17.金山城 その1

金山城は、現在の群馬県太田市にあった城です。この城は「難攻不落」として知られていて、「あの上杉謙信も落とせなかった」というフレーズ付きです。謙信だけでなく、武田・北条も攻めたことがありますが、力攻めでは落とすことができませんでした。また、城に比べると城主たちの名前は知られていないように思いますが、その城主たちにも色々なドラマがありました。城と城主があいまって、難航不落が達成できたと言えるのだと思います。この記事では、城主たちを交えながら城の歴史を紹介していきます。

立地と歴史

金山城は、現在の群馬県太田市にあった城です。この城は「難攻不落」として知られていて、「あの上杉謙信も落とせなかった」というフレーズ付きです。謙信だけでなく、武田・北条も攻めたことがありますが、力攻めでは落とすことができませんでした。また、城に比べると城主たちの名前は知られていないように思いますが、その城主たちにも色々なドラマがありました。城と城主があいまって、難航不落が達成できたと言えるのだと思います。この記事では、城主たちを交えながら城の歴史を紹介していきます。

太田市の範囲と城の位置

岩松家純による築城と横瀬氏による下剋上

太田市周辺の地域は中世には新田荘と呼ばれていて、源氏の一族である新田氏が開発、定住していました。新田氏の中でも最も有名な人物は、何といっても1333年(元弘3年)に鎌倉幕府を攻め滅ぼした新田義貞でしょう。その後南北朝時代となり、南朝に属した義貞は、北朝方の同じ源氏一族、足利尊氏の軍勢によって討たれてしまいました。新田荘を引き継いだのは、新田氏の支族で、足利氏に従った岩松氏でした。岩松氏は、足利氏が設立した室町幕府の下、新田一族を代表する立場となりました。

新田義貞肖像画、藤島神社蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

室町時代後半になると、関東地方に動乱が起こります。1415年(応永22年)関東公方・足利持氏に対して前関東管領・上杉禅秀が反乱を起こしたのです。当時の岩松氏の当主・満純は、禅秀に味方しましたが、禅秀は敗れ、1417年(応永24年)満純も処刑されました。岩松家は、満純の甥・持国が継ぎました(京兆家)。満純の遺児・家純は京都に逃れ、時の将軍・足利義教に保護されました(礼部家)。義教と持氏は対立していたので、義教は家純を持氏牽制のためのカードとして使おうとしたのです。

足利義教肖像画、妙興寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

やがて、その機会がやってきました。1438年(永享10年)持氏と、関東管領・上杉氏及びバックアップする幕府との間で永享の乱が勃発したのです(持氏の敗死で終了)。2年後には、更に公方方と上杉・幕府方間で、結城合戦が起こりました。このとき、岩松家当主・持国(京兆家、けいちょうけ)は公方方でしたが、京都にいた岩松家純(礼部家、れいぶけ)が上杉・幕府方として参戦したのです。これは関東諸将にとって驚きだったようです(ただし家純は後見の足利義教暗殺事件があって帰京した模様)。そして1454年(享徳3年)後任の関東公方(のちに古河公方)・足利成氏と上杉氏(+幕府)との間で再び戦が始まり、関東地方が戦国時代に突入します(享徳の乱)。岩松家は持国が公方方、家純が上杉方でしたが、戦いが進むにつれ、岩松家全体が上杉方に傾き、家純が当主として迎えられることになったのです。それは1469年(文明元年)のことでした。それは彼が上杉禅秀の乱の結果、流浪の身になってから52年もの歳月が経っていました(家純61歳)。その家純を迎えるため、重臣の横瀬国繁らの手によって築かれたのが金山城だったのです(下記補足1)。

(補足1)文明元年2月25日、新田(岩松)家純が僧松陰を代官として地鎮の儀式を行い, 70余日断絶なく普請に走り回り、同8吉日に完成した。重臣の横瀬国繁らが由良原まで出迎え、家純は五十子陣から金山城に入城して祝賀の宴を行った。(長楽寺僧・松陰西堂「松陰私語」、「妙印尼輝子」ホームページによる要旨引用)

「結城合戦絵詞」で足利持氏が自害する場面  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城が築かれた金山は新田荘の北部にあり、麓から約180mの高さがある独立丘陵で、山城を築くのに適していました。また山上に泉が湧いていて、平安時代から聖地とされ(現在の日ノ池)、城にとっては貴重な水源となったのです。岩松氏の当主はもともと、岩松(氏)館と呼ばれた平地の居館に住んでいたと考えられていますが、戦国時代の到来により、安全な山城に移動する必要もありました。関東地方の類似例としては、箕輪城唐沢山城が挙げられるでしょう。金山城の築城は、岩松家純の帰還(両岩松家の統一)と併せ、地域にとっても画期的な出来事でした。1478年(文明10年)には太田道灌も訪れています。

