204.佐和山城 その1

滋賀県彦根市にある城といえば「彦根城」となるでしょうが、もう一つ歴史上重要な城がありました。佐和山城です。城跡にはほとんど遺物が残っていませんが、最後にその役割を彦根城に引き継いだためと見るべきでしょう。この記事では、佐和山城の歴史を4つの時代区分で説明していきます。

立地と歴史

滋賀県彦根市にある城といえば「彦根城」となるでしょうが、もう一つ歴史上重要な城がありました。佐和山城です。彦根駅をスタート地点とした場合、彦根城は西口から向かいます。佐和山城(跡)は、東口の方に行くと、佐和山城の案内と、城があった佐和山が目に入ってきます。それでは、佐和山城といえば、何を思い浮かべるかというと、やはり「石田三成」ということになるでしょう。「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近と佐和山の城」という俗謡が有名です。しかし、この城は三成の時代のもっと前から、重要な役割を果たしていたのです。そして、その役割は変化しながら三成に受け継がれたのです。城跡にはほとんど遺物が残っていませんが、最後にその役割を彦根城に引き継いだためと見るべきでしょう。この記事では、佐和山城の歴史を4つの時代区分で説明していきます。

彦根城
佐和山城跡

南北近江の境目の城

佐和山城があった近江国(現在の滋賀県)は、京都に近く、早くから産業(農漁工商)や交通(水陸)が発達していました。よって領主や城の数も多く、室町時代には南近江・北近江それぞれに守護が置かれ、分割統治されていました。南近江は六角氏、北近江は京極氏で、北近江の範囲は京極5郡(伊香・浅井・坂田・犬上・愛知)と呼ばれたりしました。戦国時代になると、家臣の浅井氏が京極氏に取って代わり、戦国大名として六角氏と対立しました。佐和山城は、その南北近江の国境近くにあり(位置としては坂田郡)、両勢力の争奪の対象となりました。似たような位置づけの城としては、近くの鎌刃城が挙げられます。

近江国の範囲と城の位置

鎌刃城跡

佐和山城が最初に築かれたのは、鎌倉時代に遡ると言われています(下記補足1)。「境目の城」として現れるのは、1552年(天文21年)のことです。当時は六角氏の勢力が大きく、佐和山城は六角氏が有していました。その年に当主の六角定頼が亡くなると、跡継ぎの義賢は佐和山城を拠点(後詰)に北近江の浅井久政領に攻め込みます。ところが、逆に久政の反撃を受け、佐和山城は浅井氏のものになりました。その後、両者は攻防や和睦を繰り返しますが、佐和山城はおおむね浅井氏が維持しました。1561年(永禄4年)以後は、浅井氏の重臣、磯野員昌が最前線の城として守っていました。

(補足1)佐保山(佐和山)ハ昔佐々貴十代ノ屋形太郎判官定綱ノ六男佐保六郎時綱居住ノ所ナリ(淡海温故録)

江戸時代の浮世絵に描かれた六角義賢  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浅井久政肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代の浮世絵に描かれた磯野員昌 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

六角氏の観音寺城、浅井氏の小谷城・鎌刃城は、早くから石垣が導入された事例として知られています。もしかすると、佐和山城にもこのころから石垣が築かれていたかもしれません。

小谷城の石垣
鎌刃城の石垣

信長の近江国での居城

やがて織田信長が台頭すると、佐和山城も新たな局面を迎えます。浅井家の当時の当主、浅井長政は信長と同盟を結び、1568年(永禄11年)の信長上洛時には、宿敵の六角義賢を駆逐しました。このとき、信長は佐和山城に入り、長政と初対面したと伝わります。ところが、2年後の1570年(元亀元年)に信長が朝倉氏を攻めると、突如長政は信長に敵対します。同年6月、信長・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で姉川の戦いが起こり、信長方が勝利しました。磯野員昌は翌年2月まで、佐和山城に籠城しますが、ついに降伏開城しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

以降、信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配置しました。佐和山城は、東西日本を結ぶ東山道が傍を通っていて、当時の信長の本拠地・岐阜城と京都の中間点に当たりました。信長にとっても重要な拠点だったのです。それだけでなく、信長は佐和山城に頻繁に滞在しました。信長の伝記「信長公記」には、元亀2年以後13回も信長が滞在した記録があります。同国に自身の本拠、安土城を築くまでは、佐和山城を近江国での居城としていたのです。

丹羽長秀肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特に、1573年(元亀4年)5月からは、大船建造のため、2ヶ月も滞在しています(下記補足2)。この当時は、琵琶湖の付属湖の一つ、松原内湖(まつばらないこ)が、佐和山城のすぐ近くまで入り込んでいました。その松原で、信長は陣頭指揮を取り、長さ約53メートル、幅約13メートルもの当時としては巨船を建造したのです。信長は早速、7月6日にその船で坂本まで乗り付け、26日には高島攻めにも使いました。ところが、その大船の活躍の記録はそれきりで、3年後には解体され、十艘の小舟に作り替えられてしまったのです(下記補足3)。湖で使うには大きすぎて、入れる港や場所が限られたためです。それでもその後、城主の丹羽長秀は安土城普請の総奉行となり、大船建造の棟梁・岡部又右衛門は天主建築の大工頭を務めました。

(補足2)五月廿二日、佐和山に御座を移され、多賀・山田山中の材木をとらせ、佐和山山麓の松原へ勢利川通り引下し、国中鍛冶、番匠、杣(そま)を召し寄せ、御大工岡部又右衛門棟梁にて、舟の長さ三十間・横七間、櫨(ろ)を百挺立てさせ、艫舳(ともえ)に矢蔵を上げ、丈夫に致すべきの旨、仰せ聞かせられ、在佐和山なされ、油断なく夜を日に継仕候間、程なく、七月五日出来訖。事も生便敷(おびただしき)大船上下耳目を驚かす、案のごとく(信長公記)

