23.小田原城 その3

前回までは、戦国時代までの小田原城の歴史と現地の史跡をご案内しました。今回は、江戸時代から現代までの小田原城の歴史と史跡をまとめてご案内します。この期間の小田原城を一言で表すならば、災害と復興の歴史と言っていいと思います。

前回までは、戦国時代までの小田原城の歴史と現地の史跡をご案内しました。今回は、江戸時代から現代までの小田原城の歴史と史跡をまとめてご案内します。この期間の小田原城を一言で表すならば、災害と復興の歴史と言っていいと思います。

立地と歴史

大久保氏の時代

1590年の小田原合戦の最中から、北条領に徳川家康を移し、その本拠地を江戸にすることが規定路線になっていたようです。小田原城には、家康の重臣・大久保忠世(ただよ)を配置することも、城が開城になった早々に決められました(小田原藩の始まり)。本拠地ではないにしても、関東地方の西の要として重要視されたのです。城は、北条氏時代の中心部に石垣を築くなど、修繕しながら使っていました。この時代から天守があったとされますが(以降の天守とは違うスタイル(望楼型)のもの)、北条時代からのものなのか、このとき築いたものなのかはわかっていません。ただ、少なくとも本丸御殿は北条氏の時代のものを使っていたという記録があります。家康は、領内検分を兼ねた鷹狩りのときや、関ケ原の戦いなど西日本に行く際に、よく小田原城本丸を使っていたそうです。しかし、忠世の跡を継いだ忠隣(ただちか)は1614年に、養女を幕府の許可なく婚姻させたとして改易になってしまいます。実態としては、家康の他の重臣、本多正信・正純父子のとの確執があったのではないかと言われています。その後は主には幕府の直轄領となっていました。

大久保忠世肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
初代天守(加藤図)、現地説明パネルより

稲葉氏の時代

1632年、小田原藩が復活します。藩主(城主)となったのは、3代将軍・徳川家光の側近である稲葉正勝です。彼は、家光の乳母で大奥を取り仕切っていた春日局の息子でした。そのような人物を配置するほど、やはり小田原は重要視されていたのです。この頃には箱根の関所を関東の防衛線とする構想も固まっていたので、その警護も任されたのです。ところがその矢先、1633年(寛永10年)正月、寛永大地震が発生し、城や町が甚大な被害を受けてしまったのです。しかし翌年には家光の上洛が予定され、小田原城に宿泊することになっていたため、幕府の事業として迅速に復興がなされました。これにより、江戸時代の小田原城の骨格が固まります。天守は、現在の復興天守のようなスタイル(3層の層塔型)で築かれました。また、本丸など城の主要部分は石垣で固められました。本丸御殿は将軍の宿泊専用だったので、藩主は二の丸御屋形(おやかた)で政務を行いました。城下町も東海道の小田原宿として整備されました。一方、城の範囲は平地の三の丸までとなり、八幡山古郭など丘陵部分は放棄されました。ただし、総構の土塁などは、藩や町の境界として機能し続けました。例えば、宿場の東の入口、江戸口見附は、総構の土塁が仕切りとして使われていました。また、山ノ神堀切には門が作られ、番人が管理していました。

稲葉正勝肖像画、養源寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代に完成した城のイメージ、現地説明パネルより
2代目天守(正保図)、現地説明パネルより
江戸口見附跡
山ノ神堀切

再び大久保氏の時代

1686年、稲葉氏は高田藩に転封となり、その代わりに大久保氏が小田原藩主に復活します。当時の当主、大久保忠朝は幕府の老中となっていて、将軍の徳川綱吉を支えていました。ところが、それからしばらくたった1703年(元禄16年)11月、元禄地震が起こり、またも城や町が大被害を受けてしまったのです。更にはその4年後には、富士山が噴火(宝永噴火)し、降灰により農作物は大不作となりました。城では、天守、本丸御殿、二の丸御屋形が全て倒壊しましたが、今度は復興への幕府援助はありませんでした。被災した町や住民への救済も基本的には藩任せでした。そのため、復興には長期間を要し、城については18年もかかりました。本丸御殿は、将軍の上洛などはなくなっていたので再建されませんでしたが、天守は以前と同様のものを建て直しました。3代目の天守で、この天守が幕末まで残りました。幕府の江戸城など、災害で天守がなくなると再建しないケースもあったので、小田原城の天守は、この時点で、関東では屈指の天守となっていたのです。関東の入口で「顔」としての役割があったのでしょうか。その後の天災でもなんとか城は維持されました。幕末になって海防の必要性が高まると、海岸の総構の土塁に沿って、台場が3ヶ所築かれました。残念ながら史跡として残っていません。