岩松氏館跡、現在は岩松山青蓮寺になっています
岩松氏館付近から見える金山

家純は、通常は上杉方の本拠地、五十子陣(いかっこじん)に滞在し、京都から彼の跡継ぎ・明純も到着しました。1477年(文明9年)に内乱(長尾景春の乱)により五十子陣が崩壊すると、岩松勢は金山城に戻り、家純はその場で今後は古河公方に従うと宣言しました。そしてあろうことか、息子の明純を勘当してしまったのです。両者の間で路線対立があったのかもしれません。紆余曲折の後、跡継ぎは孫の尚純(ひさずみ)ということになりました。

伝・岩松尚純自画像、青蓮寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1494年(明応3年)カリスマ的存在の家純が86歳で亡くなると、家中が動揺します。当主・尚純を重臣・横瀬氏が後見する体制であったのが、勘当されていた明純が翌年、尚純と謀り、横瀬氏を除くべく反乱を起こしたのです(屋裏の錯乱、横瀬氏の当主・成繁が草津湯治に行ったタイミングを見計らった)。しかし、明純は、横瀬一族が立てこもる金山城を落とすことができず、ついに古河公方・足利成氏が調停に乗り出しました。その結果は、尚純は隠居、尚純の幼児・昌純(まさずみ)が跡を継ぐというものでした。つまり、京都帰りの家純以下に代わって実際に家中を取り仕切っていたのは、重臣・横瀬氏であり、それが名実ともに明らかになったのです。これが下剋上の始まりでした。隠居させられた尚純は、京都育ちの教養人であったため、岩松の館で和歌・連歌の道の没頭しました(下記補足2)。昌純が成長すると、横瀬氏の当主・泰繁(やすしげ)と対立するようになり、逆に討たれてしまうという事件が発生しました。この事件で、横瀬氏の下剋上達成とされています(岩松氏は形式上の主君として継続)。

(補足2)明る朝、利根川の舟渡りをして、上野の国新田の庄に、礼部尚純、隠遁ありて今は静喜、かの閑居に五六日。連歌たび〱におよべり。(往路)新田の庄に大沢下総守宿所にして、草津湯治のまかなひなどに六七日になりぬ。静喜にてまた連歌あり。(復路)(連歌師宗長「東路の津登」)

岩松尚純の墓、青蓮寺の近くにあります
横瀬泰繁肖像画、龍得寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

上州の戦国大名、由良成繁

泰繁の子、成繁(前述の成繁とは別人)は1545年(天文14年)に跡を継ぎました。彼の時代は、まさに関東地方が戦いの渦中にありました。北条・上杉・武田が覇権を争う中で渡り歩き、一族の独立を守っただけでなく、領土も広げました(館林・桐生地域を攻略)。成繁は当初、北条氏に服属していましたが、(北条氏が傀儡としてた古河公方・足利義氏に仕えていた)京都の将軍・足利義輝とも交流を持っていました。例えば、義輝から伝来間もない鉄砲を下賜されています。(下記補足3)この交流は中央からの情報源にもなっていました。そしてついには苗字を、新田氏ゆかりの地名から「由良(ゆら)」に変え、自分たちが新田一族の正統であると称したのです(新田義宗の子、貞氏が養子に入ったとした、由良家伝記)。義輝からは、岩松氏と同等以上の役職(刑部大輔・御供衆、岩松氏は治部大輔、由良文書)に任じられました。この時代に下剋上を戦国大名として生き残るには、武力だけはなく、人々から認められるための権威も必要だったのです。

(補足3)数寄之由、相聞候条、鉄放(砲)壱丁遣之候、猶晴光可申候也、五月廿六日(花押)横瀬雅楽助とのへ(天文22年足利義輝御内書、安川由良文書)

足利義輝肖像画、国立歴史民俗博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1560年(永禄3年)越後国の上杉謙信(当時は長尾景虎)が、本格的な関東侵攻(越山)を開始します。この動きを京都からの情報で得ていた(下記補足4)成繁は、いち早く謙信に味方します。越後勢と戦うことは不可能と判断したようです。謙信の下に参陣した武将名を記録した「関東幕注文」にも「新田衆」の筆頭にその名が見えます。(下記補足5)北条氏は、横瀬氏(当時)からの人質に危害を加えませんでした。これが後の成繁の行動に影響したかもしれません。

(補足4)関白殿御下国の処、馳走せしむの由、尤も神妙候(永禄3年10月3日足利成繫宛義輝御内書、集古文書)

