23.小田原城 その1

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城となるまで成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

立地と歴史(戦国編)

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城と言われるまでに成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

現在の小田原城、天守は江戸時代のものを復興させました

城の始まりと伊勢宗瑞の登場

古代の頃、西から関東に入る東海道は、箱根峠ではなく、足柄峠を越えるルートが主流でした。鎌倉時代になると、箱根山(箱根神社)・走湯山(伊豆山神社)の二所権現への参詣が盛んになり、箱根ルートがよく使われるようになりました。これにより、南北朝時代までには小田原に宿場町が形成されたと考えられています。「小田原城」の記録はこの後に現れますので、この町は城下町でなく、宿場として始まったことになります。一方、支配者の武士階層の中には、関所で通行税(関銭)を徴収する権利を持つ領主がいました。箱根や足柄では、大森氏がその立場にあり、徴収した関銭を、寺院の建立に使ったりもしていました。その大森氏が、宿場として成長した小田原を管理するために、15世紀中頃の戦国時代の始まりまでには、初期の小田原城を築いたと言われています。その目的からして、規模は大きくなかったと考えられます。

城の位置

また、初期の城の位置ですが、従来は現在の小田原城天守の北側の、「八幡山古郭」と呼ばれる場所ではないかと言われてきました。しかし当初の小田原宿は、江戸時代のそれより、西側にあったと考えられます。標高が高く高潮の被害を受けにくく、初期の頃もこの場所についての記録、言い伝えが残っているからです。そのため、城もその宿場に近い、現在の小田原城の天守周辺(八幡山丘陵の端)か、天神山丘陵にあったと考えられるようになってきました。

八幡山古郭東曲輪
現在の天神山

戦国時代には、「北条早雲」こと伊勢宗瑞(いせそうずい)が登場します。宗瑞はこれまで、下剋上を果たした、典型的な初期の戦国大名の一人として、捉えられたこともありました。つまり、素浪人から自らの才覚のみでのし上がり、城持ちの大名になったというサクセス・ストーリーです。しかし、最近の研究により、彼は備中国(岡山県西部)出身の、将軍に仕える幕府奉公衆・伊勢盛時(いせもりとき)であったことがわかっています。彼の姉が、駿河国(静岡県中部)の大名、今川義忠に嫁いでいましたが、家督争いが発生し、姉の子の氏親を支援するために、駿河に向かったのです。

伊勢宗瑞(北条早雲)肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、氏親を跡継ぎにすることに成功し、恩賞として、駿河の興国寺城を与えられました。その後、伊豆国(静岡県東部)の韮山城、そして相模国(神奈川県)の小田原城を手に入れるのですが、それは、一匹狼ではなく、今川氏の部将、そして南関東を治めていた扇谷上杉氏との連携によって行われました。小田原城攻めにしても、宗瑞が大森氏に贈り物を送って油断させ、「火牛の計」を使って城から追い出したという武勇伝がありました。しかし実態は、宗瑞の弟と大森氏が一緒に小田原城にいて(扇谷上杉氏方)、山内上杉氏に攻め取られたという記録があったりして、単純な話ではなかったようです。西暦1500年前後に大地震があったり、大森氏が山内上杉氏方に転じたタイミングで、宗瑞が手に入れたのではないかと考えられています。ただし、この時点では小田原城は、まだ支城という扱いでした。

興国寺城跡
「火牛の計」で攻める北条早雲像、小田原駅西口

北条氏綱・氏直による発展

初代・宗瑞(北条早雲)の跡を継いだのは、嫡子の北条氏綱(ほうじょううじつな)です(1518年、宗瑞は翌年に没)。「小田原北条五代」と言いますが、小田原を本拠地とし、「北条氏」を名乗ったのは、2代目の氏綱からです。関東地方侵攻を本格的に始め、敵となった上杉氏(山内・扇谷)から「他国之凶徒」と言われ、権威を得るため、鎌倉時代の関東支配者の名字を名乗り始めたと言われています。また、関東公方の足利晴氏と同盟を結び、「関東管領」に任命され、同じ職名を世襲していた(山内)上杉氏に対抗します。

北条氏綱肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1541年に氏綱から跡を継いだ3代目の北条氏康は、更に領土を広げ、1546年の河越城の戦いで上杉軍に大勝し、関東での覇権を確立しました。氏綱・氏直は小田原を南関東の中心地にしようとしました。それまでの宿場町を城下町として、江戸時代の小田原宿と同じくらいまで広げました。日本最初の水道と言われる「小田原用水」も町に引かれました。城についてはこの頃、城の中心となる「本丸」「御用米曲輪」「二の丸」が成立したと考えられています(曲輪の名前は江戸時代のもの)。1551年に小田原を訪れた僧が「三方に大池あり」と記録しています。この池は現在、二の丸の堀として残っています。また、氏康は民衆に善政を施したことでも知られています。年貢率(四公六民)も他の大名よりは低かったと言われています。

