15.足利氏館 その1

足利氏の本拠地

立地と歴史

源氏の一族が足利荘を開発し定住

足利氏館は、現在の栃木県足利市の中心部に位置していました。実は、その場所は現在では鑁阿寺(ばんなじ)という有名なお寺になっています。そのため、私たちが通常想像する典型的な城のようには見えないかもしれませんが、この館跡は防御機能を伴った日本の武士の館の、初期の形態を残しているとされています。

鑁阿寺楼門(山門)

足利氏は、地方領主としてより、14世紀から15世紀の室町時代の足利幕府の将軍家としての存在の方がずっと知られているでしょう。しかし事実として足利氏の歴史は、12世紀に下野国(現在の栃木県)で足利荘(ほぼ現在の足利市に相当)を開発したときから始まりました。皇室の子孫で清和源氏の足利義国が、最初にその場所に定住し、足利氏の祖先となりました。

足利市の範囲と城の位置

鎌倉幕府が設立される前は、武士たちは自身で開発した土地を維持するためには、形式的に荘園として高位の貴族に寄付する必要がありました。そうでなければ、公的機関から領地を保証されることは一切なかったのです。そのために義国は足利荘となる地に定住し、大変な労力を投じて開発を進めました。それ以来、この一族は自身の苗字として、その地の名前である足利を名乗ったのです。義国の息子、足利義康は足利氏の創始者であり、最初に足利氏館を築いたと言われています。そして、館はその息子で2代目の義兼に引き継がれました。

伝・足利義兼肖像画、鑁阿寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

初期の武士の館の典型

館の特徴として挙げられるのは、そのエリアを囲む土塁とその外側の水堀でしょう。こられにより館の敷地は四角形に区切られ、歴史家はこのような典型的な武士の館を「方館(ほうかん)」と呼びならわしています。その四角形の一辺は約200mで、この館の形式は戦国時代の17世紀まで長い間踏襲されました。その類型として、武田氏館大内氏館などがあります。領主や武士たちは普段このような館に住み、戦のような緊急事態にも対処できるようにしていました。したがって、足利氏館は武士が建てた最も初期の日本の城の一つとみなされています。

足利氏館跡(現鑁阿寺)を囲む土塁と水堀
武田氏館の模型、甲府市藤村記念館にて展示
大内氏館跡(現・龍福寺)

義兼は12世紀末に。源氏の棟梁であり日本の武家政権で最初の将軍となった源頼朝による鎌倉幕府の設立に、頼朝の親族として貢献しました。義兼はまた信仰心が深く、館の中に持仏堂を建立し、仏画を掲げて祈りを捧げました。これが鑁阿寺の起源となります。更には、彼は隠居所として樺崎寺を建て、また足利学校の設立者の一人とも言われています。足利学校は、日本中世の最高学府の一つとなりました。これらにより、足利は中世における一大文化都市となったのです。

樺崎寺跡
現存する足利学校の「学校門」

足利氏は鎌倉時代を生き抜き室町将軍家に

その後源氏将軍の血筋が絶え、北条氏が執権として実権を握りましたが、義兼の息子、義氏は鎌倉幕府の重臣となりました。足利氏としても、現在の愛知県の一部にあたる三河国に新しい領地を獲得しました。そのため、義氏は普段は武家の都、鎌倉に住んでいました。そこには政所が設置され、領地全体をコントロールしていました。もとの本拠地であった足利荘でさえ、足利氏の当主ではなく当地に置かれた公文所の役人によって治められました。よって、義氏は足利の父親の館(足利氏館)を1234年に鑁阿寺とし、父親の冥福と氏族の繁栄を祈る場所としたのです。

足利義氏肖像画、江戸時代の作、鑁阿寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利荘の公文所が置かれたとされる勧農山(現・岩井山)

