39.岐阜城 その2

山上と山麓、両方の城跡に注目です。

特徴

城周辺の地図

山上の城跡へ

現在、金華山周辺の地区は岐阜県で最も人気のある観光地の一つとなっています。金華山ロープウェイを使えば簡単に山の頂上に行くことができます。もし登って行かれたいのであれば、通常はかつて城への大手道であった七曲り登山道を登っていきます。この登山道は比較的なだらかな坂になっていて、麓から約300m登って、頂上に着くには約1時間ほどかかります。

市街地から見える天守
七曲り登山道の入口
七曲り登山道
山頂へ向かう

頂上もまた、まさに観光地化していて、ロープウェイの発着場、レストラン、動物園、そして模擬天守があります。頂上周辺の道は、現代的な舗装がされています。それでも、どこでもチャートによるごつごつした岩の面が見られます。城跡としては一ノ門跡があり、門にあった巨石が転がっています。防衛のために加工された「堀切」を見たあとは、二ノ門跡が現れます。ここの白壁は近年再建されたものですが、一部の石垣はもとからあったものです。そして、二ノ門から天守に向かう道の下にある二段の石垣は必見です。この石垣の作り方はとても古く、よって、信長により築かれたと考えられています。

頂上に到着
一ノ門跡
転がっている巨石
堀切
二ノ門跡
天守への道下にある石垣
二段積みになっています。

素晴らしい天守からの眺め

模擬天守は、加納城の三階櫓の絵図に基づいて1956年に建てられました。その櫓は江戸時代に焼けてしまったのですが、元は岐阜城から移築されたという言い伝えがありました。天守の内部は博物館として使われていて、城の歴史と信長についての展示があります。また、最上階は展望台になっていて、長良川を含むこの地域一帯のすばらしい景色を眺めることができます。天守を支える石垣はとても古いものに見えます。実際は、石自体はもとからあったのですが、この天守を作るときに積み直されたのです。

模擬天守
天守からの眺め(長良川)
天守からの眺め(山側)
天守の石垣

山から下るときは、例えば裏門からなど、別の登山道を使うこともできます。裏門もかつては巨石を使っていて、道すがら残っている一部の石が見られます。しばらく下っていくと、「烏帽子岩」と呼ばれる巨大な聖なる岩も見学できます。伊奈波神社はもともとこの岩の周辺にありました。

裏門跡
残っている巨石の一部
随所にみられるチャート
烏帽子岩

信長の居館跡

山麓に着いたら、是非信長の居館跡に行ってみてください。実はそこが城の中心地だったかもしれないからです。入口では、互い違いに並べられた巨石跡を見ることができ、かつては高さが1.7mありました。階段状になっている石垣の辺りの階段を上がっていくと、広い空き地があり、そこには母屋が建っていました。その後ろ側には茶室や展望のための建物が、巨石を使った人口の池泉庭園とともにありました。池を使ったもう一つの庭園がとなりにあり、人工の川が滝から流れ出て、庭園の間を流れていました。更にこれらの庭園と母屋とは、空中回廊を通じてつながっていました。信長は、彼の居館を公的行事や重要な客のもてなしのために使っていたようです。

居館跡入口
母屋跡への階段
母屋跡
庭園跡
庭園周辺の想像図(岐阜城天守閣)
居館跡
居館想像図(現地説明板より)

「岐阜城その3」に続きます。
「岐阜城その1」に戻ります。

126.石垣山城~Ishigakiyama Castle

「一夜城」は一日にしてならず。
”The castle built in one night” was not built in a day.

石垣山城の入り口の一つ~One of the entrances of Ishigakiyama Castle

立地と歴史~Location and History

石垣山城には「一夜城」という異名があります。文字通り一夜でできた城という意味です。これは1590年に豊臣秀吉と北条氏の間で起こった小田原城包囲戦に由来します。
Ishigakiyama Castle is nicknamed as “Ichiya-jo” which means a castle built in one night. It comes from an event in Siege of Odawara Castle between Hideyoshi Toyotomi and the Hojo clan in 1590.

