41.駿府城 その1

今回は、現在の静岡市にある、駿府城をご紹介します。大御所・徳川家康の城、それから竹千代だった子ども時代にも人質で過ごしていた場所としても知られています。実は家康はあと一回、豊臣秀吉の配下になったときにも、駿府城に住んでいたのです。つまり3回住んだ城ということです。

立地と歴史(家康が3回住んだ城)

イントロダクション

今回は、現在の静岡市にある、駿府城をご紹介します。大御所・徳川家康の城、それから竹千代だった子ども時代にも人質で過ごしていた場所としても知られています。実は家康はあと一回、豊臣秀吉の配下になったときにも、駿府城に住んでいたのです。つまり3回住んだ城ということです。一回目のときは今川氏の城で、二回目に家康自身の城になったのですが、このときまでの城の姿は謎に満ちているのです。それに大御所時代に築かれた巨大な天守は、短期間で燃えてしまい、日本最大と言われる天守台も明治期に壊されてしまいました。しかし近年発掘調査が行われ、明らかになりつつあります。この記事では、家康が住んでいた3つの時代毎に、駿府城の歴史と謎をご説明したいと思います。家康後の歴史もあります。

駿府城になる徳川家康銅像

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竹千代がいた今川氏の城

室町時代に駿河国守護だった今川氏が、いつ本拠地を駿府に置いたのかははっきりしません。しかし四代目の範政が、将軍・足利義教を「府中」に迎えているので、これ以降本拠であったことは確実です。駿府は、南を駿河湾、残り三方を山に囲まれていて、鎌倉のような地形になっています。要所には支城が築かれて、防御を固めていました。しかし、本拠にあった今川館(いまがわやかた)は、堀や土塁に囲まれてはいるものの、京都の公方亭のような華やかな建物だったと考えられています。今川氏の全盛期には、駿府は日本有数の平和で繁栄した街だったからです。

駿河国の範囲と駿府城の位置

城周辺の起伏地図

将軍亭「花の御所」、上杉本陶版「洛中洛外圖」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その今川館があった場所ははっきりとはわかっていません。現在残る本丸辺りだろうとも思えますが、城は後世かなり改変されてしまっているからです。発掘調査で発見された遺構や、文献資料などから、本丸・二の丸の範囲にあったことは確実なのですが、もっと絞れば、二の丸坤櫓辺りだろうとする意見があります。この辺が城内では標高が高く、富士山を望むような建物の配置になっていたと推定されるからです。この近くには、室町時代以来と思われる「四足御門」という名前の門が江戸時代までありました。

今川館の推定範囲(緑の線内)、駿府城東御門内にて展示

1549年(天文18年)、11代当主・今川義元の下、全盛期だった駿府城に、8歳の竹千代こと家康が、松平氏の人質としてやってきました。これまでこの「人質」時代は、家康の一生のなかで忍耐のときと捉えられてきましたが、実際には制限はあっても充実した生活を送っていたようです。有名な安倍川の石合戦のエピソードのほか、この頃から鷹狩りをしていました。そして今川氏からも配下の中で優遇され、元服後に義元から一字をもらって「元康」と名乗り、妻も義元の姪と言われる築山殿でした。更に「軍師」である太原雪斎から直接教育を受けました。家康は、今川氏の重臣となるよう期待されていたのでしょう。1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いの前には、今川氏の拠点、大高城に兵糧を運び入れる働きをしました。ところが、大将の義元が織田信長に討ち取られてしまったのです。家康はこれをきっかけに独立大名となります。

復元された「竹千代手習いの間」、駿府城巽櫓内にて展示

義元を失った今川氏は、凋落の道を辿ります。北は武田信玄、西は家康から圧迫を受け、1568年(永禄11年)ついに信玄は駿河侵攻を開始しました。後継ぎの今川氏真はそれに対峙しようとしますが、重臣の離反が相次ぎ、一戦も交えずに、西の掛川城に退去しました。駿府には武田軍が攻め込み、当時の駿府城・今川館も炎上しました。一つの時代が終わったことを象徴する出来事でした。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊臣大名・家康の城

織田信長が本能寺の変で倒れた後、家康は5か国を領有する大大名になっていました。当時の本拠地は浜松城でした。1584年(天正12年)には、天下人となる羽柴秀吉に小牧・長久手の戦いで対峙しました。その翌年(1585年、天正13年)、家康は駿府に本拠地を移しました。これは拡大した領国範囲に対応したものと言えますが、秀吉との再度の戦いに備えたものとも考えられます。その範囲は現在の本丸・二の丸程度でした。家臣の松平家忠の日記には、その築城過程が記録されています。築城は天正13年7月に始まり、翌年12月に家康が入城しました(下記補足1)。このときの城の姿は、それまでの浜松城などと同様、土造りの城であったと想定されています。家康は、本格的な石垣を築く技術や職人集団を持っていなかったのです。1587年、天正15年2月に城は一旦完成しました(「家忠日記」「当代記」)。