3代目天守(文久図)、現地説明パネルより

現代の小田原城まで

明治維新後、城は廃城となり、城の建物はほとんどは解体・売却されました。しかし本丸・二の丸の跡地は石垣とともに残され、皇室の御用邸として使われました。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生しました。御用邸は全壊し、石垣もほとんどが崩壊しました。唯一残っていた城の建物、二の丸平櫓も倒壊しました。この震災により、江戸時代の小田原城がほぼ消滅してしまったと言っていいでしょう。御用邸は廃止となり、小田原城址公園となりました。ここからまた城の復興の事業が始まり、1934年(昭和9年)に二の丸の石垣が積み直され、平櫓も再建されました。そして、天守とその石垣が、1960年(昭和35年)に再建されました。以降、1970年(昭和45年)には常盤木門が、1997年(平成9年)には銅門(あかがねもん)が、2009年(平成21年)には馬出門が復元されています。これまでは、江戸時代の小田原城の姿を再現する方向で、復元事業が進められています。これらも、大きな流れの中では、震災からの復興であるとも言えるのではないでしょうか。

関東大震災で崩壊した本丸石垣
現在の4代目天守
現在の馬出門

特徴、見どころ

三の丸から二の丸に進む!

通常、小田原城への登城ルートとしては、昔だったら大手門から、今だったら、二の丸のお堀端からスタートするのでしょう。もう一つの選択肢として、小田原郵便局脇の「幸田口門跡入口」から三の丸の土塁を歩き、幸田口門跡を経由してからお堀端を進むのもいいでしょう。この門は、その前は「蓮池門」という名前で、お城の大手門でした。上杉謙信も武田信玄も、この門から小田原城を攻めたそうです。二の丸堀は、戦国時代から存在し、当時は「大池」「蓮池」とか呼ばれていたようです。

三の丸の大手門跡、石垣の一部が鐘楼として使われています
幸田口門跡にある説明パネル
二の丸のお堀端

向こうに見える石垣や平櫓は、関東大震災後、最初に再建されたものです。オリジナルの石垣はもっと高かったとのことです。

再建された二の丸石垣と平櫓

「正規登城ルート」とされる正面入口から入ると、お堀の土橋を渡って「馬出門」に入ります。今のところ一番新しい門で、木造復元されています。防御のため、門の中に四角いスペース(桝形)があります。

復元された馬出門

次の銅門(あかがねもん)に入るためには、堀を回り込んで、もう一回橋を渡る必要があります。この門は、二の丸の正門で立派に作ってあります。絵図や文書、発掘の結果の他、古写真が残っていて、かなり正確に木造で復元できたそうです。中の桝形も更に厳重です。

復元された銅門

二の丸の中は、今は広場になっています。かつては、藩主の屋形や、御用邸がありました。

現在の二の丸広場、向こうに見えるのは本丸

いよいよ本丸、天守攻略

いよいよ、本丸に向かいます。本丸へは「常盤木橋」という橋を渡っていくのですが、かつては本丸東堀が、本丸の周りを囲んでいました。今は堀跡が花菖蒲園になっていて、斜面にはアジサイも植えられています。

本丸東堀跡

橋を渡ると、本丸の正門「常盤木門」です。手前に桝形を作るもう一つの門があったのですが、復元されていません。復元された部分はコンクリート造りです。

復元された常盤木門

小田原城の天守は、3層の天守としてはかなり大きいです。高さ27.2メートル、石垣を含めると約39メートルもあります(内部は4階建て)。現在日本にある天守(再建含む)の高さランキングでは、7位につけています。江戸時代に修繕に便利なように作られた天守雛型や、絵図を参考に4代目として建築されました(コンクリート造り)。最上階に展望スペース(高欄付廻縁)を設けるなど、オリジナルと違う外観であるため、「復興天守」に分類されています。中身は歴史博物館になっていて、2016年に耐震補強や展示のリニューアル工事がされています。

現在の小田原城天守(4代目)
天守内部

最上階からは、城の周りの景色を楽しめます。

最上階からの景色(小田原駅方面)
八幡山古郭方面
本丸・二の丸方面
相模湾方面

将来への期待、教訓

本丸の北口から出て、御用米曲輪の方に行ってみましょう。現在発掘調査中で、中には入れませんが、周りにこれまでわかったことが、パネル展示されています。戦国時代の、切り石を使った、珍しい庭園の跡が発見されています。小田原合戦のときには「百間蔵」という倉庫群になっていたようです(ここかどうかわかりませんが、合戦後に伊達政宗が城の倉庫群を見て、備えのすごさに驚嘆しています)。それが、江戸時代に米蔵として引き継がれたのです。今後どんな史跡になるのか、楽しみです。