北条氏康肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の小田原用水
現在の二の丸東堀

1561年、城は最初の大きな危機を迎えます。越後国(新潟県)の上杉謙信(その時点は長尾景虎)が、旧来の上杉氏による秩序回復を掲げ、関東地方に侵攻してきたのです。翌年(永禄4年)2月には10万を超えるとも言われる大軍で小田原城を囲みますが、短期間で引き上げました。その場の勢いに乗った寄せ集めであったため、長陣には耐えられなかったからです。そのとき、大手門であった「蓮池門」(現在の幸田口門跡周辺)に、謙信方の先鋒、太田資正が突入し戦ったと伝わっています。氏康は当時、甲斐国(山梨県)の武田信玄、及び今川氏と三国同盟を結んでいて、その力を基礎に、その後謙信の侵攻を跳ね返していきます。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし次の危機として、信玄が1568年に同盟を破り、翌年(永禄12年)10月には、小田原城に攻め込んできました。信玄は、同年8月に北条領内に侵入し、10月1日から小田原城を包囲し、5日には引き上げています(この後、退却途中に有名な三増峠の戦いが起こります)。このような経緯から、もともと小田原城を本気で落とそうとする意図はなかったようです。信玄も謙信と同じように、蓮池門から城を攻めたと言われています。城下町は悉く放火され、信玄自身が手紙で「氏政館」も放火したと言っています。氏政は、氏康の跡継ぎで、当時彼の館は、現在の「御用米曲輪」にあったと考えられていますので、これが合っていれば、本丸の麓まで攻め込まれたことになります。このとき氏政は、氏康から家督は譲られていましたが、1571年に父・氏康が亡くなると、武田との同盟を復活し、更なる城の拡張を行います。恐らく、これらの戦いでの経験が基になっていると思われます。長期の籠城に耐えられる城であれば、どんな強力な敵にも対応できると確信を持ったのかもしれません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の御用米曲輪

北条氏政・氏直による完成

北条氏政と跡継ぎの氏直の時代に、北条氏は全盛期を迎えました。武田氏との同盟が機能した他、上杉謙信が1578年に亡くなり、関東地方に強敵が見当たらなくなったからです。北条氏は関東地方の大半を支配するようになり、地域防衛のため、支城ネットワークを築き、重要な城には一族・重臣を派遣しました。小田原城は、そのネットワークの中心に位置づけられたのです。小田原城そのものも、以前の戦いの教訓に基づき、氏政主導で強化されました。まず、二の丸外側の低地に、三の丸が作られました。また、城の背後からも攻められないよう、三の丸外郭が丘陵地帯に築かれました。更には、三の丸外郭に続く防衛ラインとして、丘陵地帯の地形を利用して、小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)の建設を始まました。これらは、急斜面の堀を掘削し、堀った土を土塁として積み上げるやり方で築かれました。北条氏は石垣を積む技術も持っていましたが、このエリアの土は、関東ローム層と呼ばれる火山灰が堆積してできたもので、粘土質で滑りやすく、敵を防ぐための堀には打ってつけだったのです。また、堀の底は、「障子堀」「畝堀」呼ばれる仕切りがつけてあり、堀に入った敵を閉じ込める仕組みとなっていました。

北条氏政肖像画、法雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三の丸外郭
小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)
山中城跡に残る障子堀

城の拡張は、日本全体や他の大名との外交関係にも影響されていました。織田信長が1582年に武田を滅ぼしたときには、信長に臣従せざるをえなくなりました。ところが、信長が本能寺の変で倒れると、また乱世に戻ったようになります。武田の遺領をめぐって、北条・徳川・上杉が三つ巴の戦いを始めたのです。更に、上野国で真田昌幸が独立を志向して三者を渡り歩き、不気味な存在となります。氏政は、徳川家康と手打ちをし、関東地方だけは確保しますが、今度は豊臣秀吉の天下統一が進みます。1587年までに、西日本は全て平定され、氏政の周りの大名たちも秀吉に臣従しました。北条氏は孤立し、頼りにできるのは同盟続いていた家康と、奥州の覇者・伊達政宗だけでした。氏政は翌年から、豊臣方と臣従するための条件交渉を始めます。その一つが、真田と争っていた上野国沼田の扱いで、一旦は秀吉の裁定により解決しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
真田昌幸肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽作、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信作、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その一方で、氏政は戦になることも想定し、「相府大普請」とも呼ばれた小田原城の大改修を始めました。その目玉は、小田原を囲む丘陵地帯(八幡山・天神山・谷津)、城、城下町を丸ごと土塁と堀で囲む総構でした。その延長は約9キロメートルに及び、工事には関東全域から人夫が動員されました。地域全体を囲んでしまえば、敵は入ってこれず、長期の持久戦ができると考えたのでしょう。当時はこれを「大構」と呼んでいたようで、同じ名前の遺構が、支城だった岩付城跡に残っています。

赤い線が総構土塁の推定ライン

総構の想像図、現地説明パネルより
わずかに残る岩付城大構

1589年(天正17年)10月、北条氏の家臣が、沼田で真田のものになったとされる名胡桃城を奪う事件が発生しました。秀吉は激怒し、命令違反として、北条征伐を決定します。この事件は不可解な点も多く、秀吉と真田が仕組んだ謀略という説もあります。直臣に領地を与えたい秀吉と、ただちの臣従を潔しとしない氏政の思惑も考えられ、両者の対決は必然だったのかもしれません。小田原城総構は、約2年をかけ、完成していました。