駿府城の航空写真(国土地理院)、二の丸ライン(赤線)を付加
家康時代の浜松城の想像図、現地説明パネルより

(補足1)「駿河府中普請」のため、家忠が出張(「家忠日記」天正十三年八月十四日付)「御かまへ二のくるわ堀(二の丸の堀)普請候」(同天正十五年二月五日付)「殿様今日駿へ御座候由候」(同天正十五年十二月四日付)

家忠日記(複製)、駿府城東御門内に展示

ところが、それと同時に新たな工事の準備が始まりました。石垣の工事でした(下記補足2)。その直前、1586年、天正14年10月、家康が上洛し秀吉に臣従していました。それを境に始まったのです。「石垣の城」を築かなかった家康に、豊臣政権が関与したことが記録上からも伺えます(下記補足3)。更には、「てんしゅ(天守)の材木を準備したという記録も見られます(下記補足4)。しかし記録からでは、石垣や天守の規模はわかりません。

(補足2)「城普請出来候、石とり候(「家忠日記」天正十七年二月付)」「来一日より駿河御城御普請候由、酒左衛門督(酒井忠次)より申来候」(同天正十五年九月十七日付)
(補足3)「てんしゅの才木てつたい普請あたり候」(「家忠日記」天正十六年五月十二日付)
(補足4)「駿河府中の石垣の普請あり、去る去る年より、事始めあると雖も、上方不快の間、指て事行ず。いま、秀吉公入魂せしめたまい、普請宜々、出来の間、浜松より北の方をも引越し給う。」(「当代記」天正十五年丁亥二月付)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

2016年、大御所時代の天守台の発掘調査が行われましたが、その下から天正時代の当時としては巨大な天守台と、大量の廃棄された金箔瓦が発見されました。天守台の大きさは秀吉の大坂城をもしのぎ、天下人クラスのものでした。そのため、当初は家康が築いたものとはされず、家康が関東に移った後駿府に来た、中村一氏のときに築かれたのではないかとされました。一氏は秀吉の家臣(当時は秀次家老)だったので、秀吉の肩入れで築かれたということです。関東周辺には、秀吉の家臣による総石垣・金箔瓦の天守がいくつも築かれ、家康包囲網ともいうべき城郭ネットワークが構成されました。駿府城もその一つと考えられたのです。見つかった金箔瓦は一か所に廃棄されていて、家康が再度城を築くときに意図的に壊されたとも言えるのです。

発掘された天正期の天守台
出土した金箔瓦、駿府城東御門内にて展示
中村一氏像、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところがまた事態は一変します。2019年に天守台に付随する小天守台が発見されたのです。これは家康家臣の記録の一つ「小傳主(小天守)を築く」と一致するということになったのです(下記補足5)。にわかにこの巨大天守は家康が築いたという可能性が出てきたのです。学者の中には、この時期に家康が独力で石垣・天守を築く能力を身に着けたと考える人もいます。しかし一方で、一連の石垣・天守工事は小田原合戦準備のため短期間で終わっていて、その間にこれだけのものを築けたのかという疑問もあります。また、家康が関東に移った当初の江戸城はとても質素で、豪華な石垣や天守は関ヶ原合戦の後と考えられているので、それとの整合性はどうなのでしょうか。それから見つかった金箔瓦は、織田系・豊臣系両方の特徴を示していて、独自性が感じられます。このことは家康築城説に有利なのかもしれません。発掘調査は2020年に終了しましたが、今後の研究成果が期待されます。

(補足5)「小傳主てつたい普請當候」(「家忠日記」天正十七年二月十一日付)

駿府城の金箔瓦(複製)、左側が豊臣系、右側が織田系の特徴をもつ、駿府城東御門内にて展示

天下人・大御所の城

関ヶ原合戦の勝利、征夷大将軍就任により天下人となった家康は、1605年(慶長10年)早くも将軍職を後継ぎの秀忠に譲りました。その隠居城となったのが駿府城です。馴染みのある地で余生を楽しむという感じも受けますが、実際には自由な立場で天下の政権運営を行うためでした。家康は将軍時代、ほとんど上方の伏見城にいたので、江戸との中間点で、両方目配せができる場所を選んだのでしょう。また、大坂城の豊臣方が西国大名とともに江戸を攻める場合、防衛線にもなりうる拠点でした。1607年(慶長12年)、天下普請により新たな築城が始まりました。その範囲は、現在の三の丸が追加される形と考えられますが、中身は大改修となりました。三の丸のラインが二の丸以内とずれているのは、城下から見て、富士山と天守が同時に視界に入る仕掛けと言われます。慶長12年中にほぼ完成していましたが、12月22日、本丸・天守が全焼してしまいました。これは奥女中の火の不始末が原因とされますが、火事は度々起きていて、豊臣方の策謀ではないかという説もあります。再建工事が直ちに開始され、翌1608年、慶長13年8月14日に家康が入城しています。

