196.佐土原城 その1

伊東氏の栄光と凋落を象徴する城

立地と歴史

九州に送られた伊東氏が築城

宮崎県は九州地方の東側にあり、農業県として知られています。南北に長い形をしていて、日が出る方角に向かっています。そのため、農業に向いているといえるでしょう。宮崎県のほどんどのエリアは、かつては日向国(ひゅうがのくに)とよばれていました。まさに日が向く国という意味です。古代より肥沃であったことが容易に想像できます。県の中央部には、4世紀から7世紀の間に築造された西都原(さいとばる)古墳群があります。また、この国から初代天皇となる神武天皇が東征を行い、大和朝廷を設立したいう神話もあります。

宮崎県の範囲と城の位置

西都原古墳群

佐土原城は、日向国の中央部にあった城の一つで、伊東氏の本拠地でした。伊東氏はもとは工藤氏の出で、12世紀に東日本の伊豆半島東部に定住したときに、土地の名前を苗字としました。その世紀の末に鎌倉幕府が設立されて以来、武士たちは幕府により地方に領地を与えられ、その統治のために各地に送られました。伊東氏の支族も同様に日向国に出向きました。行った土地の名前に由来した田島伊東氏が、14世紀に佐土原城を最初に築いたと言われています。

伊豆半島の範囲(青線内)と城の位置

伊東四十八城の頂点

その間、時代は南北朝時代となり、足利幕府は地方支配のために改めて、伊東氏本家から武士を送り込みました。2系統の伊東氏はやがて統合し、佐土原城を本拠として強力な戦国大名に成長しました。15世紀から16世紀の戦国時代の間、伊東氏は南から進出してきた島津氏と日向国をめぐって戦いを繰り広げました。当時の当主であった伊東義祐(よしすけ)は相当攻撃的で、1569年に南日向の主要な城である飫肥城を陥落させました(島津氏の依頼による将軍家の仲裁にも耳を貸さなかったそうです)。この時点が彼の絶頂期であり、日向国に48もの城を有していました(伊東四十八城と称されます)。そして、その頂点に佐土原城があったのです。城下町は国府のように繁栄し、九州の小京都とも言われました(義祐は高位の官位を取得し、京風の文化や町割りを導入しました)。

伊東義祐肖像画、「堺市史 第七巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
飫肥城跡

佐土原城は基本的に、南九州型城郭の一つとされています。このタイプの城は、この地方で山あるは丘のように見えるシラス台地上に築かれました。シラス台地は、古代の大噴火によって噴出した火山灰によって形作られています。その土壌はもろく、容易に崩れて崖を形成します。この地域の武士たちは、よくこの性質を利用して城を築きました。自然の地形を加工すれば、容易に強固な防御システムを構築することができたからです。例えば、深い空堀、曲輪下に高く立ちはだかる壁、狭く防御に優れた門などが土を加工して作られたのです。このような城の代表例として、知覧城、飫肥城、そして佐土原城が挙げられます。

佐土原城の大手口
知覧城の空堀 (licensed by PIXTA)

伊東崩れにより城は島津氏のものに

しかし、伊東義祐の栄光は長く続きませんでした。1573年の島津氏との木崎原の戦いでの敗戦をきっかけに、義祐は伊東四十八城を一つ一つ失っていきました。島津の勢いと伊東の凋落は、次々に部将たちの離反を招きました。彼は佐土原城に籠って抗戦できないか思案しましたが、状況はそれさえも許しませんでした。彼は城を後にせざるをえず、家族とわずかな供回りとともに日向国から北の、同盟者の大友宗麟が治める豊後国に逃れていきました。この出来事は「伊東崩れ(または豊後落ち)」と呼ばれました。彼らはついには全てを失い、やがて漂泊者となりました(大友宗麟が伊東救援を名目に島津氏と戦った耳川の戦いに大敗したことで居場所を失いました)。義祐は1585年に放浪の途中で亡くなってしまいますが、息子の祐兵(すけたけ)は天下人の豊臣秀吉に仕え、1588年には日向国の飫肥城への帰還を果たします。