小田原城~Odawara Castle

小田原にいる北条の西方にある笠懸山の上にこの城が完成したとき、秀吉は配下の者に、一夜のうちに城の周りの木々を全て伐採するよう命じました。翌朝、北条は城が突然現れたと思い、驚愕しました。この話により一夜城と呼ばれるようになったというわけです。しかし、この話は後になって江戸時代の軍記物により広められたものなのです。今でも北条がいた小田原市域からは、この城跡で何か起こればはっきり見ることができます。
When this castle was completed on a mountain called Kasagakeyama, located in the west of Hojo in Odawara, Hideyoshi ordered his men to cut down all the trees around the castle in one night. Hojo was very surprised to see the castle suddenly appear the next morning. The story calls it Ichiya-jo. However, it was spread later by war chronicles in the Edo Period. Even now you can clearly see how it goes in the castle ruins area from Odawara city area where Hojo was.

城周辺の地図~The map of around the castle

小田原城址から見た石垣山城~Ishigakiyama Castle from Odawara Castle Ruins

この城にはこのような不可思議な話もありますが、訪れる価値は十分にあります。それは、東日本では初めてとなる総石垣造りの城だからです。それまでは、主に土を使った基礎による城が普通でした。秀吉は最初1590年4月6日から包囲戦のため寺院に滞在しました。そして、すぐに築城を開始し、穴太衆と呼ばれる石垣積みの専門集団も連れてきました。彼は6月26日に本陣として城に移ったので、3ヶ月弱で完成したことになります。当時の正規の城を作る期間としては驚異的でした。
Though the castle has such an unclear story, it is still worth the visit, because it is the first castle made up entirely of stone walls in eastern Japan. Until then, it was common to build castle foundation mainly from soil in the area. Hideyoshi first stayed at a temple for the siege from April 6 in 1590, then started to build the castle right away, bringing the specialists of piling stone walls called Anoushu. He moved to the castle as his stronghold on June 26. That means the castle was built in less than three months. It can be seen as a surprisingly short term to build a formal castle at that time.

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵~The Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, owned by Kodaiji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

歴史家の多くは、この城は秀吉の権威を北条や味方に対して見せつけるものだったと言います。一方、この城はもっと長期の包囲戦に備えたものだったと指摘する人もいます。事実としては、北条は7月5日に降伏してしまいますが、それまではわかりませんでした。古文書には、秀吉側の兵隊は厭戦気味で、兵糧も尽きてきていたとあります。また、包囲戦の後も、工事がまだ続いていたこともわかっています。北条の後に入った徳川氏はしばらく城を使い続けていたようです。包囲戦よりも新しい日付のある天守瓦が発掘されています。その後はいつしか廃城となったようです。
Many historians and writers say the castle demonstrated Hideyoshi’s authority to Hojo and his supporters. Some point out that the castle would be for a longer term siege. The fact was that Hojo surrendered on July 5, but it was uncertain before then. Old documents say Hideyoshi’s soldiers got bored and supplies were getting less. There is another evidence that the construction was going on after the siege. The Tokugawa clan, following Hojo, seemed to use the castle for a while. Roof tiles for the Tenshu keep with newer dates than the siege were found by excavation. After that it seemed to be abandoned for sometime.

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

特徴~Features

今でも、この城跡にこんなにも巨石があるのに驚かれるかもしれません。その当時の人たちにとっては尚更だったでしょう。観光客の人たちは大体駐車場から、南曲輪を通り過ぎて二の丸に登っていきます。道すがら半分崩れた石垣が目に入ってきます。粗野ながら威風堂々としています。
Even now, you may be surprised to see there are the castle ruins with such large stones, to say nothing of the people at that time. Visitors usually go up from the parking area to the Ninomaru enclosure through the South enclosure. You can see a lot of half collapsing stone walls alongside. They look rough but regal.

南曲輪の石垣~The stone walls of South enclosure
崩れかけた石垣~The half collapsing stone walls
二の丸~Ninomaru enclosure

井戸があったことに由来する井戸曲輪は是非見ていただきたいです。井戸の円錐の形に沿って自然石を全面的に積み上げてあります。その様はとても美しく、穴太衆の高度な技術が見て取れます。
Don’t miss to see Ido enclosure which was used for the well. It is totally covered with piled natural stones along the corn shape of the well. It is very beautiful and shows the high level technique of Anoushu.

井戸曲輪~Ido enclosure(licensed by Tak1701d via Wikimedia Commons)

二の丸の方に戻れば、本丸の北門跡の方に入っていけます。本丸には秀吉の御殿があり、その周辺では茶会が開かれていたそうです。ここからは、小田原城を含む小田原市域一帯を見渡せます。秀吉の本陣として相応しい場所でした。
You can enter the North Gate Ruins of the Honmaru enclosure if you turn back to Ninomaru. There was Hideyoshi’s palace where he is said to hold a tea ceremony around. You can see the whole view of Odawara City including Odawara Castle. It served as Hideyoshi’s stronghold.