御用米曲輪
切石を使った庭園遺構発見の説明パネル
江戸時代の葵御紋瓦出土についての説明パネル

本丸の南の斜面では、関東大震災によって崩れた石垣を見ることができます。本丸の石垣は「鉢巻石垣」といって、斜面の上の方だけが石垣になっていました。ここでは、クランクした形の石垣が、上の方からそのまま滑り落ちています。恐ろしい地震のパワーを感じてしまいます。地震への備えを考えさせられる、目に見える展示といっていいでしょう。

クランクた石垣部分がそのまま崩落しています
崩落した本丸石垣

最後に、南堀も見ておきましょう。ここは戦国時代における呼び名と同じように、蓮池になっています(今も別名は「蓮池」です)。こういう場面を見ると、小田原城は戦国時代から今までの歴史が折り重なっていることが実感します。

南堀
近くには、三の丸の箱根口跡もあります

私の感想

戦国時代、江戸時代、そして現代まで、小田原城には盛りだくさんの見どころがありました。1日かけても回り切れません。それにしても小田原城の城主たちは、敵から守るために戦国最大級の城を築いたり、災害にあっても天守を3回も建て直したりするなど、地味なことの積み重ねかもしれませんが、なかなかできないことをやってのけました。城主は違っていても、受け継がれるものがあったのでしょう。自然の宿命として、過去のような災害が再び起こるかもしれませんが、きっとまた乗り切ることでしょう。他の地域へのお手本にもなるのではないでしょうか。

現在の小田原城天守

リンク、参考情報

【公式】小田原城 難攻不落の城
総構、小田原市(「総構マップ」はこちら)
地誌のはざまに、【旧東海道】その14 小田原宿と小田原城と海嘯(その4)
城びと、理文先生のお城がっこう、城歩き編 第9回 小田原城を歩こう(近世編)
・「戦国期小田原城の正体/佐々木健策著」吉川弘文館
・「実録 戦国北条記 戦史ドキュメント/伊東潤著」エイチアンドアイ
・「シリーズ藩物語 小田原藩/下重清著」現代書館
・「北条氏五代と小田原城 (人をあるくシリーズ)/山口博著」吉川弘文館
・「小田原城総構-戦国最大級の城郭-」小田原市教育委員会
・「北条氏滅亡と秀吉の策謀、森田善明著」洋泉社
・「年金ロックンローラー内沢裕吉」ダイヤモンド社
・「よみがえる日本の城2」学研
・「後北条氏民政への反抗」岩崎義朗氏論文
・「神奈川の中世城郭-小田原城支城を中心に-」神奈川県教育委員会文化遺産課、令和4年度第4回考古学講座資料

これで終わります。ありがとうございました。
「小田原城その1」に戻ります。
「小田原城その2」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

21.江戸城その4~Edo Castle Part4

この城は、東京の輪郭を生み出しました。
This castle created the outline of Tokyo.

外郭の概要~Overview of Gaikaku

江戸城の外郭は、外堀に囲まれた区域であり、その外周は約16kmあり、市街地をも含んでいました。見附と呼ばれる大型の門と橋が、約50セット堀と主要街道の交差点に置かれていて、民衆と交通を監視していました。これらの施設は明治維新後にほとんど撤去されてしまいます。そのためほとんどの人たちは東京に城があったことなど気付きません。それでは、東京にある外郭の痕跡を巡ってみましょう。
The outline of Edo Castle called Gaikaku was the surrounding area from the outer moat whose perimeter was about 16 km, including even the city area. About 50 sets of large gates and bridges called Mitsuke were placed at the intersections of the moat and major roads to check people and transportation. These facilities were mostly demolished after the Meiji Restoration. So most people don’t realize there was a castle in Tokyo. Then, let me introduce the traces of Gaikaku in Tokyo.

江戸城の外郭ライン、ラインの色は以下のセクション毎に分かれています~The line of Edo Castle’s Gaikaku, the color of the line is linked to each section below

隅田川エリア~Sumida-gawa River Area

江戸時代の初め、隅田川は外堀の一部として認識されていました。そのため幕府は、日光街道上の千住大橋を除いて、この川に橋を架けることを禁じていました。1657年の明暦大火の後は、江戸の安全確保と都市化のため、他の橋も架けられるようになりました。
At the beginning of the Edo Period, Sumida-gawa River was regarded as part of the outer moats. Because of it, the Shogunate banned bridges from being built on the river excluding Senju-Ohashi Bridge on Nikko Road. After the great fire of Meireki in 1657, more bridges were built on the river for the increase of safety and urbanization of Edo City.