駿府城の航空写真(国土地理院)、三の丸ライン(緑線)を付加
石垣工事のジオラマ、駿府城東御門内にて展示

城の中で際立つのは、まず天守台です。2016年からの発掘調査の結果、一番下の部分(基底部)で東西約63m、南北約69m、という日本最大規模であったことがわかりました。残っている記録(陸軍実測図)によると、最も高い部分(天端)でも東西約48m、南北約50mで、最盛期の江戸城・大坂城をしのぐものでした。また、天守は天守台一杯に築かれたのではなく、周りを櫓と渡櫓が囲み、中心部に天守が立つという珍しいスタイルでした(環立式)。天守の建物は6重7階で、高さは約33mありました。屋根には貴重な銅瓦(+金属瓦)が用いられていました(家康時代の江戸城も銅瓦を使用)。ただしどんな外観だったかは、詳細な設計図がなく、短期間で焼失したため(1610年完成、1635年焼失)、よくわかっていません。いくつか絵図が残されていますが、異なった描き方をされています。今後の研究の進展が待たれます。

発掘された慶長期の天守台
天守台模型、駿府城東御門内にて展示
駿府城天守の模型、発掘情報館「きゃっしる」にて展示

城全体ですが、平城であっても三重の堀で囲まれ、戦いに備えていました。西側の方が標高が高く攻められやすいため、防御が厳重でした。三の丸西側には門がなく、二の丸西側の清水御門は上げ下ろしができる跳ね橋だったようです。坤櫓のような櫓も厳重に守りを固めていました。他の方角にある門も、大鉄砲等も破壊されにくい、内枡形構造となっていました。そのうちの一つ、東御門が現在復元されています。その他、城内を仕切るための仕切石垣も採用されていました。駿府城独特のものとしては、本丸堀と二の丸堀をつなぐ水路が作られ、堀の水位を保てるようになっていました。また、天守台には、全国的に珍しい井戸が設けられ、籠城にも備えていました。

駿府城模型、駿府城東御門内にて展示
復元された坤櫓
復元された東御門
二の丸水路

一方で大御所・家康がいた駿府城は、日本の政治の中心地の一つになりました。家康が生活し、政務を執ったのは本丸御殿です。本田正純などが側近として仕え、江戸の秀忠と分担して二元政治を行っていました。そのうち軍事・外交に関しては家康が取り仕切っていたため、駿府には、諸大名だけでなく、外国使節も訪れ、日本の首都機能の一翼を担うような都市になりました。1609年(慶長14年)からは、家康十男・頼宜が駿府城主になり、家康と一緒に過ごしました。1614年(慶長19年)、大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件が起こり、家康が、弁明のために駿府城に来た片桐且元には面会せず、後から来た大蔵卿には面会することで、豊臣方の分断を図ったというエピソードは有名です。家康は、大坂冬・夏の陣とも駿府城から出陣し、豊臣氏を滅ぼした翌年(1616年、元和2年)に亡くなった場所も駿府城でした。

家康の洋時計(複製)、発掘情報館「きゃっしる」にて展示
徳川頼宜肖像画、和歌山県立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

徳川頼宜は、1619年(元和5年)に和歌山に移っていきました。その後、秀忠の三男・忠長が駿府城主になりますが(1624年、寛永元年)、兄の3代将軍・家光により改易されました(1632年、寛永9年)。以降は幕府直轄になり、城代が置かれました。城外には城を警備する加番も置かれました。幕府の「聖地」を守るお役目です。1634年(寛永11年)には家光の宿泊所として使われましたが、翌年の火災で天守・御殿・櫓などが全焼、天守は再建されませんでした。その後も地震などで度々被害があり、将軍の上洛もなくなったことで、本丸御殿などの規模は縮小していきました。

加番の一つ、三加番の屋敷跡

そして幕末の動乱を迎えたとき、駿府城は再び注目を浴びました。鳥羽・伏見の戦いの後、新政府の東征軍が組織され、江戸に向かって行軍してきたのです。そのときは江戸の「最後の将軍」徳川慶喜は恭順の方針であり、名古屋城を擁する尾張藩も新政府に付いていました。最期の駿府城代・本多正納(まさもり)は城を開け渡ざるをえませんでした。1868年、慶応4年3月、新政府の拠点となった駿府に、慶喜・勝海舟の使者として山岡鉄舟がやってきました。彼は、新政府参謀の西郷隆盛と面会し、江戸開城の条件交渉を行いました。それが有名な勝・西郷会見につながったのです。江戸開城が成ると、慶喜を継いだ徳川家達(いえさと)が駿府藩主として駿府城に入城しました。家康の子孫がまた戻ってきたのです(廃藩置県後は東京に移住)。慶喜も水戸謹慎後は、駿府改め静岡に移住し、1897年(明治30年)まで暮らしました。