北門跡から見た本丸石垣~The stone walls of Honmaru enclosure from North Gate Ruins
本丸~Honmaru enclosure
本丸からの眺め~A view from Honmaru

天守跡は本丸のとなりにありますが、現在はあまりそのように見えません。その石垣は、関東大震災のときに崩れてしまったようです。最後は大手門跡を通って、東口にたどり着きます。
The Tenshu ruins are next to Honmaru, but they don’t look so now. Their stone walls seemed to collapse due to Great Kanto Earthquakes. Lastly you can go down through the Main Gate Ruins and reach the East Entrance.

天守跡~The Tenshu ruins
大手門跡~The Main Gate Ruins
大手門跡から見た南曲輪~South enclosure from Main Gate Ruins

その後~Later Life

江戸時代の18世紀初期、小田原藩の有浦氏が城跡を調査し、遺跡の図面を残しました。この図面によれば、石垣はまだ良好に残っていました。しかし、残念ながら1923年の関東大震災で多くが破壊されました。城跡は1959年に国の史跡に指定されました。
In the first 18th century in the Edo Period, the Ariura clan of the Odawara Domain investigated the castle ruins and left the drawings of the ruins. According to the drawings, the stone walls still kept well. But unfortunately Great Kanto Earthquakes in 1923 broke many of them. They were designated as a National Historic Site in 1959.

本丸の石垣~The stone walls of Honmaru enclosure

私の感想~My Impression

私が思うに、この城の素晴らしいことの一つは、その「石垣山」という名前です。単に石垣の城という意味ですが、その当時の人たちがどんなに驚いたかがわかります。この城は相当な衝撃を与えたのでしょう。それで山の名前が笠懸山から石垣山に変わったのです。この新しい名前は遅くとも江戸中期には一般に広まりました。恐らく一夜城伝説と組み合わされて定着したのでしょう。
I think one of the greatest things of the castle is its name “Ishigakiyama”. It just means a stone walls castle. It shows how surprisingly people at that time felt. The castle must have had a big impact on them. That’s why the name of the mountain was changed from Kasagakeyama to Ishigakiyama. The new name spread to the public at the latest in the mid Edo Period. It was probably combined with the Ichiya-jo story, and have fixed.

本丸からの眺めをもう一枚~Another view from Honmaru

ここに行くには~How to get There

石垣山城跡に行くには車が便利です。西湘バイパスの小田原ICか小田原厚木道路西小田原ICから数キロの範囲です。電車を使う場合は、JR早川駅から歩いて約40~50分かかります。急坂を登っていく必要がありますが、それも面白いかもしれません。
東京から早川駅まで:東海道新幹線に乗って小田原まで行き、東海道線に乗り換えてください。
It is useful to access Ishigakiyama Castle Ruins by car. It is several kilometers from the Odawara IC on Seishou Bypass or the Odawara-Nishi IC on Odawara-Atsugi Road. When using train, it takes about 40~50 minutes on foot from JR Hayakawa Station. It needs to climb up a steep slope, but it may be interesting.
From Tokyo to Hayakawa Station: Take the Tokaido Shinkansen super express to Odawara, then transfer to Tokaido local line.

早川駅からの坂道~The slope from Hayakawa Station
坂道から見た小田原城~Odawara Castle from the slope

リンク、参考情報~Links and References

石垣山一夜城、小田原市オフィシャルサイト~Odawara City Official Website
石垣山一夜城、小田原城街歩きガイド(Only Japanese)
・「関東の名城を歩く 南関東編/峰岸純夫、齋藤慎一編」吉川弘文館(Japanese Book)
・「よみがえる日本の城2」学研(Japanese Book)

51.安土城~Azuchi Castle

この城が、典型的な日本の城スタイルの始祖なのです。
This castle is the origin of typical Japanese castles.