名胡桃城跡

運命の小田原合戦

1590年(天正18年)3月、豊臣秀吉軍総勢約22万人(本体16万、水軍2万、北陸勢3.5万)が、北条領に押し寄せました。この他に、これまでも北条と敵対していた関東勢1.8万人が攻撃してきました。迎え撃つ北条軍は、総勢約8万人と言われ、その内約5万人を小田原城に集中させました。支城ネットワーク攻略に時間をかけさせ、小田原城での長期籠城戦により、敵を消耗させ、有利な講和に持ち込むつもりだったと思われます。しかし、その大半は無理やり徴収した農民兵であり、質は劣っていました。城の改修のときから、過酷な負担を強いられていたため、当然士気も上がりません。先代のときに目指した民政の充実は、遠のいてしまっていました。3月28日に上野国松井田城、29日に伊豆国山中城・韮山城で戦いが始まりました。ところが、圧倒的な兵力差により、山中城がたった1日で落城してしまいます。その後も、有力な支城が次々に落城、開城していきました。5月末には、籠城中または未攻略の有力支城は、韮山、鉢形、津久井、八王子、忍のみとなりました。北条軍にとっては、大きな衝撃、かつ誤算でした。松井田城主で重臣の大道寺政繁や、玉縄城主・北条氏勝は、豊臣軍の道案内をし、北条方の城主に降伏するよう説得する有様でした。そのくらいの力の差があったということでしょう。

北条領国の支城ネットワーク、現地説明パネルより

豊臣軍は4月上旬には小田原城に到達し、18万の軍勢で城を包囲しました。秀吉は、5日に早雲寺に着き、ここを本陣とします。4月下旬には、新しい本陣として石垣山城の築城を始めました。しかし、このような大軍であっても、幅最大30メートル、深さ10メートル以上、勾配50度以上の総構のラインに阻まれ、城の中に打ち入ることはできませんでした。総構のラインには、柵が並び、所々に櫓が立ち、重要な出入口は2重の仕切りがあるなど厳重に警備されていました。城の中心部は、本丸には5代目当主・北条氏直がいて、先代の氏政は、北の八幡山に布陣していました。以前氏政館だったところは、「百間蔵」と呼ばれる倉庫群になり、長期籠城に備えていたようです。(戦後に、伊達政宗が小田原城の倉庫群を見聞し、その収容力に驚嘆しています。)総構の中には城下町も含まれていたので、生活・軍事物資も自己調達できることになります。また、総構の外にも、篠曲輪などの出丸があり、攻撃態勢も備えていました。一方、北条軍にとってもう一つの誤算が、豊臣軍の長期戦への備えでした。豊臣軍の多くは専門の兵士であり、大量の兵糧(秀吉が20万石と指示)を調達・輸送することで、長期滞在が可能となっていました。かつての上杉・武田軍と比べ、別次元の経済力、技術、運用ノウハウを持っていたのです。(現場レベルでは、士気の緩みや食料不足ということもあったようです。)その結果、4月、5月と城を挟んだにらみ合いが続きます。

小田原城周辺の布陣図、現地説明パネルより

5月には、東北・関東の大名たち(南部、安東、結城、佐竹、宇都宮など)が小田原に参陣してきました。6月5日には、ついに伊達政宗が到着し、9日に白装束で秀吉に謁見しました。これで、北条への援軍が来る可能性がなくなりました。この辺りから、小田原開城に向けた交渉が加速していきます。交渉の推進役は、北条氏直でした。後に、延々と結論の出ない会議のことを「小田原評定」というようになりますが、実際には水面下で動きはあったのです。支城の方は、6月14日鉢形城開城、23日八王子城落城、24日韮山城開城、25日津久井城開城となります(残りは忍城のみ)。その韮山城主・北条氏規は、豊臣方の黒田孝高(官兵衛)とともに、氏直に開城を勧めました。6月26日に、石垣山城が完成し、秀吉が移りますが、その姿が最後のダメ押しになったかもしれません。

伊達政宗肖像画、加納安信作、仙台市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
鉢形城跡
八王子城跡
石垣山城跡

7月5日、氏直は降伏を申し入れ、小田原城は開城しました。開城交渉の中で、領土の縮小維持という条件もあったと言われますが、秀吉の裁定は過酷でした。氏政など主戦派と見なされた4名は切腹、氏直は高野山へ追放(後に赦されるが病死、氏規の家系が小大名として存続)となりました。戦後の領地配分を見ると、徳川家康が北条領に転封、徳川領に尾張の織田信雄を移そうとしたが断ったため改易とし、空いたところに、当時の跡取り・豊臣秀次とその家老たちを入れています。秀吉の意図が見えるのではないでしょうか。(ちなみに、沼田領(沼田城含む)も丸々真田のものとなりました。)

小田原城近くにひっそりと佇む切腹した北条氏政と氏照の墓所

戦国大名としての北条氏は滅亡しましたが、その総構の城は、参陣した大名たちに大きなインパクトを与えました。記録に残っているものでは、駿府城に入った中村一氏が、小田原城に習い総構を築いています。秀吉自身も、小田原合戦の翌年、京都を囲む御土居の建設を始めました。しかも、その堀には「障子堀」が採用されています。本拠地の大坂城でも、1594年から総構(三の丸)の建設を行っています。

