53.二条城 その2

東大手門は、現在のビジターにとって、唯一の出入口になります。立派で厳重そうに見える門ですが、入ってみると内部は、脇に番所はあるものの、開放的なスペースになっています。これは、この門が正門で、儀礼的な行事があったときに使われたことと関係がありそうです。。

その後

二条城は、明治時代になってからは、皇室の離宮として使われました。大正天皇の即位礼の饗宴の場にもなりました。1939年(昭和14)年からは史跡になり、城の東大手門の前には「史跡 旧二条離宮」という標柱が建てられました。こういった経緯から史跡の正式名称は「元離宮二条城」となっています。1994年(平成6年)からは、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されています。

大正天皇即位饗宴を描いた絵画(licensed by Ninijo via Wikimedia Commons)
史跡の標柱が前に立っている東大手門

特徴、見どころ

華やかな二条城二の丸

東大手門は、現在のビジターにとって、唯一の出入口になります。立派で厳重そうに見える門ですが、入ってみると内部は、脇に番所はあるものの、開放的なスペースになっています。これは、この門が正門で、儀礼的な行事があったときに使われたことと関係がありそうです。。

二条城の航空写真、東大手門は右下(Google Mapを利用)
東大手門の内側、正面に見えるのは番所

角を曲がって、二の丸御殿の正門「唐門」に向かいます。切妻造り・檜皮葺きで、唐破風の四脚門という、高い格式の造りなのですが、とにかく金色の装飾が目立っていて、外国人観光客にも大変な人気です。

唐門

東大手門から、唐門を通って、二の丸御殿に至るというのが、昔も正規ルートだったようです。二の丸御殿は、寛永行幸のときに改修されたものが、豪華な障壁画とともに残っていて、国宝に指定されています。

二の丸御殿

残念ながら内部は撮影できませんので、外観から御殿について、説明します。御殿は6つの建物から構成されていて、正面の「遠侍(とおざむらい)」は最大のものです。玄関(車寄)と待合室として使われましたが、裏側には「勅使の間」と呼ばれる天皇からの使者専用の部屋もありました。次の建物は「式台」で、将軍への用件や、献上物を取り次ぐ場所です。裏側は取次役の老中の控室になっています。

二の丸御殿の航空写真(Google Mapを利用)
式台

次が、将軍と公式に対面する場である「大広間」です。大政奉還が諸藩に伝えられた場所であり、ここまでが江戸城などで言えば「表」に当たります。4番目の「蘇鉄(そてつ)の間」は「表」と「奥」をつなぐ建物です。名前の由来は、佐賀藩から送られたソテツが外に植えられたことによるそうです。そのソテツは今でも庭園に残っています。

左側が蘇鉄の間、右側が大広間、ソテツの木も手前に見えます

続いては黒書院で、将軍の御座所や、内輪の人たちとの対面の場所として使われました。有名な大政奉還を描いた絵は、この建物での場面です。

黒書院
「大政奉還図」、邨田丹陵作、聖徳記念絵画館蔵、黒書院での場面を描いています (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最後が、一番奥の白書院(はくしょいん)で、将軍の私的な場として使われました。

白書院

意外と城らしい?二条城本丸

本丸は、二の丸よりもお城らしいかもしれません。内堀にかかる橋を渡って、本丸に行ってみましょう。かつてここは二階建ての廊下橋でした。廊下部分は解体されましたが、その部材は保管されているそうです。橋を渡ったところには、本丸櫓門が残っています。

かつては二階建ての廊下橋でした


門の内側はしっかり石垣に囲まれていて、二の丸より厳重そうに見えます。「桝形」という構造です。

本丸櫓門内側の枡形構造

本丸の中に入っていくと、優雅な感じに戻ります。皇室の離宮になってから庭園として整備されたからでしょう。現在ある本丸御殿も、明治時代に桂宮家の御殿が移築されたものです。大正天皇が、皇太子時代によく滞在していました。