隅田川に架かる永代橋~Eitai-bashi Bridge over Smida-gawa River

隅田川エリアのライン~The line of Sumida-gawa River Area

永代橋~Eitai-bashi Bridge:

隅田川に架けられた4番目の橋です。現在の橋は、1923年の関東大震災の火災により失われた後、1926年に再建されたものです。すでにそれから100年近く経過しており、重要文化財に指定されています。
It is the forth bridge on Sumida-gawa River. The present bridge was rebuilt in 1926, after it was destroyed by the fire in the Great Kanto earthquake in 1923. It is nearly 100 years old, and has become an Important Cultural Property.

現在の永代橋~The present Eitai-bashi Bridge
歌川広重「東都名所」より「永代橋佃沖漁舟」、江戸時代~”Eitai-bashi Bridge and fishing boats off Tsukuda Island” from the series “Famous Places in the Eastern Capital” attributed to Hiroshige Utagawa in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimeidia Commons)

新大橋~Shin-Ohashi Bridge:

こちらは3番目に架けられた橋です。先代の橋は関東大震災を生き延びました。現在の橋は1977年に架け替えられたものです。江戸時代のこの橋は、歌川広重の有名な浮世絵に描かれたことで知られています。
It is the third bridge on the river. The former bridge survived the Great Kanto earthquake. The present one replaced it in 1977. The bridge in the Edo Period is known for being drawn in a famous Ukiyoe Painting by Hiroshige Utagawa.

現在の新大橋~The present Shin-Ohashi Bridge
歌川広重「名所江戸百景」より「大橋あたけの夕立」、江戸時代~”Sudden shower over Shin-Ohashi Bridge and Atake” from the series “100 Famous Views of Edo” attributed to Hiroshige Utagawa in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimeidia Commons)

両国橋~Ryogoku-bashi Bridge:

2番目に架けられた橋です。この橋の周りは歓楽街になりました。江戸時代から夏にはこの辺で花火の催しが開かれています。近くにはまた外堀の一部である神田川の河口があります。
The second bridge on the river. The area around the bridge became a place of amusement. Fireworks displays have been also held around in the summer since the Edo Period. There is the estuary of Kanda-gawa River nearby which is another part of the outer moats.

現在の両国橋~The present Ryogoku-bashi Bridge
葛飾北斎「富嶽三十六景」より「御厩川岸より両国橋夕陽見」、江戸時代~”Sunset across Ryogoku Bridge from the Bank of Sumida River at Onmayagashi” from the series “Thirty-six Views of Mount Fuji” attributed to Hokusai Katsushika in the Edo Period(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

神田川エリア~Kanda-gawa River Area

「神田川」という名前は明らかに川です。ところが、この川は完全に人口物で、堀や運河として使われました。江戸時代初期に、幕府の下で伊達氏が本郷台地を掘り進んで造りだしたのです。幕府は川に沿って必要な施設を設置していました。掘削で出た残土は、下町周辺の埋め立てに使われました。
The name “Kanda-gawa” clearly shows a river (“gawa” means river.). However, the river is completely artificial, and was used as a moat and canal. In the first Edo Period, the Date clan under the Shogunate created it to cut across Hongo plateau. The Shogunate set facilities they needed along the river. The waste soil from the digging was used to reclaim the sea around downtown.

神田川~Kanda-gawa River

神田川エリアのライン~The line of Kanda-gawa River Area

浅草橋門跡~Asakusa-bashi Gate Ruins:

この門は川と浅草を通る日光街道の交差点に築かれました。しかし明治維新後間もなく撤去されました。そのため、何らかの記念碑でもなければ、そこに何があったかはわかりません。
This gate was built at the intersection of the river and Nikko Road passing Asakusa. But it was removed soon after the Meiji Restoration, so we can’t see what was seen in the past without some kind of monument.

現在の浅草橋~The present Asakusa-bashi Bridge
記念碑のみがあります~There is just a monument
浅草橋門の古写真~The old photo of Asakusa-bashi Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

仙台堀~The Sendai Moat:

「仙台」という名前は伊達氏が仙台を拠点としていたことに由来します。JR御茶ノ水駅近くの橋からは深くえぐられた川の一部を見ることができます。JR中央線はその谷に沿って走っています。
The name “Sendai” derived of the Date clan from Sendai. You can see the part of the river being cut deeply from the bridge near JR Ocha-no-Mizu Station. JR Chuo line goes along the valley.