(補足5)新田衆 横瀬雅楽助 五のかゝりの丸の内の十万(関東幕注文、上杉家文書、「新田殿御一家(岩松一族)」はその後に記載)

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが成繁は、1566年(永禄9年)8月頃、再び北条氏に従うことにしました。(下記補足6)同年3月、謙信は下総国臼井城攻めに失敗し、その権威が大きく低下していたからです。成繁は後に遺言で「北条氏のやり方は常に無道である」(補足7)と言っているので、信頼したわけではなかったでしょうが、その時点で冷静な判断をしたと思われます。その結果、上州の領主が次々に北条方につき、謙信の重臣・厩橋城の北条高広までが離反しました。上杉方は、上野国の拠点のほとんどを失い大打撃となりました。謙信は激怒し(補足8)、上野国に攻め込み、自身の書状で新田(金山城)攻めの予定を告げていますが、実行したかどうかはわかっていません。

(補足6)東口の事、宇都宮を始め両皆川・新田(由良)当方へ申し寄せ候、なかんずく成田の事、我々の刷(あつかい)を以て時宜(じき)落着す、(8月25日付正木時忠宛北条氏照書状、三浦文書)

(補足7)北条氏のやり方は常に無道であるので、北条家の御陣の供に兄弟一緒に出てはならぬ」(「石川忠総留書」坤より、黒田基樹「由良氏の研究」)

(補足8)第一の侫人成繁を始めとして退治を加うべし(永禄10年正月28日付佐竹義重宛謙信書状、伊佐早文書)

臼井城跡

永禄11年12月、状況がまた変わります。武田信玄が武田・今川・北条の三国同盟を破り、今川領に侵攻したのです。それにより、北条氏の当主・氏康も、長年の宿敵・謙信と講和することを決断しました。その交渉役になったのが、由良成繁と北条高広でした。(下記補足9)この二人は上杉への最前線にいて、かつて上杉方だったため知己も多かったからです(成繁のルートは「由良手筋」と呼ばれました)。交渉は困難を極めましたが、成繁は金山城を交渉の場として提供するなど努力を重ねました。自らも戦国大名でありがなら、地域の安定を願ってのことだっだと思われます。講和(越相同盟)によって、上野国は上杉方となりました。

(補足9)越・相取扱の儀、旧冬以来源三(北条氏照)・新太郎(氏邦)如何様にもと存じ詰め、様々その稼ぎを致す、なかんずく新太郎には愚老(氏康)申し付け、由信(成繁)取扱について相違なく相整え候、(永禄12年3月3日付上杉方沼田在城衆宛北条氏康書状、歴代古案三)

武田信玄肖像画、持明院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏康肖像画、小田原城所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、1571年(元亀2年)に氏康が亡くなると、跡継ぎの氏政は、武田との同盟を復活します。同盟のメリット(上杉方の武田領への侵攻)が機能しなかったからです。成繁は氏政に対して不満を露わにしますが、結局北条方に戻ってきました。これも彼の戦国大名としての判断だったのでしょう。新田はまた争乱の地となり、上杉方が金山城北方の丸山砦を占領した一方、由良方も桐生城を落とし、周辺地域を領土としました。謙信はまたも激怒し、1574年(天正2年)二度に渡って上野に出兵しました。謙信本体が3月に由良領に侵攻し、4月に金山城を攻めました。城の物見から死角となる藤阿久という所に陣を布いたそうです。由良方は籠城に徹し、上杉方も簡単には城を落とせないので、周辺地域の放火・略奪に終始しました。領内にダメージを与えるためです。「義」といってもその当時は「イコール民衆のため」ではなかったのです。北条軍は資材の支給・上杉軍への牽制を行って由良方を支援しました。5月頃謙信は退陣したようです。同年10、11月にも謙信による由良領侵攻と退陣がありました。謙信は1578年(天正6年)3月に没しますが、成繁も6月に隠居先の桐生城で亡くなりました。戦国大名として波乱の人生でした。跡継ぎの国繁も、今度は武田勝頼(天正8年に新田に出陣)や滝川一益(織田信長配下)の関東侵攻を乗り切り、領土を守ったのです。国繁は、両者からの服属要求をあいまいにしていたようです。

城跡の近くの金龍寺にある由良成繁の墓(真ん中)

金山城の発展

金山城は、当初は金山丘陵の頂上周辺に小規模に築かれていました。頂上に実城(本丸)があり、周りの二の丸・三の丸くらいの範囲と推定されています。また、城主が普段住む館は、山麓にあったと考えられます。それが、横瀬氏が実権を握る時期になると、「中城」と呼ばれる範囲まで広がりました。それは、城の中心部を区切る物見台下堀切辺りまでと推定されています。由良成繁が戦国大名となった頃には、度重なる戦に対応するため、城の改修が進められ、最終的には、丘陵外側に「北城(きたじょう)」「西城(にしじょう)」が、南側にある八王子丘陵には「八王子山ノ砦(はちおうじやまのとりで)」が築かれました。山全体が城郭化し、山麓の館とも連携する形となりました。