現在の本丸御殿

かつて天皇が登った天守があった、天守台に登ってみることもできます。有識者会議で、天守の復元案も提案されているそうです。

天守台外観

本丸からは、櫓門とは反対側の西虎口経由で外に出ます。建物は残っていませんが、ここも四角いスペースに区切られていて、守りが固そうです。

本丸西虎口

本丸の周りにも、守りを固める仕組みが残っています。例えば、本丸に入ったときの櫓門と橋の前の通路は、鳴子門と桃山門という2つの門に挟まれています。

鳴子門
桃山門

それから、本丸の周りの北側には北中仕切門が、南側には南中仕切門があります。これらは、敵を防ぐためや、普段の警備のために設けられました。

北中仕切門
南中仕切門

更には地味ですが、本丸の外、西側に土蔵が2つ残っています(城全体では3つ)。米蔵として使っていたそうで、かつては10棟ありました。籠城の備えもできていたのです。

土蔵(北側)
土蔵(南側)

天守台の外側、西南隅櫓の内側では、季節の花も見ることができます。

私が行ったときは、アジサイが見頃でした

二条城の周りを歩こう!

普通の観光は城内だけかもしれませんが、当記事はまだ続きます。一周約1.9キロメートルの二条城の外周を歩いてみましょう。

二条城東側は観光客で混雑しています

北側を歩いていくと、北大手門が見えてきます。正門の東大手門に次ぐ格式のある門で、向かいにあった幕府の役所、京都所司代との連絡に使われたと考えられています。城の創健当初からそのままか、寛永行幸のときに建て直されたのか、わかっていないそうです。

北大手門

しばらく進むと、城の東側と西側の四角形の継なぎ目が見えてきます。

城の東と西の継なぎ目

一部ですが、お堀端に散策路があって、堀や石垣を見ながら歩くことができます。

散策路から見える石垣と堀

城の西側に入ると、西門跡があります。ここは城の通用口で、通常はここが出入口でした。儀礼用の東と北の大手門とちがって、間口は狭く、内側は枡形となっています。普段使うところなので、防御も考えられていたのです。残念ながら、城の中からも近づけないようになっています。ちなみに、徳川慶喜はこの門から退去したそうです。

西門跡

最後のコーナーには、現存する西南隅櫓があります。同じく現存する東南隅櫓周辺とは、対照的な静けさです。

西南隅櫓

東側の堀からは、外に水が流れ出ています。実はこの場所は、二条城の前は、古代からの湧水池「神泉苑」の一部だったのです。現在ある神泉苑は、築城に伴い、縮小されたものです。現在もお堀の水は、この湧水と、ポンプ汲み上げによる地下水を使っているそうです。この城は京都の自然の恵みも取り込んでいたのです。

かつての神泉苑跡を示す石碑
堀水が流れ出ています

旧二条城たちの史跡はどこに?

ここからは旧二条城たちの史跡に行ってみましょう。しかし城跡はほとんど残っておらず、基本的には、それぞれの二条城があった場所に石碑があるだけです。

各二条城の推定位置、義輝二条城(赤枠内)、義昭二条城(青枠内)、信長二条城(緑枠内)、秀吉の妙顕寺城(茶枠内)、(Google Mapを利用)
足利義輝邸(義輝二条城)跡
旧二条城(義昭二条城)跡、京都市ホームページから引用
二条殿(信長二条城)跡
妙顕寺城跡、京都市ホームページから引用

ただし、これまでも「旧二条城」と呼ばれてきた義昭二条城については、地下鉄工事のときに発掘された石垣の一部が、京都御苑の椹木口(さわらぎぐち)から入ったところと、現・二条城の西側に、復元展示されています。

京都御苑にある旧二条城(義昭二条城)復元石垣
現・二条城内にある旧二条城(義昭二条城)復元石垣 (licensed by Tomomarusan via Wikimedia Commons)

紹介したい義昭二条城の史跡は他にもあります。この城の石垣を、織田信長が築いたとき、石材として、石仏までも調達しました。その石仏たちの一部も発掘されて、二条城から西に10kmほど行った「洛西竹林公園」で展示されているのです。

洛西竹林公園に展示されている石仏たち

当時日本に来ていた宣教師のルイス・フロイスは「信長は調達した石仏の首に縄をつけて工事現場まで引かせた、仏像を進行していた京都の住民たちはそれを見て大変恐怖した」と著書に書いています。実際、石仏たちの多くは、当時よく信仰されていた阿弥陀仏で、意図的に破壊された跡も見られるそうです。

意図的に破壊されたと思われる石仏

現代の日本人であっても、こうして安置されているのを見ると、安心します。

私の感想

それぞれの二条城の歴史を追ってみると、意外に落城したり、城主が退去したりしたケースが多かったことがわかります。やはり、京都は攻めやすく、守りにくいということなのでしょうか。それでも、京都にはずっと居たくなるような魅力があるのでしょう。こうして現在の二条城に至っているわけで、改めて二条城は一城にしてならず、天下は一日にしてならずと思いました。

