148.浜松城 その1

徳川家康の出世城

立地と歴史

徳川家康の独立後の本拠地

浜松城は遠江国の中心地にあった城で、現在の静岡県西部にある浜松市に当たります。この城は、後に徳川幕府の創始者となる徳川家康が若かりし頃住んでいた場所として知られています。このことが、この城が「出世城」とも呼ばれている理由の一つとなります。浜松城の前身は、引間(ひくま)城と呼ばれており、天竜川の支流の近くにあった丘の上に築かれました。15世紀頃に築かれたようですが、誰が築いたかはわかっていません。戦国時代の16世紀前半には、駿河国(現在の静岡県中部)を本拠地としていた有力戦国大名、今川氏がこの城を勢力下に収めていました。

遠江国の範囲と浜松城の位置

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康はもともと、遠江国の西の三河国を本拠地としていて、今川氏の配下となっていました。今川氏の力が衰えると、家康は独立を果たし、遠江国に侵攻しようとしました。1568年、家康は引間城及び遠江国を手に入れることに成功しました。しかし、家康はこの城に満足しませんでした。彼は、遠江国のとなりの駿河国に侵攻した武田氏との来たるべき戦いに備える必要があったのです。家康はこの城を西方にあった丘の方にまで拡張し、浜松城という名前に改めました。浜松城の拡張した方の丘にはいくつもの曲輪があり、古い引間城は新しい城の一部となりました。これらの曲輪は土造りで、そこにあった建物は板葺きであったと考えられています。その当時の家康は、家康の同盟者の織田信長が築いた安土城のような城を築く先進的な技術やそのための職人集団を持っていなかったからです。

城周辺の起伏地図

家康時代の浜松城の想像図、現地説明板より
安土城の想像図(岐阜城展示室)

三方ヶ原の戦いの舞台

家康が浜松城に住んでいた時の最もインパクトがあった出来事は、何といっても1573年に起こった三方ヶ原の戦いでしょう。有力な戦国大名、武田信玄が家康や信長の領地に侵入し、二俣城などの家康の支城をいくつも奪取したのです。信玄は、浜松城の周りで示威行動を行い、家康を城から三方ヶ原におびき寄せました。家康は信玄の罠に引っ掛かり、完膚なきまでの敗戦を喫したのです。彼は、命からがら城に逃げ込みました。信玄の軍勢はやがて翌年の信玄の病死により引き上げていき、家康は事なきを得たのでした。この敗戦の後に家康のとった行動がいくつか伝えられています。一つは、信玄の軍勢が家康を追ってきたとき、家康は浜松城の門を開けたままにさせました。信玄の軍勢はこれを罠ではないかと怪しみ、引き上げていったというものです(いわゆる「空城の計」)。もう一つは、犀ヶ崖(さいががけ)と呼ばれる深い谷に布製の橋を渡し、信玄の軍勢に反撃を加えて、(本物の橋と誤認させることで)谷の底に突き落としたというものです。しかし、これらの話が本当のことだったかどうかはわかりません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵、16世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
敗走する家康軍のジオラマ(犀ヶ崖資料館)
犀ヶ崖古戦場

堀尾吉晴が城を改良

1590年に天下人の豊臣秀吉により家康が(現在の東京にある)江戸城に移されたため、秀吉配下の堀尾吉晴が浜松城を治めることになりました。吉晴は、丘上の天守曲輪に石垣と天守を築き、城を進化させました。現存している石垣と、天守台石垣は吉晴によって築かれたものです。しかし、天守がどのような姿をしていたかは全く不明です。それに関する記録がないからです。天守の屋根瓦と井戸が発掘されているのみです。歴史家は、1600年に堀尾氏が浜松から移された後に築いた松江城の現存天守のような姿をしていたのではないかと推測しています。双方の天守台石垣が似通っており、堀尾氏が松江城を築く際、浜松城の設計を参考にしたとも考えられるからです。

堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉晴時代の浜松城の想像図、現地説明板より
松江城

譜代大名の出世コース

家康は17世紀の初めに天下を掌握し、徳川幕府を創設しました。それ以来、浜松城は江戸時代を通じて9つの譜代大名家により受け継がれました。この城の城主は、度々老中などの幕府の要職の地位につきました。この城が「出世城」と呼ばれているもう一つの理由です。例えば、19世紀初頭に唐津城主であった水野忠邦は、浜松城主になることを志願しました。その結果、彼は浜松城主になるとともに、老中首座として天保の改革を主導しました。城自体に関して言えば、天守はやがて失われ、丘上には天守門だけが城のシンボルとして残りました。城の中心部は丘の傍らにある二の丸に移りました。そこには城主のための御殿があり、そこから城がある地の浜松藩を統治しました。

水野忠邦肖像画、東京都立大学図書情報センター蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
唐津城
江戸時代の浜松城の想像図、現地説明板より

「浜松城その2」に続きます。

21.江戸城その4~Edo Castle Part4

この城は、東京の輪郭を生み出しました。
This castle created the outline of Tokyo.