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊東祐兵の肖像画、日南市教育委員会所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐土原城は必然的に島津氏のものとなりました。島津氏の下で城が改修され、頂上に天守が作られたとされていますが、いまだ事実としては確定していません。天守があったとしたら、日本最南端の天守であったろうと言われています。1600年に、城主であった島津豊久が関ヶ原の戦いで戦死してしまった後は、城は一旦幕府直轄となり、その後は島津以久(もちひさ)とその後継者が佐土原藩として江戸時代末まで統治しました。持久の息子、忠興(ただおき)は山上の城を廃し、山麓に御殿を築き、そちらに移りました。シラス台地にある城を維持するのは大変な困難を伴い、平地にある館の方が平和な江戸時代における統治に適していたからです。

佐土原城の天守台跡
島津以久の肖像画、東京大学史料編纂所データベースより (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
歴史資料館として復元された山麓の御殿

「佐土原城その2」に続きます。

193.臼杵城~Usuki Castle

「丹生島」と呼ばれた島の全体が城そのものでした。
The whole of an island called “Niu Island” was the castle itself.

西側から見た「丹生島」の全景~The whole view of “Niu Island” from the west

立地と歴史~Location and History

臼杵城は、もともと「丹生島城」と呼ばれていて、こちらの方が歴史ファンにはなじみがあるかもしれません。なぜならここは戦国時代に大友氏と島津氏の間で起こった有名な「丹生島城の戦い」の舞台となったからです。大友氏は北部九州地方において6箇国を領有し、その本拠地は豊後国の府内、現在の大分市にありました。
Usuki Castle was originally called “Niu Island Castle” which is rather popular among history fans. Because there was a famous battle between the Otomo and Shimadu clans called “the Battle of Niu Island Castle” in the Warring States Period, Otomo clan had their territory of six provinces in the north part of Kyushu region, whose home base was in Funai of Bungo Province, now called Oita City.

16世紀中頃の大友氏の勢力圏~The Otomo clan’s territory in the mid 16th century(licensed by Alvin Lee via Wikimedia Commons)

大友宗麟は、1561年に毛利氏との戦いに敗れた後、より防御力の強い拠点を作る必要を感じました。宗麟は、臼杵湾にある岩でできた丹生島に新しい本拠地を作る決断をします。この島は約4kmの外周があり、海面から15mの切り立った岩崖がありました。更には、この城は引き潮のときは砂浜経由で行き来できましたが、満ち潮のときは完全に陸地から離れていました。もし戦いが起こった場合、十分な兵糧か水軍による補給があれば、長期間の籠城が可能となっていました。
Sorin Otomo found his clan in need of building a more defensive site after they were beaten by the Mori clan in 1561. He decided to build their new base castle on the rocky Niu Island in the Usuki Bay. The island was about 4 km surroundings in length, and 15m height from sea surface with vertical rock cliffs. In addition, the castle was accessible through the sandy beach at low tide, or completely isolated from land at high tide. If a battle happened, it could persevere for a long time with enough supply of its own or from the Navy.

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵~The portrait of Sorin Otomo, owned by Zuihoin(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

「丹生島」の切り立った岩の崖~The vertical, rocky cliff of “Niu Island”

この想定は1586年に南九州から島津氏が大友氏の領地に侵攻したときに現実となりました。宗麟は、天下人の豊臣秀吉に救援を求めましたが、島津氏は秀吉からの援軍が到着する前に全九州地方を征服しようとしました。島津の軍勢はこの城を取り囲み、大友は運命は風前の灯のようでした。そのとき、大友方の最終兵器として「国崩し」との異名を持ち、ポルトガルから輸入されたフランキ砲が火を噴き、島津を駆逐したと言われています。大友は滅亡を免れました。島津は城の攻略をあきらめて撤退し、最後は秀吉に降伏をしました。大友もまた苦難を避けられず、宗麟の子息、義統は後に秀吉により改易されました。
The assumption came true when Shimadu clan’s invasion from the south Kyushu assaulted Otomo’s territory in 1586. Sorin asked the ruler Hideyoshi Toyotomi for help, but Shimadu tried to conquer all of Kyushu region before the reinforcements from Toyotomi arrived. Shimadu’s troops surrounded the castle while Otomo was like a candle flickering in the wind. However, it is said that Otomo’s ultimate weapon, Breech-loading swivel gun imported from Portugal, nicknamed “Destroyer of nations”, eliminated Simadu before Otomo escaped death. Shimadu gave up to capture the castle, withdrew, and surrendered to Toyotomi in the end. Otomo were also not without trouble, because Sorin’s son, Yoshimune was fired later by Toyotomi.