物見台下堀切
同じ部分の復元模型、史跡金山城跡ガイダンス施設にて展示

防御の仕組みとしては、山城なので自然の地形を利用しながら、それを加工して土塁・堀切・虎口などを備えました。また金山城は、関東地方で戦国時代から石垣が多用された珍しい城として知られています。石材は金山そのものから調達できたので、城の主要部分で石敷・石組として活用されました。これらの石垣を最終的に整備したのは北条氏なのですが、改修が何度もされていて、初期の工事は由良時代ではないかとされています。北条氏は、石垣以外にも、その当時先進の防御構造を、見附出丸などに導入しました。

石垣が復元された大手虎口
同じ部分の復元模型、史跡金山城跡ガイダンス施設にて展示

城と一族の意地を貫いた妙印尼

戦国時代末期、関東地方はほぼ北条氏の覇権に下に治まりました。1583年(天正11年)10月、由良氏と金山城にとって大事件がまたも起こります。当主・国繁と実弟の長尾顕長が突然北条氏によって捕らえられ、金山城・館林城の明け渡しが要求されたのです。この話は、場所は厩橋城小田原城とも、口実は接待、作戦会議とも、理由は両城の借用に難色を示したとか言われていますが、北条氏が城の直接支配に乗り出したことは間違いありません。2人は小田原に護送監禁されました。このとき、金山城に残って抗戦の決意をしたのが、成繁の妻・妙印尼です(妙印尼の孫・国繁の子である貞繁もいました)。こうして最後ともいうべき籠城戦が始まりました。北条方は、氏政・氏直・氏照らトップクラスが出陣し、翌年にかけて城外の領地でも戦いが続きました(藤岡・沼尻合戦など)。由良方は佐竹氏と連携し、外交面でも豊臣秀吉や徳川家康にも連絡を取りました。これはこの時でなく後に効果が現れます。城は落ちませんでしたが、劣勢は如何ともし難く、監禁された2人と交換で、金山城・館林城を引き渡すことで降伏しました(下記補足11)。由良氏は桐生城に移り、北条氏の家臣・清水太郎左衛門尉が金山城に入り、城の改修を進めました。

(補足10)由信・長新帰城の上、両地南方へ明け渡し候儀、是非なき次第に候(2月5日付宇都宮国綱書状、佐竹文書)

小田原城

1590年(天正18年)3月に豊臣秀吉による北条領侵攻が始まると、また劇的な出来事が起こります。由良氏の当主・国繁は、小田原城に召集されていました。そのとき77歳になっていた妙印尼は、孫の貞繁とともに、いち早く桐生城を開城し、豊臣北陸軍の大将・前田利家の下に参じました。そして、由良家の今後について嘆願を行ったのです。それに対する利家の返事が残っています(下記補足11)。それは北条氏が7月に降伏した後、秀吉から朱印状が発せられることで成就しました(補足12)。事実かどうかわかりませんが、妙印尼と貞繁が、利家とともに小田原合戦に加わり、秀吉に謁見したという話まで伝わっています。

(補足11)新田身上の事、うえさま御前別条なきよう精を入れ、馳走申しまいらせ候、我々たしかに請け取り申し候、ゆくゆくまでも疎意あるまじく候間、ご安心あるべく候、かしく 六月七日 ちくぜんの守とし家(黒印)新田御老母へ まいる(金谷由良文書)

(補足12)由良・長尾兄弟の事、内々に天下え御意を請由にて、先年小田原へ擒え置き、居城へ取り懸かり、相渡すべき旨申し懸け候と雖も、母の覚悟として、城を相拘え、京都へ御届け申し上げ候刻、先ずは成り次第に仕るべく候旨、仰せ出だされ候に付いて、了簡に及ばず、小田原へ城を相渡し、今度籠城すと雖も、右の趣御失念なく候条、本知をも下され度く思し召され候へとも、家康へ下され候条、堪忍分として常陸国の内牛久、当知行の旨に任せ、一職に下され候間、母の覚悟に任せ、全く了知すべき者なり(天正18年8月朔日付由良・長尾老母宛豊臣秀吉朱印状、安川由良文書)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