外郭の概要~Overview of Gaikaku

江戸城の外郭は、外堀に囲まれた区域であり、その外周は約16kmあり、市街地をも含んでいました。見附と呼ばれる大型の門と橋が、約50セット堀と主要街道の交差点に置かれていて、民衆と交通を監視していました。これらの施設は明治維新後にほとんど撤去されてしまいます。そのためほとんどの人たちは東京に城があったことなど気付きません。それでは、東京にある外郭の痕跡を巡ってみましょう。
The outline of Edo Castle called Gaikaku was the surrounding area from the outer moat whose perimeter was about 16 km, including even the city area. About 50 sets of large gates and bridges called Mitsuke were placed at the intersections of the moat and major roads to check people and transportation. These facilities were mostly demolished after the Meiji Restoration. So most people don’t realize there was a castle in Tokyo. Then, let me introduce the traces of Gaikaku in Tokyo.

江戸城の外郭ライン、ラインの色は以下のセクション毎に分かれています~The line of Edo Castle’s Gaikaku, the color of the line is linked to each section below

隅田川エリア~Sumida-gawa River Area

江戸時代の初め、隅田川は外堀の一部として認識されていました。そのため幕府は、日光街道上の千住大橋を除いて、この川に橋を架けることを禁じていました。1657年の明暦大火の後は、江戸の安全確保と都市化のため、他の橋も架けられるようになりました。
At the beginning of the Edo Period, Sumida-gawa River was regarded as part of the outer moats. Because of it, the Shogunate banned bridges from being built on the river excluding Senju-Ohashi Bridge on Nikko Road. After the great fire of Meireki in 1657, more bridges were built on the river for the increase of safety and urbanization of Edo City.

隅田川に架かる永代橋~Eitai-bashi Bridge over Smida-gawa River

隅田川エリアのライン~The line of Sumida-gawa River Area

永代橋~Eitai-bashi Bridge:

隅田川に架けられた4番目の橋です。現在の橋は、1923年の関東大震災の火災により失われた後、1926年に再建されたものです。すでにそれから100年近く経過しており、重要文化財に指定されています。
It is the forth bridge on Sumida-gawa River. The present bridge was rebuilt in 1926, after it was destroyed by the fire in the Great Kanto earthquake in 1923. It is nearly 100 years old, and has become an Important Cultural Property.

現在の永代橋~The present Eitai-bashi Bridge
歌川広重「東都名所」より「永代橋佃沖漁舟」、江戸時代~”Eitai-bashi Bridge and fishing boats off Tsukuda Island” from the series “Famous Places in the Eastern Capital” attributed to Hiroshige Utagawa in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimeidia Commons)

新大橋~Shin-Ohashi Bridge:

こちらは3番目に架けられた橋です。先代の橋は関東大震災を生き延びました。現在の橋は1977年に架け替えられたものです。江戸時代のこの橋は、歌川広重の有名な浮世絵に描かれたことで知られています。
It is the third bridge on the river. The former bridge survived the Great Kanto earthquake. The present one replaced it in 1977. The bridge in the Edo Period is known for being drawn in a famous Ukiyoe Painting by Hiroshige Utagawa.

現在の新大橋~The present Shin-Ohashi Bridge
歌川広重「名所江戸百景」より「大橋あたけの夕立」、江戸時代~”Sudden shower over Shin-Ohashi Bridge and Atake” from the series “100 Famous Views of Edo” attributed to Hiroshige Utagawa in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimeidia Commons)

両国橋~Ryogoku-bashi Bridge:

2番目に架けられた橋です。この橋の周りは歓楽街になりました。江戸時代から夏にはこの辺で花火の催しが開かれています。近くにはまた外堀の一部である神田川の河口があります。
The second bridge on the river. The area around the bridge became a place of amusement. Fireworks displays have been also held around in the summer since the Edo Period. There is the estuary of Kanda-gawa River nearby which is another part of the outer moats.