二条城二の丸の庭園(左)と黒書院(右)

リンク・参考情報

世界遺産 元離宮二条城(オフィシャルサイト)
・「よみがえる日本の城19」学研
・「歴史群像名城シリーズ11 二条城」学研
・「二条城を極める/加藤理文著」サンライズ出版」
・「歴史群像185号、戦国の城 山城旧二条城」学研
・「天下人と二人の将軍/黒嶋敏著」平凡社
・「研究紀要 元離宮二条城 第三号」京都市 元離宮二条城事務所
・「洛西竹林公園石仏調査レポート」丸川義広氏論文
城びと~「最後の将軍」徳川慶喜と幕末三名城 第1回【慶喜と二条城】
気ままに江戸♪~有名な「大政奉還」の絵はどこを描いたか

これで終わります。ありがとうございました。
「二条城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

62.和歌山城 その1

3つの時代を経て完成した城

立地と歴史

主要都市であった和歌山

和歌山城は、過去は紀伊国といった和歌山県の県都である和歌山市にある城です。現在では和歌山は一地方都市として、日本の大動脈である東京、大阪、福岡のラインからは離れたところにあるという印象です。しかし、この城が実際に使われていた江戸時代までは、和歌山は日本で十指に入る都市だったのです。それは、和歌山が東日本と西日本を結ぶ海上交通の主要ルート上にあったからです。その結果、ついに和歌山城は徳川御三家の一つ紀州徳川家の本拠地となりました。更には、紀州徳川家からは、徳川宗家の跡継ぎとして、2人の将軍(吉宗と家茂)を輩出しているのです。

紀伊国の範囲と城の位置

徳川吉宗肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家茂肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

桑山氏の時代

戦国時代の16世紀には、地方領主の集団である雑賀(さいか)衆が自らのこの地方を治め、他の戦国大名に度々傭兵を派遣したりしていました。ところが1585年には、天下人の豊臣秀吉がこの地方を征服し、雑賀衆は壊滅させられてしまいます。そして秀吉はある丘を選び、弟の秀長にそこに城を築くよう命じました。それが和歌山城となったのです。秀長の家臣で、後に築城の名手となる藤堂高虎が奉行を務めました。城が完成してからは、別の家臣である桑山氏が居城としました。和歌山城の歴史は、3つの時代に区分されます。1つ目は桑山氏がいた時代です。その時代に城がどのようであったのかはよく分かっていません。しかしその範囲は大体丘とその周辺だったと考えられています。それは、緑泥片岩の古い石を使った石垣が丘の周りに築かれていて、城の他の石垣とはかなり違って見えるからです。その緑泥片岩が石垣に最初に使われた理由は、その丘かその周辺から簡単に入手できたからです。

豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
和歌山城の丘を囲む石垣

浅野氏の時代

1600年、浅野氏が紀伊国の領主となり、和歌山城を根拠地としました。桑山氏は転封となりました。浅野氏の領地は桑山氏時代よりずっと大きく、そのため、その体格に見合った城に改修したのです。丘の上には天守と御殿が築かれ、北側の麓にも新しい曲輪が築かれそこには茶室が建てられました。その曲輪群は石垣に囲まれていましたが、粗く加工された砂岩が使われていました。その砂岩は、友ヶ島など城から離れた場所で採取され運ばれてきました。加工しやすかったのです。また内堀が曲輪群の北と東を囲んでいました。城の南側と西側は、海に面した天然の砂丘によって守られていました。また、大手門が南側から北側に移されました。後に和歌山城の市街地となる城下町がこの方面に作られたからです。城の基本的構成は、浅野氏によって確立されたと言われています。

江戸時代の本丸御殿の想像図、現地説明板より
和歌山御城内惣御絵図、江戸時代、和歌山城内にて展示
砂岩の石を使って築かれた砂の丸の石垣

徳川氏の時代

1619年、浅野氏が広島城に移され、代わりに徳川頼宣(よりのぶ)がこの城にやってきました。彼は、和歌山城を徳川御三家の一つの本拠地として改修しました。城をより強化するため、砂丘があった場所に曲輪が築かれ、砂の丸等となりました。これらの曲輪は高石垣に囲まれていましたが、浅野氏が作ったものと同じ方法で積まれました。城の石垣の一部は後の時代に、熊野石と呼ばれるより精密に加工された花崗岩を使って積まれています。頼宣は、内堀の北側に三の丸を築き、そこは武家屋敷として使われました。彼は外堀を作って城を更に強化しようとしますが、中止せざるを得なくなります。徳川宗家を含む幕府側が、頼宣が幕府に反抗するのではないかと疑ったからです。