鎌倉幕府の他の重臣たちが北条氏によって粛清される中、足利氏は鎌倉時代を生き延びました。多くの足利氏当主は、北条氏から輿入れした母親から生まれました。そのために足利氏は、幕府で第2の地位を維持できたものと思われます。その一方で、多くの武士たちが足利氏に対して、源氏の棟梁を継ぐ者として世の中を変えてほしいという期待を持っていました。義氏から5代後の当主、足利尊氏は北条氏出身でない母親から生まれました。そういったことが尊氏が、後醍醐天皇やもう一人の源氏の子孫である新田義貞とともに、鎌倉幕府を倒す要因の一部になったと考えられています。

足利尊氏肖像画、浄土寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
後醍醐天皇肖像画、清浄光寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
新田義貞肖像画、藤島神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「足利氏館その2」に続きます。

55.千早城~Chihaya Castle

典型的な日本の山城の原点
The origin of typical Japanese mountain castles

立地と歴史~Location and History

楠木正成の活躍~Activities of Masashige Kusunoki

楠木正成は14世紀に河内国(現在の大阪府東部)を根拠地とした有力武将でした。彼は最初は、中世に武士のための政権を担った鎌倉幕府に仕えていました。しかし、1331年に後醍醐天皇が幕府に反抗したとき、正成は天皇を助け、赤阪城で幕府と戦いました。ところが、この城は急ごしらえで、敵と戦うには不十分であったこともあり、正成は敗走せざるを得ず、そして姿をくらましました。天皇は幕府に捕らえられ、日本海の隠岐の島に配流されました。
Masashige Kusunoki was a great general based in Kawachi Province (what is now the eastern part of Osaka Prefecture) in the 14th century. He first worked under the Kamakura Shogunate, a government body for warriors in the middle ages, but when Emperor Godaigo was against the Shogunate in 1331, he supported the Emperor fighting with the Shogunate in Akasaka Castle. However, the castle was built in a hurry and wasn’t very strong enough to protect against enemies, so Masashige had to run away and disappear. The Emperor was caught by the Shogunate and brought to Okinoshima Island in Japan Sea.

楠木正成肖像画、狩野山楽筆、楠枇庵観音寺蔵~The portrait of Masashige Kusunoki, attributed to Sanraku Kano, owned by Nanpian Kannonji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
後醍醐天皇肖像画、清浄光寺蔵~The portrait of Emperor Godaigo, owned by Shojokoji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1333年、正成は雪辱を期し、上赤阪、下赤阪、そして千早といった城のネットワーク作りを開始しました。千早城は、その内で詰めの城の役割でした。この城は、河内と大和国(現在の奈良県)を結ぶ千早街道沿いにあり、日本の山岳修業の流派である修験道の場として知られた金剛山へ向かう途上にありました。そしてこの城は、全面を谷に囲まれた峰の上に位置していました。
In 1333, Masashige wanted to take revenge, so he started making his new network of castles: Kami-Akasaka, Shimo-Akasaka, and Chihaya. Chihaya Castle was the last one of the network. It was located alongside Chihaya Road connecting Kawachi and Yamato (now Nara Prefecture) Provinces, and
on the way to Mt. Kongosan which was known for the training of Shugen-do, i.e., Japanese mountain asceticism. The castle was also on one peak, surrounded by valleys on all sides.

城の位置~The location of the castle

千早城の模型、千早赤阪村郷土資料館蔵~The miniature model of Chihaya Castle, owned by Chihaya-Akasaka Folk Museum(licensed by Wikiwikiyarou via Wikimedia Commons)

