相計らうべく候、今度奉公の程、重ねて忘却なく候、向後も我ら身上の儀、諸事由(油)断なく、その心遣い肝要に候、謹言、(慶長六年五月朔日付難波秀経宛宇喜多秀家書状)

関ヶ原の宇喜多秀家陣跡

悲運の城主・小早川秀秋による近代化

岡山城には、徳川方接収の後、小早川秀秋が備前・美作40万石(諸説あり)の岡山藩主として入城しました。もちろんこれは、関ヶ原合戦の論功行賞によるものです。合戦での秀秋の行動は、徳川家康が命じた「問鉄砲」により動揺し、合戦最中に西軍から東軍に寝返ったという「裏切り者」のストーリーとして語られてきました。しかし最近の研究によると、秀秋は合戦途中ではなく、遅くとも合戦当初から東軍に参加していたことが明らかになっています。しかしこれまでのストーリーの影響もあり、岡山城での秀秋は、豪奢放蕩にに走り、乱行を重ね、ついには狂死したとの説話が残っています。事実として、家老の杉原国政を粛清し、別の家老・稲葉正成は出奔しています(下記補足11)。

(下記11)小早川秀秋は入封後間もなく政治を乱し、ただ放鷹など狩猟にのみうつつを抜かし、時には罪なき者を殺害するようなことさえあった。稲葉内匠頭・杉原紀伊守はもちろんこれを諫めた。殊に杉原紀伊守は厳しく諫言したので秀秋は大層憤慨し、村山越中なる者を討手に差し向け、紀伊守殺害を命じた。(「現代語訳 備前軍記」より引用)

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、最近では秀秋の死因は、若年からの飲酒によるものと言われています。また、1602年(慶長7年)に21歳で亡くなるわずか2年間にしては、多くの業績も残しています。家老の粛清も、自身の近臣を中心とした、家臣団の再編成という一面があったのかもしれません。主な業績として挙げられるのは、総検地の実行、寺社の整備・再建、不要な城の破却、そして岡山城の近代化です。関ヶ原前後の新たな戦い方(大規模な集団戦)に対応するものだったと考えられています。

秀秋はわずか2年の間に、城の面積を倍近くにしたのです(約60→110ヘクタール)。城域を更に西に広げ、三の外曲輪を築き、外堀で囲みました。全長2.5キロメートルの外堀を、家臣・領民を動員してわずか20日間で完成させたと言われ「二十日堀(はつかぼり)」と呼ばれました。関ヶ原で領地を減らした毛利氏への備えであったという指摘もあります。また、城の中心部でも本丸を南側に拡張し、新たな櫓や門を整備しました。現在でも本丸に小早川時代の石垣を見ることができます。櫓は、破却した城の建物を移築したものと伝わっています(亀山城天守→大納戸櫓、富山城大手門→石山門)。

外堀(二十日堀)跡
本丸の秀秋時代の石垣(右側)
大納戸櫓模型(岡山城にて展示)

秀秋は跡継ぎを残さず亡くなったため、小早川氏は改易となりました。秀秋の早すぎる晩年は、関ヶ原からその死まで、一気に駆け抜けた日々だったと言えるでしょう。もし彼がある程度長生きしたか、跡継ぎがいたならば、彼の関ヶ原や岡山での業績への評価は、もっと違ったものになったのではないでしょうか。まさに悲運の城主でした。