徳川頼宜肖像画、和歌山県立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
花崗岩の石を使って築かれた中門跡の石垣

平和であった江戸時代の間、生活や統治の利便のため、城の中心地は丘の上から麓の方に移りました。北麓にあった二の丸には御殿があり、表(藩庁)、中奥(藩主公邸)、大奥(藩主私邸)に分かれていました。江戸城にあった徳川宗家の将軍の御殿のようになっていたのです。そのとなりにあった西の丸は、城での文化の中心地でした。そこには能舞台、庭園、茶室があり、藩主がそこで楽しむだけでなく、外部の人々も招き入れました。御橋廊下(おはしろうか)と呼ばれる廊下橋が、内堀を渡って建設されました。この橋は二の丸と西の丸をつないでおり、藩主とその親族のみが渡ることができました。

和歌山御城内惣御絵図の二の丸(右)と西の丸(左)部分
西の丸庭園と廊下橋(奥の方)

しかし一方で、丘の上の天守は1846年の落雷により焼け落ちてしまい、1850年に再建されました。第二次世界大戦中の1945年には、空襲により再び焼けてしまいますが、1958年には同じ外観で再び建て直されました。その焼けてしまった天守が浅野氏が建てたものと同じであったかどうかは不確かです。

城中心部の復元模型、和歌山城内にて展示
現在の天守

「和歌山城その2」に続きます。

35.金沢城~Kanazawa Castle

加賀藩100万石の領主、前田家の城
The castle for the Maeda Clan, the lord of the Kaga Domain with one million koku of rice

立地と歴史~Location and History

寺院から城へ~Changing from Temple to Castle

金沢城は、石川県金沢市の最も有名なシンボルの一つであり続けています。城は、金沢平野に突き出した小立野大地の端に位置しており、犀川と浅野川に挟まれています。この地には最初、戦国時代の16世紀、大坂城の前身と同じように、一向宗の信者が住む尾山御坊がありました。加賀国(現在の石川県)は当時「百姓の持ちたる国」と呼ばれ、御坊はまるで城のように作られていました。
Kanazawa Castle is still one of the most famous symbols of Kanazawa City, Ishikawa Prefecture. The castle is located on the edge of the Kodachino Plateau sticking out to the Kanazawa Plain between Saigawa River and Asano-gawa River. This site was first used as the grounds for Oyama-Gobo Temple where the followers of the Ikko Sect lived like the former Osaka Castle in the 16th Century of Sengoku Period. Kaga Province (what is now Ishikawa Prefecture) was called “a country owned by peasants” at that time, and the temple was designed to look like a castle.

城の位置~The location of the castle

城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

しかしながら後に、この百姓たちは1580年に有力な戦国大名、織田信長によって滅ぼされて、御坊は破壊されてしまいます。信長は配下の佐久間盛政を送り込み、御坊の跡地に金沢城を築かせました。城は最終的には1583年に、前田氏の始祖、前田利家のものとなります。前田氏は、徳川幕府により100万石の収量がある加賀藩の領有を許されました。江戸時代を通じて最大の藩でした。
Later on, however, the peasants were defeated by a great warlord, Nobunaga Oda, in 1580 and the temple was destroyed. He sent his man, Morimasa Sakuma to build Kanazawa Castle on the ruin of the temple. The castle was last owned by Toshiie Maeda, the founder of the Maeda Clan in 1583. The clan was granted the Kaga Domain, also earning one million koku of rice, by the Tokugawa Shogunate, which was the biggest domain throughout the Edo Period.