現在の両国橋~The present Ryogoku-bashi Bridge
葛飾北斎「富嶽三十六景」より「御厩川岸より両国橋夕陽見」、江戸時代~”Sunset across Ryogoku Bridge from the Bank of Sumida River at Onmayagashi” from the series “Thirty-six Views of Mount Fuji” attributed to Hokusai Katsushika in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

神田川エリア~Kanda-gawa River Area

「神田川」という名前は明らかに川です。ところが、この川は完全に人口物で、堀や運河として使われました。江戸時代初期に、幕府の下で伊達氏が本郷台地を掘り進んで造りだしたのです。幕府は川に沿って必要な施設を設置していました。掘削で出た残土は、下町周辺の埋め立てに使われました。
The name “Kanda-gawa” clearly shows a river (“gawa” means river.). However, the river is completely artificial, and was used as a moat and canal. In the first Edo Period, the Date clan under the Shogunate created it to cut across Hongo plateau. The Shogunate set facilities they needed along the river. The waste soil from the digging was used to reclaim the sea around downtown.

神田川~Kanda-gawa River

神田川エリアのライン~The line of Kanda-gawa River Area

浅草橋門跡~Asakusa-bashi Gate Ruins:

この門は川と浅草を通る日光街道の交差点に築かれました。しかし明治維新後間もなく撤去されました。そのため、何らかの記念碑でもなければ、そこに何があったかはわかりません。
This gate was built at the intersection of the river and Nikko Road passing Asakusa. But it was removed soon after the Meiji Restoration, so we can’t see what was seen in the past without some kind of monument.

現在の浅草橋~The present Asakusa-bashi Bridge
記念碑のみがあります~There is just a monument
浅草橋門の古写真~The old photo of Asakusa-bashi Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

仙台堀~The Sendai Moat:

「仙台」という名前は伊達氏が仙台を拠点としていたことに由来します。JR御茶ノ水駅近くの橋からは深くえぐられた川の一部を見ることができます。JR中央線はその谷に沿って走っています。
The name “Sendai” derived of the Date clan from Sendai. You can see the part of the river being cut deeply from the bridge near JR Ocha-no-Mizu Station. JR Chuo line goes along the valley.

現在の仙台堀~The present Sendai Moat

水道橋跡~The Water Bridge Ruins

かつて神田上水がこの水道橋によって川を横断していました。井の頭池を水源として江戸市街に給水していました。この周辺の街と、近くにある「水道橋」駅の名前はここから来ています。
Kanda water supply went across the river using the Water Bridge. It came from Inokashira Pond to feed Edo City. The names of the town around and the station nearby “Suido-bashi” comes from the bridge.

水道橋の記念碑~The monument of Water Bridge
記念碑周辺の風景~A view around the monument
歌川広重「東都名所」より「御茶之水之図」、江戸時代~”The picture of Ocha-no-Mizu” from the series “Famous Places in the Eastern Capital” attributed to Hiroshige Utagawa in the Edo Period(出典:国立国会図書館)

外堀の西側部分~The western part of the outer moats

この部分は1638年までに江戸城建設の総仕上げとして築かれました。自然の谷の地形を利用しています。城の中心を砲撃から守ることを意図し、堀の内側に土塁を積み上げ、外側よりも高くなるようにしています。
This part was built to finalize the construction of the Edo Castle by 1638. It used a natural valley terrain. It aimed to protect the center of the castle from a cannon attack outside by setting the inside of the moat much higher with earthen walls than the outside.

弁慶濠~Benkei-bori Moat

外堀の西側部分のライン~The line of The western part of the outer moats

牛込門跡~Ushigome-mon Gate Ruins:

門の両側の石垣が現存しています。門跡の周辺は現在JR飯田橋駅として利用されています。門跡の反対側は神楽坂になっていて、外堀は谷底に位置しているのがわかります。牛込濠と呼ばれるその堀は、門跡の西側にほぼそのまま残っており、とても広大に見えます。
The stone walls from both sides of the gate remain. The area around the ruins are now used for JR Iida-bashi Station. The opposite of the ruins is Kagura-zaka slope, so you can see the outer moat located in the bottom of the valley. The moat called “Ushigome-bori” in the west of the ruins remain like it was, and looks very spacious.

牛込門跡~Ushigome Gate Ruins
歌川広重「牛込神楽坂之図」、江戸時代~”The picture of Ushigome and Kagurazaka” attributed to Hiroshige Utagawa in the Edo Period(出典:国立国会図書館)
牛込濠~Ushigome-bori Moat

市ヶ谷門跡~Ichigaya-mon Gate Ruins:

石垣がいくらか残っており、外側から堀を渡って門に伸びる土橋も残っています。周辺はまたJR市ヶ谷駅の一部として使われています。
There are some remaining stones, and the earthen bridge from outside to the gate across the moat remains. The area around is also part of the for JR Ichigaya Station.