西郷・山岡会見の史跡碑
明治初期の徳川家達

明治時代になると、城は陸軍が管轄していましたが、建物は売却され、城内は荒れ果てていきました。三の丸の部分は市街地化しました。1889年(明治22年)になってようやく「廃城」扱いになり静岡市に払下げされましたが、その使い道は陸軍の誘致でした。1896年(明治29年)にはついに天守台が崩され、本丸堀が埋められました。二の丸以内が歩兵第34連隊の敷地になったのです。戦後は都市公園「駿府公園」として再出発しますが、堀の埋め立てや石垣の破壊が続いていました。1975年(昭和50年)から発掘調査が行われ、それから史跡として注目されるようになります。その到達点として、1996年(平成8年)東御門・巽櫓復元、2014年(平成26年)の坤櫓の復元があります。公園の名前も2012年(平成24年)に「駿府城公園」に変更されています。

駿府城の復元された巽櫓

「駿府城 その2」に続きます。

23.小田原城 その1

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城となるまで成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

立地と歴史(戦国編)

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城と言われるまでに成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

現在の小田原城、天守は江戸時代のものを復興させました

城の始まりと伊勢宗瑞の登場

古代の頃、西から関東に入る東海道は、箱根峠ではなく、足柄峠を越えるルートが主流でした。鎌倉時代になると、箱根山(箱根神社)・走湯山(伊豆山神社)の二所権現への参詣が盛んになり、箱根ルートがよく使われるようになりました。これにより、南北朝時代までには小田原に宿場町が形成されたと考えられています。「小田原城」の記録はこの後に現れますので、この町は城下町でなく、宿場として始まったことになります。一方、支配者の武士階層の中には、関所で通行税(関銭)を徴収する権利を持つ領主がいました。箱根や足柄では、大森氏がその立場にあり、徴収した関銭を、寺院の建立に使ったりもしていました。その大森氏が、宿場として成長した小田原を管理するために、15世紀中頃の戦国時代の始まりまでには、初期の小田原城を築いたと言われています。その目的からして、規模は大きくなかったと考えられます。

城の位置

また、初期の城の位置ですが、従来は現在の小田原城天守の北側の、「八幡山古郭」と呼ばれる場所ではないかと言われてきました。しかし当初の小田原宿は、江戸時代のそれより、西側にあったと考えられます。標高が高く高潮の被害を受けにくく、初期の頃もこの場所についての記録、言い伝えが残っているからです。そのため、城もその宿場に近い、現在の小田原城の天守周辺(八幡山丘陵の端)か、天神山丘陵にあったと考えられるようになってきました。

八幡山古郭東曲輪
現在の天神山

戦国時代には、「北条早雲」こと伊勢宗瑞(いせそうずい)が登場します。宗瑞はこれまで、下剋上を果たした、典型的な初期の戦国大名の一人として、捉えられたこともありました。つまり、素浪人から自らの才覚のみでのし上がり、城持ちの大名になったというサクセス・ストーリーです。しかし、最近の研究により、彼は備中国(岡山県西部)出身の、将軍に仕える幕府奉公衆・伊勢盛時(いせもりとき)であったことがわかっています。彼の姉が、駿河国(静岡県中部)の大名、今川義忠に嫁いでいましたが、家督争いが発生し、姉の子の氏親を支援するために、駿河に向かったのです。

伊勢宗瑞(北条早雲)肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、氏親を跡継ぎにすることに成功し、恩賞として、駿河の興国寺城を与えられました。その後、伊豆国(静岡県東部)の韮山城、そして相模国(神奈川県)の小田原城を手に入れるのですが、それは、一匹狼ではなく、今川氏の部将、そして南関東を治めていた扇谷上杉氏との連携によって行われました。小田原城攻めにしても、宗瑞が大森氏に贈り物を送って油断させ、「火牛の計」を使って城から追い出したという武勇伝がありました。しかし実態は、宗瑞の弟と大森氏が一緒に小田原城にいて(扇谷上杉氏方)、山内上杉氏に攻め取られたという記録があったりして、単純な話ではなかったようです。西暦1500年前後に大地震があったり、大森氏が山内上杉氏方に転じたタイミングで、宗瑞が手に入れたのではないかと考えられています。ただし、この時点では小田原城は、まだ支城という扱いでした。