千早城の戦い~Siege of Chihaya

正成と僅か千名の兵士からなる部隊は、千早城に籠城し、幕府の大軍から何回も攻められました。 これは千早城の戦いと呼ばれ、日本で最初の本格的な山城での戦いでした。幕府軍の武士たちはこのような戦いでどう攻撃してよいかわからず、陣地や攻めどころといった戦略や計画もなく、しゃにむに城に突進していきました。正成とその部下たちは、敵と戦うのに大抵は盾や矢を使ったのですが、更には岩、丸太、油と火、煮えた汚物までも使って幕府軍を撃退したのでした。また、夜襲をかけて、敵を更に疲弊させました。この籠城戦は3ヶ月間続きます。
Masashige, with his small army of one thousand soldiers, was besieged in Chihaya Castle, by the massive Shogunate troops several times. It is called Siege of Chihaya, and it is the first big battle to occur in a mountain castle in Japan. The shogunate warriors didn’t know how to attack in such a battle, so they straightaway charged the castle without any strategies or planning, with regards to position or location of attack. Masashige and his army mostly used shields and arrows in order to fight the enemies. In addition, they also used rocks, logs, oil and fire, and even boiled filth to repel the Shogunate. They also delivered night attacks to further tire the enemies. The siege lasted for three months.

千早城合戦図、歌川芳員筆、江戸時代、湊川神社蔵~The illustration of Siege of Chihaya, attributed to Yoshikazu Utagawa, in the Edo Period, owned by Minatogawa Shraine(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

籠城戦の間、後醍醐天皇は島を脱出し、幕府の配下を含む全ての武士たちに協力を求めました。そして足利尊氏や新田義貞といった幕府の有力な部将たちが天皇方についたのです。千早城を攻撃していた軍勢はそれを聞き、撤退していきました。ついに正成は勝利し、幕府は千早城の籠城戦が終わってからわずか12日後に滅びました。
During the siege, Emperor Godaigo escaped from the island, and requested all the warriors, even those that backed Shogunate, to support him. Some influential retainer of the Shogunate, such as Takauji Ashikaga and Yoshisada Nitta, took sides with the Emperor. The troops attacking Chihaya heard about it and withdrew. Finally, Masashige won and the Shogunate was destroyed in just 12 days after the Siege of Chihaya ended.

足利尊氏肖像画、浄土寺蔵~The portrait of Takauji Ashikaga, owned by Jodo-ji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正成と城の最期~End of Masashige and Castle

後醍醐天皇は建武の新政を始めますが、朝廷はすぐに後醍醐の南朝と、尊氏が別の天皇を立てて設立した北朝に分裂します。正成は最後まで後醍醐に仕えました。しかし、残念なことに1336年の摂津国(現在の兵庫県の一部)での湊川の戦いで尊氏に敗れてしまいます。千早城は正成の子孫により継承されますが、ついには1392年の北朝方の攻撃により落城しました。
Emperor Godaigo started Kenmu Restoration, but the kingdom was soon divided into his Southern Court and the Northern Court that Takauji established with another Emperor. Masashige followed Godaigo till the end, but was unfortunately defeated by Takauji in the Battle of Minatogawa, 1336 in Settsu Province (now part of Hyogo Prefecture). Chihaya Castle was kept by Masashige’s descendants, but eventually fell due to the attack of the Northern Court in 1392.

河内千破城図、湊川神社蔵~The illustration of Chihaya Castle, owned by Minatogawa Shrine(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特徴~Features

急坂を登る~Climbing Steep Slope

現在、千早城跡への入口は、いまだに金剛山への玄関口になっています。ここから急坂に沿った500段以上の石段を登っていかねばなりません。石段は元はなかったのですが、神社が建設されたときに一緒に作られました。山道は所々曲がりくねっていて、過去は敵を防げるようになっていました。
Now, the entrance to the ruins of Chihaya Castle is still the gateway for Mt. Kongosan. You have to climb up over 500 steps of stones along the steep slope. The steps were not there originally, instead they were developed when a shrine was constructed . The trail is partly zigzagged to prevent enemies in the past.

千早城跡入口~The entrance of Chihaya Castle Ruins
石段の急坂~The steep stone steps
曲がりくねっている山道~The zigzagged trail

城の中心部は神社に~Center of Castle becomes Shrine

20分程かけて150mの高さを登っていくと、この城では最も広い郭である第四郭にたどり着きます。そこから更に山の鞍部を通る通路を通って第三郭に至ります。この郭には神社の社務所や、城の記念碑があります。
After about 20 minutes of 150m high climbing, you will reach the Fourth Enclosure which is the roomiest space in the castle. You can go further the route on a saddle of the mountain to the Third Enclosure. The enclosure has the shrine office and the monument of the castle.