市ヶ谷門跡~Ichigaya-mon Gate Ruins
市ヶ谷門の古写真~The old photo of Ichigaya-mon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

四谷門跡~Yotsuya-mon Gate Ruins:

門の片側の石垣が残っていますが、周辺の堀は既に埋められています。一例として、門跡西側の以前堀だったところは上智大学のグラウンドとして使われています。広大な敷地を眺めながら、内側の土塁の上を歩くことができます。
There are some remaining stone walls on one side of the gate, but outer moats around are already filled. For example, the former moat in the west of the ruins is used as the ground for Jochi University. You can walk on the inside earthen walls and enjoy a view of the spacey area.

残っている石垣~The remaining stone walls
四谷門の古写真~The old photo of Yotsuya-mon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
上智大学のグラウンド~The ground for Jochi University

外堀が失われたエリア~The lost outer moat area

東京の都心では、いくつかの理由で外堀は既に失われています。現在では外堀通りとして自動車道になっています。過去にはどんな景観だったのか想像するのは困難です。
In the center of the Tokyo city area, the outer moat was already lost for several reasons. It is now used as the Sotobori (means onter moat) Street for automobiles. It is difficult for us to understand what can be seen in the past.

外堀通り、ビル街の谷間のようです~Sotobori Street, just like a valley among the buildings

外堀が失われたエリアのライン~The line of the lost outer moat area

赤坂門跡~Akasaka-mon Gate Ruins:

門の石垣の一部が、赤坂見附(幕府の施設であった名前と同じ)交差点の近くに残っています。「弁慶濠」と呼ばれる現存堀が門の西側にあります。そこから続く「溜池」堀は失われています。
Part of the stone walls for the gate remain near the Akasaka Mitsuke (same as the Shogunate facility’s name) Intersection. A remaining moat called “Benkei-bori” is in the west of the gate. The following moat called “Tame-ike” has lost.

赤坂門跡~Akasaka-mon Gate Ruins

「溜池」交差点~The Tame-ike Intersection:

堀の名前が交差点の名前として残っています。溜池とは貯水池の意味です。江戸時代の初期には、江戸の人々は川をせき止め、飲料水として使っていたようです。
The name of the moat remains for the intersection. Tame-ike means reservoir. At the beginning of the Edo Period, people in Edo City seemed to dam a river, and use it for drinking water.

溜池交差点~Tame-ike Intersection

呉服橋交差点~The Gofuku-bashi Intersection:

この交差点は東京駅の近くにあります。ここには外堀と「呉服橋」という橋と呉服橋門がありました。今現在、これらの痕跡は何もありません。
The intersection is near Tokyo Station. There was an outer moat, a bridge called “Gofuku-bashi” and Gofuku-bashi Gate. They have completely removed it. We can’t see any trace of them now.

呉服橋交差点~Gohuku-bashi Intersection
呉服橋門の古写真~The old photo of Gofukubashi-mon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

日本橋川エリア~Nihonbashi-gawa River area

ここは外堀の最後の、または最初の部分です。この箇所は江戸城の内堀の近くです。ここから外堀が市街の外側に向かって渦巻き状に伸びているので、堀を逆に辿っていくこともできます。日本橋川もまた人工川であり、元々あった川のルートを変えるために作られました。この川の上流は、平川という元あった川と同じようです。
It is the last part of the outer moats, or the first part. The part is near the inner moat of Edo Castle. We can see the outer moats spiral towards the outside of the city, so you can trace the moats backward. Nihonbashi-gawa River is also artificial and was built to change the routes of original rivers. The upper stream of the river might be the same as the original river called Hirakawa River.

日本橋川沿いの石垣~The stone walls along Nihonbashi-gawa River

日本橋川エリア~Nihonbashi-gawa River area

常盤橋門跡~Tokiwabashi-mon Gate Ruins:

この門の石垣がよく残っています。そのため国の史跡に指定されています。堀を渡って門に至る石橋は、明治時代に門の他の石を使って築かれたものです。近くには日本銀行旧館の建物があり、こちらは重要文化財に指定されています。
The stone walls of the gate remain well. That’s why they have been designated as a National Historic Site. The stone bridge across the moat to the gate was built using other stones from the gate in the Meiji Era. You can also see the old building for Bank of Japan nearby, designated as an Important Cultural Property.