興国寺城跡
「火牛の計」で攻める北条早雲像、小田原駅西口

北条氏綱・氏直による発展

初代・宗瑞(北条早雲)の跡を継いだのは、嫡子の北条氏綱(ほうじょううじつな)です(1518年、宗瑞は翌年に没)。「小田原北条五代」と言いますが、小田原を本拠地とし、「北条氏」を名乗ったのは、2代目の氏綱からです。関東地方侵攻を本格的に始め、敵となった上杉氏(山内・扇谷)から「他国之凶徒」と言われ、権威を得るため、鎌倉時代の関東支配者の名字を名乗り始めたと言われています。また、関東公方の足利晴氏と同盟を結び、「関東管領」に任命され、同じ職名を世襲していた(山内)上杉氏に対抗します。

北条氏綱肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1541年に氏綱から跡を継いだ3代目の北条氏康は、更に領土を広げ、1546年の河越城の戦いで上杉軍に大勝し、関東での覇権を確立しました。氏綱・氏直は小田原を南関東の中心地にしようとしました。それまでの宿場町を城下町として、江戸時代の小田原宿と同じくらいまで広げました。日本最初の水道と言われる「小田原用水」も町に引かれました。城についてはこの頃、城の中心となる「本丸」「御用米曲輪」「二の丸」が成立したと考えられています(曲輪の名前は江戸時代のもの)。1551年に小田原を訪れた僧が「三方に大池あり」と記録しています。この池は現在、二の丸の堀として残っています。また、氏康は民衆に善政を施したことでも知られています。年貢率(四公六民)も他の大名よりは低かったと言われています。

北条氏康肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の小田原用水
現在の二の丸東堀

1561年、城は最初の大きな危機を迎えます。越後国(新潟県)の上杉謙信(その時点は長尾景虎)が、旧来の上杉氏による秩序回復を掲げ、関東地方に侵攻してきたのです。翌年(永禄4年)2月には10万を超えるとも言われる大軍で小田原城を囲みますが、短期間で引き上げました。その場の勢いに乗った寄せ集めであったため、長陣には耐えられなかったからです。そのとき、大手門であった「蓮池門」(現在の幸田口門跡周辺)に、謙信方の先鋒、太田資正が突入し戦ったと伝わっています。氏康は当時、甲斐国(山梨県)の武田信玄、及び今川氏と三国同盟を結んでいて、その力を基礎に、その後謙信の侵攻を跳ね返していきます。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし次の危機として、信玄が1568年に同盟を破り、翌年(永禄12年)10月には、小田原城に攻め込んできました。信玄は、同年8月に北条領内に侵入し、10月1日から小田原城を包囲し、5日には引き上げています(この後、退却途中に有名な三増峠の戦いが起こります)。このような経緯から、もともと小田原城を本気で落とそうとする意図はなかったようです。信玄も謙信と同じように、蓮池門から城を攻めたと言われています。城下町は悉く放火され、信玄自身が手紙で「氏政館」も放火したと言っています。氏政は、氏康の跡継ぎで、当時彼の館は、現在の「御用米曲輪」にあったと考えられていますので、これが合っていれば、本丸の麓まで攻め込まれたことになります。このとき氏政は、氏康から家督は譲られていましたが、1571年に父・氏康が亡くなると、武田との同盟を復活し、更なる城の拡張を行います。恐らく、これらの戦いでの経験が基になっていると思われます。長期の籠城に耐えられる城であれば、どんな強力な敵にも対応できると確信を持ったのかもしれません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の御用米曲輪

北条氏政・氏直による完成

北条氏政と跡継ぎの氏直の時代に、北条氏は全盛期を迎えました。武田氏との同盟が機能した他、上杉謙信が1578年に亡くなり、関東地方に強敵が見当たらなくなったからです。北条氏は関東地方の大半を支配するようになり、地域防衛のため、支城ネットワークを築き、重要な城には一族・重臣を派遣しました。小田原城は、そのネットワークの中心に位置づけられたのです。小田原城そのものも、以前の戦いの教訓に基づき、氏政主導で強化されました。まず、二の丸外側の低地に、三の丸が作られました。また、城の背後からも攻められないよう、三の丸外郭が丘陵地帯に築かれました。更には、三の丸外郭に続く防衛ラインとして、丘陵地帯の地形を利用して、小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)の建設を始まました。これらは、急斜面の堀を掘削し、堀った土を土塁として積み上げるやり方で築かれました。北条氏は石垣を積む技術も持っていましたが、このエリアの土は、関東ローム層と呼ばれる火山灰が堆積してできたもので、粘土質で滑りやすく、敵を防ぐための堀には打ってつけだったのです。また、堀の底は、「障子堀」「畝堀」呼ばれる仕切りがつけてあり、堀に入った敵を閉じ込める仕組みとなっていました。

北条氏政肖像画、法雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三の丸外郭
小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)
山中城跡に残る障子堀