(補足3)先年佐和山にて作置かせられ候大船、一年公方様御謀反の砌、一度御用に立てられ、此上は大船入らず、の由候て、猪飼野甚介に仰付けられ取りほどき、早舟十艘に作りをかせられ(信長公記)

大船の模型、安土城考古博物館にて展示

信長は後に、安土城を中心とする琵琶湖岸の城郭ネットワークを構築し、支城には重臣を配置します。佐和山城は水上交通の拠点でもあったので、その中でも最重要の支城の一つになりました。佐和山城跡からは、信長時代のものと思われる瓦片(コビキA)が発見されています。瓦葺きの建物があったということです。他の琵琶湖岸の支城、坂本城には「天主」があったという記録があるのと、信長が長期滞在していることから、佐和山城にもこの頃から「天主」があってもおかしくはありません。一歩譲って、石垣の上に、信長のための御殿はあったのでしょう。

安土城天主模型、安土城郭資料館にて展示

秀吉領国の最前線→そして三成登場

1582年(天正10年)本能寺の変が起き、信長が明智光秀に討たれますが、その後は豊臣(羽柴)秀吉が天下統一を進めます。1584年(天正12年)に、徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが起きたときには、近江国は秀吉領の最前線に当たりました(味方の池田氏が美濃国にいましたが)。佐和山城には、秀吉の重臣・堀秀政が入っていました。秀政が出陣するときには、多賀秀種を城代としていました。秀種は、後に大和国(奈良県)の宇陀松山城を整備したことでも知られています。この頃「広間之作事」を行ったという記録があるので、佐和山城の拡張も行ったのでしょう。(堀秀政書状、多賀文書)

堀秀政肖像画、長慶寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
多賀秀種肖像画、石川県立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇陀松山城跡

翌年には、近江国に当時の秀吉の後継者候補・豊臣秀次の居城・八幡山城が築かれました。佐和山城には、秀次を補佐する堀尾吉晴が配置されました。吉晴は、後に浜松城の天守・石垣を整備した人物です。家康との緊張関係は続いていたため、佐和山城も更に強化されたと見るべきでしょう。関ケ原の戦いのときには天守があったことが記録されていますが(伊達家文書・結城秀康書状)吉晴の時代までに整備されていたのではないかという意見もあります。天守は5層であったという伝承もありますが(西明寺絵馬)、山上の天守なので3層程度であろうという推定もあります(中井均氏など)。

八幡山城跡
堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浜松城の復興天守と現存石垣
佐和山の山麓にある5層天守の模型

1590年(天正18年)の小田原合戦により秀吉の天下統一がなされると、家康が関東に移り、秀次とその家老たちも東海地方に移っていきました。秀吉の家康に対する前線が東に移動したことになります。その空いた近江国は秀吉の直轄領になりますが、その代官として佐和山城を任されたのが石田三成だったのです(彼自身の領地は美濃国にありました)。そして文禄の役(朝鮮侵攻)の後、1595年(文禄4年)頃、佐和山城を含む北近江の大名(約20万石)となりました。三成は文禄の役のとき、他の奉行とともに朝鮮に渡り、中央と現地との調整に奔走していて、その論功とも考えられます。

石田三成肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三成自身は秀吉を支える最側近であり(秀吉が病のときには片時も離れることを許さなかったといいます)、政権の奉行として国内外の政策(各大名の取次・指導、太閤検地、朝鮮侵攻など)に多忙であり、城にはほとんどいませんでした。そのため城を守っていたのは、父親の正継や兄の正澄でした。領地の統治は、家臣の嶋左近などに任せていました。

石田正継肖像画(写)、妙心寺寿聖院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、その方針については、三成が1596年(文禄5年)に領内に発布した掟書が残されています。
その掟書には、主には以下のことが定められていました。
・領主側の夫(人足)遣いの制限
・検地帳記載者に対する耕作権の保証
・年貢率の決定プロセスの明示化
・升の公定と統一
・身分確定と居住地の固定化
・百姓訴訟権の保証(目安)など
領民として認められる権利と、それに対応する義務が明確化されていました。他の大名と比べ、きめ細かさが際立っていて、三成が優れた官僚・民政家だったことが伺われます。三成の時代には、城全体を惣構(土塁・堀)で囲んだという記録があり(須藤通光書状)これが城の完成形と言われています。大手門や城下町は、もともと東側の山麓にありました。しかし、三成の居館は西側にあったとされるので、城の大手や城下町が、西側に移動または拡張したとも考えられます。

「佐和山城古図」彦根市立図書館蔵

井伊家つなぎの城

秀吉が亡くなると、三成は豊臣政権の中枢である5奉行の一人となりました。ところが、いわゆる「三成襲撃事件」の収拾策として、佐和山に隠退となりました。その後はご存じの通り、西軍の総大将として、1600年(慶長5年)9月15日、関ケ原で家康と戦い敗れてしまいました。しかし、総大将は大坂を動かなかった毛利輝元であり、三成は現地司令官として悪戦苦闘したという見方もあります。三成は佐和山城に戻れず、北近江の領内に潜伏しているところを捕縛され、京都で斬首となりました(嶋左近は関ケ原で戦死)。佐和山城は、関ケ原の2日後、東軍に包囲され落城しました。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦後、三成の領地は、家康の筆頭家老ともいうべき井伊直政に与えられました。今度は、大坂に居座る豊臣家に対する最前線・包囲網という位置づけでした。やはり、この地は家康にとっても重要な拠点だったのでしょう。そして、家康と井伊家は、新しい拠点として彦根城を築城します。しかし、井伊直政は当初、佐和山城に入城し、1602年(慶長7年)にそこで亡くなったのです。直政の家老たちの屋敷も、佐和山の山上にありました。彦根城を築城したのは、跡継ぎの直継なのです。