前田利家肖像画、個人蔵~The portrait of Toshiie Maeda, private owned (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

前田氏が城を拡張して維持~Maeda Clan develops and maintains Castle

前田氏は、城を拡張し、いくつもの曲輪を築きました。最も高い所にある「本丸」、二番目に高い「二の丸」、そして低い所の「三の丸」などです。大きな水堀である「百閒堀」は、城と、城の弱点の一つであった台地の山側との間に掘られました。「総構え」と呼ばれる最も外側にある土塁が、台地上にある城を取り囲んでいる平地に築かれました。
The clan developed the castle building into several enclosures, with the highest enclosure being the the Main Enclosure or “Honmaru”, the second highest being the Second Enclosure or “Ninomaru”, then the Third Enclosure or “Sannnomaru” below, and so on. A large water moat called “Hyakken-Bori” was dug between the castle and the mountain side of the plateau which was one of the weak points of the castle. The outermost earthen walls of the castle called “So-gamae” were built on the plain area surrounding the castle on the plateau.

江戸後期の金沢城絵図、現地説明板より、注記付加~The illustration of Kanazawa Castle in the late Edo Period, from the signboard at the site, adding notes
街中に部分復元された総構え~The partly restored So-gamae earthen walls in the town area

本丸上には、天守も築かれましたが、1602年に落雷により焼失してしまいました。その後、城は火災に何度も襲われました。前田氏は、その度に城を修復しましたが、城の姿は少しずつ変わっていきました。例えば、1631年の火災の後は、城の中心部は本丸から、二の丸にある二の丸御殿に移りました。1759年の火災の後には、「大手門」は再建されませんでした。元通りとなった河北門が代わって城の正門となりました。
The Main Tower was also built on the Main Enclosure, but it was struck by lightning and burned down in 1602. After that, the castle suffered from fires several times. The Maeda Clan restored the castle each time, but the appearance of the castle changed little by little. For example, after the fire in 1631, the center portion moved from the Main Enclosure to the Ninomaru Main Hall on the Second Enclosure. After the fire in 1759, the Main Gate or “Ote-mon” was not rebuilt. The restored Kahoku-mon Gate became the front gate of the castle instead.

大手門跡~The ruins of the Main Gate
現代に復元された河北門~The recently restored Kahoku-mon Gate

前田氏による城の特色~Maeda Clan also develops Features

前田氏が江戸時代を通して城に住み、修復し続けたことにより、城には興味深い特徴が備わっていきました。一つは様々な石垣です。前田氏は、火災や他の災害で被災した石垣を、その時々の最新の技術やスタイルにより再建しました。その結果、城は「石垣の博物館」と言われるようになりました。
As the Maeda Clan continued to live in and repair the castle all through the Edo Period, the castle developed interesting features. One of them is the variety of stone walls. The clan rebuilt the stone walls which were damaged by fires and other accidents using the latest technologies and style of each time period. As a result, the castle has been called “a museum for stone walls”.

江戸後期に築かれた鉄門石垣~The stone walls of Kurogane-mon Gate built in the late Edo Period
江戸中期に築かれた様々な刻印がある数寄屋敷石垣~The stone walls of the Suki houses with various markings built in the middle Edo Period

一方、石垣の上の多くの建物には、海鼠壁(四角い瓦を盛り上げた漆喰により連結して覆ったもの)、白い鉛瓦、出窓が付いた櫓といった共通の意匠上の特徴があります。これらにより城の建物はとても美しくなっています。
On the other hand, the many buildings on these stone walls had common design features such as Namako-kabe wall (covered with square tiles joined with raised plaster), white lead roof tiles, and bay window style turrets. These features made the castle buildings very beautiful.

海鼠壁の構造モデル~The structural model of Namako-kabe wall
河北門の櫓台にある出窓~The bay window at the turret base of Kahoku-mon Gate

特徴~Features

城周辺の航空写真~The aerial photo around the castle

石川門~Ishikawa-mon Gate

現在、金沢城は金沢城公園として一般に公開されています。その全周は2.2kmですが、高さ(約40m)があるためもっと大きく見えます。公園にはいくつか入口がありますが、最も有名なのは、城の3つある現存建物のうちの一つ、石川門です。この門は城の裏門だったのですが、やがて金沢城三御門の一つになりました。この門は、これも前田氏が造営した有名な庭園、兼六園の反対側にあります。かつては百間堀があった道路にかかった橋を渡って門に入ることができます。この門の構造は桝形門と言われていて、敵を防ぐ強力な防御力を得るために櫓や石垣で囲まれた四角い空間から成りたっていました。また、この門では、再築された時期が異なることによる複数のタイプの石垣を見ることができ、とても面白いものです。
Now, Kanazawa Castle is open to the public as Kanazawa Castle Park. Its perimeter is 2,2km, but it looks much larger because of its height (up to about 40m). The park has several gates, and the most popular one is the Ishikawa-mon Gate which is one of the three remaining buildings in the castle. The gate is the back gate of the castle, and eventually became one of the three important gates in the castle. It is located opposite to a famous garden called Kenrokuen which the Maeda Clan also created. You can go across the bridge over the road, where the Hyakken-bori moat once existed, to enter the gate. The structure of the gate is called Masugata-mon style which has a square space surrounded by turrets and walls to provide strong protection against enemies. The gate also has different types of stone walls because some parts of the walls were rebuilt several times. They look very interesting.