城の拡張は、日本全体や他の大名との外交関係にも影響されていました。織田信長が1582年に武田を滅ぼしたときには、信長に臣従せざるをえなくなりました。ところが、信長が本能寺の変で倒れると、また乱世に戻ったようになります。武田の遺領をめぐって、北条・徳川・上杉が三つ巴の戦いを始めたのです。更に、上野国で真田昌幸が独立を志向して三者を渡り歩き、不気味な存在となります。氏政は、徳川家康と手打ちをし、関東地方だけは確保しますが、今度は豊臣秀吉の天下統一が進みます。1587年までに、西日本は全て平定され、氏政の周りの大名たちも秀吉に臣従しました。北条氏は孤立し、頼りにできるのは同盟続いていた家康と、奥州の覇者・伊達政宗だけでした。氏政は翌年から、豊臣方と臣従するための条件交渉を始めます。その一つが、真田と争っていた上野国沼田の扱いで、一旦は秀吉の裁定により解決しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
真田昌幸肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽作、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信作、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その一方で、氏政は戦になることも想定し、「相府大普請」とも呼ばれた小田原城の大改修を始めました。その目玉は、小田原を囲む丘陵地帯(八幡山・天神山・谷津)、城、城下町を丸ごと土塁と堀で囲む総構でした。その延長は約9キロメートルに及び、工事には関東全域から人夫が動員されました。地域全体を囲んでしまえば、敵は入ってこれず、長期の持久戦ができると考えたのでしょう。当時はこれを「大構」と呼んでいたようで、同じ名前の遺構が、支城だった岩付城跡に残っています。

赤い線が総構土塁の推定ライン

総構の想像図、現地説明パネルより
わずかに残る岩付城大構

1589年(天正17年)10月、北条氏の家臣が、沼田で真田のものになったとされる名胡桃城を奪う事件が発生しました。秀吉は激怒し、命令違反として、北条征伐を決定します。この事件は不可解な点も多く、秀吉と真田が仕組んだ謀略という説もあります。直臣に領地を与えたい秀吉と、ただちの臣従を潔しとしない氏政の思惑も考えられ、両者の対決は必然だったのかもしれません。小田原城総構は、約2年をかけ、完成していました。

名胡桃城跡

運命の小田原合戦

1590年(天正18年)3月、豊臣秀吉軍総勢約22万人(本体16万、水軍2万、北陸勢3.5万)が、北条領に押し寄せました。この他に、これまでも北条と敵対していた関東勢1.8万人が攻撃してきました。迎え撃つ北条軍は、総勢約8万人と言われ、その内約5万人を小田原城に集中させました。支城ネットワーク攻略に時間をかけさせ、小田原城での長期籠城戦により、敵を消耗させ、有利な講和に持ち込むつもりだったと思われます。しかし、その大半は無理やり徴収した農民兵であり、質は劣っていました。城の改修のときから、過酷な負担を強いられていたため、当然士気も上がりません。先代のときに目指した民政の充実は、遠のいてしまっていました。3月28日に上野国松井田城、29日に伊豆国山中城・韮山城で戦いが始まりました。ところが、圧倒的な兵力差により、山中城がたった1日で落城してしまいます。その後も、有力な支城が次々に落城、開城していきました。5月末には、籠城中または未攻略の有力支城は、韮山、鉢形、津久井、八王子、忍のみとなりました。北条軍にとっては、大きな衝撃、かつ誤算でした。松井田城主で重臣の大道寺政繁や、玉縄城主・北条氏勝は、豊臣軍の道案内をし、北条方の城主に降伏するよう説得する有様でした。そのくらいの力の差があったということでしょう。

北条領国の支城ネットワーク、現地説明パネルより

豊臣軍は4月上旬には小田原城に到達し、18万の軍勢で城を包囲しました。秀吉は、5日に早雲寺に着き、ここを本陣とします。4月下旬には、新しい本陣として石垣山城の築城を始めました。しかし、このような大軍であっても、幅最大30メートル、深さ10メートル以上、勾配50度以上の総構のラインに阻まれ、城の中に打ち入ることはできませんでした。総構のラインには、柵が並び、所々に櫓が立ち、重要な出入口は2重の仕切りがあるなど厳重に警備されていました。城の中心部は、本丸には5代目当主・北条氏直がいて、先代の氏政は、北の八幡山に布陣していました。以前氏政館だったところは、「百間蔵」と呼ばれる倉庫群になり、長期籠城に備えていたようです。(戦後に、伊達政宗が小田原城の倉庫群を見聞し、その収容力に驚嘆しています。)総構の中には城下町も含まれていたので、生活・軍事物資も自己調達できることになります。また、総構の外にも、篠曲輪などの出丸があり、攻撃態勢も備えていました。一方、北条軍にとってもう一つの誤算が、豊臣軍の長期戦への備えでした。豊臣軍の多くは専門の兵士であり、大量の兵糧(秀吉が20万石と指示)を調達・輸送することで、長期滞在が可能となっていました。かつての上杉・武田軍と比べ、別次元の経済力、技術、運用ノウハウを持っていたのです。(現場レベルでは、士気の緩みや食料不足ということもあったようです。)その結果、4月、5月と城を挟んだにらみ合いが続きます。