井伊直政肖像画、彦根城博物館 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐和山城の建物や石垣は、彦根城に部材として転用されました(下記補足4、5)。佐和山の南側の斜面は、不自然にえぐられていますが、石垣を搬出する経路だったのではないかという意見があります(中井均氏)。三成の城であったため、徹底的に破壊されたとの見解が多いですが、むしろ利用されたと言うべきでしょう。佐和山城の役割は、彦根城に引き継がれたのです。佐和山の山麓には、井伊家の菩提寺である清凉寺と龍潭寺が建てられ、山自体も「御山」として彦根藩により維持されました。山は今でも、両寺の所有となっています。

(補足4)石垣ノ石櫓門等マテ佐和山・大津・長浜・安土ノ古城ヨリ来ル(井伊年譜)

(補足5)本丸之天守茂只今之より高ク御拝領之後御切落シ被遊候由、九間御切落とも云又七間とも申候実説相知レかたく(古城御山往昔咄聞集書)

城周辺の起伏地図

清涼寺
龍潭寺

リンク、参考情報

・「近江佐和山城・彦根城/城郭談話会」サンライズ出版
・「近江の山城を歩く/中井均編著」サンライズ出版
・「佐和山城跡のご案内」彦根観光協会パンフレット
・「よみがえる日本の城22」学研
・「石田三成伝/中野等著」吉川弘文館
・「歴史群像153号、戦国の城 近江佐和山城」学研
・「信長と家臣団の城/中井均著」角川選書
・「週刊日本の城改訂版第21号」デアゴスティーニジャパン
・「堀尾氏ゆかりの城館を辿る」堀尾吉晴公共同研究会
・「佐和山城と石田三成/米原市柏原宿歴史館」稲枝地区公民館講座資料
・「文化財教室シリーズ124 近世の古城Ⅲ 佐和山城」滋賀県文化財保護協会
・「埋蔵文化財活用ブックレット5(近江の城郭1) 佐和山城跡」滋賀県教育委員会」
・「びわこの考湖学22・23」産経新聞滋賀版
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫

「佐和山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

23.小田原城 その1

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城となるまで成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

立地と歴史(戦国編)

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城と言われるまでに成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

現在の小田原城、天守は江戸時代のものを復興させました

城の始まりと伊勢宗瑞の登場

古代の頃、西から関東に入る東海道は、箱根峠ではなく、足柄峠を越えるルートが主流でした。鎌倉時代になると、箱根山(箱根神社)・走湯山(伊豆山神社)の二所権現への参詣が盛んになり、箱根ルートがよく使われるようになりました。これにより、南北朝時代までには小田原に宿場町が形成されたと考えられています。「小田原城」の記録はこの後に現れますので、この町は城下町でなく、宿場として始まったことになります。一方、支配者の武士階層の中には、関所で通行税(関銭)を徴収する権利を持つ領主がいました。箱根や足柄では、大森氏がその立場にあり、徴収した関銭を、寺院の建立に使ったりもしていました。その大森氏が、宿場として成長した小田原を管理するために、15世紀中頃の戦国時代の始まりまでには、初期の小田原城を築いたと言われています。その目的からして、規模は大きくなかったと考えられます。

城の位置

また、初期の城の位置ですが、従来は現在の小田原城天守の北側の、「八幡山古郭」と呼ばれる場所ではないかと言われてきました。しかし当初の小田原宿は、江戸時代のそれより、西側にあったと考えられます。標高が高く高潮の被害を受けにくく、初期の頃もこの場所についての記録、言い伝えが残っているからです。そのため、城もその宿場に近い、現在の小田原城の天守周辺(八幡山丘陵の端)か、天神山丘陵にあったと考えられるようになってきました。

八幡山古郭東曲輪
現在の天神山

戦国時代には、「北条早雲」こと伊勢宗瑞(いせそうずい)が登場します。宗瑞はこれまで、下剋上を果たした、典型的な初期の戦国大名の一人として、捉えられたこともありました。つまり、素浪人から自らの才覚のみでのし上がり、城持ちの大名になったというサクセス・ストーリーです。しかし、最近の研究により、彼は備中国(岡山県西部)出身の、将軍に仕える幕府奉公衆・伊勢盛時(いせもりとき)であったことがわかっています。彼の姉が、駿河国(静岡県中部)の大名、今川義忠に嫁いでいましたが、家督争いが発生し、姉の子の氏親を支援するために、駿河に向かったのです。

伊勢宗瑞(北条早雲)肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、氏親を跡継ぎにすることに成功し、恩賞として、駿河の興国寺城を与えられました。その後、伊豆国(静岡県東部)の韮山城、そして相模国(神奈川県)の小田原城を手に入れるのですが、それは、一匹狼ではなく、今川氏の部将、そして南関東を治めていた扇谷上杉氏との連携によって行われました。小田原城攻めにしても、宗瑞が大森氏に贈り物を送って油断させ、「火牛の計」を使って城から追い出したという武勇伝がありました。しかし実態は、宗瑞の弟と大森氏が一緒に小田原城にいて(扇谷上杉氏方)、山内上杉氏に攻め取られたという記録があったりして、単純な話ではなかったようです。西暦1500年前後に大地震があったり、大森氏が山内上杉氏方に転じたタイミングで、宗瑞が手に入れたのではないかと考えられています。ただし、この時点では小田原城は、まだ支城という扱いでした。