安土城の大手道~The Main Street of Azuchi Castle

立地と歴史~Location and History

高くそびえる天守、高石垣の上には多くの櫓と漆喰の壁、大きな門構え、そして周りには水堀をたたえる・・・これらが我々の持つ日本の城の直感的なイメージですが、これらは安土城から始まっているのです。それぞれのパーツは以前の城にもありましたが、有力な戦国大名、織田信長がそれらを統合し、彼の城として表現したのでした。そして日本の城の歴史に決定的なインパクトを与えました。
A tall standing Tenshu keep, many turrets and plaster walls on high stone walls, large entrance gates, and water moats around… These are our intuitive images of Japanese castles come from Azuchi Castle. Though each part can be found in castles earlier than that, the great warlord Nobunaga Oda integrated and expressed them as his castle. It has definitely had a huge impact on the history of Japanese castles.

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半~The portrait of Nobunaga Oda, attributed to Soshu Kano, owned by Chokoji Temple, in the late 16th century(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

信長は、日本の統一事業を進めていく中で、自らの本拠地を尾張国(現愛知県)から西の方へ最初は岐阜(現岐阜県)、そして安土(現滋賀県)に移していきました。
As Nobunaga increased his work of unifying Japan, he moved his home base from Owari Province (now Aichi Pref.) to the west, at first Gifu (now Gifu Pref.), and Azuchi (now Shiga Pref.).

信長の根拠地移動ルート~Nobunaga’s route for his home base

この地は中山道に沿って、琵琶湖に面しており水上交通に便利でした。安土は大体京都と岐阜の中間点に当たり、信長は緊急時には両方に駆け付けられました。
The site was along the Nakasendo Road and faced Biwa Lake which was useful for water transportation. Azuchi is around the middle point of Kyoto and Gifu, so Nobunaga could rush to both cities in emergency.

城周辺の航空写真~The aerial photo around the castle

江州安土古城図、国立国会図書館蔵、城の周りは湖と堀です~The map of old Azuchi Castle in Omi Province, owned by National Diet Library, Around the castle is the lake and the moat(licensed under Public Domain via Wikimedeia Commons)

信長は1576年に、部下に対して高さ198mの安土山に城を築くよう命じました。彼は1579年5月から天主に住み始めました。実は、信長は普段から天主に住んでいた最初で最後の人物だと言われています。そこは彼にとって崇高で且つ権威そのものを表す場所だったようで、天主の中には滅多に他人を入れませんでした。信長はまた城下町を作り、人々に自由に商売と往来をさせ、これは「楽市楽座」と言われました。人々は大歓迎でこれを受け入れました。この当時はそれぞれの戦国大名がそれぞれの場所で高い税金をかけていたからです。
Nobunaga ordered his men to construct the castle on Mt. Azuchiyama which is 198m height, in 1576. He started to live in the Tenshu keep on May 1579. In fact, he is said to be the first and last person who usually lived in the Tenshu. It seemed to be spiritual and an authorization for him, so he rarely invited others to the inside of Tenshu. He also created the castle town below the castle and made people free to do business and transportation called “Rakuichi-Rakuza”. People welcomed it because each warlord charged high taxes on both of them in each place at that time.

安土山~Mt. Azuchiyama
三重県伊勢市にある安土城の模擬天主~The imitation of Azuchi Castle Tenshu in Ise City, Mie Pref.(licensed by D-one via Wikimedia Commons)

ところが、この城は短命に終わりました。1582年、完成からわずか3年後、信長が京都で本能寺で殺されたとき、原因不明の火事で天主が焼け落ちます。その後、織田の一族がしばらくこの城を使いましたが、1585年に近くに八幡山城が新しくできたことで廃城となりました。
However, the castle had a short life. In 1582, just after three years from the completion, An unidentified fire burned the Tenshu when Nobunaga was killed at Honnoji Temple in Kyoto. After that, Oda’s relatives used the castle for a while, it was abandoned in 1585, as Hachimanyama Castle was newly built nearby.

安土城図、大阪城天守閣蔵~The illustration of Azuchi Castle, owned by Osaka Castle Museum(licensed under Public Domain via Wikimedeia Commons)

特徴~Features

現在、城跡は国の特別史跡に指定されています。この場所は総見寺が所有しています。入り口から広くまっすぐな「大手道」が山の上の方に伸びています。ここは最近発掘され復元されました。また、このような道の作り方は明らかに防御には不利なので、他の山城とは随分異なっています。
Now, the ruins of the castle are designated as a National Special Historic Site. The site belongs to Sokenji Temple. From the entrance, the wide and straight Main Street “Ote-Michi” leads up to the mountain. It was excavated and restored recently. It is also different from other mountain castles, because such a road is clearly a disadvantage for defenders.