第四郭~The Fourth Enclosure
山の鞍部~The saddle part of the mountain
第三郭~The Third Enclosure
城の記念碑~The monument of the castle

第三郭の後は第二郭となり、正成を祀る千早神社が鎮座しています。第一郭がまた第二郭の背後にありますが、聖地として一般の立ち入りは禁止されています。第一郭にはかつては見張り台のような建物があったと考えられています。
Chihaya Shrine that worships Masashige is on the Second Enclosure in at the back of the Third Enclosure. The First Enclosure is also at the back of the Second Enclosure, but it is closed to visitors of the shrine as it is considered the sanctuary. It is thought that a building, like a watchtower, stood on the First Enclosure in the past.

千早神社~Chihaya Shrine
第一郭は立ち入り禁止~The First Enclosure is closed

残っているものはあるか?~Does something original remain?

神社からは脇道が分かれ出ています。その道から見下ろすと、何か腰曲輪のようなものがあります。これらは元からあったものなのでしょうか。第三郭と第四郭の間の鞍部に戻ると、神社への脇参道を使って、山から下りることができます。谷底の一つは林道になっていて、そこから見ると坂道がとても急になっていて、この城がいかに自然の地形をうまく活用しているかがわかります。
The side tail goes from the shrine. From the trail, you can look down at something like bounded enclosures. I wonder if they are original or not. If you go back to the saddle between the Third and Fourth Enclosures, you can go down from the mountain using the side pathway to the shrine. One of the valleys’ bottoms has become a forest road. When you look up at the mountain from the road, you can see how steep the slope is, and how well the castle used natural terrain.

腰曲輪のように見えます~They can look like bounded enclosures
自然の断崖~The natural cliff

その後~Later History

千早城は長い間放置されてきました。ところが、明治維新後、状況は劇的に変化しました。北朝の子孫である明治天皇がどういうわけか南朝が正統と決めたのです。正成は、歴史家の間では優れた戦略家として知られてきましたが、突然日本史上最も有名な人物に祭り上げられてしまったのです。第二次世界大戦まで、彼の戦略とイデオロギーは全ての国民を忠良な臣民として教育するために利用されたのです。その結果、1879年に千早神社が城跡の上に建設されました。
Chihaya Castle had been abandoned for a long time. However, after the Meiji Restoration, the situation dramatically changed. Emperor Meiji who was a descendant of the Northern Court decided that the Southern Court was orthodox for some reasons. Masashige, who had been recognized as a great strategist only popular among historians, suddenly transformed into the most famous historical figure. His strategies and ideologies were used to educate all the nations in Japan, which was to be loyal subjects, until World War ll. As a result, Chihaya Shrine was built on the castle ruins in 1879.

皇居外苑にある楠木正成の銅像~The statue of Masashige Kusunoki at Outer Gardens of the Imperial Palace(licensed by David Moore via Wikimedia Commons)

現在でさえ、多くの年配の日本人は正成は単に忠臣だと思っています。一方で、若者の間では彼の名前さえ知らない人もいます。最近では歴史家たちは彼個人について一部研究が進んでいますが、いまだに謎のままです。この地は1934年から国の史跡に指定されています。
Even now, many old people in Japan think Masashige is just a loyal retainer. On the other hand, some young people even don’t know his name. Historians are recently studying about him as some parts of his personality still remain a mystery. The site has been designated as a National Historic Site since 1934.

私の感想~My Impression

私は千早城は日本の典型的な山城の先駆けだと思うのです。なぜなら敵から守るために、自然の障壁を最大限活用していたからです。その後の武士たちはこの城とここでの戦いから多くを学んだに違いありません。神社がよく整備され、正成の名が不朽なものとして残るのはよいことですが、せめて第一郭に立ち入らせてもらえないでしょうか。自治体の方にも城跡を史跡として整備し、もっと本当の正成を人々に知ってもらうようにすることを望みます。
I think that Chihaya Castle is the forerunner of typical mountain castles in Japan, because it used natural hazard at maximum to protect from enemies. Later warriors must have learned a lot from the castle and the battle on it. I am pleased to see that the shrine are is well maintained and Masashige’s name is kept intact .I hope that the shrine will allow visitors to enter the First Enclosure, and that the local government will preserve the ruins really like a historic site to let so that people know more about real Masashige more.