興国寺城跡
「火牛の計」で攻める北条早雲像、小田原駅西口

北条氏綱・氏直による発展

初代・宗瑞(北条早雲)の跡を継いだのは、嫡子の北条氏綱(ほうじょううじつな)です(1518年、宗瑞は翌年に没)。「小田原北条五代」と言いますが、小田原を本拠地とし、「北条氏」を名乗ったのは、2代目の氏綱からです。関東地方侵攻を本格的に始め、敵となった上杉氏(山内・扇谷)から「他国之凶徒」と言われ、権威を得るため、鎌倉時代の関東支配者の名字を名乗り始めたと言われています。また、関東公方の足利晴氏と同盟を結び、「関東管領」に任命され、同じ職名を世襲していた(山内)上杉氏に対抗します。

北条氏綱肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1541年に氏綱から跡を継いだ3代目の北条氏康は、更に領土を広げ、1546年の河越城の戦いで上杉軍に大勝し、関東での覇権を確立しました。氏綱・氏直は小田原を南関東の中心地にしようとしました。それまでの宿場町を城下町として、江戸時代の小田原宿と同じくらいまで広げました。日本最初の水道と言われる「小田原用水」も町に引かれました。城についてはこの頃、城の中心となる「本丸」「御用米曲輪」「二の丸」が成立したと考えられています(曲輪の名前は江戸時代のもの)。1551年に小田原を訪れた僧が「三方に大池あり」と記録しています。この池は現在、二の丸の堀として残っています。また、氏康は民衆に善政を施したことでも知られています。年貢率(四公六民)も他の大名よりは低かったと言われています。

北条氏康肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の小田原用水
現在の二の丸東堀

1561年、城は最初の大きな危機を迎えます。越後国(新潟県)の上杉謙信(その時点は長尾景虎)が、旧来の上杉氏による秩序回復を掲げ、関東地方に侵攻してきたのです。翌年(永禄4年)2月には10万を超えるとも言われる大軍で小田原城を囲みますが、短期間で引き上げました。その場の勢いに乗った寄せ集めであったため、長陣には耐えられなかったからです。そのとき、大手門であった「蓮池門」(現在の幸田口門跡周辺)に、謙信方の先鋒、太田資正が突入し戦ったと伝わっています。氏康は当時、甲斐国(山梨県)の武田信玄、及び今川氏と三国同盟を結んでいて、その力を基礎に、その後謙信の侵攻を跳ね返していきます。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし次の危機として、信玄が1568年に同盟を破り、翌年(永禄12年)10月には、小田原城に攻め込んできました。信玄は、同年8月に北条領内に侵入し、10月1日から小田原城を包囲し、5日には引き上げています(この後、退却途中に有名な三増峠の戦いが起こります)。このような経緯から、もともと小田原城を本気で落とそうとする意図はなかったようです。信玄も謙信と同じように、蓮池門から城を攻めたと言われています。城下町は悉く放火され、信玄自身が手紙で「氏政館」も放火したと言っています。氏政は、氏康の跡継ぎで、当時彼の館は、現在の「御用米曲輪」にあったと考えられていますので、これが合っていれば、本丸の麓まで攻め込まれたことになります。このとき氏政は、氏康から家督は譲られていましたが、1571年に父・氏康が亡くなると、武田との同盟を復活し、更なる城の拡張を行います。恐らく、これらの戦いでの経験が基になっていると思われます。長期の籠城に耐えられる城であれば、どんな強力な敵にも対応できると確信を持ったのかもしれません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の御用米曲輪

北条氏政・氏直による完成

北条氏政と跡継ぎの氏直の時代に、北条氏は全盛期を迎えました。武田氏との同盟が機能した他、上杉謙信が1578年に亡くなり、関東地方に強敵が見当たらなくなったからです。北条氏は関東地方の大半を支配するようになり、地域防衛のため、支城ネットワークを築き、重要な城には一族・重臣を派遣しました。小田原城は、そのネットワークの中心に位置づけられたのです。小田原城そのものも、以前の戦いの教訓に基づき、氏政主導で強化されました。まず、二の丸外側の低地に、三の丸が作られました。また、城の背後からも攻められないよう、三の丸外郭が丘陵地帯に築かれました。更には、三の丸外郭に続く防衛ラインとして、丘陵地帯の地形を利用して、小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)の建設を始まました。これらは、急斜面の堀を掘削し、堀った土を土塁として積み上げるやり方で築かれました。北条氏は石垣を積む技術も持っていましたが、このエリアの土は、関東ローム層と呼ばれる火山灰が堆積してできたもので、粘土質で滑りやすく、敵を防ぐための堀には打ってつけだったのです。また、堀の底は、「障子堀」「畝堀」呼ばれる仕切りがつけてあり、堀に入った敵を閉じ込める仕組みとなっていました。

北条氏政肖像画、法雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三の丸外郭
小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)
山中城跡に残る障子堀