城跡の入り口、かつてはこの周辺に水堀がありました~The entrance of the castle ruins, there were water moats around in the past
大手道~The Main Street

歴史家の中には、信長はこの道を彼の都の大通りとしていたと推測する人もいますし、単にこの城の権威を示すものだという人もいます。いずれにしろ、天主はこの道から見えたはずですし、周りを信長の家臣の屋敷が取り囲んでいました。
Some historians speculate Nobunaga regarded it as the central street of his capital. Others argue it just showed the authority of the castle. Anyway, the Tenshu should have been seen from the street, with the halls of Nobunaga’s retainers along it.

安土城大手道周辺の想像図~The imaginary drawing of around the Main Street at Azuchi Castle(岐阜城展示室)

道は、山の中腹から曲がりくねり、「七曲り」と呼ばれます。そして城の主要部に向かっていきます。
The street gets zigzagged, called “Nana-Magari”, from the midslope of the mountain towards the main part of the castle.

道の七曲り部分~The zigzaged part of the street

主要部は黒金門から始まりますが、この門は巨石を使い、権威を見せつけています。
The main part starts from “Kurogane” Gate ruins which was made using huge stones for showing authority.

黒金門跡、The ruins of Kurogane Gate

次に来るのは二の丸跡で、信長の廟所があります。ここは元々一族の御殿があったかもしれない所です。
Next comes Ninomaru ruins where Nobunaga’s mausoleum remains, where his inner palace might have originally been.

二の丸にある信長の廟所~The mausoleum of Nobunaga Oda at Ninomaru

本丸は城の中心です。当時は多くの建物がひしめいていました。その一つは特に天皇のための宮殿だったと言われています。貴族の日記に天皇がこの城に行幸する予定があったと書いてあります。信長は天皇をそこに住まわせ、天主から見下ろし、自身の影響下におきたかったとも、そうではなくただの訪問だとも言われています。
Honmaru is the center of the castle. Many buildings were packed at that time. One of them is particularly said to be the palace for the Emperor. A noble’s diary says there was a plan of the Emperor’s visit to the castle. Some speculate Nobunaga tried to make the Emperor live in the palace and be under control ,looking down from Tenshu. Others say it was just a visit.

本丸跡~The ruins of Honmaru

天主は本丸のとなりに立っていました。天主台とその内側に礎石が残っています。
Tenshu stood next to Honmaru. The base remains where you can see cornerstones inside.

天主台の石垣~The stone walls of the Tenshu base
天主台内の礎石~The cornerstones inside the Tenshu base
天主台からの眺め、かつては琵琶湖が見えたはずです~A view from the base, it should be Biwa Lake in the past

帰りの道は「諸々橋」口と呼ばれていて、信長が設立した総見寺の元の敷地を通り過ぎます。この寺は江戸時代に火災に遭いましたが、三重塔などいつくか建物が残っています。ポルトガルからの宣教師ルイス・フロイスは、信長はこの寺を自身を崇拝させるために建立したと言いました。これもまた謎めいています。
On the return route called “Dodobashi” Route, you will pass the ruins of original Sokenji Temple that Nobunaga founded. The temple suffered a fire in the Edo Period, but several buildings like the three-story pagoda still remain. A missionary from Portugal, Luis Frois said Nobunaga created it to celebrate himself. That is also controversal.

現存している総見寺三重塔~The remaining three-story pagoda of Sokenji Temple(licensed by Haruno Akiha via Wikimedia Commons)

安土城郭資料館では、安土城天主の20分の1スケールの模型を見ることができます。これは古文書、図面、発掘の成果から製作されました。この模型では、天主は5層の外観で、地階を含めて7階建てです。それぞれの階は違う形と色をしています。5階は赤色の八角形で内側は仏画が描かれ、最上階の6階は金色の四角形で古代中国の聖人が描かれています。
You can see the one-twentieth scale model of Azuchi Castle’s Tenshu keep at Azuchi Castle Museum. It was created based on old documents, drawings and excavation. According to this model, it had a five-layer appearance, and seven floors including the basement. Each floor had a different shape and color. The 5th floor was octagonal of red with Buddhist wall paintings inside, and the top 6th floor was square of gold with paintings of ancient legendary Chinese saints.

安土城天主のミニチュアモデル~The miniature model for Tenshu of Azuchi Castle(安土城郭資料館~Azuchi Castle Museum)

この両方の階の実寸大のレプリカが、信長の館で展示されています。
Both floors have been restored as the full scale replica at the House of Nobunaga.