一方、北条氏が強化したはずの金山城は、4月頃あっけなく落城(または開城)してしまい、その後は廃城となりました。妙印尼は本当は金山城に戻りたかったのでしょうが、常陸国牛久に領地を与えられ、1594年(文禄3年)に81歳で亡くなるまでその地で過ごしました。北条氏の関係者の多くが改易になった中、由良家存続には成功したのです。由良家は最終的には江戸幕府下で高家の一つとなりました。もし妙印尼と由良氏が、わずかな守備兵であっても金山城に居続けていたならばどうなっていたでしょうか。忍城では、地元生え抜きとして城を守っていた成田長親が、石田三成の水攻めに耐え抜いていました。金山城も簡単に降伏せず、後に名が残るような攻防戦が起こっていたかもしれません。

牛久城跡
牛久・稲荷山得月院にある妙印尼の墓
江戸時代の忍城を復元した模型、行田市郷土博物館にて展示

リンク、参考情報

金山城跡、太田市ホームページ
妙印尼輝子
・「新田一族の戦国史/久保田順一著」あかぎ出版
・「戦国史-上州の150年戦争-」上毛新聞社
・「上野岩松氏(シリーズ・中世関東武士の研究 第15巻)/黒田基樹編」戒光祥出版
・「上州の戦国大名 横瀬・由良一族/渡辺嘉造伊著」りん書房
・「関東の名城を歩く 北関東編/峰岸純夫・齋藤慎一編」吉川弘文館
・「戦国の山城を極める 厳選22城/加藤理文 中井均著」学研プラス
・「妙印尼輝子/浜野春保著」武蔵野書房
・「不落の城 新田金山城ガイドブック」群馬県太田市教育委員会
・「国指定史跡 金山城跡 平成21年3月改訂版」太田市教育委員会文化財課
・「広報きりゅう令和5年9月号」桐生市
・「企画展 越山、上杉謙信侵攻と関東の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館

「金山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

16.箕輪城 その1

最強の武将、長野業政の城

立地と歴史

長野氏が戦国時代に築城

箕輪城は、現在の群馬県にあたる上野国の榛名山の麓にあった丘の上に立地していました。戦国時代の間の16世紀初頭に、長野氏が最初にこの城を築きました。長野氏はもともと古代には、地方政庁の役人の一族であったと考えられています。やがて中世に有力な地方領主となったのです。彼らは上野国中心部の平地にあった国府の近くに住んでいたのですが、15世紀後半以降、関東地方全域で戦が頻発するようになり、そこに住み続けるのは危険となっていました。そういうわけで、長野氏は上野国西部沿いの山間地に城を築いたのです。

城の位置

長野業政が孤軍奮闘

長野氏は、上野国守護(兼関東管領)であった上杉氏に仕えていました。その当時の当主だった上杉憲政は、1546年の川越城での戦いで、南から攻めてきた北条氏に敗れました。その後彼は上野国から、上野国の北の越後国に逃れたのです。その結果、関東地方のほとんどの地方領主は、北条氏を支持しました。ところが、長野氏の当主だった長野業政(なりまさ)はそうすることはせず、上杉氏に忠誠を尽くし続けたのです。彼は、北条氏や武田氏といった有力な戦国大名にも対抗しうる、その当時では最強の武将の一人でした。彼は、箕輪衆と呼ばれた地方領主のグループを組織し、彼らの領地の維持を図ったのです。彼は、真田幸隆などの戦いに敗れて領地を失った他の武将をかくまうことさえしていました。

長野業政木造、長純寺蔵(高崎市ホームページより引用)
真田幸隆肖像画、長国寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

幾年かの雌伏の時を経て、憲政の後継者となった上杉謙信が、1560年に越後国から上野国を含む関東地方に攻め込みました。業政は、再び上杉氏の重臣の一人となり、西上野の盟主ともなりました。ところが、謙信が越後国の本拠地、春日山城に戻ったとたん、北条氏は領地奪還を開始します。更には、業政は彼の領地の西に位置していた、国峯城にいた小幡氏を従わせようとしますが失敗します。それは、小幡氏の当主であった小幡信真(のぶざね)が(父の憲重とともに)、最強の戦国大名の一人、武田信玄に助けを求め、その家臣となったからです(いわゆる武田二十四将の一人になりました)。かつて業政に助けられた真田幸隆も、業政のもとを離れてから信玄の重臣となりました。信玄は、謙信の終生のライバルであり、そして1561年に西上野への侵攻を開始したのです。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
国峯城の想像図、甘楽町歴史民俗資料館にて展示
「長篠合戦図屏風」に描かれた小幡信真、甘楽町歴史民俗資料館にて展示
武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長野氏の滅亡とともに落城