島津軍を率いた島津義弘肖像画、尚古集成館蔵~The portrait of Yoshihiro Shimasu, the head of the Shimadu troop, owned by Shoko Shuseikan Museum(licensed under Public Domain via Wikipedia Commons)

江戸時代には、この城は臼杵藩の所有となり、主に「臼杵城」と呼ばれるようになりました。城の範囲は島の外に広がり、便益のために「大手門」や「三の丸」が設置されました。
In the Edo Period, the castle was in the Usuki Domain, mainly called “Usuki Castle”. Its range spread outside the island setting the main gate “Otemon” and the third enclosure “Sannomaru” for convenience.

「豊後之内臼杵城絵図」部分、江戸時代~Part of the illustration of Usuki Castle in Bungo Province, in the Edo Period(出典:国立公文書館)

特徴~Features

臼杵城は「臼杵公園」となっています。公園は今では完全に陸地の一部になっていますが、以前は島だったというのがその形からわかります。なぜなら今では島の代わりに岩山のように見えるからです。
The ruins of Usuki Castle has become “the Usuki Park”. The park is now completely part of land, but you can see the shape of the former island. Because it looks like a rocky hill instead of an island.

城周辺の地図~The normal map around the castle

城周辺の航空写真~The aerial photo around the castle

最初は正面口である「古橋口」から登ってみましょう。この入り口は大友時代から存在し、二の丸に通じています。この城は部分的に石垣に覆われ、2つの現存櫓といくつか復元建築物もあるのですが、元は江戸時代に作られたものです。
You can first climb up narrow stairs from the front entrance called “Furuhashi-Guchi”, which has existed from Otomo era, to the second enclosure “Ninomaru”. The castle has been partly covered with stone walls, and had two remaining turrets and some recently restored buildings. Their origin goes back to the Edo Period.

古橋口~The Furuhashi-Guchi(licensed by Twilight2640 via Wikipedia Commons)
臼杵城の石垣、塀、現存櫓「畳櫓」~The stone walls, plaster walls, and one of the remaining turrets “Tatami-Yagura” of Usuki Castle(taken by おさむし from photoAC)

二の丸はこの島の一番高いところにあり、領主のための館が城の歴史の最初と後半の時期に設けられました。ここにはフランキ砲のレプリカがあります。また余談ですが、丹生島城の戦いで使われた本物の大砲は、東京の靖国神社にある遊就館に展示されています。
Ninomaru was the highest point of the island where the halls for the masters were in the first and the last of the castle’s life. You can see the replica of a breech-loading swivel gun at this spot. In addition, you can also see the genuine gun which was used in the Battle of Niu Island Castle in the Yushukan Museum of Yasukuni Shrine, Tokyo.

二の丸にあるフランキ砲のレプリカ~The replica of a breech-loading swivel gun at Ninomaru(licensed by Twilight2640 via Wikipedia Commons)
遊就館にあるフランキ砲~The breech-loading swivel gun at Yushukan Museum(licensed by Uploadalt via Wikipedia Commons)

島の後ろ側には本丸があり、江戸初期に天守が建築されました。ここは一時期城の中心地とされたのですが、長くは使われませんでした。恐らく二の丸より低く狭かったからでしょう。「卯寅口」と呼ばれる通用口は、本丸から下って船着き場に通じており、非常時を考え作られました。その外側は今は海ではないですが、この出入口にはまだ船着き場の雰囲気が残っています。
The back side of the island was the main enclosure “Honmaru” where the Tenshu keep was built in the early Edo Period. This place was once set as the center of the castle, but it wasn’t used for long, perhaps because of being lower and smaller than Ninomaru. The back entrance called “Uto-no-Kuchi” goes down from Honmaru to the port for emergency. Though outside is now not the sea, the entrance still has an atmosphere of a port.