現在の駿府城公園
移築復元された大坂城三の丸の石垣

小田原合戦に参陣した大名たちの城で採用された「総構」も、小田原城の影響があると考えられています。

蒲生氏郷の若松城、総構の甲賀門跡
堀秀治の春日山城、復元された総構
前田利家の金沢城、総構跡

「小田原城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

55.千早城~Chihaya Castle

典型的な日本の山城の原点
The origin of typical Japanese mountain castles

立地と歴史~Location and History

楠木正成の活躍~Activities of Masashige Kusunoki

楠木正成は14世紀に河内国(現在の大阪府東部)を根拠地とした有力武将でした。彼は最初は、中世に武士のための政権を担った鎌倉幕府に仕えていました。しかし、1331年に後醍醐天皇が幕府に反抗したとき、正成は天皇を助け、赤阪城で幕府と戦いました。ところが、この城は急ごしらえで、敵と戦うには不十分であったこともあり、正成は敗走せざるを得ず、そして姿をくらましました。天皇は幕府に捕らえられ、日本海の隠岐の島に配流されました。
Masashige Kusunoki was a great general based in Kawachi Province (what is now the eastern part of Osaka Prefecture) in the 14th century. He first worked under the Kamakura Shogunate, a government body for warriors in the middle ages, but when Emperor Godaigo was against the Shogunate in 1331, he supported the Emperor fighting with the Shogunate in Akasaka Castle. However, the castle was built in a hurry and wasn’t very strong enough to protect against enemies, so Masashige had to run away and disappear. The Emperor was caught by the Shogunate and brought to Okinoshima Island in Japan Sea.

楠木正成肖像画、狩野山楽筆、楠枇庵観音寺蔵~The portrait of Masashige Kusunoki, attributed to Sanraku Kano, owned by Nanpian Kannonji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
後醍醐天皇肖像画、清浄光寺蔵~The portrait of Emperor Godaigo, owned by Shojokoji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1333年、正成は雪辱を期し、上赤阪、下赤阪、そして千早といった城のネットワーク作りを開始しました。千早城は、その内で詰めの城の役割でした。この城は、河内と大和国(現在の奈良県)を結ぶ千早街道沿いにあり、日本の山岳修業の流派である修験道の場として知られた金剛山へ向かう途上にありました。そしてこの城は、全面を谷に囲まれた峰の上に位置していました。
In 1333, Masashige wanted to take revenge, so he started making his new network of castles: Kami-Akasaka, Shimo-Akasaka, and Chihaya. Chihaya Castle was the last one of the network. It was located alongside Chihaya Road connecting Kawachi and Yamato (now Nara Prefecture) Provinces, and
on the way to Mt. Kongosan which was known for the training of Shugen-do, i.e., Japanese mountain asceticism. The castle was also on one peak, surrounded by valleys on all sides.

城の位置~The location of the castle

千早城の模型、千早赤阪村郷土資料館蔵~The miniature model of Chihaya Castle, owned by Chihaya-Akasaka Folk Museum(licensed by Wikiwikiyarou via Wikimedia Commons)

千早城の戦い~Siege of Chihaya

正成と僅か千名の兵士からなる部隊は、千早城に籠城し、幕府の大軍から何回も攻められました。 これは千早城の戦いと呼ばれ、日本で最初の本格的な山城での戦いでした。幕府軍の武士たちはこのような戦いでどう攻撃してよいかわからず、陣地や攻めどころといった戦略や計画もなく、しゃにむに城に突進していきました。正成とその部下たちは、敵と戦うのに大抵は盾や矢を使ったのですが、更には岩、丸太、油と火、煮えた汚物までも使って幕府軍を撃退したのでした。また、夜襲をかけて、敵を更に疲弊させました。この籠城戦は3ヶ月間続きます。
Masashige, with his small army of one thousand soldiers, was besieged in Chihaya Castle, by the massive Shogunate troops several times. It is called Siege of Chihaya, and it is the first big battle to occur in a mountain castle in Japan. The shogunate warriors didn’t know how to attack in such a battle, so they straightaway charged the castle without any strategies or planning, with regards to position or location of attack. Masashige and his army mostly used shields and arrows in order to fight the enemies. In addition, they also used rocks, logs, oil and fire, and even boiled filth to repel the Shogunate. They also delivered night attacks to further tire the enemies. The siege lasted for three months.

千早城合戦図、歌川芳員筆、江戸時代、湊川神社蔵~The illustration of Siege of Chihaya, attributed to Yoshikazu Utagawa, in the Edo Period, owned by Minatogawa Shraine(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

籠城戦の間、後醍醐天皇は島を脱出し、幕府の配下を含む全ての武士たちに協力を求めました。そして足利尊氏や新田義貞といった幕府の有力な部将たちが天皇方についたのです。千早城を攻撃していた軍勢はそれを聞き、撤退していきました。ついに正成は勝利し、幕府は千早城の籠城戦が終わってからわずか12日後に滅びました。
During the siege, Emperor Godaigo escaped from the island, and requested all the warriors, even those that backed Shogunate, to support him. Some influential retainer of the Shogunate, such as Takauji Ashikaga and Yoshisada Nitta, took sides with the Emperor. The troops attacking Chihaya heard about it and withdrew. Finally, Masashige won and the Shogunate was destroyed in just 12 days after the Siege of Chihaya ended.