第一郭を見上げる~Looking up the First Enclosure

ここに行くには~How to get There

車の場合、阪和自動車道美原南ICから約30分かかります。城跡の入口周辺にいくつか駐車場があります。
バスの場合、近鉄長野線富田林駅から、金剛バス千早線の千早ロープウェイ前または金剛登山口行きに乗るか、
南海高野線か近鉄長野線の河内長野駅から、南海バス窪田線の金剛山ロープウェイ前行きに乗ってください。
どちらのケースでも、金剛登山口バス停で降りてください。
By car, it takes about 30 minutes away from the Mihara-Mnami IC on Hanwa Expressway. There are several parking lots around the entrance of the castle ruins.
By bus, you can take the Kongo Bus on Chihaya Line bound for Chihaya-Ropeway-Mae or Kongo-Tozanguchi from Tondabayashi Station on Kintetsu Nagano Line, or take the Nankai Bus on Kobuka Line bound for Kongosan-Ropeway-Mae from Kawachi-Nagano Station on Nankai Koya Line or Kintetsu Nagano Line. Get off at the Kongo-Tozanguchi bus stop in both cases.

リンク、参考情報~Links and References

千早城 千早神社、千早赤阪村観光協会(Chihaya-Akasaka Village Tourism Association)
・「日本の城改訂版第103号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)
・「日本の攻城戦55/柘植久慶」PHP文庫(Japanese Book)

120.菅谷館(Sugaya Hall)

この城は、伝説と現実の間(はざま)にあります。
This castle is between legend and reality.

現在の菅谷館本郭の入り口(The present entrance of Sugaya Hall Hon-Kuruwa)

Location and History

「菅谷館」という名前には少し説明が必要です。「館」という用語は、この場合には「中世初期の武士の館」を指します。通常は、平地の上に土塁か柵を伴う館が堀で囲まれている構成でした。例としては足利氏館が挙げられるでしょう。
The name “Sugaya Hall” needs a small explanation. The term “hall” means ”warrior’s hall in the early Middle Ages” in this case. It usually consists of a hall with earthen walls or fences, and a surrounding moat on a plain, for example, like the Ashikaga clan hall.

足利氏館跡(Ashikaga Clan Hall Ruins)

菅谷館には、鎌倉幕府の重臣であった畠山重忠について、当時ここに住んでいたという地元の言い伝えがあります。古い記録である「吾妻鏡」にも彼が菅谷館に住んでいたという記載があります。そのためこの遺跡が菅谷「館」と呼ばれ、ここに重忠の像が立っているのです。
Sugaya Hall has a local tale about Shigetada Hatakeyama, a senior vassal of the Kamakura Shogunate, living there at that time. An old document called “Aduma-Kagami” also says he lived in Sugaya Hall. That’s why these ruins are called Sugaya “Hall” and the statue of Hatakeyama is standing on the ruins.

畠山重忠像(The statue of Shigetada Hatakeyama)

しかしながら、この遺跡の外観はそのような説明と違っています。明らかに戦国時代の城跡に見えるのです。その時代の古書もまたこの城を「館」ではなく、菅谷「城」と記しています。加えて、発掘の結果からも戦国時代の1500年前後に使われたことが判明しています。つまるところ、「菅谷館」という名前は、行政側による伝説と現実との間での妥協の産物のようなのです。
However, the appearance of the ruins is different from such descriptions. They look like the ruins of a castle in the Warring States Period obviously. Old documents in the period also call them Sugaya “Castle”, not “Hall”. In addition, the result of excavation says the castle was used around 1500 in the Warring States Period. Overall, the name “Sugaya Hall” seems to come from a kind of compromise between legend and reality by the officials.