常盤橋門跡の石橋~The stone bridge of Tokiwabashi-mon Ruins
常盤橋門の古写真~The old photo of Tokiwabashi-mon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日本銀行旧館~The old building for Bank of Japan

一ツ橋門跡~Hitotsubashi-mon Gate Ruins:

この門と堀周辺の石垣が残っています。江戸時代後半に、将軍の一族である一橋家の屋敷がこの門内にありました。
There are some remaining stone walls for the gate and the moat around. The hall for the Shogun’s relative called Hitotsu-bashi clan was inside the gate in the late Edo Period.

現在の一ツ橋門と残っている石垣~The present Hitotsubashi-Bridge and remaining stone walls
堀周辺の現存石垣~The remaining stone walls around the moat

雉子橋門跡~Kijibashi-mon Gate Ruins:

ここが外堀の終点に当たります。ここから内堀が近くに見えます。日本橋川は更に上流から流れてきています。その上流を辿っていくと外堀の違う地点、小石川門の近くに到達します。実はこの上流の部分は一旦幕府によって埋められますが、明治時代になって水上交通の便ため、掘り返されました。
This is the edge of the outer moats. You can see the inner moat nearby. The river flows from a much upper area. You can follow that the upper stream and you’ll reach another spot of the outer moat near Koishi-kawa Gate. In fact, the upper stream was once filled by the Shogunate, but was dug again for water transportation in the Meiji Era.

現在の雉子橋~The present Kijibashi-Bridge

私の感想~My Impression

外堀の全てを辿ってくには1日では足りないでしょう。ですので、少しずつ部分的に訪れてみるのもよいでしょう。どちらにしても行ってみれば、江戸城はインフラ、文化、商業などの面で東京の中心につながっていることが実感できます。
It will need more than one day trip to trace all of the outer moats, so you can visit part of them one by one. Anyway, after visiting them, you can realize that Edo Castle has been the center of Tokyo in infrastructure, culture, business and so on.

牛込門跡と飯田橋駅~Ushigome-mon Gate Ruins and Iidabashi Station

リンク、参考情報~Links and References

江戸城外堀跡、千代田区観光協会Edo Castle outer moat trace, VISIT CHIYODA
・「江戸城の全貌/萩原さち子著」さくら舎(Japanese Book)
・「幻の江戸百年/鈴木理生著」筑摩書房(Japanese Book)
・「よみがえる日本の城2」学研(Japanese Book)

「江戸城その3」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part3”
「江戸城その2」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part2”
「江戸城その1」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part1”

21.江戸城その3~Edo Castle Part3

この城の中心部は、皇居、庭園や公園になりました。
The center of the castle has become Imperial Palace, gardens or parks.

ビル街を背景に桜田門と桜田濠~Sakurada-mon Gate and Sakurada-bori moat with the background of modern buildings

江戸城は内郭と外郭に分かれていました。内郭は内堀の内側にあって城の中心的機能を果たしていて、本丸、北の丸、西の丸といった主要な曲輪から成っていました。その外周は8km近くです。そこには天守、豪華な御殿があり、多くの櫓や門によって警備されていました。現在、内郭は4つの部分に区切られています。一つずつ見ていきましょう。
Edo castle was divided into Naikaku and Gaikaku. Naikaku was the inside of the inner moat, and consisted of the center portion of the castle including primary enclosures such as Honmaru, Kitanomaru, and Nishinomaru. Its perimeter was nearly 8 km. It had the Tenshu keep, luxurious halls, many turrets and gates for security. Now, Naikaku is separated into four parts. Let’s look at each part one by one.

江戸城内郭の4つの部分~The 4 parts of Edo Castle Naikaku(国土地理院航空写真に加筆)

皇居東御苑~Imperial Palace East Garden

ここは、本丸、二の丸、そして三の丸の各曲輪を由来としています。将軍は長年本丸にあった御殿に住んでいましたが、1863年の火災の後は西の丸に移り、本丸には戻りませんでした。明治維新後、明治天皇もまた西の丸に住み続けました。そのため本丸とその周辺は宮内庁によって使われてきました。そして1968年からは、その多くの部分が庭園として公開されています。
It is derived from the enclosures, Honmaru, Ninonaru and Sannomaru. The Shogun usually lived the main hall at Honmaru for many years. But after the fire in 1863, they moved to Nishinomaru, didn’t returned to Honmaru. After the Meiji Restoration, Emperor Meiji also continued to lived in Nishinomaru. So Honmaru and the area around were used for Imperial Household Agency. Many parts of them have lastly been open to the public as the garden since 1968.