業政は、その生涯の間、箕輪城とその周辺地域を何とか維持できていましたが、1561年に病気で亡くなります。彼の息子、長野業盛(なりもり)は絶対に敵に降伏してはならないとする父の方針を引き継ぎました。しかし、信玄は1566年、箕輪城に総攻撃を仕掛け、城は落城しました。業盛とその一族は最後まで戦いましたが、ついには城の御前曲輪で自害して果てました。彼らはその死の前に、先祖の位牌を曲輪の井戸に投げ込んだと言われています。

長野氏の家紋、檜扇(ひおうぎ)(licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
箕輪城御前曲輪にある井戸跡

その後、小幡信真は武田氏が滅亡した後、主君を織田氏や北条氏に変えていました。1590年、天下人の豊臣秀吉が北条氏が支配していた関東地方に侵攻したとき、彼の居城は落城し、その所領もまた失われました。一方、真田氏は上田城沼田城岩櫃城を基盤として独立した大名となるべく悪戦苦闘しました。最後にはそれを成し遂げるのですがいばらの道でした。

上田城
沼田城跡
岩櫃城の模型、現地案内所にて展示

井伊直政による近代化と廃城

箕輪城の落城後は、武田氏、織田氏、北条氏、そして徳川氏が城を保有しました。徳川氏の重臣筆頭であった井伊直政が城の最後の城主となりました。彼は、1590年に徳川氏が関東地方に移されたときにこの城に入城したのです。箕輪城は広大でしたが、もともと曲輪は基本的には土造りで空堀によって囲まれていました。直政はできるだけの城の改修、近代化を図りました。例えば、より防御力を増すために稲荷曲輪を水堀とともに設置しました。城主の権威を表すために、石垣が大手道沿いに築かれました。郭馬出西虎口門など、城の重要地点に櫓門がいくつか築かれたりもしました。しかし、直政は最後には1598年に、平地に新しい本拠地として高崎城を築き、そちらに移っていきました。その後、箕輪城は廃城となりました。

井伊直政肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
稲荷曲輪
復元された郭馬出西虎口門
三の丸門跡の石垣

「箕輪城その2」に続きます。

115.名胡桃城~Nagurumi Castle

名胡桃事件で有名な城
The castle famous for the Nagurumi Incident

立地と歴史~Location and History

沼田城への橋頭保~Foothold for Numata Castle

名胡桃城は上野国(現在の群馬県)北部にありました。この城は戦国時代の16世紀後半に大河である利根川西岸の崖の上に築かれました。川を渡った反対側には沼田城があり、そこは関東地方の戦国大名にとっては非常に戦略的な拠点でした。武田氏の配下であった真田氏が沼田城を確保するための橋頭保として1579年に名胡桃城を築き、1580年には実際に沼田城を手に入れました。
Nagurumi Castle was located in the north part of Kozuke Province (what is now Gunma Prefecture). It was built in the late 16th Century during the Sengoku Period, on a cliff near the west bank of a large river called Tone-gawa. At the opposite side across the river, there was Numata Castle which was a very strategic spot for warlords in Kanto Region. The Sanada Clan under the Takeda Clan built Nagurumi Castle in 1579 as a foothold for capturing Numata Castle which actually belonged to Sanada in 1580.

城の位置~The location of the castle

城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

名胡桃事件の発生~Nagurumi Incident happens

真田氏はしばらく沼田城を維持していましたが、1589年7月の天下人豊臣秀吉の裁定により、北条氏に引き渡されてしまいます。一方真田氏は、名胡桃城はまだ領土の一部としていました。この裁定は北条が秀吉の臣下になるという条件の下に行われました。1589年11月、豊臣秀吉の命令に逆らい、北条は名胡桃城を占領しました。この事件は名胡桃事件と呼ばれています。真田氏は秀吉に事件のことを訴え、秀吉は激怒し北条を成敗することを決定しました。北条氏は当時最も有力な戦国大名の一つでしたが、この事件は1590年の小田原征伐での滅亡につながります。定説によれば、北条は世の中の流れを見誤ったとされています。
The Sanada Clan held Numata Castle for a while, but the castle was handed over to the Hojo Clan under the decision by the ruler Hideyoshi Toyotomi in July 1589, while Sanada still kept Nagurumi Castle in their territory. The decision was made on condition that Hojo would become a vassal of Hideyoshi. In November 1589, against the instructions of Hideyoshi Toyotomi, the Hojo Clan seized Nagurumi Castle. The incident at the castle is called the Nagurumi Incident. The Sanada Clan appealed it to Hideyoshi who was very angry about it and decided to defeat Hojo instead. The Hojo Clan was one of the greatest warlords at that time, but this incident led to their fall in the Siege of Odawara Castle in 1590. The established theory says Hojo misjudged the current tide.