現在の仙台堀~The present Sendai Moat

水道橋跡~The Water Bridge Ruins

かつて神田上水がこの水道橋によって川を横断していました。井の頭池を水源として江戸市街に給水していました。この周辺の街と、近くにある「水道橋」駅の名前はここから来ています。
Kanda water supply went across the river using the Water Bridge. It came from Inokashira Pond to feed Edo City. The names of the town around and the station nearby “Suido-bashi” comes from the bridge.

水道橋の記念碑~The monument of Water Bridge
記念碑周辺の風景~A view around the monument
歌川広重「東都名所」より「御茶之水之図」、江戸時代~”The picture of Ocha-no-Mizu” from the series “Famous Places in the Eastern Capital” attributed to Hiroshige Utagawa in the Edo Period(出典:国立国会図書館)

外堀の西側部分~The western part of the outer moats

この部分は1638年までに江戸城建設の総仕上げとして築かれました。自然の谷の地形を利用しています。城の中心を砲撃から守ることを意図し、堀の内側に土塁を積み上げ、外側よりも高くなるようにしています。
This part was built to finalize the construction of the Edo Castle by 1638. It used a natural valley terrain. It aimed to protect the center of the castle from a cannon attack outside by setting the inside of the moat much higher with earthen walls than the outside.

弁慶濠~Benkei-bori Moat

外堀の西側部分のライン~The line of The western part of the outer moats

牛込門跡~Ushigome-mon Gate Ruins:

門の両側の石垣が現存しています。門跡の周辺は現在JR飯田橋駅として利用されています。門跡の反対側は神楽坂になっていて、外堀は谷底に位置しているのがわかります。牛込濠と呼ばれるその堀は、門跡の西側にほぼそのまま残っており、とても広大に見えます。
The stone walls from both sides of the gate remain. The area around the ruins are now used for JR Iida-bashi Station. The opposite of the ruins is Kagura-zaka slope, so you can see the outer moat located in the bottom of the valley. The moat called “Ushigome-bori” in the west of the ruins remain like it was, and looks very spacious.

牛込門跡~Ushigome Gate Ruins
歌川広重「牛込神楽坂之図」、江戸時代~”The picture of Ushigome and Kagurazaka” attributed to Hiroshige Utagawa in the Edo Period(出典:国立国会図書館)
牛込濠~Ushigome-bori Moat

市ヶ谷門跡~Ichigaya-mon Gate Ruins:

石垣がいくらか残っており、外側から堀を渡って門に伸びる土橋も残っています。周辺はまたJR市ヶ谷駅の一部として使われています。
There are some remaining stones, and the earthen bridge from outside to the gate across the moat remains. The area around is also part of the for JR Ichigaya Station.

市ヶ谷門跡~Ichigaya-mon Gate Ruins
市ヶ谷門の古写真~The old photo of Ichigaya-mon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

四谷門跡~Yotsuya-mon Gate Ruins:

門の片側の石垣が残っていますが、周辺の堀は既に埋められています。一例として、門跡西側の以前堀だったところは上智大学のグラウンドとして使われています。広大な敷地を眺めながら、内側の土塁の上を歩くことができます。
There are some remaining stone walls on one side of the gate, but outer moats around are already filled. For example, the former moat in the west of the ruins is used as the ground for Jochi University. You can walk on the inside earthen walls and enjoy a view of the spacey area.

残っている石垣~The remaining stone walls
四谷門の古写真~The old photo of Yotsuya-mon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
上智大学のグラウンド~The ground for Jochi University

外堀が失われたエリア~The lost outer moat area

東京の都心では、いくつかの理由で外堀は既に失われています。現在では外堀通りとして自動車道になっています。過去にはどんな景観だったのか想像するのは困難です。
In the center of the Tokyo city area, the outer moat was already lost for several reasons. It is now used as the Sotobori (means onter moat) Street for automobiles. It is difficult for us to understand what can be seen in the past.

外堀通り、ビル街の谷間のようです~Sotobori Street, just like a valley among the buildings

外堀が失われたエリアのライン~The line of the lost outer moat area

赤坂門跡~Akasaka-mon Gate Ruins:

門の石垣の一部が、赤坂見附(幕府の施設であった名前と同じ)交差点の近くに残っています。「弁慶濠」と呼ばれる現存堀が門の西側にあります。そこから続く「溜池」堀は失われています。
Part of the stone walls for the gate remain near the Akasaka Mitsuke (same as the Shogunate facility’s name) Intersection. A remaining moat called “Benkei-bori” is in the west of the gate. The following moat called “Tame-ike” has lost.

赤坂門跡~Akasaka-mon Gate Ruins

「溜池」交差点~The Tame-ike Intersection:

堀の名前が交差点の名前として残っています。溜池とは貯水池の意味です。江戸時代の初期には、江戸の人々は川をせき止め、飲料水として使っていたようです。
The name of the moat remains for the intersection. Tame-ike means reservoir. At the beginning of the Edo Period, people in Edo City seemed to dam a river, and use it for drinking water.