石川門に向かう~Going to the Ishikawa-mon Gate
元百間堀だった道路~The road which was once the Hyakken-bori moat
石川門の櫓~The turret of the Ishikawa-mon Gate
石川門の石垣~The stone walls of the Ishikawa-mon Gate (taken by オム・ライス from photo AC)

復元された建物群~Group of Restored Buildings

門の内側は三の丸で、河北門が右側に見え、橋詰門、五十間長屋、そして菱櫓が左側に見えます。これらは全て最近になって復元されました。河北門、橋詰門は金沢城三御門の残りの二つです。三の丸から見る河北門は、門の内側です。この門の正面は、新丸という更に低い位置の曲輪に面していて、ここには大手門がありました。橋詰門などは二の丸にあって、かつては曲輪を守っていました。この曲輪には二の丸御殿がありましたが、今は広場になっています。
The inside of the gate is the Third Enclosure where you can see Kahoku-mon Gate on the right, and Hashizume-mon Gate with Gojukken-nagaya Row House and Hishi Turret on the left. They have all been restored recently. These gates are two of the rest of the three important gates. What you see of Kahoku-mon Gate from the Third Enclosure is its back side. The front side of the gate faces a lower enclosure called Shinmaru which had the Main Gate. Hashizume-mon Gate, etc., are on the Second Enclosure, and protected its entrance in the past. The inside of the enclosure once had the Ninomaru Main Hall, but is a square now.

河北門(裏側)~Kahoku-mon Gate (Its back side)
五十間長屋と菱櫓~Gojukken-nagaya Row House and Hishi Turret
橋詰門(違う角度から)~Hashizume-mon Gate (from a different angle)

本丸周辺~Around Main Enclosure

本丸へは三の丸、二の丸両方から行くことができます。三の丸からは、東丸を通過して登っていきます。ここには、この城では最も古い石垣の一つと、現存する鶴丸倉庫があります。本丸は、城では最も高い位置にあり、早くに放置されたためか、林のようにも見えます。本丸の端からは、街並みを望むことができます。ここにはかつて30m近い高石垣がありましたが、明治時代に崩壊してしまいました。同じ場所で現在見ることができる階段状の石垣は、日本陸軍によって再建されたものです。
You can go to the Main Enclosure from both the Third and Second Enclosures. From the Third Enclosure, you will walk up to the Main Enclosure through the Higashi-maru Enclosure. Here you can see one of the oldest stone walls in the castle and the remaining “Tsurumaru” Warehouse. The Main Enclosure is the highest point of the castle and looks like a forest probably because it was abandoned earlier. You can see a town view from the edge of the enclosure. It once had nearly 30m high stone walls which collapsed in 1907 during the Meiji Era. The terraced stone walls we see now at the same place have been rebuilt by the Japanese Army.

三の丸から本丸へ~Going to the Main Enclosure from the Third Enclosure
東ノ丸北面の古い石垣~The old stone walls at the northern side of Higashinomaru Enclosure
鶴丸倉庫~Tsurumaru Warehouse
本丸~The Main Enclosure
本丸からの眺め~A view from the Main Enclosure
本丸にある階段状の石垣~The terraced stone walls at the Main Enclosure

二の丸と本丸の間には、「極楽橋」という橋が渡されており、その名前の由来は尾山御坊の時代に遡るといいます。極楽は仏教徒にとっての天国のことです。本丸のこの橋の近くには、残りの現存建物である三十間長屋があります。金沢城の3つの現存建物はいずれも重要文化財に指定されています。
Between the Second and Main Enclosures, you can go across a bridge called “Gokuraku-bashi” which derived its name from the period of Oyama-Gobo from the Ikko Sect Buddhists. Gokuraku means Buddhists’ Paradise. Near the bridge on the Main Enclosure, there is the other remaining building called Sanjukken Row House. The three remaining buildings in Kanazawa Castle are all designated as Important Cultural Properties.