城の拡張は、日本全体や他の大名との外交関係にも影響されていました。織田信長が1582年に武田を滅ぼしたときには、信長に臣従せざるをえなくなりました。ところが、信長が本能寺の変で倒れると、また乱世に戻ったようになります。武田の遺領をめぐって、北条・徳川・上杉が三つ巴の戦いを始めたのです。更に、上野国で真田昌幸が独立を志向して三者を渡り歩き、不気味な存在となります。氏政は、徳川家康と手打ちをし、関東地方だけは確保しますが、今度は豊臣秀吉の天下統一が進みます。1587年までに、西日本は全て平定され、氏政の周りの大名たちも秀吉に臣従しました。北条氏は孤立し、頼りにできるのは同盟続いていた家康と、奥州の覇者・伊達政宗だけでした。氏政は翌年から、豊臣方と臣従するための条件交渉を始めます。その一つが、真田と争っていた上野国沼田の扱いで、一旦は秀吉の裁定により解決しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
真田昌幸肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽作、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信作、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その一方で、氏政は戦になることも想定し、「相府大普請」とも呼ばれた小田原城の大改修を始めました。その目玉は、小田原を囲む丘陵地帯(八幡山・天神山・谷津)、城、城下町を丸ごと土塁と堀で囲む総構でした。その延長は約9キロメートルに及び、工事には関東全域から人夫が動員されました。地域全体を囲んでしまえば、敵は入ってこれず、長期の持久戦ができると考えたのでしょう。当時はこれを「大構」と呼んでいたようで、同じ名前の遺構が、支城だった岩付城跡に残っています。

赤い線が総構土塁の推定ライン

総構の想像図、現地説明パネルより
わずかに残る岩付城大構

1589年(天正17年)10月、北条氏の家臣が、沼田で真田のものになったとされる名胡桃城を奪う事件が発生しました。秀吉は激怒し、命令違反として、北条征伐を決定します。この事件は不可解な点も多く、秀吉と真田が仕組んだ謀略という説もあります。直臣に領地を与えたい秀吉と、ただちの臣従を潔しとしない氏政の思惑も考えられ、両者の対決は必然だったのかもしれません。小田原城総構は、約2年をかけ、完成していました。

名胡桃城跡

運命の小田原合戦

1590年(天正18年)3月、豊臣秀吉軍総勢約22万人(本体16万、水軍2万、北陸勢3.5万)が、北条領に押し寄せました。この他に、これまでも北条と敵対していた関東勢1.8万人が攻撃してきました。迎え撃つ北条軍は、総勢約8万人と言われ、その内約5万人を小田原城に集中させました。支城ネットワーク攻略に時間をかけさせ、小田原城での長期籠城戦により、敵を消耗させ、有利な講和に持ち込むつもりだったと思われます。しかし、その大半は無理やり徴収した農民兵であり、質は劣っていました。城の改修のときから、過酷な負担を強いられていたため、当然士気も上がりません。先代のときに目指した民政の充実は、遠のいてしまっていました。3月28日に上野国松井田城、29日に伊豆国山中城・韮山城で戦いが始まりました。ところが、圧倒的な兵力差により、山中城がたった1日で落城してしまいます。その後も、有力な支城が次々に落城、開城していきました。5月末には、籠城中または未攻略の有力支城は、韮山、鉢形、津久井、八王子、忍のみとなりました。北条軍にとっては、大きな衝撃、かつ誤算でした。松井田城主で重臣の大道寺政繁や、玉縄城主・北条氏勝は、豊臣軍の道案内をし、北条方の城主に降伏するよう説得する有様でした。そのくらいの力の差があったということでしょう。

北条領国の支城ネットワーク、現地説明パネルより

豊臣軍は4月上旬には小田原城に到達し、18万の軍勢で城を包囲しました。秀吉は、5日に早雲寺に着き、ここを本陣とします。4月下旬には、新しい本陣として石垣山城の築城を始めました。しかし、このような大軍であっても、幅最大30メートル、深さ10メートル以上、勾配50度以上の総構のラインに阻まれ、城の中に打ち入ることはできませんでした。総構のラインには、柵が並び、所々に櫓が立ち、重要な出入口は2重の仕切りがあるなど厳重に警備されていました。城の中心部は、本丸には5代目当主・北条氏直がいて、先代の氏政は、北の八幡山に布陣していました。以前氏政館だったところは、「百間蔵」と呼ばれる倉庫群になり、長期籠城に備えていたようです。(戦後に、伊達政宗が小田原城の倉庫群を見聞し、その収容力に驚嘆しています。)総構の中には城下町も含まれていたので、生活・軍事物資も自己調達できることになります。また、総構の外にも、篠曲輪などの出丸があり、攻撃態勢も備えていました。一方、北条軍にとってもう一つの誤算が、豊臣軍の長期戦への備えでした。豊臣軍の多くは専門の兵士であり、大量の兵糧(秀吉が20万石と指示)を調達・輸送することで、長期滞在が可能となっていました。かつての上杉・武田軍と比べ、別次元の経済力、技術、運用ノウハウを持っていたのです。(現場レベルでは、士気の緩みや食料不足ということもあったようです。)その結果、4月、5月と城を挟んだにらみ合いが続きます。

小田原城周辺の布陣図、現地説明パネルより

5月には、東北・関東の大名たち(南部、安東、結城、佐竹、宇都宮など)が小田原に参陣してきました。6月5日には、ついに伊達政宗が到着し、9日に白装束で秀吉に謁見しました。これで、北条への援軍が来る可能性がなくなりました。この辺りから、小田原開城に向けた交渉が加速していきます。交渉の推進役は、北条氏直でした。後に、延々と結論の出ない会議のことを「小田原評定」というようになりますが、実際には水面下で動きはあったのです。支城の方は、6月14日鉢形城開城、23日八王子城落城、24日韮山城開城、25日津久井城開城となります(残りは忍城のみ)。その韮山城主・北条氏規は、豊臣方の黒田孝高(官兵衛)とともに、氏直に開城を勧めました。6月26日に、石垣山城が完成し、秀吉が移りますが、その姿が最後のダメ押しになったかもしれません。

伊達政宗肖像画、加納安信作、仙台市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
鉢形城跡
八王子城跡
石垣山城跡