足利尊氏肖像画、浄土寺蔵~The portrait of Takauji Ashikaga, owned by Jodo-ji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正成と城の最期~End of Masashige and Castle

後醍醐天皇は建武の新政を始めますが、朝廷はすぐに後醍醐の南朝と、尊氏が別の天皇を立てて設立した北朝に分裂します。正成は最後まで後醍醐に仕えました。しかし、残念なことに1336年の摂津国(現在の兵庫県の一部)での湊川の戦いで尊氏に敗れてしまいます。千早城は正成の子孫により継承されますが、ついには1392年の北朝方の攻撃により落城しました。
Emperor Godaigo started Kenmu Restoration, but the kingdom was soon divided into his Southern Court and the Northern Court that Takauji established with another Emperor. Masashige followed Godaigo till the end, but was unfortunately defeated by Takauji in the Battle of Minatogawa, 1336 in Settsu Province (now part of Hyogo Prefecture). Chihaya Castle was kept by Masashige’s descendants, but eventually fell due to the attack of the Northern Court in 1392.

河内千破城図、湊川神社蔵~The illustration of Chihaya Castle, owned by Minatogawa Shrine(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特徴~Features

急坂を登る~Climbing Steep Slope

現在、千早城跡への入口は、いまだに金剛山への玄関口になっています。ここから急坂に沿った500段以上の石段を登っていかねばなりません。石段は元はなかったのですが、神社が建設されたときに一緒に作られました。山道は所々曲がりくねっていて、過去は敵を防げるようになっていました。
Now, the entrance to the ruins of Chihaya Castle is still the gateway for Mt. Kongosan. You have to climb up over 500 steps of stones along the steep slope. The steps were not there originally, instead they were developed when a shrine was constructed . The trail is partly zigzagged to prevent enemies in the past.

千早城跡入口~The entrance of Chihaya Castle Ruins
石段の急坂~The steep stone steps
曲がりくねっている山道~The zigzagged trail

城の中心部は神社に~Center of Castle becomes Shrine

20分程かけて150mの高さを登っていくと、この城では最も広い郭である第四郭にたどり着きます。そこから更に山の鞍部を通る通路を通って第三郭に至ります。この郭には神社の社務所や、城の記念碑があります。
After about 20 minutes of 150m high climbing, you will reach the Fourth Enclosure which is the roomiest space in the castle. You can go further the route on a saddle of the mountain to the Third Enclosure. The enclosure has the shrine office and the monument of the castle.

第四郭~The Fourth Enclosure
山の鞍部~The saddle part of the mountain
第三郭~The Third Enclosure
城の記念碑~The monument of the castle

第三郭の後は第二郭となり、正成を祀る千早神社が鎮座しています。第一郭がまた第二郭の背後にありますが、聖地として一般の立ち入りは禁止されています。第一郭にはかつては見張り台のような建物があったと考えられています。
Chihaya Shrine that worships Masashige is on the Second Enclosure in at the back of the Third Enclosure. The First Enclosure is also at the back of the Second Enclosure, but it is closed to visitors of the shrine as it is considered the sanctuary. It is thought that a building, like a watchtower, stood on the First Enclosure in the past.

千早神社~Chihaya Shrine
第一郭は立ち入り禁止~The First Enclosure is closed

残っているものはあるか?~Does something original remain?

神社からは脇道が分かれ出ています。その道から見下ろすと、何か腰曲輪のようなものがあります。これらは元からあったものなのでしょうか。第三郭と第四郭の間の鞍部に戻ると、神社への脇参道を使って、山から下りることができます。谷底の一つは林道になっていて、そこから見ると坂道がとても急になっていて、この城がいかに自然の地形をうまく活用しているかがわかります。
The side tail goes from the shrine. From the trail, you can look down at something like bounded enclosures. I wonder if they are original or not. If you go back to the saddle between the Third and Fourth Enclosures, you can go down from the mountain using the side pathway to the shrine. One of the valleys’ bottoms has become a forest road. When you look up at the mountain from the road, you can see how steep the slope is, and how well the castle used natural terrain.

腰曲輪のように見えます~They can look like bounded enclosures
自然の断崖~The natural cliff

その後~Later History

千早城は長い間放置されてきました。ところが、明治維新後、状況は劇的に変化しました。北朝の子孫である明治天皇がどういうわけか南朝が正統と決めたのです。正成は、歴史家の間では優れた戦略家として知られてきましたが、突然日本史上最も有名な人物に祭り上げられてしまったのです。第二次世界大戦まで、彼の戦略とイデオロギーは全ての国民を忠良な臣民として教育するために利用されたのです。その結果、1879年に千早神社が城跡の上に建設されました。
Chihaya Castle had been abandoned for a long time. However, after the Meiji Restoration, the situation dramatically changed. Emperor Meiji who was a descendant of the Northern Court decided that the Southern Court was orthodox for some reasons. Masashige, who had been recognized as a great strategist only popular among historians, suddenly transformed into the most famous historical figure. His strategies and ideologies were used to educate all the nations in Japan, which was to be loyal subjects, until World War ll. As a result, Chihaya Shrine was built on the castle ruins in 1879.