小田原城周辺の布陣図、現地説明パネルより

5月には、東北・関東の大名たち(南部、安東、結城、佐竹、宇都宮など)が小田原に参陣してきました。6月5日には、ついに伊達政宗が到着し、9日に白装束で秀吉に謁見しました。これで、北条への援軍が来る可能性がなくなりました。この辺りから、小田原開城に向けた交渉が加速していきます。交渉の推進役は、北条氏直でした。後に、延々と結論の出ない会議のことを「小田原評定」というようになりますが、実際には水面下で動きはあったのです。支城の方は、6月14日鉢形城開城、23日八王子城落城、24日韮山城開城、25日津久井城開城となります(残りは忍城のみ)。その韮山城主・北条氏規は、豊臣方の黒田孝高(官兵衛)とともに、氏直に開城を勧めました。6月26日に、石垣山城が完成し、秀吉が移りますが、その姿が最後のダメ押しになったかもしれません。

伊達政宗肖像画、加納安信作、仙台市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
鉢形城跡
八王子城跡
石垣山城跡

7月5日、氏直は降伏を申し入れ、小田原城は開城しました。開城交渉の中で、領土の縮小維持という条件もあったと言われますが、秀吉の裁定は過酷でした。氏政など主戦派と見なされた4名は切腹、氏直は高野山へ追放(後に赦されるが病死、氏規の家系が小大名として存続)となりました。戦後の領地配分を見ると、徳川家康が北条領に転封、徳川領に尾張の織田信雄を移そうとしたが断ったため改易とし、空いたところに、当時の跡取り・豊臣秀次とその家老たちを入れています。秀吉の意図が見えるのではないでしょうか。(ちなみに、沼田領(沼田城含む)も丸々真田のものとなりました。)

小田原城近くにひっそりと佇む切腹した北条氏政と氏照の墓所

戦国大名としての北条氏は滅亡しましたが、その総構の城は、参陣した大名たちに大きなインパクトを与えました。記録に残っているものでは、駿府城に入った中村一氏が、小田原城に習い総構を築いています。秀吉自身も、小田原合戦の翌年、京都を囲む御土居の建設を始めました。しかも、その堀には「障子堀」が採用されています。本拠地の大坂城でも、1594年から総構(三の丸)の建設を行っています。

現在の駿府城公園
移築復元された大坂城三の丸の石垣

小田原合戦に参陣した大名たちの城で採用された「総構」も、小田原城の影響があると考えられています。

蒲生氏郷の若松城、総構の甲賀門跡
堀秀治の春日山城、復元された総構
前田利家の金沢城、総構跡

「小田原城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

29.松本城 その1

松本城は長野県松本市にある城で、現存する素晴らしい5層天守により有名です。城が位置する松本盆地は古代より、周辺の山々から流れてきた豊かな水が湧き出る地としても知られていて、現代の市街地でも多くの現役の井戸を目にすることができます。

立地と歴史

小笠原氏が追放され、帰還するという本懐を待ち続けた城

松本城は長野県松本市にある城で、現存する素晴らしい5層天守により有名です。城が位置する松本盆地は古代より、周辺の山々から流れてきた豊かな水が湧き出る地としても知られていて、現代の市街地でも多くの現役の井戸を目にすることができます。そのため、この地はもともと「深瀬(ふかせ)」または「深志(ふかし)」と呼ばれていました。「深く流れる水」という意味だったようです。中世の頃には、信濃国(現在の長野県)の守護であった小笠原氏がこの地を本拠地としていました。多くの戦いが起こった戦国時代には、小笠原氏の家臣、島立右近(しまだてうこん)が1504年に、主君の本拠地・林城防衛のために、深志城を築城しました。これが松本城の前身となります。ところが1550年に、武田氏により城は落城し、小笠原一派は追放されてしまいました。

松本市の範囲と城の位置

市街地にある井戸(西堀公園井戸)
こちらは名も無き井戸か

武田氏は深志城を強化し、盆地の平地部分にある城であっても、強力な防御拠点にしようとしました。まず、城を三重の水堀で囲みました。堀に囲まれた曲輪部分は、真ん中から順に、本丸、二の丸、三の丸とされました。加えて、女鳥羽川(めどばがわ)の流路が、総堀(一番外側の堀)に沿うように変えられ、城の防御力はますます高まりました。武田氏はまた、城の門を改良し、前面に馬出しを加えました。馬出しとは、小さな丸い曲輪で、狭い通路によって門とつながっていました。これは、武田氏が開発し、頻繁に使われた防御システムです。城の基本的な構造は、武田氏によって完成されたと言われています。しかしこの時点では、城は基本的には土造りでした。