溜池交差点~Tame-ike Intersection

呉服橋交差点~The Gofuku-bashi Intersection:

この交差点は東京駅の近くにあります。ここには外堀と「呉服橋」という橋と呉服橋門がありました。今現在、これらの痕跡は何もありません。
The intersection is near Tokyo Station. There was an outer moat, a bridge called “Gofuku-bashi” and Gofuku-bashi Gate. They have completely removed it. We can’t see any trace of them now.

呉服橋交差点~Gohuku-bashi Intersection
呉服橋門の古写真~The old photo of Gofukubashi-mon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

日本橋川エリア~Nihonbashi-gawa River area

ここは外堀の最後の、または最初の部分です。この箇所は江戸城の内堀の近くです。ここから外堀が市街の外側に向かって渦巻き状に伸びているので、堀を逆に辿っていくこともできます。日本橋川もまた人工川であり、元々あった川のルートを変えるために作られました。この川の上流は、平川という元あった川と同じようです。
It is the last part of the outer moats, or the first part. The part is near the inner moat of Edo Castle. We can see the outer moats spiral towards the outside of the city, so you can trace the moats backward. Nihonbashi-gawa River is also artificial and was built to change the routes of original rivers. The upper stream of the river might be the same as the original river called Hirakawa River.

日本橋川沿いの石垣~The stone walls along Nihonbashi-gawa River

日本橋川エリア~Nihonbashi-gawa River area

常盤橋門跡~Tokiwabashi-mon Gate Ruins:

この門の石垣がよく残っています。そのため国の史跡に指定されています。堀を渡って門に至る石橋は、明治時代に門の他の石を使って築かれたものです。近くには日本銀行旧館の建物があり、こちらは重要文化財に指定されています。
The stone walls of the gate remain well. That’s why they have been designated as a National Historic Site. The stone bridge across the moat to the gate was built using other stones from the gate in the Meiji Era. You can also see the old building for Bank of Japan nearby, designated as an Important Cultural Property.

常盤橋門跡の石橋~The stone bridge of Tokiwabashi-mon Ruins
常盤橋門の古写真~The old photo of Tokiwabashi-mon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日本銀行旧館~The old building for Bank of Japan

一ツ橋門跡~Hitotsubashi-mon Gate Ruins:

この門と堀周辺の石垣が残っています。江戸時代後半に、将軍の一族である一橋家の屋敷がこの門内にありました。
There are some remaining stone walls for the gate and the moat around. The hall for the Shogun’s relative called Hitotsu-bashi clan was inside the gate in the late Edo Period.

現在の一ツ橋門と残っている石垣~The present Hitotsubashi-Bridge and remaining stone walls
堀周辺の現存石垣~The remaining stone walls around the moat

雉子橋門跡~Kijibashi-mon Gate Ruins:

ここが外堀の終点に当たります。ここから内堀が近くに見えます。日本橋川は更に上流から流れてきています。その上流を辿っていくと外堀の違う地点、小石川門の近くに到達します。実はこの上流の部分は一旦幕府によって埋められますが、明治時代になって水上交通の便ため、掘り返されました。
This is the edge of the outer moats. You can see the inner moat nearby. The river flows from a much upper area. You can follow that the upper stream and you’ll reach another spot of the outer moat near Koishi-kawa Gate. In fact, the upper stream was once filled by the Shogunate, but was dug again for water transportation in the Meiji Era.

現在の雉子橋~The present Kijibashi-Bridge

私の感想~My Impression

外堀の全てを辿ってくには1日では足りないでしょう。ですので、少しずつ部分的に訪れてみるのもよいでしょう。どちらにしても行ってみれば、江戸城はインフラ、文化、商業などの面で東京の中心につながっていることが実感できます。
It will need more than one day trip to trace all of the outer moats, so you can visit part of them one by one. Anyway, after visiting them, you can realize that Edo Castle has been the center of Tokyo in infrastructure, culture, business and so on.

牛込門跡と飯田橋駅~Ushigome-mon Gate Ruins and Iidabashi Station

リンク、参考情報~Links and References

江戸城外堀跡、千代田区観光協会Edo Castle outer moat trace, VISIT CHIYODA
・「江戸城の全貌/萩原さち子著」さくら舎(Japanese Book)
・「幻の江戸百年/鈴木理生著」筑摩書房(Japanese Book)
・「よみがえる日本の城2」学研(Japanese Book)

「江戸城その3」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part3”
「江戸城その2」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part2”
「江戸城その1」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part1”

126.石垣山城~Ishigakiyama Castle

「一夜城」は一日にしてならず。
”The castle built in one night” was not built in a day.