皇居外苑にある楠木正成の銅像~The statue of Masashige Kusunoki at Outer Gardens of the Imperial Palace(licensed by David Moore via Wikimedia Commons)

現在でさえ、多くの年配の日本人は正成は単に忠臣だと思っています。一方で、若者の間では彼の名前さえ知らない人もいます。最近では歴史家たちは彼個人について一部研究が進んでいますが、いまだに謎のままです。この地は1934年から国の史跡に指定されています。
Even now, many old people in Japan think Masashige is just a loyal retainer. On the other hand, some young people even don’t know his name. Historians are recently studying about him as some parts of his personality still remain a mystery. The site has been designated as a National Historic Site since 1934.

私の感想~My Impression

私は千早城は日本の典型的な山城の先駆けだと思うのです。なぜなら敵から守るために、自然の障壁を最大限活用していたからです。その後の武士たちはこの城とここでの戦いから多くを学んだに違いありません。神社がよく整備され、正成の名が不朽なものとして残るのはよいことですが、せめて第一郭に立ち入らせてもらえないでしょうか。自治体の方にも城跡を史跡として整備し、もっと本当の正成を人々に知ってもらうようにすることを望みます。
I think that Chihaya Castle is the forerunner of typical mountain castles in Japan, because it used natural hazard at maximum to protect from enemies. Later warriors must have learned a lot from the castle and the battle on it. I am pleased to see that the shrine are is well maintained and Masashige’s name is kept intact .I hope that the shrine will allow visitors to enter the First Enclosure, and that the local government will preserve the ruins really like a historic site to let so that people know more about real Masashige more.

第一郭を見上げる~Looking up the First Enclosure

ここに行くには~How to get There

車の場合、阪和自動車道美原南ICから約30分かかります。城跡の入口周辺にいくつか駐車場があります。
バスの場合、近鉄長野線富田林駅から、金剛バス千早線の千早ロープウェイ前または金剛登山口行きに乗るか、
南海高野線か近鉄長野線の河内長野駅から、南海バス窪田線の金剛山ロープウェイ前行きに乗ってください。
どちらのケースでも、金剛登山口バス停で降りてください。
By car, it takes about 30 minutes away from the Mihara-Mnami IC on Hanwa Expressway. There are several parking lots around the entrance of the castle ruins.
By bus, you can take the Kongo Bus on Chihaya Line bound for Chihaya-Ropeway-Mae or Kongo-Tozanguchi from Tondabayashi Station on Kintetsu Nagano Line, or take the Nankai Bus on Kobuka Line bound for Kongosan-Ropeway-Mae from Kawachi-Nagano Station on Nankai Koya Line or Kintetsu Nagano Line. Get off at the Kongo-Tozanguchi bus stop in both cases.

リンク、参考情報~Links and References

千早城 千早神社、千早赤阪村観光協会(Chihaya-Akasaka Village Tourism Association)
・「日本の城改訂版第103号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)
・「日本の攻城戦55/柘植久慶」PHP文庫(Japanese Book)

200.勝連城~Katsuren Castle

美しい、しかしとても強力な城です。
Beautiful, but very strong castle

立地と歴史~Location and History

有名なグスクの一つ~One of famous Gusuku

14、15世紀ころ、琉球諸島(現在の沖縄諸島)は貿易によって栄えました。結果、琉球には「按司」と呼ばれた有力な豪族が多く現れ、中国や他国と貿易を行い、力をつけていきました。彼らは沖縄諸島一帯に、300以上の大規模な要塞を築き「グスク」と呼ばれました。勝連城は代表的なグスクの一つです。
Around the 14th and 15th centuries, the Ryukyu Islands (what is now Okinawa Islands) prospered thanks to trading. As a result, many powerful clans in Ryukyu called “Aji” traded with China and other countries, and had great power. They built over 300 large-scale fortresses called “Gusuku” around the Ryukyu Islands. Katsuren Castle was one of the representative Gusuku.

城の位置~The location of the castle

発掘の成果によれば、この城は最初は14世紀初めころ築かれました。これはグスクとしてはとても早い時期です。当初しばらくは勝連按司がこの城を保有していたと言われています。15世紀初頭に阿麻和利が10代目且つ最後の城主となり、この城は最盛期を迎えます。発掘では、高価な中国製陶器の破片も見つかっています。古い琉球歌集である「おもろそうし」には、この城は日本の武士の都、鎌倉のように栄えていた、と書かれています。
According to the excavation, the castle was first built around the beginning of the 14th century which is very early time for Gusuku. It is said that Katsuren Aji clan first owned the castle for a while. In the beginning of the 15th century, Amawari became the 10th and last lord of the castle that reached its peak time. The excavation also found pieces of valuable Chinese ceramic ware. A collection of traditional Ryukyu songs called “Omorososhi” says the castle prospered like Kamakura, the warriors’ capital of Japan.