江戸時代の松本城の模型、松本市立博物館にて展示、三重の堀に囲まれています
城の東側にわずかに残る総堀
わずかに残る総堀の内側にあった土塁(西総堀土塁公園)
女鳥羽川
上記模型にある馬出し、現在では全て撤去されています

小笠原氏が戻ってくる機会が1582年に突然やってきました。織田信長が武田氏を滅ぼし、またその信長も本本能寺の変で明智光秀に殺されてしまったのです。その当時徳川家康に仕えていた小笠原貞慶(おがさわらさだよし)はその翌年、33年ぶりに城に帰還したのです。貞慶はそれを祝して、城の名前を「松本」と変えました。その名前は、「本(もと)懐」を「待つ(松)」というところから付けられたと言われています。しかし、状況はまた急激に変わりました。1590年には天下人の豊臣秀吉により、貞慶は主君の家康とともに、関東地方に移封となりました。秀吉は松本城を、家康の重臣であり、秀吉の下に出奔した石川数正(いしかわかずまさ)に与えました。

小笠原氏の家紋、三階菱  (licensed by Minamoto at fr.wikipedia via Wikimedia Commons)
「長篠合戦図屏風」に描かれた石川数正  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

石川氏が天守を築き城を近代化

数正は、秀吉によって好まれた先進技術によって城の近代化を始めました。1592年に数正が亡くなってからは、子の康長(やすなが)が引き継ぎました。康長は曲輪群を石垣で囲み、本丸には5層の天守を築きました。彼はまた、主要な門の馬出しを桝形に置き替えました。桝形とは、石垣や門の建物に囲まれた、四角い防御スペースのことを言います。これらの門は、三の丸の大手門、二の丸の太鼓門、本丸の黒門のことです。城の工事は1594年に完成しました。しかし、この工事は突貫で行われたため、民衆には苦痛を与えました。地元の言い伝えによれば、太鼓門に使われる巨石を運んでいた人夫が不満を言ったところ、康長はそれを聞き、直ちにその人夫の首を刎ねたそうです。それ以来、その石は玄蕃石(げんばいし)と呼ばれるようになりました。「玄蕃」とは康長の官職名でした。

城周辺の地図

上記模型にある大手門、手前は女鳥羽川
現在の大手門跡
復元された太鼓門
太鼓門にある玄蕃石
復元された黒門

城の建物には、秀吉の特別な許可により、金箔を貼った屋根瓦が使われました。この許可は、秀吉の親族か、信頼のある重臣にのみに与えられました。その重臣たちの城にも金箔瓦が使われていて、小諸城上田城甲府城沼田城駿府城など家康がいた関東地方周辺に配置されました。松本城を含むこれらの城は、家康包囲網を形成し、家康を監視し、且つ脅威を与えていました。康長は、秀吉の死後に家康が天下を取ったときも、家康に味方することで何とか生き残りました(金箔瓦は当然廃棄されました)。ところが、1613年に彼はついに家康によって改易されました。その理由ははっきりしないのですが、可能性として、家康は石川氏が彼の下を去ったことに報復したという面もあったでしょう。

家康包囲網の城

小諸城跡
上田城跡
甲府城跡
沼田城跡
駿府城跡

月見櫓建設により天守が完成

その後、小笠原氏が再度松本城に復帰するのですが、1617年にはまた明石城に転封となりました。城とその周辺地域は松本藩となりますが、江戸時代の間、いくつもの親藩や譜代大名によって引き継がれました。その間、城に関する重要な出来事がいくつかありました。その一つが松平直政(まつだいらなおまさ)が城を治めたときに起こりました。彼は、将軍の徳川家光が松本城に立ち寄るという計画を聞き(その後取りやめとなりますが)、1634年に新しく月見櫓を天守に付け加えました。それまでは天守は全く戦を想定して作られていました。しかし、月見櫓は完全に娯楽のために築かれたものです。これによって天守は、違った趣の建物が融合した、現在の姿になりました。

松平直政肖像画、月照寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
月見櫓(外観)
月見櫓(内部)
月見櫓(右側)を従えた松本城天守

二番目の出来事は、1727年の松本大火のときです。大火により、天守となりの本丸御殿は焼けてしまいましたが、天守そのものは幸運にも無事でした。人々は、中に祀られていた二十六夜神(にじゅうろくやしん)が天守を救ったのだと考えました。また城下町は、南北を貫く善光寺街道と東西を走る野麦街道が交差する場所として、大いに繁栄しました。城下町には多くの番所があり、もし敵が攻めてきたときには容易に城に近づけないようになっていました。

本丸御殿跡
現在も天守に祀られている二十六夜神
上記模型の松本城城下町
上記模型の番所部分

「松本城その2」に続きます。

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