信長の館にある天主5・6階のレプリカ~The replica of the 5th and 6th floors of Tenshu at the House of Nobunaga(taken by あけび from photoAC)

天主の地階から3階までは吹き抜けになっていて、地面には仏塔が設置してあったようです。これらは、信長の天主がとても象徴的かつ宗教的な存在であったことを示しています。
There was the stairwell inside Tenshu through BF to 3F, where the pagoda seemed to be set on the ground. These suggestions show Nobunaga’s Tenshu was very symbolic and religious.

ミニチュアモデルの吹き抜け部分~The stairwell part of the miniature model
ミニチュアモデル内の仏塔~The pagoda in the miniature model

その後~Later Life

城跡の領域は、江戸時代の間ずっと総見寺に所有されていました。火事があった後、寺の建物は現在の大手道周辺に再建されました。そして寺の石垣がこの道を覆って築かれました。時が過ぎるにつれ、人々はその石垣が安土城のものと思うようになります。1989年に安土城の調査整備事業が開始され、20年間続きました。その中で、寺の石垣の下にこのような広く長い通り道が発見され人々を驚かせたのです。総見寺は寺の石垣を撤去し、元の通りを復元することに協力しました。
The domain of the castle ruins was owned by Sokenji Temple all through the Edo Period. After the fire, the temple buildings were rebuilt around what is now Ote-michi street. They made their own stone walls across the street. As time has passed by, people got used to thinking the stone walls might come from Azuchi Castle. The investigation and development project for Azuchi Castle Ruins started in 1989. It lasted for 20 years. People were surprised to see that such a wide, long street was discovered under the stone walls. The temple cooperated to remove their stone walls and restore the original street.

発見された大手道~The discovered Main Street

安土城考古博物館では、この事業の成果を見ることができます。
Azuchi Castle Archaeological Museum shows the achievement of the project.

安土城考古博物館~Azuchi Castle Archaeological Museum(licensed by 663highland via Wikimedia Commons)

私の感想~My Impression

安土城は、私の最も好きな日本の城の一つです。この城は信長の考え方を直接表していると思うからです。信長はときに過酷と言われますが、彼は当時の常識に対して自らの信念を貫いたと思うのです。しかし、彼の思想は歴史家の議論を経てもなお謎のままです。ですので、ここに来て、何かを感じ、自分で考えてみることが大事です。
Azuchi Castle is one of my most favorite castles in Japan, because the castle must directly show Nobunaga’s way of thinking. While Nobunaga is sometimes said to be cruel, I think he kept his faith against the common sense of that time. However, his basic idea is still mysterious after historians’ discussions. So it is important to come there , feel something, and think by yourself.

天主ミニチュアモデルの上部~The top of the Tenshu miniature model(安土城郭資料館~Azuchi Castle Museum)

ここに行くには~How to get There

車で行く場合は、名神自動車道の八日市ICか竜王ICから約30分かかります。先程ご紹介した城跡と博物館に駐車場があります。
電車の場合は、レンタル自転車を使うことをお勧めします。城跡と博物館が点在しているからです。JR安土駅の前に2件のレンタル店があります。そこに荷物を預けることもできます。
東京から安土駅まで:東海道新幹線で米原駅まで行き、JR琵琶湖線に乗り換えてください。
大阪から安土駅まで:大阪か新大阪駅からJR京都線に乗ってください。
If you want to go there by car, it takes about 30 minutes from the Yokaichi IC or the Ryuo IC on Meishin Expressway. The ruins and the museums mentioned above offer a parking lot.
When using train, I recommend you to use a rental bicycle, because the ruins and the museums are spread out. There are two rental bicycle shops in front of JR Azuchi Station. You can also leave your baggage there.
From Tokyo to Azuchi st.:
Take the Tokaido Shinkansen superexpress to Maibara station, and transfer for JR Biwako line.
From Osaka to Azuchi st.:
Take the train on JR Kyoto line from Osaka or Shin-Osaka station.

リンク、参考情報~Links and References

安土城跡(滋賀県観光情報)Azuchi Castle Ruins
織田信長の安土城と総見寺(Only Japanese)
あづち周遊(Only Japanese)
・「信長の城/千田嘉博著」岩波新書(Japanese Book)
・「安土 信長の城と城下町/滋賀県教育委員会」(Japanese Book)
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫(Japanese Book)