琉球王国の進貢船、沖縄県立博物館・美術館~A tribute ship from the Ryukyu Kingdom, Okinawa Prefectural Museum and Art Museum collection(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

船のようなグスク~Gusuku looking like Ship

勝連城は、沖縄本島の東海岸にある勝連半島の付け根に位置していました。城の近くには貿易港もありました。城は3つの部分からなっていました。北西の部分は「ニシグスク」と呼ばれ、98mの高さの丘上にあり、城の主要且つ最も高い位置にある部分でした。真ん中の部分は、低い位置で城の入口に当たりました。南東の部分は、「へーグスク」と呼ばれ、違う丘の上にありましたが、北西部分よりは低くなっていました。結果的に、城は当時の船の形のように見えたため、別称で「進貢船のグスク」とも呼ばれました。
Katsuren Castle was located in the connecting part of Katsuren peninsula, the eastern coast of Okinawa Island. There was also a trade port near the castle. The castle had three parts. The northwest part called “Nishi-gushiku” on a 98m high hill was the main and highest part of the castle. The middle part was low and the entrance of the castle. Lastly, the southeast part called “He-gushiku” was on another hill lower than the northwest part. As a result, the castle looked like a traditional ship which was nicknamed “the Gusuku of a ship for tribute”.

城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

城の想像画~The imaginary picture of the castle(現地説明板より~from the signboard at the site)

阿麻和利の乱~Amawari Rebellion

阿麻和利は有力な按司となり、その勢いは琉球王国の王に並ぶほどでした。実際、国王は彼の娘を阿麻和利に嫁がせ、親戚としていました。ところが、阿麻和利は国王に取って代わろうとしたと言われています。まずは国王の家臣、中城城の護佐丸を滅ぼします。次に王国を攻撃する準備をしますが、彼の妻は国王である彼女の父に夫の計画を伝えたのです。1458年、3日間の籠城戦の末、阿麻和利はついに王国によって討たれてしまいました。歴史家の中には、王国の方が阿麻和利をだましたのだという人もいますが、真相は不確かです。
Amawari became a great Aji, almost an equal to the king of the Ryukyu Kingdom. The king actually married his daughter with Amawari to make him his relative. However, it is said that Amawari wanted to take over for the king. Amawari first beat the king’s retainer, Gosamaru at Nakagusuku Castle. Amawari secondly prepared to attack the Kingdom, but his wife informed her father, the king, of her husband’s plan. Amawari was finally beaten by the Kingdom after the three-day siege in 1458. Some historians argue that the Kingdom might have deceived Amawari and beat him. The fact is still uncertain.

阿麻和利の墓~The tomb of Amawari(licensed by Kugel~commonswiki via Wikimedia Commons)

特徴~Features

城跡に入る~Entering Castle Ruins

現在、勝連城跡は主にその北西部分に残っています。城跡を車で訪れる場合は、城跡休憩所の所に駐車できます。休憩所では城跡に行く前に城のことを学ぶこともできます。
Now, the ruins of Katsuren Castle remain mainly in the northwest part. If you drive your car to visit the ruins, you can park at the guide house. You can also learn about the castle at the house before you walk to the ruins.

城周辺の地図~The map around the castle

最初に城跡に入るには、西原御門跡、四の曲輪と呼ばれる城の入口である中間部分を通っていきます。「外郭」と呼ばれる石垣が、この曲輪と南東部分を囲っていましたが、現在ではその基礎部分しか見ることができません。
You will first enter the ruins through the ruins of Nishihara Gate, the entrance of the castle at the middle part called the Forth Enclosure. The stone walls called the Outer Fence or “Gaikaku” rounded the enclosure and the southeast part, but you can only see their base now.

城跡の入口~The entrance of the castle ruins
外郭の基礎部分~The base of the outer fence

内郭と石垣~Inner Fence and its Stone Walls

過去には石畳が西原御門と反対側の南風原御門から北西部分の方に伸びていました。現在では過去と同じルートに作られた木製階段に通って進んでいきます。
In the past, the stone pavement spread from another gate called Haebaru Gate at on the opposite side of Nishihara Gate to the northwest part. You will now go through the wooden stairway on the same line as the past.

南風原御門跡から見た風景~A view from the ruins of Haebaru Gate
城跡に伸びるルート~The pavement to the castle ruins

北西部分は、一段目の三の曲輪、二段目の二の曲輪、最上段の一の曲輪から成り立っています。この部分を囲んでいる石垣は「内郭」と呼ばれ、よく保存されており、美しく、そして強固です。
The northwest part consists of the Third Enclosure as the first tier, the Second Enclosure as the second tier, and the First Enclosure as the last tier. The stone walls surrounding this part are called the Inner Fence or “Naikaku” and remain very well-preserved and look very beautiful and strong.

内郭の全景~The whole view of the inner fence

この城のほとんど全ての石垣は、「布積み」と呼ばれる方法で、四角く加工された石灰岩で水平に積まれています。また、それを鈎状に組むことで強度を増すための工夫も見られます。
Almost all of this castle’s stone walls are piled with square processed lime stones horizontally, the method called “Nuno-zumi”. They are also arranged in a hooked pattern to increase their strength.

勝連城の石垣~The stone walls of Katsuren Castle

曲輪群と素晴らしい景色~Enclosures and Great Views

三の曲輪の石垣は、訪れる人の前に立ちはだかります。この曲輪に門があり、今はその土台の石垣を見ることができます。この辺りは防衛上重要な地点であったにちがいありません。この曲輪の中は、儀式の場所として使われたようです。
The stone walls of the Third Enclosure stand out high for visitors. The enclosure had a gate, and We can see the gate’s stone wall base. The route to the enclosure turns at a right angle at the gate. This area must have been the an important point for defense. The inside of the enclosure seemed to be used as the space for ceremonies.