本丸にある天守台の石垣~The stone walls for Tenshu at Honmaru(licensed by 小池隆 via Wikipedia Commons
卯寅口~The Uto-no-Guchi(licensed by Twilight2640 via Wikipedia Commons)

その後~Later Life

明治維新後、この城は公園となりました。天守や他の多くの櫓は廃材として売られるか、自然に崩壊しました。公園は有名になりましたが、桜の名所としてであって史跡としてではありませんでした。例を挙げると、天守台の高石垣が残っていたのですが、景観上の理由で削られてしまいました。最終的には1966年に城跡が県の史跡として指定されました。最近には2001年に「大門櫓」という櫓門が木造で復元されました。
After the Meiji Restoration, the castle was turned into a park. The Tenshu keep and many other turrets were sold as waste materials, or collapsed naturally. The park became famous for cherry blossoms, but not for being a historic site. For example, the remaining high stone walls for Tenshu was filed for landscape. Lastly, the ruins were designated as a prefectural historic site in 1966. Recently, a turret gate called “Daimon-Yagura” was restored in wooden style in 2001.

臼杵城の夜桜~The cxherry blossoms at night in Usuki Castle(taken by seama2 from photoAC)
復元された大門櫓~The restored Daimon-Yagura(licensed by チャコ via Wikipedia Commons)

私の感想~My Impression

臼杵城周辺の地域は、城と同じように岩山に囲まれ、石垣を使った建物も見られます。市街地も見て回られてはいかがでしょうか。また臼杵市は、「臼杵石仏」でも有名です。市街地から約5km離れた所にあります。
The area around Usuki Castle is surrounded by rocky hills and some buildings there use stone walls like the castle. Why not get around the city area as well. Uski City is also famous for “Uski Stone Buddha”, away from about 5 km from the city area.

岩山の上の臼杵城~Usuki Castle on the rocky hill

ここに行くには~How to get There

JR臼杵駅から歩いて古橋口は約15分、卯寅口には約10分かかります。
大分空港から臼杵駅まで:
大分駅行き空港アクセスバス(エアライナー)に乗り、大分駅でJR日豊本線に乗り換えてください。
もしくは、佐伯駅行き空港バスに乗り、臼杵インターチェンジバス停で降り、近くの白馬渓バス停まで歩き、佐伯駅まで大分バスに乗ってください。
It takes about 15 minutes to get Furuhashi-Guchi, or about 10 minutes to get Uto-no-Guchi on foot from the JR Usuki station.
From Oita Airport to Uusiki st.:
Take the Airpor Eepress Airliner bus to Oita station, and transfer at the station for JR Nippo line.
Or take the Express Limousine Bus to Saiki station, get off at Usuki Interchange bus stop, walk to Hakubakei bus stop nearby, and take the Oita bus to Usuki station.

リンク、参考情報~Links and Referencec

臼杵観光情報協会~Usuki-City Tourist Information Organization
・大友の聖将、赤神諒、角川春樹事務所(Japanese Book)
・よみがえる日本の城20、学習研究社(Japanese Magazine)

94.大分府内城~Oita-Funai Castle

大分府内城は、現在はビル街の中にありますが、かつては海城だったのです。
Oita-Funai Castle is among the modern buildings now, but was a sea castle.

大分府内城の西南隅櫓と二ノ丸堀~Seinan-Sumi-Turret and Ninomaru-Moat of Oita-Funai Castle (taken by TECHD from photoAC)

立地と歴史~Location and History

大分市は大分県の県都です。府内は大分市の以前の名前です。つまり「大分府内」という名前は新旧両方の名前が組み合わさったものです。府内も同じように豊後国(大分県の以前の名称)の国府であり、中世においては長い間大友氏によって統治されました。大友氏は、大友氏館に住んでいましたが、そこは大分府内城とは違う場所です。その館は中世の典型的は領主館で、恐らく足利氏館と同じようなものだったでしょう。
Oita City is the capital of Oita Prefecture. Funai is the former name of the city. So, the name “Oita-Funai” is combined from both of new and old names. Funai was likewise the capital of Bungo Province (the former name of Oita Pref.) governed by the Otomo clan for many years in the Middle Ages. They had been living in the Otomo Clan Hall which is different from Oita Funai Castle. It was a typical hall for a lord in the Middle Ages probably like the Ashikaga Clan Hall.