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵~The Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, ownd by Kodaiji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉と真田の陰謀か~Trick by Hideyoshi and Sanada?

しなしながら、歴史家の森田喜明は、この事件は秀吉と真田による謀略であったと反論しています。秀吉が残した手紙によると、彼は既に遅くとも1589年の10月には北条を成敗することを決めていたと言います。秀吉が1589年12月にこの事件のことを北条に問いただした時、北条は平然と、名胡桃城もまた真田から北条に引き渡されたものであり、秀吉に会うための準備を引き続き進めていると答えています。実は、秀吉が名胡桃城を真田側に留めるという裁定内容は、彼から北条への手紙に初めて出てくるのです。更には、発掘調査によれば、名胡桃城跡では戦いや火災があった跡は発見されていません。この新説は実に興味深いものです。
However, a historian Yoshiaki Morita argues that this incident was a trick made by Hideyoshi and Sanada. He says that Hideyoshi had already decided to defeat Hojo at latest in October 1589 according to Hideyoshi’s letters. When Hideyoshi asked Hojo about the incident in December 1589, Hojo answered Hideyoshi calmly that Nagurumi Castle had also been handed over to Hojo by Sanada and they still continued to prepare the meeting with Hideyoshi. In fact, the decision by Hideyoshi to keep Nagurumi Castle on Sanada’s side was shown in his letter to Hojo for the first time. In addition, there is no evidence of a battle or fire in the ruin of Nagurumi Castle according to the excavation team. This new theory is very intriguing.

北条氏政肖像画、当時の北条氏当主、小田原城天守閣蔵~The portrait of Ujimasa Hojo, the head of the Hojo clan at that time, owned by Odawara Castle (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

いずれにしろ、北条氏が滅んだ後、沼田・名胡桃両城は真田氏のものとなりました。名胡桃城はその後すぐに廃城となります。真田による沼田城の支配が安定し、その役割が既に終わったからです。城の生涯は10年あまりでした。
Anyway, the fact is that the Sanada Clan owned both Numata and Nagurumi Castles again after the Hojo Clan was defeated. Nagurumi Castle was abandoned soon after that because its role had already ended when Sanada’s governance of Numata Castle became stable. The castle survived for more than ten years.

城の想像図~The imaginary drawing of the castle (現地説明板より~from the signboard at the site)

特徴~Features

自然の地形を生かして築城~Built using Natural terrain

現在、名胡桃城跡は行政によりよく整備されていますが、規模は大きくありません。それは、沼田城を手に入れるための橋頭保という、この城の目的が特定且つ一時的なものだからです。しかしながら、この城が崖から突き出た岬のような自然の地形を生かして作られているのが今でもよくわかります。この地形は、空堀によって三つの主要な郭~主郭、二郭、三郭、に先から元に向かって分かれています。その先には更に2つの郭~ささ郭と物見郭が見張りのために加えられていました。
Now, the ruins of Nagurumi Castle are well developed by officials, but their scale is small. This is because the purpose of the castle, the foothold for capturing Numata Castle, was specific and temporally. However, you can even now see the castle is built using the natural terrain of a shape like a cape sticking out of the cliff. The terrain is divided by dry moats into the three major enclosures – the Main Enclosure, the Second Enclosure, and the Third Enclosure from the top to the bottom. Over the top, two more small enclosures – Sasa-Kuruwa and Monomi-Kuruwa were added to look out.

城周辺の航空写真~The aerial photo around the castle

根元の方には「馬出し」と呼ばれる丸い形で突き出ている防御システムが加えられ、現在でもその形をなぞった線によりわかるようになっています。
At the bottom, a sticking out round shaped defensive position called “Umadashi” was added, the tracing line for the Umadashi shows it now.

馬出しの跡を示す線~The tracing line for the Umadashi system
馬出しの想像図~The imaginary drawing of the Umadashi system (現地説明板より~from the signboard at the site)
馬出しと三郭~The Umadashi system and the Third Enclosure

主要部分の構造~Structures of Main Portion

これらの郭の間をつなぐ木橋と接続部分が復元されています。それぞれの郭は簡単な櫓とともに高い土塁と今よりずっと深い空堀によって囲まれていました。二郭は大きな郭でいくつかの建物がありました。主郭には城の記念碑が設置されています。ささ郭まで行くことができ、利根川と沼田市域の景色を眺めることができます。
Wooden bridges and zigzagged connecting points have been restored between these enclosures. Each enclosure was surrounded by high earthen walls with simple turrets and much deeper dry moats in the past. The Second Enclosure is the large one where several buildings stood. The monument of the castle is placed on the First Enclosure. You can go as far as the Sasa-Kuruwa Enclosure to have a view of Tone-gawa River and Numata City area.