皇居東御苑の航空写真~The aerial photo of Imperial Palace East Garden

・三の丸巽二重櫓:江戸城に現存している4つの櫓のうちの一つです。庭園の外側からは、本丸富士見三重櫓を背景に、素晴らしい姿を眺めることができます。
・Tatsumi two-story turret at Sannomaru: It is one of four remaining turrets in Edo Castle. You can see a great view of the turret with the background of Fujimi three-story turret at Honmaru from outside the garden.

巽二重櫓と富士見三重櫓(背景)~Tatsumi two-story turret with the background of Fujimi three-story turret

・大手門:この門は、江戸城の正門でした。現存するのは一部分で、残りは復元されています。庭園の入り口の一つでもあります。皇宮警察の人たちが荷物チェックをします。この内側が三の丸となります。
・Ote-mon Gate: This gate was the main entrance of the castle. It is partly original and the rest has been restored. It is also one of the entrances of the garden. The Imperial Guards will check your baggage. The inside of the gate is Sannomaru.

大手門~Ote-mon Gate

・大手三の門跡:ここは二の丸の入り口でした。過去には大きな櫓と門の前には内堀がありました。残念なことに全て撤去されてしまいました。
・The ruins of Ote-Sannomon Gate: this was the entrance of Ninomaru enclosure. There were large turrets around and the inner moat in front of the gate in the past. Unfortunately, they have all been demolished.

大手三の門跡~The ruins of Ote-Sannomon Gate
大手三の門の古写真~An old picture of Ote-Sannomon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

・中の門跡:ここは本丸の入り口でした。ここにも建物は残っていませんが、残っている巨大な石垣には驚かれるでしょう。これらの石は、瀬戸内海から運ばれてきたものです。
・The ruins of Nakanomon Gate: this was the entrance of Honmaru enclosure. They also have no buildings, but you will be surprised to see huge remaining stone walls. These stones were brought from Seto Islands Sea area.

中の門跡~The ruins of Nakanomon Gate
中の門の古写真~An old picture of Nakanomon Gate(現場説明版より)

・三つの現存している番所:これらは前述の門の周辺にあります。武士が厳しく訪問者をチェックしていました。その中には忍者もいたそうです。
・The three remaining guard stations: they are around the gates mentioned before. Warriors did security check strictly. Some of them are said to be Ninja.

大手三の門内にある同心番所~The guard station inside Ote-Sannomon Gate
中の門前にある百人番所~The station for 100 guards in front of Nakanomon Gate
中の門内にある大番所~The last guard station inside Nakanomon Gate

・中雀門跡:この門は、本丸御殿に至る最後の門でした。残っている石垣が黒ずんでいるのは1863年の火災による影響のようです。
・The ruins of Chujaku-mon Gate: this gate was the last one that led to Honmaru main hall. Their remaining stone walls look dark that might have been caused by the fire in 1863.

中雀門跡~The ruins of Chujaku-mon Gate
恐らくは火災により傷んだ石垣~The stone walls probably damaged by the fire

・本丸御殿跡:広大な土地に御殿がひしめいていました。ここは今は花と木の庭園になっています。
・The ruins of Honmaru main hall: this spacey area was packed with the hall. They are now used for a garden with flowers and trees.

本丸御殿跡~The ruins of Honmaru main hall
本丸の古写真、1863年の火災後~An old picture of Honmaru enclosure after the fire in 1863(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

・富士見三重櫓:江戸城で唯一現存している三重櫓です。三代目の天守が焼けた後は代用天守として使われました。本丸からはその背面を見物できます。
・Fujimi three-story turret: it is the only remaining three-story turret in Edo Castle. It was used as the alternative Tenshu keep after the third Tenshu was burned down. We can see the back side of it at Hommaru.

富士見三重櫓(背面)~Fujimi three-story turret(the back side)
富士見三重櫓の正面~The front side of Fujimi three-story turret(taken by TECHD from photoAC)

・本丸展望台:ここからは二の丸庭園越しに東京中心地の景色を楽しめます。ここには台所前三重櫓がありました。過去には武士たちが見張りをしていたはずです。
・The viewing platform at Honmaru: You can have a good view of the center of Tokyo looking over Ninomaru Garden. The Daidokoro-mae three-story turret was there. Warriors should be likely looking over for security in the past.