西国の要・池田氏による完成

小早川氏が改易となった後、その領地のうち、備前一国(28万石)が、姫路城主・池田輝政の子、わずか5歳の忠継に与えられました。母親は家康の次女・督姫(とくひめ)でした。忠継は孫ということで家康に可愛がられたそうです。とはいっても、幼少すぎるので、(母親ちがいの)兄・利隆(としたか、当時20歳)が後見しました。池田一門はこの時点で、播磨・備前・淡路・因幡国を領有したので、その総帥・輝政は「西国将軍」と称されました。やがて、輝政が亡くなると、利隆が姫路藩を継ぎ、忠継が自立します。しかし、忠継はそれからわずか1年程の1615年(元和元年)に病気で亡くなってしまいます。その跡を継いだのは弟の忠雄(ただかつ、当時14歳だが大坂の陣には出陣)でした。一方、姫路藩では利隆が1616年(元和2年)に亡くなると、跡継ぎの光政が幼い(8歳)ということで、鳥取藩に移されていました(姫路藩は本多氏へ)。ところが、1632年(寛永9年)に忠雄が亡くなると、今度はその跡継ぎ・光仲(みつなか)が3歳ということで、光政(当時24歳)が岡山に、光仲が鳥取ということになったのです。姫路や岡山は西国の要であり、幕府は、幼少すぎる藩主では任務(西国大名の監視など)を果たせないと考えていたのでしょう。

姫路城
池田輝政肖像画、鳥取県立美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
池田忠継肖像画、清泰院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

池田氏の時代に岡山城は完成しました。まず忠継を貢献した利隆が、二の丸内郭や西の丸の整備を行いました。現存する西の丸西手櫓はこの時建てられたと言われています。次の忠雄の代には、本丸中の段(表向)を大幅に拡張し、政務を行うための表書院を築きました。現存する月見櫓が建てられたのもこの時です。藩政を行うための施設が整ったわけです。防御の面でも、大手門を枡形に改修、強化しました。

備前国岡山城絵図(部分、国立公文書館デジタルアーカイブ)
池田利隆肖像画、林原美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
西の丸西手櫓
池田忠雄肖像画、清泰院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代の本丸模型(岡山城にて展示)
月見櫓

光政が藩主になってからは、岡山藩の民政・文化面での発展が見られます。光政は自ら儒学を修め、その学識によって、藩士・領民を導こうと考えていました。そのため教育の振興に努め、1669年(寛文9年)に藩士の子弟のために岡山藩学校を建設しました。また、前年には領内123ヶ所に手習所を設けて庶民の教育普及を始め、1670年(寛文10年)には統合して、閑谷学校を建設しました。これらの建設は、有能な側近・津田永忠などが行いました。特に閑谷学校は、日本初の庶民のための学校と言われています。一方、城下では、城の防衛のために一本化された旭川が度々洪水を起こし、特に1654年(承応3年)の大洪水の被害は深刻でした。光政は救済事業を行うとともに、事前対策も命じました。それが、堤と放水路を組み合わせた「百間川」の開削です。この工事も津田永忠が担当しました。光政は、1672年(寛文12年)に隠居するまで40年に渡って藩政を行いました。

池田光政肖像画、林原美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
岡山藩学校跡
閑谷学校
百間川の開削 説明パネル(岡山城にて展示)
百間川 二の荒手

跡継ぎの綱政は、文化教養を好む殿様で、閑谷学校を維持する一方、1687年(貞享4年)から旭川を挟んだ城の背後に、庭園「御後園(ごこうえん、後の後楽園)」の造営を始めました。ちょうど百間川が完成を迎える時期で、造営場所は荒地となっていました。この仕事を担当したのも津田永忠です。当初は綱政の趣味を反映して、田園風景を再現したような姿で、実際に農民が耕作していたそうです。また、庭園は藩主専用で、舟で旭川を渡って、その日のうちに城に帰るといった使い方をしていました。それが、代を重ねるごとに、その時の藩主の好みや時世の変化で姿が変わっていきました。例えば、現在の一面の芝生は、財政難で田畑・農民を維持できなくなったために、切り替えたものとのことです。その他、築山や築池などが行われ、現在の姿に至りました。時代が下ると、接待に使われたり、日を限って領民に公開することもありました。

池田綱政肖像画、林原美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の後楽園
「御後園絵図」、1863年(文久3年)(文化遺産オンライン)

「岡山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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