菅谷館跡全景(The whole view of Sugaya Castle Ruins)~埼玉県立嵐山史跡の博物館ウェブサイトより引用

いずれにせよ、この城は1488年の「須賀谷原の戦い」のような戦国大名が戦いを繰り広げた重要な地域にありました。戦国大名の一つ、扇谷上杉氏がその戦いのため菅谷古城を再興したこと、しかし敗れてその城に幽閉されたことが記録されています。他の文書にはその約100年後には北条氏がこの城を使っていたとあります。つまり、この城は何度か使われたり放棄されたりしたようなのです。
Anyway, the castle was in the important area where warlords battled each other such as “The battle of Sugayahara” in 1488. Records say that one of the warlords, the Ogigayatsu Uesugi clan, restored the old Sugaya Castle for the battle, but they were defeated and kept under arrest in the castle. Another document says that the Hojo clan used the castle about 100 years later. After all, the castle seemed to be used and abandoned several times.

二の郭前の堀(The moat in front of Ni-no-Kuruwa)

菅谷城は現在の埼玉県西部にあたる場所の低台地上にあり、近くには中世の主要街道である鎌倉街道が通っていました。中心の本郭は、背後を都幾川に、両側を自然の渓谷により守られていました。本郭の入り口は厳重に防御され、二の郭、三の郭などいくつかの郭が本郭の前に広がっていました。
Sugaya Castle is located on a low plateau in what is now the western part of Saitama pref. where the Kamakura road, a main road in the Middle Ages was passing nearby. The main enclosure, “Hon-Kuruwa”, was protected by the Tokigawa river behind it and natural valleys both sides. The entrance of Hon-Kuruwa is strictly guarded and several enclosures including “Ni-no-Kuruwa” and “San-no-Kuruwa” spread out in front of Hon-Kuruwa.

菅谷館跡の地図(The map of Sugaya Hall Ruins)~現地案内板写真に追記

Features

菅谷館跡には建物はありませんが、基礎は残っており、よい状態で保存されています。基礎は全て土造りであり、戦国時代の東国においてはそれが一般的な方法でした。
The ruins of Sugaya Castle retain their foundation but with no buildings. The foundation is well preserved, and is all made from soil which is a typical method of building castles in eastern Japan in the Warring States Period.

菅谷館跡の土塁(An earthen wall of Sugaya Hall Ruins)

一例として、本郭を見てみましょう。この郭は、重忠の館があったと考えられています。それが事実なら、後から城の中心部分として強化されたはずです。
Let’s look at Hon-Kuruwa for instance. This enclosure is thought to be Hatakeyama’s hall. If it’s true, it must have been strengthened as the center of the castle later.

菅谷館跡の地図、アルファベットは以下の写真を撮った位置(The map of Sugaya Hall Ruins, Alfabetic characters show the points pictures below were taken)~現地案内板写真に追記

本郭は、高い土塁と深い空堀に囲まれています。これにより、防御側は敵の攻撃から守りやすくなります。「虎口」と呼ばれる入り口は狭くなっており、そこに至る進路はジグザグに作られていて、敵がまっすぐ内部に入れないようになっています。
Hon-Kuruwa is surrounded by a high earthen wall and deep dry moat. That makes it easier for defenders to protect them from an enemy’s attack. Its entrance, called “Koguchi”, is narrow and the route to it is made zigzagged so that attackers are unable to enter inside directly.

A.本郭の土塁と空堀(The earthen wall and dry moat of Hon-Kuruwa)
B.本郭の入り口(The entrance of Hon-Kuruwa)

更には、この土塁は部分的に意図的に突き出ています。これにより防御側はその部分から敵の正面と側面両方を攻撃することができます。このような構造は「出桝型土塁」と言われます。これは戦国時代においては、他の構造と組み合わせることで、高度な城の防御システムとなりました。よって一部の歴史家は、北条氏が城を改修したのだろうと推定しています。
In addition, the wall is partly stuck out on purpose. This allows defenders to attack from the sticking point to an enemy’s front and sides. Such a structure is called a “Dematsu” shaped earthen wall. It is an advanced system when combined with other defensive features for castles in the Warring States Period. So some historians speculate Hojo might have improved the castle.