大分府内城と大友氏館の位置関係~The location of Oita-Funai Castle and Otomo clan hall)

大友氏館庭園遺構~The ruins of the Otomo clan hall’s garden(出典:文化庁)

府内の城下町は、館を中心に繁栄しましたが、戦国時代としては防御力が不足していました。1586年に島津氏の侵攻があり、館を含む市街地は焼き尽くされてしまいます。当主の大友宗麟とその息子義統は、その一族の危機の間他所に避難を余儀なくされました。彼らは天下人の豊臣秀吉からの助けにより何とか生き延びましたが、宗麟の死後、義統は秀吉により改易されました。
The Funai castle town flourished around that hall, but it had weak defenses in the Warring States Period. In 1586, Shimazu clan’s invasion happened. The city including the hall was burned out . The master, Sorin Otomo and his son Yoshimune had to escape to another place, during the destruction of the clan. They could somehow survive due to the help from the ruler, Hideyoshi Toyotomi. However, Yoshimune was fired by Toyotomi after Sorin passed away.

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵~The portrait of Sorin Otomo, owned by Zuihoin(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして秀吉は彼の配下である福原直孝を、1597年に府内の領主とて派遣しました。直孝はもっと安全な城が必要と考え、荷の積み降ろし港の場所に新しい城を築き始め、「荷揚(荷を積むという意味)城」と名付け、その後いつしか「府内城」と改名されました。17世紀初期に、竹中氏が4層の天守や多くの櫓を含む城として完成させ、九州地方では有数な城となったのです。
Then, Toyotomi sent his man, Naotaka Fukuhara as the lord of Funai in 1597. Fukuhara thought that he needed to have a more secure castle. He started to build a new castle at a port of unloading, called “Niage Castle” (Niage means unloading), which was renamed to “Funai Castle” sometime later. In the first 17th century, the Takenaka clan completed the castle including the four-layer Tenshu keep and many turrets, becoming a prominent castle in Kushu region.

大分府内城でライトアップされた仮想天守~The illuminated virtual Tenshu on Oita-Funai Castle(taken by seama2 from photoAC)

城の中心は安全確保と交通の便のため、細い堤を挟んで大分川の河口に面していました。河口から、本丸から二の丸へ、更には三ノ丸まで外側に向かって広がっていて、水堀によって互いに隔てられていました。特に二の丸へは、「廊下橋」と呼ばれた二つの橋のみが通じていて、もしこれらの橋を落とした場合、本丸と二ノ丸は完全に外部から遮断されるようになっていました。
The center of the castle faced the estuary of Oita River across a thin bank for safety and transportation. From the estuary, the main enclosure “Honmaru”, to the second enclosure “Ninomaru” until the third enclosure “Sannomaru” spread towards outside, separated by water moats each other. Particularly, only two bridges called “Roka-Bashi” led to Ninomaru area. If these bridges were fallen, the Honmaru and Ninomaru could be shut down from outside.

豊後国府内城之絵図部分、江戸時代、コメントを付加~Part of the illustration of Funai Castle in Bungo Province in Edo Period, adding comments出典:国立公文書館)

しかし、松平氏統治下の1743年に城下町の大火による被害を被りました。天守を含むほとんどの城の建物が焼け落ちました。その後、櫓はいくつか再建されましたが、天守は再建されませんでした(天守台だけが残ります)。
But in 1743, under the Matsudaira clan’s governance, the castle suffered from a great fire around the castle town. Most of the buildings of the castle including Tenshu keep were burned down. After that, some turrets were restored, but Tenshu wasn’t (just the Tenshu base remains).

現存している人質櫓と天守台~The remaining Hitojichi-Turret and Tenchu base(licensed by Reggaeman via Wikimeia Commons)

特徴~Fertures

現在、本丸と二ノ丸の範囲は「大分城址公園」として公園になっています。この公園は今でも二の丸の水堀と石垣に囲まれています。しかし本丸の水堀は埋められていて、そのため公園の範囲はただ一つの曲輪のように見えます。ここにはまた櫓もあり、そのうち2つだけが元からあるものです(人質櫓と宗門櫓)。更には、一基の廊下橋が最近復元されました。
Now, the area of Honmaru and Ninomaru has been turned into a park called “Funai Castle Ruins”. The park is still surrounded by the Ninomaru water moat and stone walls. But the Honmaru water moat has been filled, so the park area looks like just one enclosure. It also has several turrets, out of whom only two turrets are original (Hitojichi-Turret and Shumon-Turret). In addition, one Roka-Bashi has recently been restored.