本丸展望台からの眺め~A scene from the viewing platform at Honmaru
展望台を二の丸から見上げる~Looking up the viewing platform from Ninomaru enclosure

・天守台石垣:この城には天守がありました。最初の三人の将軍は、先代の天守に代わる自身の天守を築きました。三代目の天守は特に史上最大と言われる程巨大でした。ところが、1657年の明暦大火で焼け落ちてしまいます。その後四代目の天守再建が始まりますが、中止となりました。現在その四代目用の天守台が残っています。
・The stone walls for Tenshu keep: the castle had the Tenshu keep. The first three Shoguns built their own Tenshu instead of using the previous one. The third Tenshu was especially big which might have been the biggest one in history. However, it was burned down by the great fire of Meireki in 1657. After the fire, the rebuilding of a fourth Tenshu was launched, but canceled. We can now see the prepared Tenshu base for it.

残っている天守台~The remaining Tenshu base
二代目または三代目天守、「江戸図屏風」より、17世紀~The second or third Tenshu, from “View of Edo”, in the 17th century(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

・梅林坂:この城の創始者である太田道灌が梅の木を植え、神社を作った所と言われています。梅林の合間に、より古風な石垣が残ります。
・Bairin (Plum Grove) Slope: it is said that the founder of the castle, Dokan Ota planted plum trees and built a shrine there. We can now see the trees among older looking stone walls.

梅林坂~Bairin (Plum Grove) Slope
古風な石垣~The older looking stone walls

・平川門:ここは城の裏門で、現存しています。この門は、鬼門である東北を向いています。このため、城での罪人はこの門を通して追放されたとのことです。
・Hirakawa-mon Gate: this was the back gate of the castle and remains now. The gate faces the traditional taboo direction – the northeast. For this reason, the offenders in the castle were banished through the gate.

平川門~Hirakawa-mon Gate

皇居外苑~Outer Gardens of the Imperial Palace

ここは「皇居前広場」とも呼ばれています。江戸時代には「西の丸下」と呼ばれており、多くの大名屋敷が建っていました。明治時代に皇室の園地となりましたが、市民にとって親しみのある場所でもありました。皇居がすぐ近くに見えるからです。第二次世界大戦が終わったとき、敗戦を嘆く人たちがここに集まったことで有名です。現在の人たちも似たような状況です。簡単に来れるので、いつも多くの観光客が集まっています。現在ここは一般に公開されています。
It is called “The Palace Plaza” as well. This area was called “Under Nishinomaru” where many halls for lords were in the Edo Period. In the Meiji Era, it was turned into the garden for Imperial Families, but also familiar to citizens because they could see the Imperial Palace closely. At the end of World War II, it became a well known place for people mourning the loss of the war. This idea is similar to people in the present. Many tourists always visit there due to easy access. Now, garden is open to the public.

皇居外苑~The Outer Gardens of the Imperial Palace
終戦時に皇居前広場に集まった人々、1945年8月16付毎日新聞より~The gathering people at the Palace Plaza at the end of the war, in the Argust 16th 1945 edition of the Mainichi Shinbun(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

皇居外苑の航空写真~The aerial photo of The Outer Gardens of the Imperial Palace

・皇居正門石橋と現存する伏見櫓の風景:外苑そのものは広大な広場です。なので多くの観光客は皇居と江戸城建物の景色を愛でています。この取り合わせは一番有名なものです。
・The view of the Palace Stone Bridge and the remaining Fushimi Turret: The garden itself is an extensive square. So many tourists enjoy the views of Imperial Palace and Edo Castle buildings. This is the most popular one.

皇居正門石橋と伏見櫓~The Palace Stone Bridge and Fushimi turret

・桜田門:これは最も有名な江戸城の建物の一つです。1860年に桜田門外の変が起こった所です。幕府大老であった井伊直弼が暗殺され、幕府の権威失墜を招きました。この門は現存しており、重要文化財に指定されています。
・Sakurada-mon Gate: This is one of the most popular buildings of Edo Castle. Because this is where Sakuradamon Incident in 1860 happened. The chief minster of Shogunate, Naosuke Ii was assassinated and it caused Shogunate’s the authority to decreas. The gate remains now and has been designated as a Important Cultural Property.

桜田門~Sakurada-mon Gate

北の丸公園~Kitanomaru Park

北の丸曲輪は、本丸の搦め手を北の方角から守る任務があり、とても重要でした。将軍の親族である清水家と田安家が江戸時代の後期に住んでいました。明治維新後は、近衛師団の兵舎がありました。第二次世界大戦後は公園になり、日本武道館や科学技術館などの施設が置かれています。
Kitanomaru enclosure was very important because it had to guard the rear of Honmaru in the north. The Shogun’s relatives, the Simizu and Tayasu clans lived in the late Edo Period. After the Meiji Restoration, the barracks of the Imperial Guard division were there. After the World War II, it became the park where facilities, like Japan Budokan, Science and Technology Museum, are located.