C.出桝型土塁(The “Dematsu” shaped earthen wall)
D.本郭の内部(The inside of Hon-Kuruwa)
E.二の郭の入り口、最も高くなっている(The entrance of Ni-no-Kruwa, the highest point)

Later Life

この城は戦国時代の終り頃から長い間放置されていたようです。それ以来、城跡は民間の所有となり、畠山重忠の遺産であると思われてきました。約100年前の大正時代に初めてここが調査されたとき、重忠の像が建てられます。1973年になって遺跡が国の史跡に指定され、2008年には「比企城館跡群」の一つに改めて指定されました。
The castle seemed to be abandoned for a long time since sometime at the end of the Warring States Period. Since then, the ruins were private owned and thought of as Hatakeyama’s heritage. His statue was built when the ruins were first investigated in the Taisho Era about 100 years ago. In 1973, the ruins were designated as a National Historic Site, then were newly designated one of the “Hiki Castles Ruins” in 2008.

明治初期の城跡周辺の地図、土塁が残り畑・林となっていた(The map around the ruins in the early Meiji Era, there was a field and woods)

My Impression

関東地方の戦国大名は必要な数だけ城を作りました。その城がいらなくなったときは、速やかに廃城としました。一方、廃城となった城を再利用したいときは、その城を再建または増築しました。結果として城を廃城とするときは、完全には破壊しませんでした。代わりに一部を壊すか、建物だけを撤去しました。恐らくそれが効率的で、且つ再利用しやすかったからでしょう。それで菅谷館(城)の基礎がよく残ったと思うのです。
Warlords in the Kanto region built castles as many as they needed. When they didn’t need the castles, they immediately abandoned the castles. On the other hand, when warlords wanted to reuse abandoned castles, they restored or improved the castles. As a result, when warlords abandoned castles, they didn’t completely destroy the castles. Instead, they often destroyed part of the castles, or just remove their buildings. Probably it could be because it is more efficient and easy to reuse. I think that’s why the foundation of Sugaya Hall (Castle) remains well.

本郭の裏手(The back of Hon-Kuruwa)

今、城跡の三の郭には嵐山史跡の博物館があります。そこでは比企城館跡群(菅谷館、杉山城、松山城、小倉城)の歴史や出土品を展示しています。そこで歴史を学んでまず菅谷館に行ってみましょう。その他の内、杉山城はここからわずか5キロのところにあります。両方行ってみるのもよいでしょう。
There is the Ranzan Historical Museum on San-no-Kuruwa of the ruins now. It shows the exhibition of history and the excavation about Hiki Castle Ruins including Sugaya Hall, Sugiyama, Matsuyama and Ogura Castles. Let’s look into their history and visit Sugaya Hall first. Out of the others, Sugiyama Castle ruins is only about 5 km from there. So, how about visit the set of them.

嵐山史跡の博物館(the Ranzan Historical Museum)

比企城館跡群の4つの城(The four castles of Hiki Castle Ruins)





How to get There

車を使う場合、遺跡は関越自動車道の嵐山小川ICの近くです。嵐山史跡の博物館に駐車場があります。
電車を使う場合は、東武東上線の武蔵嵐山駅から歩いて約15分です。
東京から武蔵嵐山駅まで:池袋駅から東武東上線に乗ってください。
When using car, the ruins is near Ranzan-Ogawa IC on Kan-Etsu Expressway. Ranzan Historical Museum offers a parking lot.
When using train, it takes about 15 minutes on foot from Musashi-Ranzan Station on Tobu Tojo line.
From Tokyo to Musashi-Ranzan Station: Take the train on Tobu Tojo line from Ikebukuro Station.

Links and References

埼玉県立 嵐山史跡の博物館(the Ranzan Historical Museum)