三の曲輪の入口~The entrance of the Third Enclosure
三の曲輪の内部~The inside of the Third Enclosure

二の曲輪には首里城の正殿ような舎殿がありました。すなわち、この城では最も重要な場所ということです。主殿の屋根は瓦葺きであり、当時の琉球では大変稀なことでした。これらのことからもこの城がいかに栄えていたかがわかります。
The Second Enclosure had the palace like the the Main Palace in Shuri Castle. That meant this place was the most important for the castle. The palace had roof tiles which were very rare for that period in Ryukyu. These facts also prove the prosperity of the castle.

主殿跡~The ruins of the main palace

一の曲輪は、詰めの曲輪です。この曲輪には敵の攻撃を防ぐため、三の曲輪のように、正面の高石垣と屈曲した入口がありました。この曲輪にも瓦屋根の建物がありました。この場所は最も高い位置にあり、障害物もないため、ここからは360度の素晴らしい景色を堪能できます。
The First Enclosure is the last enclosure. The enclosure, like the Third Enclosure, has high front stone walls and a bent entrance route to prevent enemies from attacking. The enclosure also had a building with roof tiles. This place is the highest point with no obstruction, so you can have an excellent 360 degrees view from it.

一の曲輪の石垣~The entrance of the stone walls
一の曲輪の入口~The entrance of the First Enclosure
一の曲輪からの南方の景色~A southern view from the First Enclosure
一の曲輪からの北方の景色~A northern view from the First Enclosure

この城には「御嶽」と呼ばれる多くの祈願所がありました。これは琉球のグスクに見られる共通の特徴です。例えば、一の曲輪には「玉ノミウヂ御嶽」跡があり、それでは城を守るための霊石が祀られていました。建物がその石の上に建てられていました。
The castle had many spots for praying called “Utaki”. That was the common feature for Gusuku in Ryukyu. For example, there are the ruins of “Tamanomiuji-Utaki” in the First Enclosure where people prayed the holy stone for protecting the castle. The building was built on the stone.

「玉ノミウヂ御嶽」跡~The ruins of “Tamanomiuji-Utaki”

その後~Later History

阿麻和利が倒されても城は祈願所として使われていましたが、いつしか廃城となりました。三の曲輪にある「肝高の御嶽」跡はその時代のものです。城のほとんどの石垣は長い間残っていたようです。ところが、約100年前の大正時代と昭和初期に、残念ながら多くの石垣が工事資材として遺跡から運び出され使われてしまいました。そのために外郭の石垣は基礎だけになっているのです。第二次世界大戦後、遺跡は国の史跡に指定されました。ついには、2000年から琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録されています。
Although the castle was still used as the a places for prayer for a while after Amawari had been beaten, it was abandoned at some point. The ruins of “Chimudaka-nu-Utaki” in the Third Enclosure are from that period. Most stone walls of the castle seemed to remain for a long time. However, in the Taisho Era and the first Showa Era, about 100 years ago, many stones were unfortunately taken away from the ruins for and used as construction materials. That’s why we now see only the base of the Outer Fence. After World War II, they were designated as a National Historic Site. Lastly, they have also been on the World Heritage List as Gusuku Sites and Related Properties of the Kingdom of Ryukyu since 2000.

肝高の御嶽があった三の曲輪~The Third Enclosure where Chimudaka-nu-Utaki was

私の感想~My Impression

勝連城は素晴らしい景勝地です。グレーの石垣、緑の丘、沖縄の青い海が素晴らしいコントラストを醸し出しています。ここからの眺めもまた特別なものです。その上にこの城は、まるで阿麻和利から1世紀後の日本本土の戦国時代の山城のように強力だと思います。この城は美しさと強さを併せ持っていると断言できます。
Katsuren Castle is a great place to visit, because its gray stone walls, the green hill, and Okinawa’s blue sky can make a very good contrast. Views from the ruins are also very special. Moreover, I think the castle is so strong that is just like a mountain castle in the mainland of Japan in the Sengoku Period, about one century after Amawari. I can definitely say this castle has both of beauty and strength.

城跡からの眺め~A view from the castle ruins

ここに行くには~How to get There

ここには車で行かれることをお勧めします。
那覇空港から:
車の場合、那覇空港自動車道に名嘉地ICから入り、西原JCTで沖縄自動車道に合流し、沖縄北ICで降りてください。城跡はそこから10km以内で、休憩所に駐車場があります。
I recommend you to visit it by car.
From the Naha Airport:
By car, enter Naha Airport Expressway at the Nakachi IC, join Okinawa Expressway at the Nishihara JCT, and get off the expressway at Okinawa-Kita IC. The ruins are within 10 km of the IC, and the guide house offers a parking lot.

リンク、参考情報~Links and References

勝連城跡World Heritage Katsuren-Jo Site
萩原さちこの城さんぽ 第23回 勝連城(Only Japanese)
・「列島縦断「幻の名城」を訪ねて/山名美和子著」集英社新書(Japanese Book)
・「日本の城改訂版第88号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)