石垣山城の入り口の一つ~One of the entrances of Ishigakiyama Castle

立地と歴史~Location and History

石垣山城には「一夜城」という異名があります。文字通り一夜でできた城という意味です。これは1590年に豊臣秀吉と北条氏の間で起こった小田原城包囲戦に由来します。
Ishigakiyama Castle is nicknamed as “Ichiya-jo” which means a castle built in one night. It comes from an event in Siege of Odawara Castle between Hideyoshi Toyotomi and the Hojo clan in 1590.

小田原城~Odawara Castle

小田原にいる北条の西方にある笠懸山の上にこの城が完成したとき、秀吉は配下の者に、一夜のうちに城の周りの木々を全て伐採するよう命じました。翌朝、北条は城が突然現れたと思い、驚愕しました。この話により一夜城と呼ばれるようになったというわけです。しかし、この話は後になって江戸時代の軍記物により広められたものなのです。今でも北条がいた小田原市域からは、この城跡で何か起こればはっきり見ることができます。
When this castle was completed on a mountain called Kasagakeyama, located in the west of Hojo in Odawara, Hideyoshi ordered his men to cut down all the trees around the castle in one night. Hojo was very surprised to see the castle suddenly appear the next morning. The story calls it Ichiya-jo. However, it was spread later by war chronicles in the Edo Period. Even now you can clearly see how it goes in the castle ruins area from Odawara city area where Hojo was.

城周辺の地図~The map of around the castle

小田原城址から見た石垣山城~Ishigakiyama Castle from Odawara Castle Ruins

この城にはこのような不可思議な話もありますが、訪れる価値は十分にあります。それは、東日本では初めてとなる総石垣造りの城だからです。それまでは、主に土を使った基礎による城が普通でした。秀吉は最初1590年4月6日から包囲戦のため寺院に滞在しました。そして、すぐに築城を開始し、穴太衆と呼ばれる石垣積みの専門集団も連れてきました。彼は6月26日に本陣として城に移ったので、3ヶ月弱で完成したことになります。当時の正規の城を作る期間としては驚異的でした。
Though the castle has such an unclear story, it is still worth the visit, because it is the first castle made up entirely of stone walls in eastern Japan. Until then, it was common to build castle foundation mainly from soil in the area. Hideyoshi first stayed at a temple for the siege from April 6 in 1590, then started to build the castle right away, bringing the specialists of piling stone walls called Anoushu. He moved to the castle as his stronghold on June 26. That means the castle was built in less than three months. It can be seen as a surprisingly short term to build a formal castle at that time.

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵~The Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, owned by Kodaiji Temple(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

歴史家の多くは、この城は秀吉の権威を北条や味方に対して見せつけるものだったと言います。一方、この城はもっと長期の包囲戦に備えたものだったと指摘する人もいます。事実としては、北条は7月5日に降伏してしまいますが、それまではわかりませんでした。古文書には、秀吉側の兵隊は厭戦気味で、兵糧も尽きてきていたとあります。また、包囲戦の後も、工事がまだ続いていたこともわかっています。北条の後に入った徳川氏はしばらく城を使い続けていたようです。包囲戦よりも新しい日付のある天守瓦が発掘されています。その後はいつしか廃城となったようです。
Many historians and writers say the castle demonstrated Hideyoshi’s authority to Hojo and his supporters. Some point out that the castle would be for a longer term siege. The fact was that Hojo surrendered on July 5, but it was uncertain before then. Old documents say Hideyoshi’s soldiers got bored and supplies were getting less. There is another evidence that the construction was going on after the siege. The Tokugawa clan, following Hojo, seemed to use the castle for a while. Roof tiles for the Tenshu keep with newer dates than the siege were found by excavation. After that it seemed to be abandoned for sometime.

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

特徴~Features

今でも、この城跡にこんなにも巨石があるのに驚かれるかもしれません。その当時の人たちにとっては尚更だったでしょう。観光客の人たちは大体駐車場から、南曲輪を通り過ぎて二の丸に登っていきます。道すがら半分崩れた石垣が目に入ってきます。粗野ながら威風堂々としています。
Even now, you may be surprised to see there are the castle ruins with such large stones, to say nothing of the people at that time. Visitors usually go up from the parking area to the Ninomaru enclosure through the South enclosure. You can see a lot of half collapsing stone walls alongside. They look rough but regal.