三郭と二郭の接続部分~The connecting point between the Third Enclosure and the Second Enclosure
三郭と二郭の間の空堀~The dry moat between the Third Enclosure and the Second Enclosure
接続部分の想像図~The imaginary drawing of the connecting point (現地説明板より~from the signboard at the site)
二郭~The Second Enclosure
二郭の想像図~The imaginary drawing of the Second Enclosure (現地説明板より~from the signboard at the site)
二郭と主郭の接続部分~The connecting point between the Second Enclosure and the Main Enclosure
主郭~The Main Enclosure
ささ郭へ~Going to the Sasa-Kuruwa Enclosure
ささ郭の想像図~The imaginary drawing of the Sasa-Kuruwa Enclosure (現地説明板より~from the signboard at the site)
ささ郭~The Sasa-Kuruwa Enclosure
ささ郭からの眺め~A view from the Sasa-Kuruwa Enclosure

その他の見所~Other Attractions

城で最も大きな郭は般若郭で、他の郭とは別の並びの所にあります。この郭は、多くの兵士を駐屯されるために使われたと考えられています。現在は、ここに車を駐車できます。
The largest enclosure in the castle called Hannya-Kuruwa is in a different line from the other enclosures. It is thought that this enclosure was used to station a lot of soldiers. You can now park your car at this enclosure.

般若郭~The Hannya Enclosure

城址案内所では城とその歴史のついてより学ぶことができます。もちろん、そこで説明されているのは、この城は決して北条に引き渡されていなかったという定説の方です。
You can learn more about the castle and its history at the information office. Of course, the explanation of the office is based on the established theory that the castle of never handed over to Hojo.

城址案内所~The information office

その後~Later History

名胡桃城は早くに廃城となりましたが、その名はとてもよく知られています。例えば、江戸時代後期の有名な日本の歴史書である「日本外史」には名胡桃事件のことが書かれています。1923年、地元の人々が城の保存会を立ち上げ、1927年には本郭に記念碑を建て、歴史公園として城跡を整備しました。更に最近では、みなかみ町が1992年から2006年までの間、城の発掘を行いました。2015年までに町は、詳細な発掘の成果に基づき土塁や木橋の一部の復元を行い、公園の整備を進めました。城跡は現在、群馬県の史跡に指定されています。
Nagurumi Castle was abandoned earlier, but its name is very well known. For example, a famous textbook for Japanese history in the late Edo Period, called “Nihon-Gaishi”, described the Nagurumi Incident. In 1923, the local people launched the preservation society for the castle and developed the ruins as a historical park building the monument at the Main Enclosure in 1927. In more recent years, Minakami Town excavated the castle between 1992 and 2006. By 2015, the town had developed the park more by restoring part of the earthen walls and wooden bridges according to the details of the achievements of the excavation. The ruins is now designated as a Prefectural Historic Site of Gunma.

本郭にある記念碑~The monument at the Main Enclosure

私の感想~My Impression

名胡桃城は広くもなく、石垣の上の天守のような大きな建物もありませんでした。しかし、戦国大名が築いた無数の城の一例なのです。ほとんどの城は特定の目的のみに作られ、その役目を終えれば廃城となりました。名胡桃城はそのような城だったのですが、有名になったがゆえによく整備された城跡として見ることができるのです。この城は地味ですが有益だと思います。そして実際の歴史を学ぶためによい教材だと思うのです。
Nagurumi Castle was not large and didn’t have large buildings like a Main Tower on stone walls. However, it was an example of an uncountable number of castles warlord built. Most of these castles were built just for their specific roles and abandoned after their roles ended. Nagurumi Castle was one such castle, but we can enjoy seeing its well-developed ruins because the castle has become famous. I think the castle is simple, but useful. It is a good teaching resource for people to learn real history.

城跡の入口~The entrance of the castle ruin

ここに行くには~How to get There

関越自動車道の月夜野ICから約10分のところにあります。般若郭に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合には、上越新幹線の上毛高原駅か、JR上越線の後閑駅からタクシーに乗ってください。
It takes about 10 minutes driving from Tsukiyouno IC on Kanetsu Expressway. The ruins offer a parking lot in Hannya-Kuruwa enclosure.
If you want to go there by public transportation, take a taxi from Jomo-Kogen Station on Joetsu-Shinkansen Super express or from Gokan Station on JR Joetsu Line.

リンク、参考情報~Links and References

名胡桃城址(県指定史跡)、みなかみ観光協会(Minakami Tourism Association)
・「歴史群像67号、戦国の城/上野名胡桃城」学研(Japanese Magazine)
・「北条氏滅亡と秀吉の策謀、森田善明著」洋泉社(Japanese Book)