宗門櫓の裏側、修繕中か~The back side of Shumon-Turret, it appears being repaired.
復元された廊下橋~The restored Roka-Bashi bridge(licensed by Reggaeman via Wikimeia Commons)
廊下橋の内部~The inside of Roka-Bashi

ところが、公園の周りの地域は全て埋め立てられ、近代的な都市に変貌しています。歴史の知識がなければ、ここが海城だったとは想像できません。
However, all area outside the park has been filled in ground for the modernized city. No one can imagine that was a sea castle without historical knowledge.

城周辺の航空写真~An aeriel photo around the castle

その後~Later Life

明治維新後、大分県庁が本丸に置かれました。大正時代にその建物が新築拡張されることになり、本丸の水堀が埋め立てられました。第二次世界大戦では、米軍による大分空襲があり、城の現存櫓もいくつか焼けてしまいました。戦後市の復興計画により、城跡は大分城址公園となりました。県庁は以前の三ノ丸に移転し、そして本丸と二ノ丸の範囲は1963年に初めて県の史跡として指定されました。「西南隅櫓」「大手口多門櫓」「着到櫓」といった櫓が外観復元されました。それ以外に模擬櫓もあります。
After the Meiji Restoration, the Oita Prefectural Building was placed on Honmaru area. In the Taisho Era, the building was replaced to a new large one that caused the Honmaru water moat to be filled. In World War II, Oita Air Raid by the US Air Force burned out the Oita city area including several remaining turrets of the castle. After the war, with the reconstruction plan of the city, the castle ruins was turned into Funai Castle Ruins park. Prefectural Building was moved to the former Sannnomaru area, then the area within Honmaru and Ninomaru was first designated as a prefectural historic site in 1963. Some turrets such as “Seinan-Sumi-Turret”, “Oteguchi-Tamon-Turret” and “Chakuto-Turret” were externally restored. There are also some imitational turrets there.

大手口多門櫓~Oteguchi-Tamon-Turret(licensed by 663highland via Wikimedia Commons)

大分市は城跡の将来に向けた整備計画を検討しています。この計画によると、本丸石垣が部分的に復元され、地面に本丸水堀があったことを示す線が表示されることになっています。過去に海城があったことを周知したいようです。
Oita City is considering the development plan for the future of the ruins. They plan to restore part of the Honmaru stone walls and express the line of Hommaru water moat on the ground. They seem to let people know that there was a sea castle in the past.

2026年までの城跡整備計画マップ~The development planning map of the castle ruins by 2026 (大分市Websiteより引用)

私の感想~My Impression

面白いイベントが城址公園で開催されました。それは、鉄骨のフレームとLEDライトによって天守の姿を再現したものでした。このイベントは終わってしまったのですが、私が最近訪れたときにはまだフレームが残っていました。フレームが存在していれば、また再開することも可能と思います。そうなったらよいですね。
An interesting event was held in the ruin park. That was recreating of the image of the Tenshu keep by using a steel frame and lots of LED light bulbs. Though the event has finished, the frame remained when I visited the ruins recently. The show could be held again as long as the frame is there. Hopefully that will happen.

大分府内城の仮想天守~The virtual Tenchu in Oita-Funai Castle(taken by ぴょんにゃん from photo AC
仮想天守の骨組み(The flame of the virtual Tenshu)

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:東九州自動車道大分ICから約20分です。城址公園内に駐車場があります。
大分駅から:徒歩で約15分かかります。バスの場合大分駅南口から「大分きゃんバス」に乗り、市役所前バス停で降りてください。
大分空港から大分駅まで:空港アクセスバス(エアライナー)に乗ってください。
If you want to go there by car: It takes about 20 minutes from the Oita IC on Higashikyushu Expressway. The park offers a parking lot inside.
From Oita station: It takes about 15 minutes on foot. Or take the Oita-Can-bus at the south entrance of the station, and take off at the Shiyakusho-Mae bus stop.
From Oita Airport to Oita st.: Take the Airpor Eepress Airliner bus.

リンク、参考情報~Links and Rererences

・よみがえる日本の城20、学習研究社(Japanese Magazine)
・大分城址公園整備・活用基本計画、大分市(Japanese Document)