7月5日、氏直は降伏を申し入れ、小田原城は開城しました。開城交渉の中で、領土の縮小維持という条件もあったと言われますが、秀吉の裁定は過酷でした。氏政など主戦派と見なされた4名は切腹、氏直は高野山へ追放(後に赦されるが病死、氏規の家系が小大名として存続)となりました。戦後の領地配分を見ると、徳川家康が北条領に転封、徳川領に尾張の織田信雄を移そうとしたが断ったため改易とし、空いたところに、当時の跡取り・豊臣秀次とその家老たちを入れています。秀吉の意図が見えるのではないでしょうか。(ちなみに、沼田領(沼田城含む)も丸々真田のものとなりました。)

小田原城近くにひっそりと佇む切腹した北条氏政と氏照の墓所

戦国大名としての北条氏は滅亡しましたが、その総構の城は、参陣した大名たちに大きなインパクトを与えました。記録に残っているものでは、駿府城に入った中村一氏が、小田原城に習い総構を築いています。秀吉自身も、小田原合戦の翌年、京都を囲む御土居の建設を始めました。しかも、その堀には「障子堀」が採用されています。本拠地の大坂城でも、1594年から総構(三の丸)の建設を行っています。

現在の駿府城公園
移築復元された大坂城三の丸の石垣

小田原合戦に参陣した大名たちの城で採用された「総構」も、小田原城の影響があると考えられています。

蒲生氏郷の若松城、総構の甲賀門跡
堀秀治の春日山城、復元された総構
前田利家の金沢城、総構跡

「小田原城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

53.二条城 その1

二条城は、京都の有名な観光地で世界遺産にも登録されていて、最近では海外からも多くの観光客が訪れています。この城を築いたのは、最後の天下人で江戸幕府の初代将軍となった徳川家康です。しかし、家康以前の将軍や天下人たちにも、それぞれの「二条城」があったことはご存じでしょうか。現在残っている二条城は、家康が築いたものだけですが、それまでの「二条城」たちの集大成のような城なのです。

立地と歴史

二条城は、京都の有名な観光地で世界遺産にも登録されていて、最近では海外からも多くの観光客が訪れています。この城を築いたのは、最後の天下人で江戸幕府の初代将軍となった徳川家康です。しかし、家康以前の将軍や天下人たちにも、それぞれの「二条城」があったことはご存じでしょうか。現在残っている二条城は、家康が築いたものだけですが、それまでの「二条城」たちの集大成のような城なのです。歴史家は、これら将軍や天下人たちが、京都の中心地に築いた城を、一連の「二条城」として取り扱っています(当時から「二条城」と呼ばれているのは現在の二条城のみで、以前のものは歴史的名称となります)。

現在の二条城

将軍・天下人たちの二条城

最初に「二条城」を築いたのは、室町幕府第13代将軍の足利義輝です。それまでの将軍は、「花の御所」と呼ばれた御殿に住んでいましたが、防御性はあまり考慮されていませんでした。義輝が将軍となった当時は将軍家の権威が低下し、義輝自身も有力家臣との対立で、京都に落ち着くことさえできませんでした。1558(永禄元)年、ようやく京都を実質支配していた三好長慶との和議により、京都を拠点にすることができました。彼は自身の御所の造営を、「二条武衛陣」と呼ばれた斯波氏の屋敷地を使って開始しましが、それは本格的な堀に囲まれた城でした。最終的には堀は二重になり、石垣も築かれました。将軍といえども、防御を考慮せざるを得ない状況だったからです。(当時も「武家御城」「御城構」など呼ばれました。)こうして城を拠点とした義輝の政治はしばらくは安定しますが、1564年に実力者の三好長慶が亡くなると、家臣との対立が再燃します。1565(永禄8)年5月19日、警備が手薄なところを三好一門の軍勢に襲われ、義輝は殺害され、義輝二条城も炎上しました。義輝は剣の達人であったと言われ、自ら太刀を振るって戦いましたが、多勢に無勢、力尽きました。

足利義輝肖像画、国立歴史民俗博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
花の御所、「洛中洛外圖上杉本陶版」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
義輝二条城の推定位置(赤枠内)、左下の堀に囲まれた区画が現・二条城(Google Mapを利用)

次の二条城の主は、第15代将軍・足利義昭でした。義昭二条城は、これまでも「旧二条城」という通称で、以前の二条城たちの中では最も有名です(当時は「武家御城」「公方様の御城」などと呼ばれました)。1568(永禄11)年、織田信長とともに上洛し、将軍になりましたが、三好三人衆に宿所を襲われたため、翌年、義輝二条城と同じ場所に、城を築くことにしたのです。一般的には、信長が義昭にプレゼントしたというイメージが強いですが、信長は堀や石垣など土木工事を担当し、建物や庭園などは他から移築したものが多かったようです。それでも信長は陣頭指揮を取ったり、高さが8メートル近い高石垣群をわずか2ヶ月半で完成させたり、その石垣の材料に石仏を徴発したり、多くのエピソードが残っています。そして、この義昭二条城には、記録上初めて「天主」と呼ばれる建物がありました。三重の櫓だったようです。日本城郭史上においても、重要な城だったのです。もちろん城の周りは二重の堀で囲まれていました。天皇が行幸するための部屋もあったそうです。やがて義昭と信長が対立するようになると、義昭は自身で二条城の強化を行います。しかし1573(元亀4)年には、京都の外の槙島城に移り、そこで信長に反抗しましたが敗れ、義昭二条城も信長によって破却されてしまいました。

足利義昭坐像、等持院霊光殿蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
義昭二条城の推定位置(青枠内)、赤枠内が義輝二条城(Google Mapを利用)
発掘され、京都御苑内に移築復元された義昭二条城の石垣