南曲輪の石垣~The stone walls of South enclosure
崩れかけた石垣~The half collapsing stone walls
二の丸~Ninomaru enclosure

井戸があったことに由来する井戸曲輪は是非見ていただきたいです。井戸の円錐の形に沿って自然石を全面的に積み上げてあります。その様はとても美しく、穴太衆の高度な技術が見て取れます。
Don’t miss to see Ido enclosure which was used for the well. It is totally covered with piled natural stones along the corn shape of the well. It is very beautiful and shows the high level technique of Anoushu.

井戸曲輪~Ido enclosure(licensed by Tak1701d via Wikimedia Commons)

二の丸の方に戻れば、本丸の北門跡の方に入っていけます。本丸には秀吉の御殿があり、その周辺では茶会が開かれていたそうです。ここからは、小田原城を含む小田原市域一帯を見渡せます。秀吉の本陣として相応しい場所でした。
You can enter the North Gate Ruins of the Honmaru enclosure if you turn back to Ninomaru. There was Hideyoshi’s palace where he is said to hold a tea ceremony around. You can see the whole view of Odawara City including Odawara Castle. It served as Hideyoshi’s stronghold.

北門跡から見た本丸石垣~The stone walls of Honmaru enclosure from North Gate Ruins
本丸~Honmaru enclosure
本丸からの眺め~A view from Honmaru

天守跡は本丸のとなりにありますが、現在はあまりそのように見えません。その石垣は、関東大震災のときに崩れてしまったようです。最後は大手門跡を通って、東口にたどり着きます。
The Tenshu ruins are next to Honmaru, but they don’t look so now. Their stone walls seemed to collapse due to Great Kanto Earthquakes. Lastly you can go down through the Main Gate Ruins and reach the East Entrance.

天守跡~The Tenshu ruins
大手門跡~The Main Gate Ruins
大手門跡から見た南曲輪~South enclosure from Main Gate Ruins

その後~Later Life

江戸時代の18世紀初期、小田原藩の有浦氏が城跡を調査し、遺跡の図面を残しました。この図面によれば、石垣はまだ良好に残っていました。しかし、残念ながら1923年の関東大震災で多くが破壊されました。城跡は1959年に国の史跡に指定されました。
In the first 18th century in the Edo Period, the Ariura clan of the Odawara Domain investigated the castle ruins and left the drawings of the ruins. According to the drawings, the stone walls still kept well. But unfortunately Great Kanto Earthquakes in 1923 broke many of them. They were designated as a National Historic Site in 1959.

本丸の石垣~The stone walls of Honmaru enclosure

私の感想~My Impression

私が思うに、この城の素晴らしいことの一つは、その「石垣山」という名前です。単に石垣の城という意味ですが、その当時の人たちがどんなに驚いたかがわかります。この城は相当な衝撃を与えたのでしょう。それで山の名前が笠懸山から石垣山に変わったのです。この新しい名前は遅くとも江戸中期には一般に広まりました。恐らく一夜城伝説と組み合わされて定着したのでしょう。
I think one of the greatest things of the castle is its name “Ishigakiyama”. It just means a stone walls castle. It shows how surprisingly people at that time felt. The castle must have had a big impact on them. That’s why the name of the mountain was changed from Kasagakeyama to Ishigakiyama. The new name spread to the public at the latest in the mid Edo Period. It was probably combined with the Ichiya-jo story, and have fixed.

本丸からの眺めをもう一枚~Another view from Honmaru

ここに行くには~How to get There

石垣山城跡に行くには車が便利です。西湘バイパスの小田原ICか小田原厚木道路西小田原ICから数キロの範囲です。電車を使う場合は、JR早川駅から歩いて約40~50分かかります。急坂を登っていく必要がありますが、それも面白いかもしれません。
東京から早川駅まで:東海道新幹線に乗って小田原まで行き、東海道線に乗り換えてください。
It is useful to access Ishigakiyama Castle Ruins by car. It is several kilometers from the Odawara IC on Seishou Bypass or the Odawara-Nishi IC on Odawara-Atsugi Road. When using train, it takes about 40~50 minutes on foot from JR Hayakawa Station. It needs to climb up a steep slope, but it may be interesting.
From Tokyo to Hayakawa Station: Take the Tokaido Shinkansen super express to Odawara, then transfer to Tokaido local line.

早川駅からの坂道~The slope from Hayakawa Station
坂道から見た小田原城~Odawara Castle from the slope

リンク、参考情報~Links and References

石垣山一夜城、小田原市オフィシャルサイト~Odawara City Official Website
石垣山一夜城、小田原城街歩きガイド(Only Japanese)
・「関東の名城を歩く 南関東編/峰岸純夫、齋藤慎一編」吉川弘文館(Japanese Book)
・「よみがえる日本の城2」学研(Japanese Book)