極楽橋~Gokuraku-bashi Bridge
橋の横から見る~The side view of the bridge
三十間長屋~The Sanjukken Row House

その後~Later History

明治維新後、金沢城は日本陸軍によって使われました。金沢は軍都となり、市民の10%(2万人)が軍と関係がありました。城にある軍の遺跡としては、石垣、トンネル、第7旅団司令部建物などを現在見ることができます。ところが、今残っている3棟を除く元からあった全ての城の建物は、1881年の火災により焼けてしまいます。
After the Meiji Restoration, Kanazawa Castle was used for the Japanese Army. Kanazawa became a military base where about 10% of citizens (20,000) were associated with the military. We can now see the ruins of the military in the castle such as stone walls, tunnels and the building for the Headquarters of the 7th Brigade. However, all the original castle buildings were unfortunately destroyed by the fire in 1881, except for the three remaining buildings.

第7旅団司令部建物~The building for the Headquarters of the 7th Brigade
陸軍によって作られたトンネル~A tunnel built by the Japanese Army

第二次世界大戦後、1949年から1995年まで、城は金沢大学として使われました。1996年以来、石川県は歴史公園として整備を進めています。伝統的建物を復元している中で、県は公園の名前を、金沢城址公園から金沢城公園と改めました。最近、石川門の反対側にあり、市街地に近い「鼠多門」という門が2020年7月に復元されました。これで、城を訪れ、楽しむことがもっと容易にできるようになりました。行政側は今、二の丸御殿を復元できるかどうか検討しています。
After World War II, the castle was used for Kanazawa University between 1949 and 1995. Since 1996, Ishikawa Prefecture has been developing it as a historical park. While restoring the traditional buildings, the prefecture renamed the park from Kanazawa Castle Ruins Park to Kanazawa Castle Park. One of the castle gates called “Nezumita-mon”, on the opposite side of Ishikawa-mon Gate, near the town area, was restored recently in July 2020. This made it easier for people to visit and enjoy the castle more. Officials are also considering if they should restore the Ninomaru Main Hall now.

1970年代の城周辺の航空写真~The aerial photo of the area around the castle in the 1970s

復元された鼠多門~The restored Nezumita-mon Gate (taken by ローランの歌 from photo AC)

私の感想~My Impression

公園の名前の変更は、行政側の大変な努力と、日本の歴史を伝え、観光を盛り上げようとする決意を表しています。伝統的建物を復元し維持していくには多額の予算を必要とします。更にこのような建物の使用は、法律により厳しく制限されています。よって、建物の用途はほとんど観光のためということになるでしょう。余計なお世話かもしれませんが、少し心配です。この挑戦がこの先成功するよう望みます。
The renaming of the park shows the officials’ unusual effort and determination to preserve the history of Japan and increase tourism. Restoring and maintaining traditional buildings requires a huge budget. In addition, the uses for such buildings are strictly limited by law. That means these buildings are mostly for tourism. Counting others’ money is not my business, but I am a little concerned about it. I hope their challenge will be successful in the future.

復元された建物群~The restored buildings

ここに行くには~How to get There

車で行かれる場合は、北陸自動車道の金沢森本ICから約20分かかります。公園周辺にいくつか駐車場があります。
If you want to go there by car, it takes about 20 minutes from the Kanazawa-morimoto IC on Hokuriku Expressway. There are several parking lots around the park.
鉄道を使う場合は、金沢駅から、北陸鉄道バスか金沢循環バスに乗って、兼六園下バス停で降りてください。そこから歩いて約5分です。
When using the train, take the Hokuriku-tetsudo bus, Kanazawa Loop bus, or Kenrokuen Shuttle from Kanazawa Station, and get off at the Kenrokuen-shita stop. It takes about 5 minutes from the stop on foot.

リンク、参考情報~Links and References

金沢城公園Kanazawa Castle Park
・「よみがえる日本の城8」学研(Japanese Book)
・「日本の城改訂版第5号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)
・「石垣の名城完全ガイド/千田嘉博著」講談社(Japanese Book)
・「列島中央の軍事拠点(地域のなかの軍隊)」吉川弘文館(Japanese Book)