次はあまり有名ではありませんが、信長の二条城で、1576(天正4)年に自身の京都の宿所とするため、貴族の屋敷地を譲り受けて築いたものです。当時は「二条御新造」「右大将家二条新邸」などと呼ばれました。立派な御殿や行幸の間があったことは確かですが、詳しい内容はわかっていません。それに、義昭二条城と比べると、規模はかなり小さかったのです。更には、信長はこの二条城に1577年からわずか2年間しか住んでおらず、当時の皇太子・誠仁(さねひと)親王に献上し、京都では寺に滞在していました。そしてそのまま1582(天正10)年6月12日の本能寺の変を迎えることになるのです。信長ほどの力があれば、義昭二条城をしのぐ城を作るのは容易だったはずですが、こういった行動は信長の独自の考えに基づいていたのでしょう。その本能寺の変のとき、信長の嫡男・信忠もわずかな配下とともに妙覚寺に宿泊していました。彼は「二条御所」と呼ばれていた信長二条城に移動し、ここで明智光秀軍を迎え撃ったのです。少なくとも、寺よりは防御体制が整っていたことがわかります。しかし、この度も多勢に無勢、城は落城し、信忠は自害しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
信長二条城の推定位置(緑枠内)、青枠内が義昭二条城(Google Mapを利用)
織田信忠肖像画、総見寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康の二条城

信長の後に天下人となった豊臣秀吉は、京都での居城として有名な聚楽第を築城しました。この城は、二条よりも北方に、それまでの二条城をはるかに凌ぐ規模で築かれ、天皇の行幸が実施されたことでも知られています。城の役割としては二条城を引き継いだものと言えるでしょう。ただ、秀吉は聚楽第を建設する前に、二条の地に妙顕寺城という城を築いて京都での居城としています。天守があったとも言われています。調査研究が進めば、二条城のラインアップに本格的に加わってくるでしょう。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「聚樂第屏風圖」部分(三井記念美術館所蔵)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
秀吉が築いた妙顕寺城の推定位置(茶枠内)(Google Mapを利用)

1600(慶長5)年の関ケ原の戦いで勝利し、天下人となった徳川家康は、その翌年、京都での居城建設を始めました。これが現代に残る二条城です。その工事は、西国大名を動員する天下普請として行われ、正に天下人のデモンストレーションとなりました。城は1603(慶長8)年に完成し、天守は3年後に追加されましたが、大和郡山城からの移築と言われています。城の範囲は、現在の二条城とは異なり、その東側半分強の大きさで、正方形の形をしていました。堀はまだ一重だったようです。御殿は一つで、現在の二の丸御殿がそれに当たります。そのため、この時期の二条城は「慶長度二条城」とも呼ばれたりします。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
慶長期二条城の範囲(紫枠内)(Google Mapを利用)
慶長二条城が描かれた「洛中洛外図」、メトロポリタン美術館所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その当時家康は、京都の南にあった伏見城を通常の滞在先としていて、1603(慶長8)年に将軍宣下を受けたのもここでした。一方、二条城は京都での儀式の場として活用されました。将軍となった家康は、室町幕府の先例に倣い、朝廷に拝賀の礼を行いましたが、その出発地は二条城でした。またその後、勅使を二条城に迎え、祝賀の催しが開かれました。家康は2年後に早くも、将軍の座を息子の秀忠に譲りますが、秀忠も同様に将軍就任の儀式を二条城で行いました。やがて幕府と豊臣家の関係に緊張が高まる中、1611(慶長16)年には、二条城で家康と秀吉の遺児・秀頼の対面が実現します。成長した秀頼を見た家康は、このとき豊臣家を滅ぼす決意をしたとも言われています。そしてついに家康が豊臣家と対決した大坂冬の陣(1614(慶長19)年)、大坂夏の陣(翌年)のときには、二条城は家康の本営となりました。1615(慶長20)年5月に豊臣家を滅ぼした家康は、二条城で8月まで戦後処理を行いました。様々な戦勝祝いの催しが開かれましたが、そこでは豊臣に加担したとして切腹となった大茶人・古田織部の名物茶器が配られました。また、7月には朝廷や公家を統制するための「禁中並公家諸法度」が二条城で発布されました。家康は、二条城を硬軟取り混ぜた演出の場として、最大限活用したのです。

豊臣秀頼肖像画、養源院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大坂夏の陣図屏風、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
古田織部肖像画、「茶之湯六宗匠伝記」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀忠・家光の二条城

家康は、後顧の憂いを断ち、1616(元和2)年に亡くなりましたが、後を継いだ秀忠、家康の孫の家光には、幕府の安定のためにやるべきことがありました。それは、朝廷との関係の強化です。秀忠は1620(元和6)年に、娘の和子(かずこ、後にまさこ)を、後水尾天皇の中宮として入内させました。彼女の入内の行列は、二条城から出発しました。これで、秀忠は天皇の義父になったわけです。そして、総仕上げとして行われたのが、天皇の二条城への行幸です。秀吉が行った後陽成天皇の聚楽第行幸を意識し、これを超えるイベントを行おうとしたのでしょう。