北の丸公園の航空写真~The aerial photo of Kitanomaru Park

・清水門:清水家の屋敷の門として使われました。とても優れた構造で、重要文化財になっています。この門は、内堀が窪んでいる奥に設置されていて、誰もが長く細い土橋を渡って入らなければなりません。侵入者は堀に沿った塀から反撃されてしまいます。
・Shimizu-mon Gate: It was used as the gate for Shimizu clan’s hall. It has a excellent structure and has become an Important Cultural Property. The gate is set at the back of the curved inner moat. Everyone has to go on a long and narrow earthen bridge to enter. Invaders were countered by defenders on walls along the moat.

清水門~Shimizu Gate
門の内側から見た土橋~The earthen bridge looking from the inside of the gate

この門はまた2つの「桝形」と呼ばれる方形の区画が外と内両方にありました。守備側は背後から敵を攻撃できたのです。実に強靭な防御力です。私が思うにこの門はもっと有名になってしかるべきです。
The gate also has two square shape blocks called “Masugata” both outside and inside. Defenders were able to counter the enemy from the back. The gate is very strongly defensive. By I think it should be more well-known.

外側の「桝形」~The outside “Masugata”
内側の「桝形」~~The inside “Masugata”

・田安門:ここは田安家の門でした。地下鉄から武道館に行く人は皆、この門を通ります。この門もまた重要文化財に指定されています。
・Tayasu-mon Gate: It was the gate of Tayasu clan’s hall. Now, all people from the subway station to Budokan go through the gate. It looks just like the Budokan gate. It has also been designated as a Important Cultural Property.

田安門、向こうは武道館~Tayasu-mon Gate, Budokan is over there

皇居~Imperial Palace

この区域は元々西の丸曲輪と吹上と呼ばれる場所でした。将軍は江戸時代末期に西の丸にある御殿に住んでいました。明治維新のとき、明治天皇はこの御殿に入り、使い続けました。そのため西の丸周辺が皇居になったのです。一般の人は通常皇居には入れませんが、年始や天皇誕生日といった特別な日には一部開放されます。今回は、外側から見ることができる2つの興味ある景色をご紹介します。
This area includes the original Nishinomaru enclosure and a place called Fukiage. The Shogun lived in the hall at Nishinomaru at the end of the Edo Period. During the Meiji Restoration, Emperor Meiji got the hall and continued to use. That’s why Ninomaru around has become Imperial Palace. Visitors can’t usually enter the palace, but it is partly open to people on special days such as New Year Celebration and the Emperor’s birthday. This time, I will show you two of interesting views of the area from outside.

皇居全景、手前は皇居外苑~The overview of Imperial Palace, the front is the Outer Gardens(licensed by Chris73 via Wikimedia Commons)

皇居の航空写真~The aerial photo of Imperial Palace

・千鳥ヶ淵:ここは今は内堀の一部になっていますが、元来は川だったようです。「淵」はこの場合、水流をせき止めて作った沼を意味します。この堀は全国的に桜の名所として知られています。春になると、堀の上にはボートで花見をする人たちで溢れます。
・Chidori-ga-Fuchi moat: it is now a part of the inner moat, but seemed to be originally a river. “Fuchi” means a lake made by damming the water in this case. The moat is known around the whole country for cherry blossoms. A lot of people seeing them are on the boats in the moat in the early spring.

千鳥ヶ淵~Chidori-ga-Fuchi moat

・半蔵門~この名前は、この門を警護していた忍者の頭領、服部半蔵に由来します。外側から門に伸びる土橋はまるでダムのように見えます。実際、この橋は水位を維持するために築かれました。橋の片側の水位は反対側よりかなり高くなっています。
・Hanzo-mon Gate: its name comes from the leader of Ninja, Hanzo Hattori who kept the gate. The earthen bridge from outside to the gate looks just like a dam. Indeed, the bridge was built to hold back the water. You can see the one side of the bridge keep much higher level of the water than the other side.

半蔵門~Hanzo-mon Gate
半蔵門土橋の下流部分~The lower part of Hanzo-mon Gate earthen bridge
桜田濠、半蔵門の下流にあり、まるで大河のようです~Sakurada-bori moat, the lower section of Hanzo-mon Gate, looks just like a large liver

「江戸城その4」に続きます。~To be continued in “Edo Castle Part4”
「江戸城その2」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part2”
「江戸城その1」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part1”