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
後水尾天皇肖像画、宮内庁書陵部蔵、尾形光琳筆 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川和子(東福門院)肖像画、光雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この一大イベントは1626(寛永3)年に行われるのですが、それまでに二条城は大改修されました。そのため、改修後の二条城は「寛永度二条城」とも呼ばれたりします。現在に残る二条城が完成した時期でもあります。まず、城の敷地が西側に拡張され、四角形を2つ重ねたような形になりました。その西側の方に、本丸が新たに作られ、内堀に囲まれました。これで全体が二重の堀に囲まれるようになったようです。本丸の中には、そのときまでに家光に将軍職を譲り大御所となった秀忠のための、本丸御殿が作られました。本丸の隅には、新たに天守が築かれましたが、伏見城からの移築と言われています。それまであった東側の敷地は二の丸とされ、それまでの御殿も改造され、今に残る「二の丸御殿」となりました。御殿前にある豪華絢爛の「唐門」もそのとき作られました。更に、二の丸の南側には、天皇のための行幸御殿も作られました。城の正面入口の東大手門は2階建ての櫓門でしたが、天皇が通るのを見下げる形になるので、単層に改装されました。(行幸後に、現在見られる2階建てに戻しました。)

現在の二条城の航空写真(Google Mapを利用)
現存している二の丸御殿
行幸の際に作られた唐門
単層に改装された東大手門が描かれた洛中洛外図、千葉県立中央博物館蔵、同博物館サイトから引用
現在の東大手門

「寛永行幸」と呼ばれる二条城への行幸は、1626(寛永3)年9月6日から5日間に渡って行われました。御所から二条城まで、天皇や中宮・和子以下9千人の行列がつづき、京都の町には見物人が詰めかけました。期間中には城で、豪華な饗応、贈り物の交換、舞楽・蹴鞠・和歌などが催されましたが、興味深いものとしては、天皇が2度天守に登ったことです。行幸御殿があった二の丸と、天守と本丸御殿がある本丸との間には堀がありましたが、ここに二階建ての廊下橋がかかっていて、天皇が外に出ることなく天守に行けるようになっていました。天皇は3日目に天守に登りましたが、天気が悪くて眺望が悪かったらしく、最終日に御所に戻る前、再度天守に赴いたとのことです。この大イベントは、多くの絵巻物・文書に記録され、語り継がれることになりました。幕府によるものとはいえ、平和の訪れを象徴する出来事になったのです。同時に、二条城にとってもこれが最盛期でした。その後、家光は1634(寛永11)年、ギクシャクしていた後水尾上皇(5年前譲位)との関係修復のため、上洛し二条城に入ります。それ以降2百年以上、将軍の上洛はなくなり、二条城は一旦長い眠りにつきます。

「二条城行幸図屏風」部分、出展:京都国立博物館
ここに廊下橋がありました

家茂・慶喜の二条城

その約200年間、二条城は「二条在番」と呼ばれた幕府の役人が管理していましたが、使われることはありませんでした。火災や天災により、本丸御殿や天守が消失し、二の丸御殿も荒れ果てていました。(行幸御殿は、御水尾上皇のために移築されました。)幕末になり、幕府と、有力諸藩を後ろ盾にする朝廷との関係が緊張してくると、京都とともに二条城が再び表舞台に現れます。1862(文久2)年に公武合体政策により、皇女和宮と結婚した14代将軍・徳川家茂が翌年、将軍として229年振りに上洛することになったのです。当時の孝明天皇が、将軍・家茂の義父になり、2百年前の徳川秀忠と同じ立場ですが、幕府と朝廷の立場が逆転したような感じです。二条城では、本丸に仮御殿が、天守台には火の見櫓が建設されましたが、不十分だったようです。幕府の権威や経済力は衰えており、将軍一行の旅費にも節約の通達が出される程だったのです。よって、将軍・家茂の滞在時には、主として修繕された二の丸御殿が使われました。家茂は都合3回上洛しましたが、長州征伐が行われた時期で、本営の大坂城にいることも多く、1866(慶応2)年7月に病気で亡くなった場所も大坂城でした。

徳川家茂肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後を継いだ徳川慶喜は、以前から家茂の後見として京都に長期間滞在していましたが、基本的に二条城には宿泊していませんでした。将軍でなかったということもありますが、二条城は公式の場で仕来りが多く、自由に動けないためと本人が語っています。家茂が亡くなった5ヶ月後に二条城で将軍宣下を受けてもなお、近くの小浜藩邸「若州屋敷」に滞在し続けました。二条城に移ったのは、1867(慶応3)年9月、有名な大政奉還の1ヶ月前でした。内大臣に任官したタイミングだったようです。10月12日、慶喜は幕臣や一門大名を二の丸御殿黒書院に集め、大政奉還の主旨を説明しました。翌日には、大広間に諸藩重役を集め、書類を回覧した後、希望者にも説明を行いました。そして14日に朝廷に提出、15日に受理と進みます。これは、慶喜が討幕派の矛先をかわし、政局の主導権を維持しようとした動きでした。しかし、薩長中心の討幕派は、「倒幕の密勅」「王政復古の大号令」などで反撃し、12月9日に慶喜の「辞官納地」が決定され、二条城に伝えられました。これは討幕派の挑発でしたが、周りの家臣や一門衆が激高する中、慶喜は12日に大坂城に退去しました。京都での偶発的な合戦を避けるためでした。

将軍時代の徳川慶喜 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「大政奉還図」、邨田丹陵作、聖徳記念絵画館蔵、10月12日の黒書院での場面を描いています (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後二条城は、慶喜を護衛していた水戸(慶喜の出身藩)・本圀寺勢に任されます。しかし、翌年1月に鳥羽・伏見の戦いが始まると、朝廷側に引き渡されました。そして、2月3日、明治天皇が二条城に行幸し、幕府討伐の詔を発せられたのです。二条城は、徹頭徹尾、ときの政治の象徴的な場として使われたのでした。

「二条城太政官代行幸」、小堀鞆音作、聖徳記念絵画館蔵、明治天皇の行幸の場面を描いています (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「二条城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。